19-10 別れ
水が来た!
走って!
走る。
間に合わない。
水が一気に押し寄せてきて、あたしたちはまとめて流された。
根こそぎ抜けた白いキノコまで水に混じり、水に触れるとぬるぬる滑って、あっという間に全身へ張りつく。
あたしは籠と小袋を必死に抱え込んだ。
籠の中にはパフ一家がいる。
水珠もある。
自分のことまで気にしている余裕は、もうなかった。
アーロンが、あたしをつかむ。
前ではヴァンスが、エイリンとアイラを必死につかんでいた。
どれくらい流されたのか、もうわからない。
途中でアーロンが手を伸ばし、あたしの顔を覆う布を押さえてくれた。
白いキノコの混じった水が中へ入らないように。
でも、そのせいでほとんど息ができない。
その前にも、もう何口か水を飲んでいた。
胸が苦しくてたまらない。
普通に流れている地下水って、こんなに多かったのか。
……
いつの間にか、ザカが近くまで流れてきていた。
片手でアーロンをつかむ。
もう片方でヴァンスをつかむ。
あたしたちは一列につながったまま、水に振り回された。
左へぶつかる。
次は右へ押しやられる。
頭までぐらぐらしてきた。
……
幸い、そう長くは続かなかった。
水に押し流された先に、少し高くなった岩場があった。
あたしはほとんど這うように上がる。
そのまま伏せた途端。
盛大にむせた。
もう二度とやらない。
最初に浮かんだのは、それだった。
ほかのみんなも、次々と這い上がってくる。
見たところ、全員ちゃんと揃っている。
パフ一家も無事。
水珠もある。
「みんな無事か?」
アーロンが真っ先に立ち上がる。
あたしはまだ寝ていたかった。
そのとき。
急に手が顔へ伸びてきた。
ぺしっ。
「痛っ!」
痛い!
思わず起き上がる。
アーロンの手には、白いぬるぬるした塊が一つ。
……
そこでやっと思い出した。
今のあたし。
全身これだらけだ。
髪。
服。
尻尾。
顔にまでついている。
あとで全部落とさなきゃいけないと思ったら、毛まで全部抜けそうな気がしてきた。
もういい。
とりあえず横になろう。
「まだ終わってない」
アーロンが皆へ言う。
「外も片づけるぞ」
……
少しして。
みんなはもう立っていた。
座ったままなのは、あたしだけ。
「水を呼べるか?」
アーロンが姉妹を見る。
エイリンとアイラが水際へ歩いていく。
あたしもようやく体を起こし、何をするのか見ることにした。
二人が目を閉じる。
すぐに水面が変わった。
最初は、小さな波紋がいくつか広がっただけ。
それから。
石の道を流れていた水が、ふいに上へ持ち上がる。
細い水の流れがゆっくり水面を離れ、空中で無数の水滴へ散った。
エイリンが手を伸ばす。
アイラも続いて手を上げる。
呪文は唱えていない。
でも、わかる。
二人とも、水の精霊と話している。
次の瞬間。
その水が一気に跳ね上がった。
ばしゃん!
洞壁一面に叩きつけられる。
白いキノコがまとめて倒れた。
白い粉は水に触れた途端、べたっと固まり、岩肌を伝って落ちていく。
柄ごと折れ、そのまま下の水へ落ちるものもあった。
エイリンが振り返る。
得意そうに、あたしを見る。
その直後。
今度は別の水の流れが持ち上がった。
今度はもっと多い。
ばしゃん!
反対側の壁でも、白いキノコが一気に倒れる。
ただ。
深い隙間に生えているものは。
一度水をぶつけても。
まだしっかり残っていた。
アイラも気づいた。
もう一度、水を呼ぶ。
またぶつける。
もう一度。
さらにもう一度。
すぐに、洞窟の中は水音だけになった。
しばらく見ていて。
ふと思う。
さっきルフェンビが吐き出した水なんて、大したことなかったんじゃないか。
エイリンとアイラの二人。
今のほうが、よっぽど洪水を起こしている。
……
何度も水をぶつけた。
やがて、高いところの白いキノコまで次々と落ち始める。
岩の隙間に引っかかっているものは。
ザカが長槍で先にこそげて緩める。
そこへエイリンが水を送る。
ヴァンスは、ずっと光の届かないところを見ていた。
たまに手を上げて指さす。
姉妹が、そこへ水を送る。
あたしだって休んではいない。
流されて落ちたのに、川へ入らなかったキノコは、濡れ布で包む。
そのまま包みごと水へ放り込む。
どうせ下には、食べてくれるのがいる。
ルフェンビは、いつの間にか水面へ浮かんでいた。
さっき見たときより、ずいぶん小さくなっている。
たぶん、元の半分くらいしかない。
この生き物の中には、いったいどれだけ水が入っているんだろう。
さっきまでは、ずっと水の底にいたらしい。
今はずいぶん気楽そうだ。
丸い体を水に浮かべ、そのまま流れに乗ってゆっくり漂っている。
口だけは休まない。
水面の白いキノコが、通ったそばから消えていく。
何年も何も食べていなかったみたいに。
……
ほんと、いいご身分だ。
……
壁がようやく元の色へ戻るまで、ずっと作業は続いた。
エイリンはもう疲れ切って、その場へ座り込んでいる。
アイラも大して変わらない。
二人とも、さっき水に流されたときよりひどい有様に見えた。
エイリンはしばらく息を整えてから。
自分の手を見る。
「多すぎ……」
あたしも、もう一度あたりを見回した。
さっきまで、どこを見ても白かった。
今はようやく、大半が消えている。
深い亀裂の奥に、小さいのがぽつぽつ残っているくらい。
下の水も、もうちゃんと流れている。
たぶん。
これなら、前みたいなことにはならない。
それにここには、起きたばかりで腹を空かせきったやつも一匹増えた。
アーロンを見る。
「これでいいよね?」
彼は岩壁をぐるりと見た。
「だいたいな」
……
やっと。
あたしはそのまま後ろへ倒れ込んだ。
後頭部が岩へ直撃する。
「痛っ!」
アーロンがあたしを見る。
笑った。
今はもう、文句を言う力さえ残っていない。
……
洞窟を出るとき。
入ってきたときより、ずっとゆっくり歩いた。
疲れていたのもある。
それに、まだ少し心配だった。
高い場所まで戻ると、やっぱり白いキノコが少し増えてきた。
下ほどひどくはない。
それでも、水の届かなかった隅にはかなり残っている。
結局、まだ片づけるしかなかった。
幸い、ほとんどは小さい。
ザカとヴァンスが、壁からキノコをこそげ落とす。
エイリンとアイラは、水の精霊に頼んで、それを洞窟の奥へ流していく。
どうしても高すぎるところは。
アーロンに登ってもらった。
下から見ていても。
あれをどうやって登っているのか、よくわからない。
ついさっきまで、勝手に触るなって言っていたのはあたしなのに。
今じゃ洞窟じゅう、あいつが這い回っている。
……
洞口が見えそうなところまで片づけたころ。
ようやく、外の風の匂いが戻ってきた。
木。
草。
それから、陽に温められた土。
入ってきたときと同じだ。
もう一日経ったらしい。
ただ今回は。
鼻の奥へこびりついていた白いキノコの匂いが、ずいぶん薄くなっていた。
蔓の向こうへ潜り抜ける。
日差しが一気に体へ落ちた。
目を細める。
やっと出られた。
……
なのに、まだ終わっていなかった。
洞口のそばの岩に。
小さな白いキノコが、まだ何本か生えている。
……
その場に立ったまま。
しばらく見つめた。
ザカも、あたしの視線を追う。
「まだあるのか?」
頷く。
彼は少し黙った。
それから、また刀を抜く。
「よし」
……
ちょっと泣きそうになった。
今日のこいつ、どうしてこんなに素直なんだ。
……
洞窟の外にある白いキノコは、そんなに多くなかった。
ほとんどが洞口の周り。
あとは、湿気の漏れている岩の隙間がいくつか。
もう少し離れると。
ほとんど見えなくなる。
みんなに頼んで、近くの草を少しかき分けてもらった。
下にほかの傘が隠れていないか確かめる。
残っていた小さいのも全部掘り出して、濡れ布で包む。
最後に、もう一度だけ洞窟へ戻った。
全部、水へ放り込む。
今度こそ。
もう二度と入りたくない。
……
村へ戻ったころには。
もう日が暮れかけていた。
風息谷は、朝とあまり変わって見えない。
木は木のまま。
草も草のまま。
空っぽになった家々も、変わらず静かにそこにある。
ただ、谷全体にかかっていた薄い白だけは。
本当に少し、薄くなったように見えた。
朝座っていた岩のところまで歩く。
あの亀裂を覗いた。
中からは、まだ風が吹いている。
でも、吹き出してくる白い粉はほとんどない。
もう一度、その岩へ座る。
なんだか、この岩って意外と座り心地がいい。
アイラもやってきた。
隣へ座る。
遠くの村を見ていた。
長いことそうしてから。
ようやく聞く。
「これで、もう大丈夫?」
少し考えた。
「まだわからない」
「でも、下はたぶん大丈夫」
あたしも家々を見る。
屋根。
道。
井戸。
いろんなところに、まだ昔の白い粉が残っている。
下から新しいものが出てこなくなっても。
これは、時間をかけて消えていくのを待つしかない。
「あと何か月か待とう」
あたしは言った。
「雨が何度か降れば」
「たぶん、また住めるようになる」
アイラは頷いた。
何も言わない。
もう少しだけ村を見てから。
あたしは立ち上がった。
「戻ろう」
今度は。
アイラが先に歩いた。
……
その日は、村まで急いで戻らなかった。
みんな、もうくたくただった。
特にエイリンとアイラ。
エイリンなんて、夕飯を食べ終える前に、その場へ横になって眠ってしまった。
彼女の袋の中では。
小さな黒球が、いちばん奥へ縮こまっている。
ほとんど動かない。
今日はエイリンも、かなり魔力を使った。
少し心配だったけど。
よく眠っている。
見たところ、大丈夫そうだ。
パフのほうは。
今度こそ、すっかり怯えていた。
洞窟を出てからずっと。
あたしの服から離れようとしなかった。
果物まで食べたがらない。
仕方なく、四匹の子リスと一緒にしてやった。
みんなで固まって眠ればいい。
あとは明日。
……
翌日。
あたしたちは、レノの新しい村へ戻った。
遠くからでも、誰かが屋根を直しているのが見える。
見慣れた光景だ。
やっぱりレノもそこにいた。
ただし今回は、屋根の上じゃない。
下で板を運んでいる。
あたしたちに気づくと。
一度止まった。
それから、持っていたものを置く。
こっちへ歩いてきた。
「戻ったか」
まずアイラを見る。
次にエイリン。
最後に、あたし。
「どうだった?」
少し考えた。
「たぶん、解決した」
レノが固まる。
「本当に?」
頷く。
それから、洞窟の中で起きたことを簡単に話した。
白いキノコ。
ルフェンビ。
それから、塞がれていた地下の川。
レノは、ずっと真剣に聞いていた。
特に、ルフェンビがただ眠っていただけだと聞いたとき。
なんとも言えない顔になった。
「寝てた?」
「うん」
頷く。
「しかも、すごく太ってた」
レノは笑えなかった。
その場に立ったまま。
長いこと黙っていた。
やがて、うつむく。
「そうだったのか」
……
今、何を考えているのかはわからない。
たぶん、風息谷から出られなかった人たちのことを、また思い出している。
アイラも彼を見ていた。
レノは、すぐに顔を上げる。
「じゃあ、もう戻れるのか?」
首を振る。
「まだ」
「下の白いキノコはほとんど片づけたけど、谷にはまだ白い粉がたくさん残ってる」
「あと何か月か待って」
「雨で少しずつ流れていけば」
「たぶん、戻れる」
レノは頷いた。
「そうか」
てっきり、もっと喜ぶと思っていた。
それか、すぐにみんなをどうやって戻すか考え始めるとか。
でも。
レノは、ただ少し笑っただけだった。
「それならよかった」
……
それだけ?
彼を見る。
「戻らないの?」
レノが顔を上げる。
「どこへ?」
「風息谷」
一瞬、きょとんとした。
それから、後ろの村を見る。
まだ建てかけの木の家。
新しく掘った水路。
遠くでは、ようやく少し緑が出始めた畑。
道端を追いかけっこしている子どもたちもいる。
老人が一人、ここにいるレノを見つけた。
遠くから声を張り上げる。
あとで手伝いに来てくれ、と。
レノは手を上げた。
わかった、と返す。
それから、こっちを向いた。
「戻らない」
あたしは固まった。
レノが笑う。
「家、もう半分建ってるからな」
……
もう一度、家々を見る。
確かに。
まだ途中の家が、何軒もある。
屋根すらないものもある。
「じゃあ、風息谷は?」
聞く。
レノは少し考えた。
「そのうち、誰かが住むさ」
「あそこには水がある」
「畑もある」
「壊れてない場所も、まだたくさんある」
少し間を置く。
また村を見る。
「でも、俺たちはもうここに住んでる」
……
さっきの質問が、急に少し馬鹿みたいに思えた。
みんなは一年かけて。
やっと、ここを今の形にした。
家。
畑。
水路。
それに、毎朝レノを探しに来る子どもたち。
戻れるからって、すぐ戻れるわけがない。
レノが、あたしを見る。
「ありがとな」
すぐには意味がわからなかった。
「何が?」
「風息谷」
彼は言った。
「ありがとう」
今度は。
もう何も聞かなかった。
ただ頷く。
「うん」
……
遠くから、また誰かが彼を呼んだ。
今度はもっと大きな声。
「レノ!」
「屋根、また漏れてるぞ!」
……
レノは目を閉じた。
ゆっくり、長く息を吐く。
「今行く!」
それから、あたしたちを見る。
「ちょっと待ってろ」
そう言って、走っていった。
あたしはその場に立ったまま。
背中を見送る。
数日前、初めてここへ来たときのことを、ふと思い出した。
あのときも、同じだった。
ここの人たちは。
いつだってレノに何か用があるらしい。
……
あたしたちは、もう一晩ここに泊まった。
翌朝。
ようやく出発する。
エイリンとアイラが、また抱き合った。
前ほど取り乱してはいなかった。
ただ、長いこと抱き合っていた。
エイリンが、妹にいつ神樹へ戻るのか聞く。
アイラは、わからないとだけ答えた。
一緒に行かないかとも聞いた。
アイラは首を振る。
しばらくは、まだレノたちのところを離れるつもりはないらしい。
結局。
エイリンのほうが、先に腕をほどいた。
「じゃあ、また来る」
「うん」
アイラが頷く。
「気をつけてね」
「そっちも」
姉妹は、そのあとも少し話していた。
最後はやっぱり、エイリンが先に背を向ける。
そうでもしないと、たぶん永遠に終わらない。
……
レノは、村の外まで少し送ってくれた。
ザカは、大きな干し肉の袋をもらった。
かなり満足そうだ。
ヴァンスは、最後の荷物をいくつかまとめるのを手伝っている。
パフ一家も、また籠へ戻った。
ただ、パフはまだ、あたしの相手をする気がないらしい。
果物を差し出す。
そこでやっと受け取った。
ほんと、面倒くさい。
……
村の入口まで来たところで。
レノが急にあたしたちを呼び止めた。
「そうだ」
振り返る。
「おまえたち、このあとどこへ行く?」
アーロンが、あたしを見る。
エイリンもこっちを見る。
ザカまで足を止めた。
……
なんでまた、みんなしてあたしを見るの?
前の道へ目をやる。
さらに西へ。
山々は、もうずいぶん近くなっていた。
あそこを越えれば。
懐かしい場所が、きっと見えてくる。
毛皮の歌は、今どうなっているだろう。
おじいちゃん。
懐かしい人たち。
それから、旅に出る前に住んでいたあの家。
本当に、長く離れすぎた。
時々。
家で薬草を並べていた棚がどんな形だったかさえ、思い出せなくなりそうなくらい。
レノを見る。
「帰る」
レノは一瞬、きょとんとした。
それから笑う。
「じゃあ、道中気をつけてな」
あたしも少し笑った。
「うん」
荷物を背負い直す。
先を歩くアーロンに追いつく。
今度こそ。
本当に、あとは家へ帰る道だけだ。
終わりました。
たぶん、これで本当に解決です。
でも……
ここはもう、昔の風息谷ではありません。
一年以上前に交わした約束も、
ようやく果たすことができました。
……
そして、物語もいよいよ終わりに近づいています。
最後の一節をお楽しみに——
第十一節 新たな始まり




