19-11 新たな始まり
物語が始まった場所へ。
今度は、
コラが何か話したいことがあるみたいです。
帰り道は。
むしろ、何もなかった。
大雨も降らない。
草むらから何かがいきなり飛び出してくることもない。
馬車は山道をゆっくり西へ進んでいった。
道端の木々が、一日ごとに見慣れたものになっていく。
草も。
花も。
風の匂いまで。
次の道に何が出てくるか、なんとなくわかるようになっていた。
普通すぎる。
普通すぎて、逆に少し落ち着かない。
……
その日の午後。
エイリンは荷台の縁にもたれて外を見ていた。
ザカは反対側で干し肉をかじっている。
ヴァンスは前のほう。
アーロンは手綱を握っていた。
誰も喋らない。
聞こえるのは、車輪が土を踏む音だけ。
それから鳥の声。
虫の音。
あたしはみんなを一度見回した。
「みんな、この先どうするの?」
……
誰も答えない。
鳥は鳴いている。
虫も止まらない。
なのに、馬車の中だけが急に静かになった。
ああ。
「何かくらい喋ってよ」
エイリンが振り返る。
ザカもちらっと目を上げた。
アーロンは振り向かない。
最初に口を開いたのはヴァンスだった。
「エイリンについていく」
……
あたしは彼を見る。
「あんた、エイリンのくっつき虫なの?」
ヴァンスは無反応だった。
でもエイリンは、初めて聞いたみたいな顔をした。
「そうなの?」
彼女は前を向く。
「じゃあ、私はこのままアーロンと冒険する」
「楽しそうだし」
あたしはすぐ彼女を見る。
「死ぬよ」
ヴァンスが頷いた。
……
なんであんたが頷くの?
エイリンはまるで気にしていない。
手を伸ばして、ヴァンスの肩をぽんと叩く。
「じゃあ、ちゃんと守ってね」
ヴァンスは彼女を見た。
「うん」
エイリンが笑う。
それで決まりらしい。
……
この二人、本当に変だ。
「ザカは?」
彼は口の中の干し肉を飲み込んだ。
「特にない」
「親父の顔でも見に戻るかもな」
少し驚いた。
「そのあとは?」
ザカはしばらく考えた。
「また、いろんな土地のものを食いに行く」
……
笑ってしまった。
「それでこそザカだね」
ザカは頷いた。
たぶん褒め言葉だと思っている。
最後に。
みんなの視線が前へ向いた。
アーロンは相変わらず馬車を走らせている。
誰も彼には訊かなかった。
答えがわかっていたから。
あの人は、歩き続ける。
行き着くところまで。
……
「コラは?」
エイリンが急に訊いた。
顔を上げる。
彼女があたしを見ている。
笑ってはいなかった。
少しだけ、言葉に詰まる。
「わからない」
エイリンは、それ以上訊かなかった。
ただ、また道のほうへ目を戻した。
家に帰りたいと言い出したのは、あたしだった。
本当にもうすぐ着くのに。
帰ったあと、何をするのかはわからない。
おじいちゃんに会ったら。
何を言えばいい?
この旅のことを。
どこから話せばいい?
多すぎる。
自分でもわからないくらい。
……
「あとどれくらい?」
エイリンがふいに訊いた。
前を見る。
計算しようとしたところで。
アーロンが先に答えた。
「一ヶ月くらい」
……
一ヶ月。
あと一ヶ月もある。
最初に浮かんだのは、それだった。
でもすぐに。
違う気がした。
たぶん。
あと一ヶ月しかない。
何も言わなかった。
なのにエイリンが、こっちへ身を寄せてきた。
「コラ」
「なに?」
彼女が手を伸ばして、あたしの頬に触れる。
「目、どうしたの?」
すぐに顔をそらした。
「砂が入った」
「そっか」
エイリンは手を引っ込めた。
少しして。
こっちへ少しだけ詰めてきた。
肩と肩がくっつく。
いつの間にか、ヴァンスが水袋を差し出していた。
あたしは彼を見る。
「目に砂が入っただけなんだけど」
「うん」
「なんで水?」
「洗う」
……
もういい。
受け取った。
ザカはまだ肉を食べている。
アーロンは前で手綱を握ったまま。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
でも、その日から。
みんなよく喋るようになった。
……
エイリンは、アーロンに地竜がどれくらい大きいのか訊き始めた。
「海竜王でも、あんなに大きかったじゃない」
荷台の縁に座ったまま。
両手をいっぱいに広げる。
「じゃあ地竜は?」
アーロンは少し考えた。
「とにかく大きい」
エイリンは不満そうだった。
「何でも見たことあるんじゃなかったの?」
「測ってない」
「じゃあ、見た感じどれくらい?」
アーロンは一拍置いた。
本当に頭の中で計算しているみたいだった。
「海竜王の十倍くらい」
エイリンが黙った。
数息あと。
むしろ目が輝いた。
「見たい」
……
やっぱり。
……
ザカはというと、北には何が食べられるのか、ずっと訊いていた。
アーロンは、あたしの知らない名前をいくつも挙げた。
最後に一つ付け足す。
「酒は有名だな」
ザカがすぐに訊く。
「うまい?」
「知らない」
「飲んだことあるんだろ?」
「ある」
「なのに知らないのか?」
アーロンは少し黙った。
「起きたら忘れてた」
……
ザカが、初めて本気で残念そうな顔をした。
……
あたしだって、何もしていなかったわけじゃない。
ある晩。
どういう流れだったか、エイリンが巨魔の話をし始めた。
だから、昔アーロンが巨魔の鼻の穴に隠れた話をしてやった。
アーロンは薪を足していた。
その手が止まる。
「誰から聞いた?」
「自分で言ってたよ」
「なんで俺はおまえにそんな話をしたんだ?」
「知らない」
あたしは思いきり笑った。
エイリンはもう横でひっくり返っている。
ザカも笑っていた。
ヴァンスまで、ほんの少し口元が動いた。
……
ほかにも、たくさん。
今まで訊かなかったことを。
なぜか、急にみんな訊きたがった。
夜、もう横になってから。
エイリンが隣から突然。
「そうだ」
なんて言い出して。
そこからまた長く話すこともあった。
ザカも、ときどき変なことを訊く。
ヴァンスは相変わらず口数が少ない。
でも、前より少し増えた。
アーロンも。
理由は訊かなかった。
誰も言わなかった。
ただ喋りながら。
進んでいった。
……
あの日までは。
匂いがした。
ほんのわずか。
風に混じっている。
最初は勘違いかと思った。
顔を上げる。
もう一度、鼻を利かせた。
焼いた肉の脂。
幼子の乳の香り。
日に干した毛皮。
それから薪の煙。
どれも、ありふれた匂いだった。
なのに一瞬で背筋が伸びた。
エイリンがこちらを見る。
「どうしたの?」
答えない。
立ち上がって。
前を見る。
丘の向こう。
何筋かの炊煙が、ゆっくり空へ上っていた。
もう少し進めば。
見慣れた木の柵。
屋根。
それから、昔は毎日のように通り過ぎていた古い木々。
……
毛皮の歌。
本当に、着いた。
馬車が自然と速度を落とした。
それともアーロンが緩めたのか。
わからない。
村の入口が近づくころには。
みんな馬車を降りていた。
あたしが一番前を歩く。
一歩進むたび、妙な感じがした。
懐かしい。
でも、少し違う。
村は前より少し大きくなっていた。
外側に家が何軒か増えている。
畑も広がっていた。
それに、見たことのない木の枠や輪がいくつもある。
中には、勝手にずっと回り続けているものまであった。
よく見ようとした、そのとき。
前から突然、声が飛んできた。
「コラ!」
顔を上げる。
一つの影が、そのまま突っ込んできた。
反応する暇もなく。
抱きつかれる。
「コラが帰ってきた!」
「ミカ?」
あたしは下を見た。
それから。
上を見る。
……
大きい。
いや。
別に、そんなに大きくはない。
昔と全然違うだけだ。
前は、振り向いただけで誰かにぶつかっていた小さな弾丸が。
今ではもう、あたしの肩に届きそうなところまで伸びている。
「なんでそんなに大きくなったの?」
ミカは、何言ってるのという顔をした。
「コラがずっと帰ってこなかったんでしょ!」
……
それもそうか。
その声で。
近くにいた人たちが、一斉に顔を上げた。
それから。
一人。
二人。
どんどん増えていく。
「コラ?」
「ほんとだ」
「帰ってきたのか?」
気づけば、人に囲まれていた。
耳を触る人。
肩を叩く人。
後ろのエイリンたちを、ずっと見ている人までいる。
一人ずつ顔を見る。
大半は、それほど変わっていない。
でも村は変わっていた。
知らない顔も何人か増えている。
それに、あの変な木の枠。
人だかりの向こうから。
阿伽流が歩いてきた。
ひと目でわかった。
あたしの前まで来る。
頭から足まで、じっと見る。
「ずいぶん大きくなったな」
あたしは耳を触った。
「そう?」
「そうだ」
阿伽流は、今度は後ろを見る。
「あれがおまえの仲間か?」
振り返る。
エイリンは、もう子どもたちに囲まれていた。
ザカは背が高すぎるせいで。
わざわざ他の人を呼びに走っている子までいる。
ヴァンスはエイリンの隣。
アーロンだけは少し離れた場所から、村を眺めていた。
「うん」
そう答えた。
阿伽流が頷く。
「なら、一緒に入れ」
……
大天幕へ向かう途中。
あたしの歩みは、どんどん遅くなった。
畑は本当に広くなっている。
昔、すぐ水が溜まっていた場所には。
今は一本の溝が掘られていた。
まだ建てかけの家も何軒かある。
木材は、どれもきれいに切り揃えられていた。
そばには、見たことのない金属の道具まで積んである。
訊こうとした、その前に。
大天幕の中から声がした。
「これは、うちの『風を追う者』じゃないか?」
足が止まった。
おじいちゃんが、中に座っていた。
あたしを見ている。
笑い方は、昔と同じだった。
……
気づけば走っていた。
荷物が飛んでいきそうになる。
「おじいちゃん!」
そのまま抱きつく。
勢いで、おじいちゃんの体が少し揺れた。
それでも笑っている。
「ゆっくりでいい」
ずっと抱いていた。
おじいちゃんの匂いがする。
木の匂い。
それから、少し懐かしい煙の匂い。
どっちも、まだここにある。
「おじいちゃん……」
顔を上げて見る。
「前よりずっと元気そう」
本当に。
あたしが出ていったころより、顔色がずっといい。
背筋も少し伸びていた。
おじいちゃんが、あたしの頭を撫でる。
「ああ」
少し間を置いて。
また笑う。
「おまえもな」
……
何も言えなかった。
ただ、もう一度抱きついた。
……
そのあと。
村がどうしてこんなに変わったのか、ようやく聞いた。
半年前。
北からドワーフの一団がやって来たらしい。
コラという獣人を探している、と。
族長がそこまで話したところで。
危うく水を吹き出すところだった。
「あたしを?」
「ああ」
「その人たちは?」
「とっくに帰った」
隣に座っていた阿伽流が、外を指す。
「おまえが見つからなかったから、代わりにあれを残していった」
「あれ?」
「さっきから、おまえがずっと見てたやつだ」
少し考える。
あの溝。
木の枠。
それから、建てかけの家。
全部、あのドワーフたちが教えたものだった。
話によると。
昔、一人の獣人に世話になったらしい。
そのあと巡り巡って、彼女が毛皮の歌の出身だと聞いた。
だから、様子を見に来た。
ついでに北方の農具や建て方を、いくつか村の人たちに教えていったという。
「図面も山ほど置いていったぞ」
阿伽流が眉をしかめる。
「読めるやつが、ほとんどいない」
……
いかにもドワーフらしい。
族長があたしを見る。
「おまえ本人はいないのに」
「外のものだけは、ちゃんと村まで持って帰ってきたんだな」
なんて返せばいいのかわからなかった。
でもエイリンが、すぐ横から口を挟んだ。
「コラはすごいんだよ」
……
振り向く。
彼女はもう、妙に胸を張って座っている。
「たくさんの人を助けたんだから」
黙ってて、と言いたくなった。
でも、おじいちゃんも阿伽流も笑わなかった。
ただ、あたしを見ている。
しばらくして。
おじいちゃんが頷いた。
「そうか」
また、あたしの頭を撫でる。
「なら、よかった」
……
なぜだろう。
すごいと褒められるより。
その一言のほうが、ずっと鼻の奥にきた。
……
その夜。
村の人が、ほとんど全員、焚き火の周りに集まった。
食べ物は、呆れるくらい出てきた。
ザカも最初は遠慮しようとしていた。
でも、誰もそんなものを求めていないとわかると。
すぐ二皿目に入った。
三皿目。
四皿目。
子どもたちは、みんなあたしたちの周りに集まっている。
外には何があるのか。
ずっと質問してきた。
エイリンは魔法の話。
ザカは食べられるものの話。
アーロンは、ときどき一言だけ足す。
ヴァンスは、ほとんど黙っている。
でもエイリンが話を盛りすぎると。
横から一言。
「違う」
するとエイリンが睨む。
あたしも。
たくさん話した。
遺跡。
海。
竜。
繁茂仙境。
白礁。
山。
それから、危うく食べられそうになった話もいくつか。
子どもたちは、聞けば聞くほど。
目を輝かせた。
途中で。
急に嫌な予感がした。
「先に言っとくけど」
「死ぬよ」
子どもたちが一斉に静かになる。
でもミカが訊いた。
「コラは生きてるじゃん?」
……
最近の子ども、なんでこんなに騙しにくいの。
……
そのあと数日。
みんな本当に村に残った。
エイリンは、あっという間に村の子どもたちと仲良くなった。
ほとんど役に立たない小さな魔法まで教え始めた。
そのせいで翌日には。
村のあちこちで風を吹かせる子が出てきた。
自分の尻尾を風でぼさぼさにした子までいる。
エイリンはずっと笑っていた。
ヴァンスは、一緒に狩りへ連れていかれた。
ザカは言うまでもない。
近くに何かうまいものがあると聞いたら。
次の日の朝には姿がなかった。
アーロンは、あちこちぶらついていた。
ときどき、おじいちゃんと話す。
ときどき、ドワーフたちが残したものを見に行く。
あたしは、旅の途中で集めた種を全部出した。
どれが植えられるか。
どれは干すのか。
どれとどれは近くに植えちゃいけないのか。
一つずつ説明していった。
瀬丹花おばあちゃんも、あたしが帰ってきたと聞いて。
わざわざ呼びつけてきた。
二人で、午後いっぱい薬草の話をした。
おばあちゃんは、たくさん訊いた。
あたしも、たくさん答えた。
昔は知らなかったけど。
今は知っていること。
おばあちゃんは知っているけど。
あたしは、まだ知らないこと。
最後には追い出された。
これ以上喋ってたら、晩飯を食べる時間までなくなるって。
……
楽しかった。
本当に。
自分の寝床で眠る。
昔から食べていたものを食べる。
朝、目を覚ませば村の音が聞こえる。
おじいちゃんもいる。
みんな、いる。
ただ。
ときどき、少し変だった。
道を歩いていると。
無意識に振り返って、エイリンを探してしまう。
肉の匂いがすれば。
ザカはもう向こうに行ったかな、と考える。
誰かが半日も何も言わないと。
ヴァンスが隣にいるんじゃないかって、ふと思う。
夜、窓から風が入ってくると。
アーロンは、また外に座ってるのかなと思う。
……
みんな村の中にいるのに。
あたし、何してるんだろう。
……
三日目の午後。
あたしは畑の脇にしゃがんで、新しく植えたものを見ていた。
いつの間にか、阿伽流がやって来た。
隣に立ったまま、しばらく何も言わない。
「どうした?」
顔を上げる。
「何が?」
彼があたしを見る。
「毛並みが悪いな」
すぐ耳を触った。
「どこが?」
「全部だ」
……
自分の体を見る。
どこも普通に見える。
「ノミでもいるのか?」
「いるわけないでしょ!」
阿伽流が笑った。
やっぱり。
わざとだ。
彼は隣にしゃがみ込んだ。
傾いていた苗を一本、まっすぐに直す。
少ししてから。
ようやく言った。
「最近、ずっと村の入口を見てるな」
手が止まった。
「そう?」
「そうだ」
……
下を向いて、また土をいじる。
「見てるだけ」
「うん」
しばらく黙っていた。
結局、先に口を開いたのはあたしだった。
「あたし、帰ってきたばっかりなのに」
「うん」
「おじいちゃんもいる」
「うん」
「みんなもいる」
「うん」
……
この人、うんしか言えないの?
だんだん腹が立ってきた。
「じゃあ、あたし何考えてるの?」
阿伽流が、こっちを見る。
「知るか」
「族長でしょ?」
「族長だって心は読めん」
……
それもそうか。
彼は手についた土を払う。
立ち上がった。
「ただな」
顔を上げる。
「おまえは帰ってきた」
固まった。
「え?」
「おまえは、もう帰ってきた」
それだけ言って。
阿伽流は横へ歩いていった。
本当に、何でもないことを口にしたみたいに。
あたしはその場に座ったまま。
彼の背中を見る。
それから村を見る。
……
帰ってきた。
本当に、帰ってきたんだ。
おじいちゃんにも会った。
みんなにも会った。
外で見つけたものも、ちゃんと持ち帰った。
あたしがいなくなったからって。
ここは消えたりしなかった。
それどころか。
前より、ずっとよくなっている。
……
畑の脇を風が吹き抜けた。
耳が少し動く。
ふと、昔のことを思い出した。
みんな、よくあたしのことを「風を追う者」と呼んでいた。
……
風を追う者、か。
……
四日目の朝。
アーロンが、あたしを訪ねてきた。
あたしは家の外で薬草を整理していた。
姿を見た瞬間。
最初に目に入ったのは、背中の荷物だった。
もう、まとめてある。
手が止まる。
「行くの?」
「ああ」
「もう?」
アーロンが、あたしを一度見る。
「もう四日だ」
……
四日。
もう四日も経ってたんだ。
立ち上がる。
村の入口を見る。
エイリンたちは、もうそこにいた。
荷物も全部縛ってある。
しかも、来たときより増えている。
村の人たちが、あまりにもいろいろ持たせたから。
干し肉。
布。
それから、どうして持っていくことになったのかよくわからないものまで山ほど。
一番多いのはザカだった。
かなり満足そうに見える。
遠くからエイリンが、あたしに気づいた。
手を上げる。
でも呼ばなかった。
……
アーロンも行かない。
あたしの隣に立っている。
少しして。
彼が急に口を開いた。
「前に言ったの、覚えてるか」
「おまえに一つ、頼みがあるって」
少し驚いた。
もちろん覚えている。
「うん」
アーロンがあたしを見る。
今度は笑っていなかった。
いつもみたいに、わざと腹の立つことも言わない。
「じゃあ、今言う」
……
なぜか。
急に緊張した。
アーロンは村の入口にいるみんなを一度見た。
それから、またあたしを見る。
「もう少しだけ、俺たちと一緒に歩かないか」
……
あたしは彼を見た。
すぐには何も言えなかった。
遠くで、誰かが木を叩いている。
ミカがどこかで叫んでいる。
屋根の上を風が抜けていく。
全部、聞こえているはずなのに。
耳に残っているのは、さっきの一言だけだった。
もう少しだけ、一緒に歩かないか。
……
そっか。
あたし、ずっと待ってたんだ。
誰かに決めてもらいたかったわけじゃない。
ただ。
誰かに訊いてほしかった。
俯く。
いつの間にか、笑っていた。
「行く」
思っていたより、小さな声になった。
アーロンが眉を上げる。
「何だって?」
顔を上げる。
「行く!」
今度はちゃんと大きな声で言った。
村の入口にいたエイリンにも聞こえたらしい。
彼女が目を丸くする。
「ほんとに?」
大声が飛んでくる。
「ちょっと待ってて!」
もう家に向かって走っていた。
……
実際。
持っていくものなんて、そんなにない。
鞄。
薬草。
何着かの服。
それから、どうしても捨てられないものを少し。
まとめて全部、突っ込んだ。
危うく扉まで閉め忘れるところだった。
外へ飛び出すと。
阿伽流が立っていた。
最初から知っていたみたいに。
手には、何かを持っている。
「これも持っていけ」
投げてきた。
慌てて受け取る。
腕輪だった。
丸く磨かれた小さな骨の珠を、濃い色の紐でいくつも繋いである。
真ん中には、毛皮の歌の印が彫られた小さな木片。
「なにこれ?」
「持ってけ」
「なんで?」
阿伽流が手を伸ばす。
あたしの手首に、それを結んだ。
「遠くまで行っても」
「自分がどこから来たか、忘れないようにな」
手首の木片を見る。
「忘れないよ」
「そうだといいがな」
……
少し笑った。
でもすぐ。
笑えなくなった。
「族長」
「ん?」
「あたし、帰ってきたばっかりなのに」
阿伽流は黙っている。
あたしは腕輪を見た。
「ごめん」
「また行っちゃう」
今度は。
彼もしばらく黙っていた。
それから手を伸ばして。
あたしの頭をぐしゃっと撫でる。
「おまえが帰ってきたのは」
「俺たちに会いたかったからだろ」
顔を上げる。
「今、出ていくのは」
彼が村の入口へ目をやる。
エイリンたちが、みんなそこにいる。
「あいつらと一緒にいたいからだ」
阿伽流が、またあたしを見る。
「何を謝ることがある?」
……
口を開いた。
でも、何も出てこなかった。
また鼻の奥がおかしくなる。
ほんと、やだ。
「みんなのこと、ちゃんと見ててね」
最後に、それだけ言った。
阿伽流が笑う。
「まず自分の面倒を見ろ」
彼は村を振り返る。
新しく建った家。
畑。
それから、遠くで回り続けている木の輪。
「ここは今、ちゃんとやれてる」
「おまえ一人いなくても」
「潰れやしない」
……
あたしは笑った。
阿伽流が肩を一つ叩く。
「行ってこい」
「風を追う者」
彼を見る。
それから、後ろの家を見る。
最後に。
強く頷いた。
「うん」
「行ってきます!」
……
村の入口まで、一気に走った。
エイリンが馬車の横に立っている。
あたしより嬉しそうに笑っていた。
ヴァンスは、いつもの顔。
でも、もう隣の場所を空けてくれている。
ザカは、また何か食べていた。
アーロンは前に座っている。
手には手綱。
「来た!」
急いで走りすぎた。
馬車へ飛び乗ったとき、足を滑らせかける。
アーロンが手を伸ばす。
そのまま、一気に引き上げられた。
「急がなくていい」
座り直す。
まだ息が切れている。
アーロンは前を見たまま。
何でもないことみたいに言った。
「みんな、ここにいる」
……
一瞬、動けなかった。
振り返る。
阿伽流は、まだ村の入口に立っている。
おじいちゃんも出てきていた。
ミカは、いつの間にか木の柵によじ登っている。
必死にこっちへ手を振っていた。
あたしも手を上げる。
大きく振る。
馬車がゆっくり動き出した。
村が、少しずつ小さくなっていく。
おじいちゃん。
阿伽流。
ミカ。
屋根。
畑。
やがて、遠くに煙が何筋か残るだけになった。
そのあと。
煙まで見えなくなった。
そこでようやく、前を向いた。
エイリンが隣にいる。
ヴァンスは前に座っている。
ザカは、もう村でもらった干し肉の包みを開けていた。
アーロンは手綱を握っている。
馬車は道に沿って。
ゆっくり進んでいく。
手首の木片に触れる。
耳元を風が抜けた。
今度は。
みんな、ここにいる。
この旅も、ここでひとまず終わりです。
実際に最後まで書き終えてみると、
やっぱり少し寂しいですね。
毛皮の歌を旅立ったコラが、
たくさんの場所を巡り、たくさんの人たちと出会い、
そして最後に、物語が始まった場所へ帰ってきました。
でも、コラの冒険はまだ終わっていません。
もしかしたら、いつかまた、
彼女に会える日が来るかもしれませんね。
そして、『独旅』の正伝もすでに構想を進めています。
語り方も、前日譚とは少し違ったものになる予定です。
タイトルについては……
まだ準備中です。
『独旅 ― 獣人の少女コラと、終わらない旅人アーロンの物語 ―』
は、僕が初めて書いた小説です。
今振り返ってみれば、
まだまだ未熟なところや、足りないところもたくさんあると思います。
でも、この一冊を書き終えたからこそ、
まだ学びたいことがこんなにあるんだと気づけましたし、
これからも書いてみたい物語がたくさんあることにも気づけました。
もし『独旅』を楽しんでいただけたなら、
感想や評価、アドバイスなどを残していただけるとうれしいです。
どんな言葉でも、楽しく読ませていただきます。
それでは、
次の『独旅』も楽しみにしていただければと思います。
ここまでずっと読んでくださって、
本当にありがとうございました。




