19-9 還流
あの白い霧の正体は、この白キノコだったのでしょうか?
あれほどのことを引き起こすなんて……
いったい、どれだけ生えているのでしょう?
こんなにたくさんのキノコを見るのは、あたしも初めてだった。
洞口から差し込む光が、奥まで伸びていく。
一面、白。
地面。
岩壁。
頭上から垂れ下がる石柱まで、全部覆われている。
傘が大きく育ったものもある。
何層にも重なって。
小さいものは、隙間へぎっしり詰まっていた。
エイリンが光の球を、さらに奥へ漂わせる。
白が現れる。
そして、もっと深い闇の中へ消えていく。
終わりなんてないみたいだった。
「入る?」
ザカは、もう刀を鞘へ戻していた。
ここには本当に、斬るようなものはなさそうだ。
あたしはしゃがむ。
足元のキノコを、よく見る。
傘は丸い。
指先で、軽く叩いてみた。
白い粉が、すぐ一層落ちる。
慌てて手を引っ込める。
外で拾ったものと同じだ。
ただ、ここは匂いがずっと濃い。
湿っている。
少し甘い。
しばらく吸っていると、胸が少し詰まる感じまでしてきた。
顔を覆う布を、きつく引き上げる。
「入ろう」
アーロンが、あたしをちらりと見る。
「専門家、先導頼む」
……
帰ったら絶対、仕返ししてやる。
……
あたしたちは一列になって、奥へ進んだ。
エイリンの光が、先頭を漂う。
ヴァンスが、もう一つ出すよう頼んだ。
一つは前。
もう一つは後ろ。
これなら、見えないところへ足を踏み外す心配はない。
奥へ行くほど。
地面が低くなっていく。
最初は普通に歩けた。
でも、そのうち地面が滑り始めた。
出っ張った石を選んで踏みながら、ゆっくり下りるしかない。
白いキノコも、どんどん増える。
場所によっては。
足一つ置く隙間すらなかった。
一面を跨ごうとしたけど。
靴先が、うっかり傘に当たった。
ぷふっ。
白い粉が、一気に舞い上がる。
あたしはすぐ息を止め、後ろへ下がった。
粉は軽い。
なのに、落ちるのは遅い。
光の中を、ずっと漂って。
ようやく少しずつ沈んでいく。
みんな足を止めた。
……
「触らないで」
あたしが言う。
ザカは、自分の横を見る。
ちょうど邪魔なキノコを押しのけようとしていたところだった。
手を戻す。
「じゃあ、どうやって歩くんだ?」
……
それは問題だ。
結局。
ゆっくり行くしかなかった。
本当に、ゆっくり。
踏める石があれば、そこを踏む。
どうしても場所がなければ。
ザカに刀の背で傘を押さえてもらう。
白い粉が落ちきるのを待って。
それから通る。
ただ。
あの粉が広がるたび。
あたしは、つい顔の布へ手をやってしまう。
これ一枚がなかったら。
今ごろ、どれだけ吸い込んでいたんだろう。
わからない。
知らないほうがいい。
……
もう洞口は見えなかった。
振り返っても、二つの光の球があるだけ。
その先は。
全部、闇。
アイラは最後尾を歩いていた。
何度も後ろを見ている。
「前は本当に気づかなかったの?」
エイリンが聞く。
アイラは首を振った。
「うん」
「避難するときは、みんな病人の世話で手いっぱいだったから」
彼女はまた、洞窟の奥を見る。
「こんなところまで来る人なんていないよ」
それもそうだ。
あのときは、全員を外へ連れ出せるかどうかさえわからなかった。
わざわざ山の下へ潜る人なんているわけがない。
顔を上げる。
前の光が、また一面の白いキノコを照らし出す。
多い。
本当に、多すぎる。
これ全部が、外へ白い粉を飛ばしていたなら。
風息谷の人たちも、よくあそこまで持ちこたえたと思う。
……
どれくらい歩いたのかわからない。
ふいに、音がした。
ぽたり。
小さい。
あたしは止まる。
後ろのエイリンが、危うくぶつかりそうになった。
「どうしたの?」
「しっ」
みんなも黙る。
ぽたり。
もう一度。
それから。
もっと奥のほうから、低い音が届いた。
水滴一つの音じゃない。
たくさんある。
遠くて。
洞窟の中を何度も曲がって響いてきたせいか。
くぐもって聞こえる。
「川?」
あたしが聞く。
アーロンが首を傾ける。
しばらく聞いて。
「あるな」
……
川がある。
なのに、ここまで来る間。
ちゃんと流れている水は、一度も見ていない。
あったのは、岩の隙間からたまに落ちる水滴くらい。
もう一度、前を見る。
なぜだかわからない。
急に、あの音がどこからするのか知りたくなった。
……
さらに下りていく。
空気は、どんどん湿ってきた。
顔の布まで少し湿っている。
この感じは、すごく嫌だ。
白い粉がくっついたら。
そのまま鼻の前に張りついている気がしてくる。
だから、しばらく進むたび。
外側の布を取り替えた。
アイラも、それを見て替える。
結局、みんな替えた。
アーロンだけは、最初の一枚のまま。
「替えないの?」
「まだ平気だ」
……
もういい。
どうせこの人は、何でも平気だ。
……
前のキノコの傘に、水滴がつき始めた。
一つ。
また一つ。
通り過ぎるとき、一滴に触れた。
水が傘を伝って流れ。
表面の白い粉を、一緒にさらっていく。
粉は舞わなかった。
すぐ小さな塊になって。
ぽちゃん。
横の水たまりへ落ちる。
あたしは止まった。
しゃがんで見る。
その塊は沈まない。
水面に浮かんだまま。
ゆっくり回っている。
細い枝で、ちょっと触ってみた。
かなり粘る。
枝を持ち上げると。
先端に、白いものが細く伸びてついてきた。
村の外で見たものと同じだ。
「どうしたの?」
エイリンが聞く。
「何でもない」
枝を捨てる。
ただ、少し変だと思っただけ。
こんなに水へくっつきやすいのに。
それでも浮いている。
もし、ここに昔、本当に川が流れていたなら……
前を見る。
水の音は、もうはっきり聞こえている。
たぶん、すぐ近くだ。
……
しばらくして。
ザカが急に止まった。
今度は、本当に急だった。
あたしは危うく背中へぶつかるところだった。
「どうしたの?」
返事はない。
ただ、手を上げる。
前を指した。
横から顔を出す。
道がない。
いや。
壁がある。
道を丸ごと塞いでいた。
……
違う。
あたしは上を見る。
これ、丸すぎない?
左から。
右まで。
前の通路を、きっちり埋めている。
表面は濃い灰色。
つるつるしている。
濡れた光を返しているところもあった。
深い皺が、何本も走っている。
一番おかしいのは。
キノコがないことだった。
一つもない。
振り返る。
あたしたちが歩いてきたところは。
地面も白い。
壁も白い。
石柱まで、キノコに覆われている。
ここだけ。
きれいさっぱり何もない。
白いキノコが、わざと避けて生えているみたいだ。
「何これ?」
エイリンが前へ寄る。
あたしにもわからない。
でも、石じゃないのは間違いない。
それでも手を伸ばした。
触る。
……
柔らかい。
しかも、温かい。
あたしはすぐ手を引っ込めた。
「アーロン」
彼はまだ後ろで、キノコを見ていた。
呼ぶと。
ゆっくり歩いてくる。
見上げて。
「お」
……
お?
「知ってるの?」
「ルフェンビ」
ザカが、目の前いっぱいのそれを見る。
「これ、獣なのか?」
「うん」
あたしはもう一度、その壁を見る。
「頭は?」
アーロンが反対側を指した。
「向こう」
……
誰も何も言わなかった。
あたしは、また上を見る。
四、五メートル。
たぶん、それ以上。
丸い。
丸すぎる。
水路を、その体で完全に塞いでいる。
ということは。
今あたしたちの目の前にあるのは。
お尻だけ。
アイラが少し後ろへ下がる。
「どうしたの、これ?」
アーロンが、しばらく見た。
「寝てる」
少し間を置いて。
「たぶん」
……
たぶん?
ザカは、もう手を伸ばしていた。
叩いて確かめるつもりらしい。
アーロンが、その手首をつかむ。
「やめとけ」
「なんで?」
「起きたら動く」
あたしはルフェンビを見る。
それから、横の岩壁を見る。
急に、その言葉がものすごく怖く聞こえた。
……
しばらく、みんなで立って待った。
灰色の壁が、本当に動いた。
ゆっくり。
膨らむ。
止まる。
それから、またゆっくり沈む。
ふうう……
動物から出る音とは思えないほど低い。
洞窟そのものが、息を吐いたみたいだった。
エイリンの目が輝く。
「どれくらい大きいの?」
アーロンが、手で大きさを示した。
「だいたい、こんなもん」
……
全部こんなに丸いの?
太りすぎでしょ。
「何を食べるの?」
あたしが聞く。
アーロンは後ろを指した。
一面の白いキノコ。
あたしは固まる。
「これ?」
「キノコなら何でも食う」
「前に見たことがある」
アーロンがしゃがむ。
ルフェンビの横で、ほとんど潰れかけているキノコを見る。
「水面に浮いてるものなら、何でも食ってた」
あたしは何も言わなかった。
水。
白いキノコ。
ルフェンビ。
もう一度、向こう側の音へ耳を澄ます。
水音は、すぐそこにある。
近い。
近すぎる。
「前からここに住んでたの?」
「たぶんな」
「どれくらい?」
アーロンは首を振る。
「知らない」
そのまま、ルフェンビを軽く叩いた。
あたしは慌てて止める。
「触らないでってば」
「ルフェンビは、あまり場所を変えない」
彼は言った。
「水が干上がらない限り」
「じゃあ、なんでこんなことになってるの?」
「寝てるから」
アーロンは、もう一度それを見る。
それから教えてくれた。
ルフェンビは十数年に一度。
長い眠りにつく。
何年も起きないこともある。
眠る前には。
大量の水を飲む。
本当に、たくさん。
水を体の中へ溜め込む。
だから、今みたいになる。
大きな岩みたいに。
丸々と膨らむ。
ただ、昔は。
水路の中で寝ていても。
水は横を通れたらしい。
……
あたしは、急にわかった。
白いキノコが突然生えたんじゃない。
地下の水が消えたわけでもない。
ずっと、両方ここにあった。
白いキノコが生える。
水がそれを流す。
水面へ浮かぶ。
それをルフェンビが食べる。
ずっと、そうだった。
こいつが眠るまでは。
しかも、ちょうど水路を丸ごと塞ぐくらい太って。
水が通らなくなった。
こいつも食べなくなった。
白いキノコだけが、少しずつ洞窟いっぱいに増えた。
最後には。
外まで白くなった。
「水、こいつに塞がれてる」
あたしが言う。
誰も返事をしなかった。
たぶん、みんなもうわかっていた。
目の前の巨大なお尻を見る。
なんとも言えない気分になった。
風息谷では、あれだけの人が病気で死んだ。
レノたちは故郷を離れた。
村は一年も空っぽになった。
その原因が。
山の下で。
ただ、太りすぎた何かが寝ていただけ。
……
馬鹿げてる。
……
「で、どうする?」
ザカが聞く。
「起こすか?」
アーロンは首を振った。
「いきなり起こすのは、やめたほうがいい」
「なんで?」
アーロンは見上げる。
ルフェンビを見る。
「お前が寝てるとき、誰かに刀で尻を叩かれたら?」
ザカは考えた。
「先に殴る」
……
「じゃあ、どうするの?」
エイリンが聞く。
今度こそ。
誰も答えなかった。
……
あたしたちは、ルフェンビの横を探し始めた。
左。
ない。
右。
こっちも塞がっている。
ザカは、とうとう地面へ伏せた。
腹の下に隙間がないか、覗こうとする。
頭を下げた瞬間。
ルフェンビが、ふうっと息を吐いた。
大きなお尻が、少し後ろへ押し出される。
ザカはすぐ頭を引っ込めた。
……
「危なかった」
「わかってるならいいけど」
……
最後に見つけたのは、ヴァンスだった。
横の少し高い岩へ立ち。
岩壁を叩く。
あたしたちは上を見る。
そこに、細い裂け目があった。
ルフェンビの上に隠れている。
外側には、砕けた石が何個も引っかかっていた。
下からじゃ、ほとんど見えない。
エイリンが光の球を近づける。
どうにか、少し先まで照らせた。
その奥は深い。
途中で曲がって。
そこから先は、光が届かない。
「通ってる?」
あたしが聞く。
エイリンは手を近づけた。
少しだけ、風を送り込む。
最初は何もない。
しばらくして。
頬へ、急に冷たい風が触れた。
湿っている。
裂け目の中から吹き返してきた。
通ってる。
アーロンが上を見る。
裂け目を見る。
それから下へ目を落とす。
あたしを見る。
……
違う。
あたしじゃない。
籠だ。
あたしはすぐ抱き込む。
「駄目」
ザカが振り返る。
「何が?」
「駄目なものは駄目」
エイリンも、アーロンの視線を追う。
それから。
なるほど、って顔をした。
籠の中では。
パフが果実を一つ抱えて齧っていた。
四匹の子どもも、すぐ横にぎゅうぎゅうに詰まっている。
外のみんなが自分を使おうとしてるなんて、まるで知らない。
あたしは籠を背中側へ回した。
「考えないで」
アーロンは、少しも慌てない。
「何も言ってない」
「考えてたでしょ」
「うん」
……
うん、じゃない。
本気で、こいつを裂け目へ詰め込みたくなった。
……
問題は。
どう見ても。
本当にパフくらいしか通れそうにないことだった。
あたしたちは、かなり時間をかけて確かめた。
エイリンは何度も風を送り込む。
ヴァンスは細い枝を差し込んで探る。
ザカは、とうとう縄まで持ってきた。
反対側へ抜けられないか、試そうとしたらしい。
もちろん無理だった。
裂け目は曲がりすぎている。
ただ。
途中に、そのまま下へ落ちる場所がないことだけは確認できた。
あたしはパフを抱いた。
それでも、行かせたくない。
本人は、まるで怖がっていない。
果実を食べ終わって。
今は手を舐めている。
……
「本当に他の方法ないの?」
あたしが聞く。
アーロンはルフェンビを見る。
あの壁が、またゆっくり膨らむ。
そして沈む。
「自分で起きるまで待つ」
「どれくらい?」
「知らない」
「……」
「数か月」
「……」
「何年か」
「黙って」
アーロンが笑った。
……
結局。
行ってもらうしかなかった。
あたしはパフを両手で持ち上げる。
手のひらに座ったパフが。
首を傾げて、あたしを見る。
こんなことになるなら。
もっといろいろ教えておけばよかった。
今さら気づく。
「行く」「置く」「戻る」だけでも。
パフには、たぶん難しい。
アーロンが、白いキノコを小さく一つ取った。
乾いた葉で包んで。
外を縛る。
「この匂いなら、よく知ってる」
あたしは彼を見る。
「ルフェンビが?」
「うん」
「ずっとこれ食ってるからな」
その包みを、パフへ渡す。
匂いを嗅いで。
すぐ齧ろうとした。
「食べるんじゃないの」
パフが、あたしを見る。
「持ってって」
裂け目を指す。
それから、ルフェンビの向こう側を指した。
「置く」
「それから戻ってくる」
パフは、また首を傾げた。
……
うん。
たぶん、わかってない。
岩壁へ下ろす。
パフは一度、あたしを振り返った。
お尻を軽く押す。
「行って」
今度はわかったらしい。
パフは石へ爪をかけ。
ゆっくり裂け目へ潜っていく。
最初は尻尾が見えていた。
もう少し。
尻尾の先だけになる。
最後には。
消えた。
……
中から、石を引っかく音がする。
かり。
かり。
小さい。
少しずつ、奥へ遠ざかっていく。
あたしは下に立ったまま。
ずっと聞いていた。
音が消えるまで。
……
「パフ?」
返事はない。
当たり前だ。
そもそも喋れない。
なのに、なんで呼んだんだろう。
……
エイリンが隣に立つ。
「大丈夫だよ」
「うん」
口では答える。
目は、まだ裂け目を見たまま。
……
長い。
何も起きない。
ルフェンビは、まだ眠っている。
ふう……
ふう……
パフ、道を間違えたんじゃないよね。
あの裂け目、途中で本当は通れなかったとか。
それとも……
考えない。
顔を上げる。
「もう少し待つ」
誰も急かさなかった。
また、しばらく経つ。
裂け目の奥から、急に音がした。
遠い。
かり。
耳が、ぴんと立つ。
「音した」
エイリンも近づく。
でも。
それきり。
……
「パフ?」
やっぱり返事はない。
あたしは、もう登ろうとしていた。
アーロンが手を出して止める。
「待て」
「何を?」
答えない。
ただ、前を見る。
あたしも見る。
ルフェンビの呼吸が止まっていた。
……
本当に。
さっきまで規則正しく膨らんでいた灰色の皮膚が。
動かない。
一息。
二息。
あたしは無意識に、後ろへ下がった。
次の瞬間。
轟っ!
灰色の壁が、いきなり横へぶつかった。
洞窟まで揺れる。
あたしは危うく転びそうになった。
頭上から白い粉が大量に降ってくる。
砕けた石まで混じっていた。
「下がれ!」
ヴァンスが叫ぶ。
みんな一斉に後ろへ下がる。
拳くらいの石が。
さっきまであたしが立っていた場所へ落ちた。
ぱんっ。
白いキノコの中へ転がっていく。
でも、頭の中にあるのは一つだけだった。
「パフ!」
ルフェンビが、また動く。
今度はもっと大きい。
体をこちらへ回そうとしているみたいだった。
でも、まったく回れない。
丸々と膨らんだ体が、岩壁の間へ完全に挟まっている。
石が、ぎぎぎ、と鳴る。
呼吸も一気に荒くなった。
ふうっ。
ふうっ。
息をするたび。
周りの白いキノコまで揺れる。
「びっくりしたのかな?」
アイラが聞く。
「たぶん」
アーロンの声も低い。
「触るな」
ザカは、もう刀へ手をかけていた。
その言葉を聞いて。
ゆっくり手を離す。
エイリンが光の球を後ろへ引いた。
洞窟が少し暗くなる。
見えるのは、ルフェンビの背中に浮かぶ濡れた光だけ。
また一度、体をぶつける。
どんっ!
今度は地面まで揺れた。
あたしの尻尾が、全部逆立つ。
このまま暴れ続けたら。
本当に崩れる。
でも、パフはまだ向こう側だ。
置いていくなんてできない。
……
「アーロン」
「うん」
「こいつ、このまま挟まって死んだりしない?」
「わからない」
……
ほんと役に立たない。
……
ルフェンビは、それ以上ぶつからなかった。
止まる。
長いこと、荒い息を吐く。
そのうち。
体の皺が動き始めた。
最初は、また暴れるのかと思った。
でも。
深く折れ込んでいた皮膚が。
ゆっくり開いていく。
内側は、もっと濃い黒灰色。
濡れて光っている。
あたしが見ていると。
ぶしゅっ!
突然、中から水が噴き出した。
「うわっ!」
あたしは後ろへ跳ぶ。
水がそのままザカの脚へぶつかった。
彼は足元を見る。
まだ何が起きたかわかってない顔。
その横から。
二本目が噴き出す。
それから。
三本目。
四本目。
ルフェンビの全身から、急に水が漏れ始めたみたいだった。
開いた皮膚の皺から。
水が、どんどん流れ出す。
丸い腹を伝って。
下へ落ちる。
あっという間に。
地面が全部濡れた。
あたしは、その灰色の壁を見る。
小さくなっている。
ほんの少し。
でも、さっきまで岩壁へぴったり張りついていたところに。
本当に隙間ができ始めている。
「水、出してるの?」
思わず聞いた。
誰も答えない。
見ればわかる。
……
そんなことできるんだ。
寝る前、いったいどれだけ飲んだの?
水は、どんどん増える。
すぐに靴が浸かった。
ルフェンビの体も、少しずつ縮んでいく。
完全に塞がっていた両側に。
隙間が現れ始めた。
細い。
でも、向こう側の闇が見える。
水も。
……
あたしは、はっと顔を上げた。
「パフ!」
いない。
聞こえるのは水音だけ。
向こう側から。
どんどん大きくなる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
隙間は、もうできてる。
戻ってこられるはずなのに。
なんで来ないの?
「パフ!」
やっぱり、いない。
一歩、前へ出る。
アーロンが、あたしの襟首をそのままつかんだ。
「待て」
「まだ向こうにいるの!」
「わかってる」
「じゃあ、なんで――」
ざあっ!
ルフェンビの横から、いきなり水が噴き出した。
言葉が、そこで全部止まる。
みんな横へ避けた。
水が地面へぶつかり。
白いキノコを何枚か巻き込んで、下へ流していく。
あたしは水を見る。
いない。
……
パフじゃない。
二本目の水が来る。
さっきより大きい。
心臓が、一気に沈んだ。
「パフ……」
そのとき。
上の裂け目から、突然大量の水が噴き出した。
中で何かが転がっている。
茶色。
小さい。
「パフ!」
あたしはアーロンの手を振りほどいて走った。
その小さな塊が、水と一緒に滑り落ちてくる。
一度、岩壁へぶつかる。
もう一度、くるりと回る。
あたしは、そのまま飛び込んだ。
両手で受け止める。
勢いのまま、水へ転びそうになった。
後ろからザカが、あたしをつかんでくれた。
パフは、ちゃんと手の中にいる。
ずぶ濡れ。
毛が全部、体へ張りついている。
急に、ものすごく小さく見えた。
数息。
パフは、きょとんとしていた。
まだ自分がどこにいるのかわかってないみたいに。
それから、すぐあたしの胸へ潜り込む。
「もう大丈夫」
慌てて抱きしめる。
「大丈夫。戻ってきたよ」
パフは、あたしの服をつかむ。
ずっと中へ潜ろうとする。
籠の中の四匹も騒ぎ始めた。
あたしはパフを戻す。
五匹が、すぐ一つの塊になった。
ようやく息ができた。
……
「専門家」
アーロンが、また呼ぶ。
あたしは顔も上げない。
「何!」
「本当に行くぞ」
……
振り返る。
ルフェンビは、もう一回り小さくなっていた。
さっきまで壁そのものみたいに丸かった体が。
ようやく動けるくらいになっている。
まず少し、後ろへずれる。
止まる。
もう一度。
岩が重く擦れる音がした。
空いたところから、水がどんどん入り込んでくる。
細い流れが。
何本か。
それから、一気に広がる。
ルフェンビはまだ後ろへ下がる。
向こう側の、もっと広い洞室まで下がって。
ようやく。
ゆっくり体を回し始めた。
そこで初めて、頭が見えた。
やっぱり丸い。
思っていたより、もっと丸い。
目は二つとも小さい。
頭の上の左右についている。
鼻の穴も高いところにある。
なのに、口だけは異様に大きい。
吻は、広くて平たい。
口の縁には、細かい硬い板がびっしり並んでいる。
見ただけで。
よく食べそうだとわかる。
半分ほど回ったところで。
あたしたちに気づいた。
止まる。
……
ザカの手が、また刀の柄へ行く。
ヴァンスも動かない。
エイリンが光の球を近づける。
ルフェンビが一度、瞬きをした。
もう一度。
たぶん、まだ完全には目が覚めていない。
鼻が、ぴくっと動く。
急に、横へ頭を向けた。
洞窟いっぱいの白いキノコ。
……
気のせいかもしれないけど。
目が、少し輝いた気がした。
その顔。
見たことがある。
ザカが肉の大皿を見たとき。
あれと同じ。
次の瞬間。
ルフェンビが前へ、ぐっと体を押し出した。
口を開ける。
ばりっ。
白いキノコが、ごっそり消えた。
もう一口。
また大きく減る。
傘が口元へ触れた瞬間。
白い粉は、透明な粘液へすぐ張りついた。
まったく舞わない。
下を向いて食べるときには。
鼻の穴も細い二本の隙間みたいに縮んでいる。
速い。
しかも、きれいに食べる。
そりゃ、これを飯にできるわけだ。
ザカが、しばらく見ていた。
「俺より食うな」
……
それは、もう少し観察してから決めたほうがいいと思う。
そのとき。
足元が、急に冷たくなった。
下を見る。
水。
さっきまで。
ルフェンビの後ろから細い流れが何本か出ていただけだった。
今はもう。
膝近くまで来ている。
しかも、まだ上がってくる。
顔を上げる。
ルフェンビが、また横へ一歩ずれた。
さっきまで体で塞いでいたところが。
空いた。
……
アーロンの顔色が変わる。
「走れ!」
ざあっ!
時々、世界ってこういうものなんですよね。
ルフィンビにとっては、ただ眠っていただけ。
でも、風息谷の人たちにとっては災難になってしまった。
なんとも皮肉な話……ですよね?
次回——
第十節 別れ




