15-3 屋身蟹
ああ、まずいことになりました。
あたしの体は、そのまま放り出された。
転んだんじゃない。
地面そのものが足の下で生き返って、あたしたち全員を振り払ったのだ。
耳元でまず鈍い音がして、そのあと白灰が弾ける音が続いた。肩が硬い礁にぶつかる。目の前が一瞬黒くなって、すぐに口の中へ塩と血の味が広がった。
起き上がる前に、もう鼻は新しい匂いでいっぱいになっている。
腐泥。
濡れた殻。
それから、厚い甲殻の下にずっと閉じ込められていたみたいな生臭さ。
顔を上げる。
さっきまで地面だと思っていたものが、持ち上がっていた。
広い死白の珊瑚が中央から裂け、何層にも崩れて落ちていく。白灰は吹雪みたいに降り注ぎ、空も、人影も、全部覆い隠した。骨板みたいに硬かった礁面が反り返り、その下から巨大な灰白色の甲殻が現れる。
礁じゃない。
殻だ。
ずっと、あたしたちはその上を歩いていた。
「散れ!」
凡スの声が、白灰の向こうから刺さった。
あたしは地面に手を突き、粗い殻の表面を爪で引っ掻きながら立ち上がると、そのまま走った。
勇気があったからじゃない。
体が先に知っていたのだ。ここに残ったら死ぬと。
そのものは白礁の底から身を起こした。死んだ家が、いきなり立ち上がったみたいに。背には白化した珊瑚、砕けた貝殻、黒い粘泥がびっしり積もっていて、遠目には安定した礁台にしか見えなかったものが、身じろぎするたびにぼろぼろ崩れ落ちる。
一つの脚が、珊瑚灰の中から伸びた。
黒礁の柱みたいな太さだ。
表面は海水に晒されすぎて惨めなほど白く、節と節の間には黒泥が詰まり、死んだ珊瑚の枝まで貼り付いていた。
二本目。
三本目。
もっと。
屋身蟹。
その名前が頭に浮かんだ。前に古い水手から聞いたことがあったのかもしれないし、今見ているものがあまりにもそのまますぎたのかもしれない。
家を背負った蟹。
ただ、あれが背負っているのは家じゃない。
墓だ。
「奧布里!」
萊克斯が怒鳴った。
振り返ると、奧布里は半分膝をつき、まだ標識縄を掴んだままだった。その縄はさっきまで礁柱に巻かれていたのに、今は屋身蟹の脚節のひとつに絡まっている。
蟹が動く。
縄が一気に張り詰めた。
奧布里の体が前へ引きずられる。膝が硬い礁面を擦り、血の線ができた。
萊克斯が飛び込む。
肩ごと白灰へ突っ込み、片手で奧布里の背を掴み、もう片方の手で刀を抜いた。
刃が縄に落ちる。
一回。
切れない。
「離せ!」萊克斯が吼える。
でも奧布里の指は縄に食い込んだまま、外れなかった。
二撃目。
縄が切れた。
奧布里の体が後ろへ転がる。
萊克斯は、ほんのわずか遅れた。
屋身蟹の脚が落ちる。
踏んだんじゃない。
押し潰した。
白灰が爆ぜる。
音は鈍い。
濡れた木樽が何列も一斉に砕けるような音だった。
あたしに見えたのは、萊克斯の手が一度、力を失うところまで。
その後は、もう白しか見えなかった。
「走れ!」
扎卡が低く唸った。
あたしは動いた。
足元の硬礁が次々裂け、隙間から黒泥が噴き出し、小腿にまで飛ぶ。死んだ魚の腹みたいに冷たい。白灰が目に入り込み、耳を伏せて、鼻と足裏だけで道を取るしかなかった。
前方で、艾琳が杖を掲げ、短く切った音節を吐き出す。
風が、彼女の周りでひと巻き開いた。
白灰が一度、円形に押し返される。
でも本当に一度きりだった。
その次の瞬間には、屋身蟹の背からさらに大量の灰が崩れ落ち、空そのものが骨粉を降らせているみたいになった。
「見えねえ!」
里克が咳き込み、腰を折る。
凡スの弓弦が鳴った。
矢が灰の幕を貫き、屋身蟹の甲殻の継ぎ目へ突き刺さる。
止まらない。
震えもしない。
凡スの顔が暗くなった。
「殻を狙うな。」
声は冷静だった。
でも、もう指は二本目の矢を引いている。
屋身蟹は、あたしたちを見ていたわけじゃなかった。
それはすぐ分かった。
追ってこない。
頭を下げて誰かを探したりもしない。
ただ、大きすぎるのだ。
一度動くだけで、地形そのものが人を追い回してくるみたいに。
あたしたちが十数歩走っても、あいつは一歩で追いつく。
脚先が落ちるたび硬礁が裂け、黒泥が噴き上がる。背の珊瑚の塊も落ちてくる。中には水桶より大きいものもあり、落ちた場所の礁面に黒い穴を穿った。
海靈の衛兵も下がっていた。
横の浅い水へ飛び込み、身をひるがえして長く滑る。けれどここは深海じゃない。露出した死礁と浅瀬ばかりだ。尾鰭が折れた珊瑚にぶつかり、体勢が大きく崩れた。二叉戟を礁の隙間へ差し込み、ようやく踏みとどまる。
海の中で海靈がみっともなくなるところを、あたしは初めて見た。
こいつらだって万能じゃない。
「奧布里!掴め!」
凡スが突然叫んだ。
振り向く。
奧布里がまた見えなくなっていた。
次の瞬間、裂け目の中から手が一本伸びた。
屋身蟹が動いた時に礁面が裂け、彼は半身ごと割れ目へ落ちていたのだ。凡スの矢が、あたしの耳元をかすめて飛ぶ。奧布里の横の硬礁へ深く刺さる。矢尾には細い縄が括られていた。その縄が、彼の手元へ垂れる。
奧布里が掴んだ。
凡スが後ろへ引く。扎卡が駆け込み、左手で奧布里の肩を掴んで、その体を裂け目から引きずり出した。
扎卡の右腕は垂れたままだった。巻いた布は、もう血で濡れている。
彼は萊克斯の名を呼ばなかった。
もう手遅れだと、知っているから。
あたしも知っている。
でも知っていることと、鼻がまだあの人の匂いを探してしまうことは、別だった。
「里克!」
艾琳が叫ぶ。
里克は咳き込みながら膝をついていた。白灰が眉と髭にまでこびりついている。片手は胸を押さえ、もう片方にはまだ腰刀がある。そうしていれば倒れずに済むと思っているみたいに。
あたしは悪態をつき、そっちへ走った。
「珂拉!」
艾琳の声は灰に呑まれた。
里克の腕を掴む。
「立って!」
「げほっ、今やってる——」
その時、屋身蟹の脚節が灰の中から薙いだ。
直撃はしない。
でも、目の前をかすめた。
風の方が先に届いた。
腐泥と砕けた殻の臭いをまとった風が、あたしと里克を丸ごと吹き飛ばす。背中が珊瑚へ叩きつけられ、砕けた白枝が腕を引っ掻いた。痛みで尾がまっすぐ張る。
里克が横で転がり、灰を一口吐いた。
「ちくしょう。」
枯れた声で言う。
「これは蟹じゃねえ。歩く礁島だ。」
「殺せる?」あたしは聞いた。
凡スがちょうど後退してきて、三本目の矢を弦にかけるところだった。
「無理だ。」
即答だった。
「殺す必要はない。」
矢が飛ぶ。
今度狙ったのは脚じゃない。脚の脇の黒泥だった。
「動けなくすればいい。」
艾琳が顔を上げる。
白灰で銀の髪がまるで塩を振られたみたいになっていた。
「浅い水を重くできる。」彼女は言った。
「泥沼みたいに。長くは保たない。」
「そこに踏ませろ。」凡スが答える。
「うん。」
「なら向きを変えさせる。」
言うのは簡単だ。
自分の尾を罠に突っ込んでおいて、うまくずれてくれるのを願うくらい簡単だ。
あたしは屋身蟹を見上げた。
あいつが脚を上げる前、甲殻の隙間からいつも、もっと濃い腐臭が先に押し出される。その匂いは風じゃない。体の奥深くから絞り出されてくる。
匂いが先。
そのあと震動。
それから脚が落ちる。
歯を食いしばる。
「次にどこへ落とすか、匂いで分かる。」
扎卡があたしを見た。
「毛皮保証か?」
「あたしの鼻保証。」
「それで十分だ。」
里克が刀で前方の半ば崩れた礁溝を指した。
「あそこ。」
喉は白灰で擦り切れたみたいに掠れている。
「下が空洞だ。さっき水の流れを見た。片側の脚を落とせば、引っかかる。」
奧布里が顔の灰を拭った。手はまだ震えている。
「縄を、あの二本の死礁柱へ回せる。」
「長くは保たない。でも、少しはずらせる。」
凡スが海靈の衛兵を見た。
海靈の顔色は最悪だった。二叉戟を握ったまま、睨んでいる。
「海は、陸の魚のために縄を曳かない。」
ちょうどその時、屋身蟹が衛兵のいる水路の方へ体を寄せた。
一本の脚が持ち上がる。
匂いが先に噴いた。
「左!」
あたしは叫んだ。
海靈の鰭が一気に開く。
体を横へ滑らせる。さっきまでいた位置へ脚が落ち、浅い水が大きく弾け、黒泥が噴き上がった。
彼は顔を上げ、あの巨大な怪物を見た。
黒い目の中に、初めて本物の怒りが入る。
「潮が、お前を呑め。」
海靈が飛び出した。
二叉戟が、屋身蟹の脚節の隙間へ突き刺さる。
蟹の動きが、ほんの少しだけ逸れた。
痛がったんじゃない。
歩いている隙間に小石が挟まって、ただ鬱陶しいと感じたくらいの反応だ。
でも、それで足りた。
「走れ!」
扎卡があたしを押す。
あたしは礁溝の右側へ走った。足元の白灰が跳ねる。鼻は腐臭へ食いついたまま。
次の一歩。
さらに次。
匂いが濃くなる。
「今!こっち!」
叫んだ瞬間、ちょっと後悔した。
屋身蟹は本当に向きを変えたからだ。
片側の三本の脚が持ち上がる。頭上に巨大な影が落ちる。足は走っている。心臓は耳の中で暴れている。世界は腐臭と震動と、後ろから扎卡が襟首を掴んだ感触だけになった。
「伏せろ!」
横へ引き倒される。
あたしは黒泥へ転がり込んだ。
同時に、奧布里と凡スが縄を引き絞る。縄は死礁柱へ食い込み、今にも切れそうな鋭い音を立てた。
屋身蟹の脚が、半尺だけずれる。
半尺。
それで十分だった。
脚が、その崩れかけた礁溝へ落ちる。
轟。
白礁全体が沈んだ。
艾琳の杖が水面を強く打つ。
彼女が唱えたのは古き霊語じゃない。もっと短く、もっと切迫した通常の咒音だった。浅い水と黒泥が、見えない手で押し固められたみたいに急に重く、厚くなる。
屋身蟹の三本の脚が沈んだ。
巨体が片側へ傾く。
背中の死珊瑚の大半が崩れ、白灰と砕けた殻が一気に流れ落ちた。
長い音がした。
家が一軒、丸ごと倒れたみたいな音だった。
あたしは黒泥の中へ腹這いになり、両手で礁の縁を掴んで、しばらく動けなかった。
屋身蟹は死んでいない。
脚はまだ動いている。
動くたび、白礁全体が震える。
でも、動けなくはなった。
少なくとも今は。
誰もすぐには口を開かなかった。
萊克斯がいないからだ。
どこかに倒れているんじゃない。
怪我をしてうずくまっているんでもない。
いない。
奧布里が、さっき白灰の爆ぜた場所へ歩いていく。
足取りはとても遅かった。一歩踏み出すたびに、地面がまた生き返らないか確かめているみたいだった。
しゃがみ込み、灰を手で掻く。
何もない。
出てきたのは、折れた刀の柄だけだった。
萊克斯のだ。
昨日の夜、彼はその刀で乾糧をこじ開けながら、こんなものをあと二日食うくらいなら船のマストを齧った方がましだと悪態をついていた。
今は、その刀の柄だけが灰の中に残っている。齧り残しの骨みたいに短く。
奧布里はそれを握りしめた。
泣かなかった。
ただ、手だけがずっと震えていた。
里克が横で数度咳き込む。
とても低い咳だ。
何かを起こさないように、気を遣っているみたいに。
あたしは、その白灰を見ていた。
頭の中は変に空っぽだった。
萊克斯の匂いを、ちゃんと覚える暇もなかった。
覚えているのは昨夜、あの固い乾糧を齧りながら、あと二日続くなら船板を齧る方がまだましだと顔をしかめていたことくらいだ。
文句を言うやつまで、いなくなった。
その時、海靈の衛兵が口を開いた。
「魚が一匹減った。」
遠くで動きを止められている屋身蟹を見たまま。
「海は少しきれいになる。」
あたしの耳が一瞬でぴたりと寝た。
気づいたら駆け出していた。
考えてない。
体の方が先だった。
艾琳も法杖を半分持ち上げている。顔色はひどく悪いのに、目の奥には火があった。
扎卡が、一番速かった。
左手であたしを止め、体ごと艾琳の法杖の線上へ入る。
右腕はまだ血を滲ませている。
それでも立ち方は揺れなかった。
「今じゃない。」
あたしは海靈の衛兵を睨んだ。歯が出ていた。
「あいつは奧布里を助けた。」
海靈は冷たく見返す。
「それはお前たちの事情だ。」
まだ前へ出ようとした。
扎卡の手が肩に置かれる。
力は強くない。
でも、退いてはくれない。
彼は低く言った。
「死んだ。」
その三文字が、濡れて冷えた石みたいに胸へ落ちた。
扎卡はあたしを見ていた。
「あいつの死を、無駄な喧嘩に換えるな。」
呼吸が荒くなる。
喉の奥は灰と血の味しかしない。
扎卡だって、怒っていないわけじゃない。
顎は強く固まり、肩に置いた左手の指が骨へ食い込みそうなほど硬かった。
でもあいつは、戻らない死を見すぎている。
鉄頭。
石にされたカイル。
松林の血の夜のあと、泥の中に残っていた、あのいくつもの匂い。
今ここで突っかかっても、萊克斯は戻らないと知っている。
あたしも知っていた。
毛抜けめ。
知っている自分が嫌だった。
最後に、手を下ろす。
艾琳もゆっくり法杖を下ろした。
火は消えたわけじゃない。
ただ、押し戻されただけだ。
あたしたちは、少し安全そうな黒礁の陰へ退いた。
遠くでは、屋身蟹がまだ足掻いている。脚を引き抜こうとするたび、半ば崩れた礁溝が鈍く軋み、艾琳の顔色もそのたびに少しずつ白くなる。
彼女の魔法は長く保たない。
でも今は、そのわずかな時間で息をつくしかない。
「あれは珊瑚を食っている。」
海靈の衛兵が言った。
鰭はまだ開いたまま。二叉戟の先から、黒泥が滴っていた。
「殺すべきだ。」
凡スが彼を見る。
「何で殺す?」
海靈は答えなかった。
答えは遠くにいる。
歩く礁島みたいな巨体。殻は厚すぎて、凡スの矢ですら継ぎ目へ引っかけるのがやっとだ。背に積んだ珊瑚と礁塊のせいで、あれを斬るのは石の家を刃物で壊すようなものだった。
里克が口元を拭った。
喉は、まだ白灰に擦られているみたいな声だ。
「あいつが元凶とは限らねえ。」
海靈の衛兵が振り向く。
「珊瑚を食っている。」
「蟹ってのは、たいてい腐ったものを食う。」里克が言った。
あたしは彼を見た。
「腐ったもの?」
「死んだ魚。ちぎれた肉。腐り落ちたもの。海の底で、誰も拾わねえもんだ。」
一度息を継ぐ。
「人の言葉で言うなら、ああいうのは汚れ掃除に近い。」
奧布里が、萊克斯の刀柄を握ったまま低く言った。
「あの大きさなら、大魚だって食うだろ。」
扎卡が白礁の外側を見る。
「生きた珊瑚の方には大魚がいる。」
誰も続けなかった。
食うためだけなら、どうしてこんな生き物のいない死礁に居座るのか。
海靈の衛兵は冷たく言う。
「あれは珊瑚を食っている。」
里克はすぐには言い返さなかった。
遠くの屋身蟹を見る。
背からはまだ死珊瑚が落ち続けていた。白灰が風で払われると、甲殻の隙間に、さらに細く暗いものが見えた。
根のようで。
小さな珊瑚枝のようでもある。
「死んだところを削ってるだけかもしれねえ。」里克が言った。
「なんで?」あたしは聞いた。
「分からん。」里克はあっさり言い切った。
そしてあたしを見る。
「だから見る。」
扎卡が見下ろしてきた。
「何か毛皮がひっかかってるのか?」
すぐには答えなかった。
起き上がる前の屋身蟹を思い出していた。
あれはずっと動かなかった。
追ってもこない。
先に手も出さなかった。
あたしたちが背に乗ったから、起きた。
もちろん、それ自体が罠だった可能性はある。
地面に化けて待ち、近づいた生き物をまとめて食うための。
あたしは里克に聞いた。
「蟹って、どうやって食う?」
里克は少し考えた。
「挟む。裂く。削る。」
「削る?」
「石に張りついたもんを削り取るんだ。」
彼は言う。
「そういう蟹はいくらでもいる。」
あたしはあの屋身蟹を見た。
背中の死白珊瑚を見る。
起き上がった時に崩れ落ちた灰を見る。
それから、あいつがずっと伏せていた場所を思い出す。
もし、あれが生きた珊瑚を食っていたんじゃないなら。
死んだ珊瑚を削っていたんだとしたら。
「駄目だ。」
突然、奧布里が言った。
声は大きくない。
でも固かった。
「萊克斯が死んだばかりだ。」
彼はあたしたちを見た。
「今さら、あの化け物の巣を見に戻るのか?」
誰もすぐには答えなかった。
その通りだからだ。
萊克斯は、ついさっき死んだ。
その直後に、調べたいからもう一度あの怪物が伏せていた場所へ戻ろうと言っている。
まともな話には聞こえない。
凡スが言った。
「見なければ、萊克斯は無駄死にだ。」
奧布里が顔を上げる。
かなりひどい眼をしていた。
凡スは視線を逸らさない。
「恨みたければ恨め。ただ、道は進む。」
ひどく凡スらしい言い方だった。
冷たい。
でも、心が無いわけじゃない。
奧布里は、刀柄を抱えたまま長いこと俯いていた。
手の震えが、なかなか止まらない。
最後に、それを胸元へ仕舞う。
「……行く。」
あたしたちは大きく回り込み、屋身蟹が伏せていた元の場所まで戻った。
そこには巨大な窪みが残っていた。
叩き潰された跡じゃない。
何かが長いあいだそこに伏せ、白礁を体重で押し続けて、そうなったみたいな窪みだ。
縁の死珊瑚は、妙に綺麗に切れている。何度も何かに削られたみたいに。白灰も、黒泥も、他の場所よりずっと少ない。
あたしは近づいたところで、足を止めた。
匂いが違う。
ごく薄い。
腐臭にほとんどかき消されている。
でも、確かにある。
死んだ匂いじゃない。
湿っていて、新しい。
雨のあと、ひっくり返された土の匂いみたいな。
あたしは手を上げて、みんなを窪みの縁で止めた。
「先にあたしが下りる。」
扎卡が眉を寄せる。
「あたしが一番軽い。」
こういう時、この言い訳は強い。
本当のことでもある。
扎卡はそれ以上は止めなかった。ただ左手を刀の柄に置く。
あたしは窪みの壁に沿って下へ滑り降りた。
底は思ったより硬い。白灰が脆く積もっている感じじゃない。足裏がついた時も、低い鈍い音が返っただけだった。
しゃがみ込み、薄く積もった黒泥を払う。
下に、光があった。
小さい。
ほんの少し。
最初は、水が太陽を返しているのかと思った。
でも違う。
幼い珊瑚だった。
爪先ほどの大きさしかない。透明な体の中に、ほんの少しだけ青がある。
息を止めて、隣の黒泥も払う。
まだある。
赤。
黄。
紫。
小さな色が、窪みの底じゅうに散っていた。砕けた星を白灰の下へ埋めたみたいに。
声が出なかった。
さらに別の場所を払う。
もっとある。
屋身蟹が伏せていた場所は、一番死んだ場所なんかじゃなかった。
新しいものが生えている、唯一の場所だった。
上から扎卡の声が落ちてくる。
「珂拉?」
すぐには答えなかった。
幼い珊瑚を見る。
それから、削られた窪みの壁の白い筋を見る。
ひとつの考えが、ゆっくり頭に浮かんできた。
馬鹿みたいだ。
でも嫌になるくらい筋が通っていた。
もし屋身蟹が珊瑚を壊していたんじゃないなら。
死んだ部分だけを削り落としていたんだとしたら。
背に積もっていたあの白い「屋」は、偽装でも戦利品でもなくて。
珊瑚の墓を、あいつが背負って運んでいたんだとしたら。
腰の水珠が、かすかに動いた。
光らない。
ただ、中の水が窪みの底へ少しだけ寄った。
下を見る。
幼い珊瑚は、全部同じ方向を向いて伸びていた。
太陽じゃない。
もっと白礁の奥だ。
まだ来ていない水を待っているみたいに。
ようやく口を開いた。
声はとても低かった。
「あいつは元凶じゃない。」
上が静まった。
あたしは幼珊瑚の向いている先を見た。
そこはまだ、果てのない白のままだ。
「ここを片づけてる。」
窪みの底を風が抜けた。
その風が、もっと深い腐臭を運んできた。
ライクス……私たちは一人の水手を失いました。
この蟹にはどうすることもできず、ただ閉じ込めることしかできませんでした。しかも、あの海霊は「海が少しきれいになる」とまで言ったのです。
ひとつ補足すると、仲間を失った痛みに深く沈みきれていない人がいるのは、海ではこういうことが珍しくないからですし、珂拉たちもまた冒険者だからです。
どうぞ第四節「黒泥」をお楽しみに。




