14-6 退潮
戦いは今にも始まりそうなのに、誰もまともに反撃できない――?
扎卡は亞倫の言葉を聞かなかった。
体がもう動いていた。甲板の中央から舷側まで、三歩。踏み出すたびに木板がぎしっと鳴る。いつの間にか手には鉈があった。刃先は海へ向いている。
「扎卡——」あたしは叫んだ。
止まらない。
水柱の中から、一本の戟が飛んできた。
最初のものより遅い。わざと見せるみたいに。
扎卡は横へ避けた。けれど、全部は避けきれなかった。戟先が右腕を貫く——外から入って、内側へ抜ける——彼の体をそのまま舷側の木板に縫い留めた。
吼え声が、低い唸りに変わる。膝が落ちた。左手が戟柄を掴んだ。指が白くなる。だが、抜かない。
「言ったはずだ——」背後から亞倫の声がした。とても小さい。血の匂いが混じっている。
「動くな。」
海靈族は待たなかった。
四方から、同時に攻撃が来た。
武器じゃない。水だ。
海面が生き物みたいになった。数十本の水柱が船の両側から飛び上がる。細いものは槍みたいで、回転しながら直接甲板の木へ突き刺さる。太いものは壁みたいで、横から叩きつけられ、掴まっていない者をそのまま吹き倒した。
左舷を水刃が走る。船帆の下半分が切り裂かれ、帆布が破れた布みたいに垂れ下がった。縄が数本断ち切られ、空中で乱れ打つ。
「防げ!掴まれ!」克萊吉恩の声が舵台のほうから炸裂した。
艾琳が杖を掲げる。自然霊語が、いつもの倍の速さで彼女の口から飛び出した。船の右舷に水壁が立ち上がり、迫る水柱を受け止める。
でも、一秒しか持たなかった。
その水柱は、まるで別の力に奪われたみたいに——艾琳の壁を回り込み、防がれていない角度から流れ込んできた。海水が彼女を打ち、足を滑らせ、甲板の上に転がした。杖が手から離れる。
凡スが矢を放った。だが矢は水柱をすり抜け、何も刺さらない。通った場所で水柱が一瞬裂け、それからまた閉じた。
この海域では、あたしたちの魔力は押さえ込まれている。ここは海靈たちの場所だ。
「退け!」
克萊吉恩の判断は速かった。
「ここから離れろ!」
全員が動き出す。でも攻撃のためじゃない。撤退のためだ。
余暉号が動く。
海靈族は追わなかった。
でも、海が追ってきた。
数秒で、午後だった空が夕暮れに変わる。雲だ。厚く、重く、灰黒い雲が巨大群礁の方から押し寄せてくる。誰かが後ろから押しているみたいに早い。
風が来た。
普通の風じゃない。四方から同時に吹いてくる。まるで、誰かが余暉号を掌に乗せて、両手で閉じようとしているみたいに。
波が来る。一つ。二つ。三つ目はそのまま舷側を越え、海水が甲板へ流れ込んだ。
あたしは帕夫の籠を抱えていた。中では四匹の小松鼠が悲鳴を上げている。帕夫は体でそれを庇っていた。手は縄を掴んだまま、身体ごと海水に揺さぶられる。
天気が悪くなったんじゃない。
海が怒っている。
……
どれくらい経ったのか分からない。
数分かもしれない。体感では何時間もあった。
波が小さくなった。風向きも元に戻った。雲はまだあるけれど、もうこちらへ押し寄せてはこない。
余暉号は巨大群礁の外縁から抜けたところで止まった。
甲板はひどい有様だった。
切れた縄、裂けた帆布、入り込んだ海水が木板の上に浅くたまっている。倒れている者がいる。壁にもたれている者もいる。角で吐いている者もいる。
あたしは籠を、水をかぶらない桶の上に置いた。覗くと、帕夫は震えていたが、怪我はない。小松鼠たちは丸くなって、目を丸くしている。
それから仕事を始めた。
一人目、扎卡。
彼はまだ舷側のそばで膝をついていた。右腕の戟は抜けていない。傷口の両側から血が流れている。でも普通の流れ方じゃない。血が何かで薄められたみたいに、色が薄くて、止まらなかった。
「海水の魔力だ。」凡スがそばにしゃがみ込み、顔色を悪くして言った。
「戟の先に魔力が乗っている。傷は、自分では塞がらない。」
あたしは布を一枚裂き、戟柄の両側を巻いて、出血点を押さえた。抜けない。今抜けば、血管を押さえられないまま、大量に失う。
「耐えて。」
扎卡は歯を食いしばった。額の汗と海水が混ざる。
「他の奴らを先に診ろ。」彼の声は低かった。
「俺は、そう簡単には死なない。」
あたしは彼を見た。
眼が落ち着いていた。
あたしは頷いて、ほかの者へ向かった。
何人かの水手は擦り傷と打ち身。水柱で倒されたものだ。一人は肩を外していた。もう一人は、断ち切れた縄に額を打たれて血を流している。
どれも致命傷じゃない。
三人目の処置をしている時——
背後から音がした。
金属と肉の音。
振り向く。
亞倫。
彼は、自分の体を貫いている戟を片手で掴んでいた。
それから、抜いた。
一息で引き抜く。金属が体から離れる時、湿っていて、吸い付くみたいな音がした。血が噴き出す。大量に。甲板にも、自分の服にも飛んだ。
膝が一瞬だけ折れた。でも、倒れない。
そして、その傷口が——
見えた。
全員が見た。
右肋から左肩まで、ほとんど胴体を貫通していた穴。その穴が、縮んでいく。縁の肉が中央へ伸びて、花が開くみたいな速さで、でも向きは逆。血が止まる。筋肉が組み直される。皮膚が閉じていく。
十秒もかからない。
淡い桃色の傷跡。
それさえも、すぐに薄れていった。
甲板に、誰も言葉を発しなかった。
前にも見たことがある水手はいた。暗水獣の時だ。でもあの時は海の中で、はっきりとは見えなかった。今回は違う。甲板の上で、全員の前で、昼の光の中だ。
後ずさる者がいた。
恐れ。
亞倫は戟を甲板に投げ捨てた。落ちた音が大きい。
彼は周りの視線を見た。
何も言わなかった。
「怖がらなくていい」もない。「説明できる」もない。何も。
彼は舷側へ歩いていき、欄干にもたれて座った。
沈黙。
あたしは何か言おうとした。
「珂拉。」扎卡の声。
「右腕、感覚がなくなってきた。」
戻って。包帯を巻き直す。
……
扎卡の戟は、亞倫のより厄介だった。
海靈の武器には海水の魔力が乗っている。傷口の縁が凍ったみたいになっていて、組織が血を固めてくれない。止血草をいくら使っても、ほとんど効かなかった。最後は凡スが残り少ない魔力で傷口の縁を焼いて、ようやく血を止めた。
扎卡は最初から最後まで、縄の切れ端を噛んでいた。叫ばなかった。
戟を抜いた後、右手はしばらく使えない。
「数日で治る。」彼は言った。
あたしは返さなかった。確信がなかったからだ。
……
克萊吉恩が、全員を甲板の中央に集めた。
彼は舵台の前に立っていた。頬には擦り傷があり、服はずぶ濡れ。それでも声はいつもの声だった。
「聞け。」
彼は状況を整理した。
「目的地は、巨大群礁の向こう側だ。海龍王の住処は深海にある。そこへ行くには、群礁の内側の水道を通るしかない。」
「北側の外海を回れないのか?」と誰かが聞いた。
「回れる。」克萊吉恩は頷いた。
「でも、北の外海は海龍王の霊気圏に近い。あの海域の海怪の密度は、普通の十倍だ。さっき暗水獣を片付けたばかりだろう。十匹増えたら、俺たちは持つと思うか?」
誰も答えない。
「群礁の内側の水道が唯一の道だ。だが、その前に——」彼は亞倫の方を見た。
「海靈族に通してもらわなきゃならない。」
亞倫が立ち上がった。
人の輪の外へ歩いていく。服の血はもう乾いて、暗い茶色の塊になっていた。
「俺が戻る。」
全員が彼を見る。
「一人で。」
亞倫は少しだけ間を置いた。
「海靈と話す。」
彼は克萊吉恩を見る。
「あいつらは天災を覚えてる。俺のこともな。」
亞倫の声は平坦だった。
「お前たちが無理に通るよりはましだ。」
克萊吉恩は彼を見た。数秒、黙った。
「成功を保証できるか?」
「できない。」
「だが、試す価値があるのはそれだけだ。」
克萊吉恩の口が少し動いた。すぐには答えない。
彼の視線が、亞倫から離れた。甲板の全員を見回す。怪我人。疲れた者。黙っている者。
「お前が自分の命を賭けるのは勝手だ。」彼は言った。
「だが、船ごと賭けるわけにはいかない。」
亞倫は反論しなかった。
甲板が静かになった。
……
あたしは最初から最後まで聞いていた。
手は、別の水手の包帯を巻いている途中だった。
聞いているうちに、またあの感覚が来た。
亞倫は、また一人で背負おうとしている。
「俺が戻る。一人で。海靈と話す。」
包帯の結び目を締める。立ち上がる。
輪になった人たちの議論には入らなかった。舷側まで歩いていく。
手にはまだ血がついていた。扎卡の血、水手の血、薬草の汁。海水で洗う。塩っぽくて、冷たい。指先の血の膜がふやける。
それから、水珠を袋から取り出した。
もう熱くない。
冷たい。深海にずっと沈んでいた石みたいに。
あたしはそれを手の中に包んだ。海水の冷たさと水珠の冷たさで、指先がじんじんした。
中に、一滴の水があった。
水晶の内壁に沿って、ゆっくり落ちている。
涙みたいに。
あなたも、彼を嫌ってるの?
返事はない。
あの災厄を、あなたも覚えてるの?
返事はない。
その一滴は、水晶の底へ滑り落ちた。そこで一秒止まり——
次の瞬間、別の方向へ動き始めた。
下じゃない。横だ。壁に沿って、ゆっくり、安定して、どこかへ向かっていく。
あたしは水珠を回した。どの方向を示しているのか確かめようとする。
巨大群礁。
その一滴は、巨大群礁の方を指していた。
道を示しているみたいだった。
あたしはその方向を見た。灰色の海の水平線の向こうに、珊瑚の尖塔の輪郭がうっすら見える。さっき、あたしたちを殺しかけた場所だ。
海靈は亞倫の言うことを聞かないだろう。彼を「破滅者」と呼んでいた。
克萊吉恩の言葉だって、簡単には信じないはずだ。余暉号の銘文で船を沈めるのは止めた。でも、それは信用じゃない。ただの迷いだ。
でも、水珠の中には海の精霊がいる。
古き精霊——海の子。
もしかすると、祂なら、もう一度だけ話を聞いてくれるかもしれない。
あたしは振り返った。
甲板の中央へ戻る。
「持ってるものがある。」
全員があたしを見る。
……
余暉号は、再び巨大群礁の外縁へ近づいた。
今度は加速しない。無理に入らない。銘文は最低限の推力だけを保ち、船は水面を滑るように進んでいた。遅く、静かに。
克萊吉恩は船首に立っていた。船長の場所だ。
あたしはその横に立ち、水珠を手にしていた。
亞倫は後ろへ下がっている。船首からはかなり離れていた。あたしがそうしてくれと言ったのだ——海靈が彼を見た瞬間に動き出したら、何も話せないから。
海面がまた変わる。
あの静けさが戻ってきた。波もない。風もない。海鳥もいない。
それから水柱。
前回より少ない。五本、六本。船の前方から立ち上がる。
海靈族の輪郭が水柱の中で形を取り始める。白目のない、真っ黒な目が、水の中からこちらを見ている。
彼らの視線は、まず克萊吉恩に向いた。それから彼を越えて、後ろを探す。
亞倫を。
見つけた。彼は後ろのマストのそばに立っている。
水柱の中の武器が、向きを変え始めた。
「待って。」克萊吉恩の声が落ち着いた。両手を上げ、掌を前へ向ける。
「余暉号は略奪船じゃない。矮人の酒を運んでいる。海龍王への贈り物だ。」
海靈の首領の目が、亞倫から克萊吉恩へ移る。
「破滅者を船に乗せたな。」
「彼は俺の乗客だ。」
「海に拒まれたものだ。」首領の声は水から響いていた。
「お前たちがそれをこの海域へ連れてきた。挑発だ。」
「違う。」克萊吉恩の脚が震えていた。でも声は震えない。
「無知だった。海靈族と彼に因縁があるとは知らなかった。だが、俺の船員が一人の罪のために死ぬべきじゃない。」
海靈の首領は、しばらく彼を見ていた。
そして、言った。
「海だって、一人の願いのために死ぬべきではない。」
静かになった。
その言葉が、刃みたいに空中にぶら下がる。
あたしの手が動いた。
水珠を持ち上げる。
一歩前へ出て、海靈たちに見えるようにした。
水柱の中の視線が、いっせいに水珠へ移る。
変化は一瞬だった。拒絶から、注目へ。
首領の目が水珠を見つめる。長いあいだ。
「海の子だ。」彼は言った。共鳴が少し薄れた。まるで、漠然としたものではなく、ひとつの確かな存在へ話しかけるみたいに。
水珠の中の一滴が、動いた。海靈の方へ、少しだけ貼りつく。
「祂がお前と共にいるのか?」首領はあたしを見る。初めて、あたしを真っ直ぐ見た。
「祂は、あたしの友達。」
首領はその言葉に答えなかった。でも武器の角度が、ほんの少しだけ変わった。船を狙う向きではなくなった。
あたしはその一秒を逃さなかった。
「北から回るのは、無理だ。」
「なら死ね。」
彼はとても静かに言った。雨が降ったと言うみたいに。
克萊吉恩が口を開いた——
「船員が一人の罪で——」
「それはもう言った。」
首領が遮った。
また静寂。
水柱はそのまま保たれている。武器は下ろされていない。でも、動きもしない。
首領は水珠を見ていた。
長い時間——実際は数秒だったかもしれないけど、ずっと長く感じた——その後、彼は口を開いた。
「巨大群礁の外縁。南東。珊瑚がある。」
声が変わっていた。あたしたちに向けてではない。ずっと気にしていたことを話しているみたいだった。
「白化した。腐って死んだ。」
彼は亞倫の方を見る。
「その匂いと関係がある。」
「不浄の匂いだ。海の外から持ち込まれた。」
視線が、またあたしへ戻る。
「お前。海の子を連れて、その珊瑚へ入れ。」
あたしの指が、水珠を強く握った。
「腐敗が、彼の持ち込んだ不浄じゃないと証明しろ。本当の原因を見つけろ。」
少し間を置いた。
「できたなら。海靈は道を空ける。海龍王の前までだ。」
「できなかったら。」
水面の中で、首領の目がきらりと光った。
「お前たちは去れ。二度と戻るな。」
甲板が静まり返った。
克萊吉恩があたしを見る。その目が言っている。これはお前の決断だ。俺のじゃない。
亞倫は後ろにいた。彼の顔は見えない。
水珠があたしの手の中にある。
冷たい。でも、その一滴は動いていた。ゆっくり、確かに。巨大群礁の方へ向かって。
行け、と言っているみたいだった。
あたしは海靈の首領を見た。
「行く。」
首領の表情は変わらなかった。
水柱が沈み始める。海靈たちの輪郭が水の中で少しずつ消えていく。
最後まで残っていたのは、首領の目だった。
二つの黒い、白目のない石が、海面の下からあたしを見ていた。最後の一秒まで。
それから沈んだ。
海面は静けさを取り戻した。
波が戻る。風が戻る。
あたしは水珠を握ったまま、指先の痺れを感じていた。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
第十四章はこれで終わりです。そして第十五章は、心の準備が必要な海霊の試練篇になると言ってよいでしょう。
ちなみに、クライジエンの父、カイスは、当時あの巨大群礁の航路を選ばず、怪物だらけのあの悪海へ真正面から向かいました。
無謀と言ってしまえばそれまでですが、それでも彼はあの海から生きて戻ってきたのです。英雄と呼ばれるにふさわしい人物だったのでしょう。
どうぞ、第十五章「海の試練」をお楽しみに。




