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15-4 黒泥

時には、ただ決断するしかないことがあります。


それが、あまりにも冷酷に見える選択だったとしても。

 窪みの底から這い上がった時、指の間は黒泥だらけだった。


 普通の泥じゃない。


 普通の泥なら、粘るし、臭うし、爪の下に湿って冷たい感触が残る。でもこいつはもっと滑る。ふやけた皮が一枚そのまま手に貼りついたみたいで、温度がない。


 あたしは見たものを、みんなに話した。


 幼い珊瑚。


 削り取られたみたいにきれいな窪みの底。


 そして、白礁のもっと奥へ向かって伸びていた、小さな色たち。


 誰もすぐには喋らなかった。


 遠くでは、屋身蟹(やどみがに)がまだ半ば崩れた礁溝に挟まったままでもがいている。叫びもしないし、あたしが怪物に期待していたような唸り声も上げない。ただ、ゆっくり体を揺らす。そのたびに、遠くの白灰がまた一層落ちる。


 音は低い。


 誰かがずっと向こうで、骨灰をひっくり返し続けているみたいだった。


 最初に口を開いたのは、海靈の衛兵だった。


「あれは珊瑚を食っている。」


 声は、塩が固まってできた石みたいに硬かった。


「殺すべきだ。」


「死んだところを削ってる。」あたしは言った。


「珊瑚を食っている。」


「下では新しいのが育ってた。」


「同じことだ。」


 あたしはそいつを見た。


 その瞬間、本気で聞きたくなった。全部同じなら、お前たちはいったい何を守ってるんだと。


 でも、あたしが言う前に奧布里が動いた。


 顔にはまだ白灰がついている。胸のところには、さっき仕舞ったあの折れた刀柄が入っていた。布越しに、肉へ押しつけられた骨みたいに。


「それで?」


 彼が聞いた。


 声は大きくない。


 でも、ひどく重かった。


「あれは元凶じゃない?」


 あたしは、すぐには答えられなかった。


 どう言っても刃物になる気がしたからだ。


 奧布里は、遠くの屋身蟹(やどみがに)を見た。


「萊克斯は、あれに潰された。」


 誰も返さない。


 彼は、もう一度言った。


「潰されたんだ。」


 風があたしたちの間を抜ける。黒泥と砕けた珊瑚の匂いを引きずりながら。


 その時やっと分かった。


 「あれは怪物だ」という方が、まだ飲み込みやすい。


 怪物なら、憎める。


 憎しみは単純だ。


 噛みついて、裂いて、血を流させれば、少なくとも向かう先ができる。


 でも、もしあれがただ自分のやり方で生きていただけなら。


 萊克斯は何になる。


 踏み違えたやつ?


 地形に殺されたやつ?


 そんな答えは薄すぎる。


 一人分の死すら覆えない。


 凡スは屋身蟹(やどみがに)を見たまま言った。


「殺せない。」


 奧布里が勢いよく振り向く。


 凡スは視線を逸らさない。


「俺の矢は殻に通らない。艾琳の魔法は足止めが限界だ。扎卡の右腕は使えない。お前たちの刀と縄でも無理だ。」


 奧布里の指が、胸元の布をきつく握った。


「じゃあ、これで終わりか?」


 凡スは一拍黙った。


「だから、先へ進む。」


 その一言は、海風より冷たかった。


 見逃すと言っているんじゃない。


 赦すわけでもない。


 今のあたしたちには、どうにもできないと言っているだけだ。


 こういう判断が、一番しんどい。


 誰一人、正しいと思っていないのに。


 でも、他に道がない。


 艾琳は自分の杖を見下ろしていた。握りは強く、指先は白い。額のところには、まだ汗が残っている。


「長くは保たない。」


 彼女が言った。


「すぐに抜け出す。」


 扎卡は刀を鞘へ戻した。


 動きはゆっくりだった。


「なら、その前に奥へ行く。」


 奧布里はその場に長く立っていた。


 やがて、胸元の布を掴んでいた手を離す。


「行こう。」


 誰も萊克斯の名を言わなかった。


 言ったら、足がここで止まりそうだった。


 あたしたちは、さらに白礁の奥へ進んだ。


 今度の道は、前よりずっと静かだった。


 白が減る。


 黒が増える。


 最初のうちは、黒いものは珊瑚の裂け目に溜まった粘泥だった。足が触れると、古い傷口からまた悪い血が滲み出すみたいに、じわっと押し出される。


 さらに進むと、黒泥は溜まりになった。


 礁の上に平たく寝ていて、波の筋もなく、泡もない。ただ風が吹いた時だけ、ほんの少しだけ震える。


 やがて、黒いものが礁地一帯を覆い始めた。


 誰かが、濡れきった黒い布を白礁の上へ一枚かぶせたみたいだった。


 臭いは鋭くない。


 一撃で鼻を刺す類じゃない。


 もっと鈍い。


 鼻そのものを塞がれて、息まで重くなるような臭いだ。


 あたしはしゃがみ、小刀の先で少し掬ってみた。


 黒泥は細長く伸び、すぐに切れ、元の場所へ戻っていく。


 植物なのか、動物なのか、黴なのか、それとも何かが腐り切ったあとの皮なのか、見ても分からない。


 草藥師として持っていた分類なんて、ここでは海水に浸けた紙みたいなものだった。


 あたしは苦根草(にがねぐさ)の匂いが分かる。


 腐狼(ふろう)の死臭も分かる。


 傷口が膿んでいるかどうかだって嗅ぎ分けられる。


 でも、こいつは分からない。


 それが、臭いそのものより嫌だった。


 艾琳があたしの横へしゃがみ、手を黒泥の上にかざした。


 目を閉じる。


 長い時間のあとで、やっと開く。


「魔力が薄い。」


 彼女が言った。


「ないのとほとんど変わらない。」


「呪いか?」凡スが聞く。


 艾琳は首を振った。


「違うと思う。」


「毒は?」


「それとも違う。」


 眉間の皺が深い。


「生き物っぽくない。」


 あたしは地面の黒を見た。


「でも、ずっといる。」


 言ってから、自分で背毛が立つのを感じた。


 里克が刀の背で、黒泥を少し掻き分けた。


 あたしと奧布里で海水を流し、扎卡が布で縁を拭う。布はすぐに真っ黒になった。腐泥の中へ何日も漬け込んだみたいに。


 きれいになった場所の下に、灰白色の珊瑚が少しだけ見えた。


 本当に少しだけだ。


 誰かが喜ぶ前に、脇の黒い粘つきが、ゆっくりそこへ戻ってきた。


 遅い。


 でも確実だ。


 傷口から血がまた滲み出すみたいに。


 奧布里は、濡れた布を握ったままその小さな場所を見ていた。


「もう一回。」


 また拭く。


 黒泥が退く。


 戻る。


 三度目。


 四度目。


 だんだん手に力が入りすぎて、最後には濡れ布が礁面に押し潰されるみたいに貼りついた。


 里克がその手首を押さえる。


「このやり方じゃ無理だ。百人で百日やっても終わらん。」


 誰も反論しなかった。


 実際は、それでも足りない気がしたからだ。


「お前たちは、引き潮の時間を無駄にしている。」


 海靈の衛兵が言う。


 少し離れた浅水に立ち、二叉戟を斜めに地へ向けていた。尾鰭は黒い水の中に沈み、先の方が時々ぴくっと動く。


 あいつもこの臭いを嫌がっているのかどうかは分からない。


 海靈の顔は、あたしたちと違いすぎて読みづらい。


 でも、声は前よりずっと急いていた。


「潮が戻る前に、答えを見つけるか。さもなくば、お前たちは海を汚しにきただけの魚だと認めろ。」


 あたしは立ち上がった。


 膝の黒泥は、どれだけ払っても落ちない。


 あたしは今、もう十分汚れてるよ、と言いたくなった。


 でも意味がない。


 意味のないことは、今はなるべく言わない。


 それもこの数日で覚えたことだった。


 ここでは、足を止めて研究しすぎることもできない。


 戻ることもできない。


 分からないと認めることも、ほとんどできない。


 認めた瞬間、この試練そのものに喉を噛まれる気がした。


 あたしたちは、また歩き出した。


 進むほど、口数は減る。


 足元の黒泥はさらに厚くなり、踏み込むたびに、ぬっという湿った音が返る場所も出てきた。


 その音が耳に残る。


 何かが、あたしたちの足の下でゆっくり噛んでいるみたいだった。


 だんだん、嫌な感じが強くなってくる。


 あたしたちは答えを探しているんじゃない。


 この白礁に、奥へ奥へと追い立てられている。


 獲物みたいに。


 そして、それを見た。


 浅い水辺に、そいつは座っていた。


 最初は、人かと思った。


 背を向けている。


 頭を垂れている。


 両手を膝の横に落としている。


 全身が黒い。


 服の境目もない。


 髪もない。


 鱗もない。


 濡れた皮膚にあるはずの光もない。


 ただ、形だけが人に似ていた。


 それが一番気持ち悪かった。


 ここに、ほかの生き物がいるはずがない。


 人の形をした何かなんて、なおさらだ。


 全員の動きが一瞬だけ鈍る。


 針一本、水に落ちたくらいの短さだった。


 でも十分だった。


 萊克斯が死んだばかりだ。


 人に似たものを見ると、目の方が先に人を思い出す。


 悲鳴が後ろから上がった。


 あたしは弾かれたみたいに振り向く。


 奧布里が吊り上げられていた。


 黒い触手が腰へ巻きつき、地面の黒泥の中から突き出して、その体を持ち上げている。前のあの人型の影から伸びたわけじゃない。


 足元からだ。


 あの黒泥そのものから。


「奧布里!」


 里克の掠れ声が飛ぶ。


 奧布里の反応は速かった。もう短刀を抜いて、自分の腰へ巻きつく黒い触手を何度も斬りつけている。


 刃は食い込む。


 でも血は出ない。


 肉が裂ける音もしない。


 触手は切られるたび細くなり、濡れた縄みたいに引き伸ばされるだけで、ちっとも切れなかった。


 奧布里が二度目を振るう。


 さらに細くなる。


 それでも切れない。


 影を切っているみたいだった。


 里克が駆け寄り、奧布里の脚を掴んで下へ引く。


 奧布里の胸元の布が引きはがれる。


 あの折れた刀柄がそこから落ちた。


 黒泥の中へ。


 音もしなかった。


 そのまま、すっと呑まれていく。


 あたしがそっちへ走ろうとした瞬間、艾琳が小さく息を呑んだ。


 振り返る。


 彼女の手首にも、巻きついていた。


 浅水のそばに座っていた人型の黒い影が動いていた。


 立ち上がったんじゃない。


 膝の横に落ちていた「腕」が、そのまま伸びたのだ。伸びるほどに細く、黒く、濡れた蔓みたいに。艾琳の手首へ絡みついている。


 違う。


 あれは腕じゃない。


 腕みたいな形をした触手だ。


 艾琳の杖が地面へ落ちる。


 ぱたり。


 小さい音。


 でも凡スは、もう飛び出していた。


「艾琳!」


 あいつの声が、初めて割れた。


 黒い触手は、すぐに艾琳を裂きはしなかった。水の中へ引きずり込むこともしない。


 ただ、自分の前へ引き寄せる。


 少しずつ。


 無理やり顔を上げさせる。


 無理やり、そいつを見せようとする。


 艾琳は歯を食いしばり、もう片方の手で自分の手首を掴んで耐えていた。靴底が黒泥を擦り、二本の線が後ろへ伸びる。


 凡スの矢が飛ぶ。


 その「腕」を貫いた。


 でも、通り抜けただけだった。


 濡れて冷たい影を突き抜けたみたいに。


 触手は少し揺れただけで、艾琳をそのまま前へ引く。


 扎卡が低く唸り、左手で刀を抜いて、あの座った人型の本体へ駆ける。


 海靈の衛兵も二叉戟を構える。


 里克はまだ奧布里を引いている。


 奧布里は腰の触手を切ろうと必死だ。


 全部の場所で同時に何か起きていた。


 なのに、あたしは一瞬止まった。


 怖くなかったからじゃない。


 尾は凍ったみたいに強張ってる。耳の根元も痛い。喉の奥は黒泥の重たい臭いでいっぱいだ。


 でも、事態が多すぎると、頭の方は逆に少しだけ静かになる。


 本体はどこだ。


 触手はどこから出てる。


 匂いはどこで切れる。


 どうして、あれは先に艾琳を殺さない。


 息を一つ吸う。


 黒泥の臭いが鼻を塞いで痛い。


 その奥に、もっと細い匂いが一本あった。


 ごく薄い。


 腐った水草の底に、まだ腐り切っていない根が隠れているみたいな匂い。


 それは人型の影からじゃない。


 奧布里を吊っている触手からでもない。


 あたしたちの足元だ。


 もっと深く。


 黒泥の下。


 小刀を握り締め、足元の静かな黒を見る。


 そこが、一度だけ膨れた。

悪い知らせは、まだ終わりません。


あの黒い生き物はいったい何なのでしょうか。なぜ通常の攻撃がまるで通じないのか。そして、どうしてあれほどまでに艾琳を見つめているのか。


疑問は増えるばかりで、答えはまださらに深い場所に隠れているようです。


その真相は、次の節で。


どうぞ第五節「不完全」をお楽しみに。

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