19-7 英雄
懐かしい友人。
一緒にいたのは一日にも満たなかったけれど、
みんな、今はどうしているんだろう……?
草原は、まだ終わっていなかった。
ただ、一日ごとに減っていった。
最初は。
道の両側に、見渡すかぎりの緑があった。
ときどき、遠くに獣の群れが見えた。
風が吹くと。
草の波が、山のふもとまで押し寄せた。
もっと西へ行くと。
地面に石が混じりはじめた。
最初は、ぽつぽつとだけ。
そのうち、どんどん増えた。
草も一緒に短くなる。
馬車は登りはじめた。
ゆっくり。
急すぎる坂では。
あたしたちまで、みんな降りて歩いた。
遠くで空に張りついていた山は。
一日ごとに高くなった。
最初の日は、灰青色の影だった。
数日後には。
中腹の樹林帯が見えるようになった。
さらに進むと。
岩壁の白い切れ目まで見えた。
ある夕方。
あたしは遠くを指した。
「そこって……」
アーロンは、あたしの指の先をちらりと見た。
「うん」
一言だけ。
よかった。
少なくとも、あたしの記憶違いじゃない。
そばでザカが顔を上げる。
「歩いたことある?」
「うん」
あたしはうなずいた。
「前に」
エイリンも、あの山を見た。
「高い?」
「すごく」
「何があるの?」
あたしは考えた。
「風」
エイリンは待っている。
「それから?」
「もっと風」
彼女はあたしを見た。
どうやら、その答えでは不満らしい。
嘘じゃない。
あのころ、山の上には本当に風しかなかった。
……
草原を抜けてから。
あたしたちは、さらに二週間歩いた。
とうとう馬車では進めなくなった。
前の道は、ますます細くなる。
ところどころ、踏み固められた土の筋が二本だけだった。
最後には。
小さな集落に馬車と馬を置いた。
それからは、自分たちの足で行く。
幸い、残りの道は思ったほど遠くなかった。
その日の午後。
低い木の生えた坂を越えた。
アーロンが、急に足を止めた。
前に煙があった。
野火じゃない。
一本。
二本。
坂の向こうから立ちのぼっている。
風がこっちへ吹いてきたとき。
あたしにも匂いが届いた。
薪。
煮炊きの匂い。
家畜。
伐ったばかりの木。
それから、人。
たくさんの人。
「着いた?」
あたしは聞いた。
アーロンは、道中ずっとめくりすぎてぼろぼろになりかけた地図を取り出した。
一目見る。
「たぶん」
なぜだかわからない。
あたしは少しだけ足を速めた。
一年。
あの遺跡で別れてから。
もう一年以上だ。
レノ。
アイラ。
それから、いつも自分で損をしたとぼやいていたあのドワーフ。
いま、どうしているんだろう。
坂を下る。
集落が、ゆっくり見えてきた。
思ったより大きい。
でも、ちゃんとした村には見えなかった。
家はきれいに並んでいない。
木の家もある。
石を半分だけ積んだ家もある。
屋根の色も、ばらばらだ。
新しい木。
古い板。
乾いた草。
どこから外してきたのか、扉板まで何枚かあった。
よそから運んできたものを。
無理やり寄せ集めて、家にしたみたいだった。
道の脇には、掘られて間もない排水溝がある。
斜面には畑がいくつも開かれていた。
まだ小さい。
低い芽しか出ていない畑もあった。
もっと高いところから水が引かれている。
新しく掘った浅い水路を流れていた。
その横で誰かが洗濯をしている。
子どもたちは鶏を追いかけていた。
鶏のほうが、子どもたちより速い。
よかった。
少なくとも、ここは疫病の土地には見えない。
あたしは少しだけ、力を抜いた。
近づくと。
人々があたしたちに気づきはじめた。
主にザカに。
仕方ない。
あいつは、本当に目立ちすぎる。
手を止めて。
何度かこっちを見る人もいた。
でも、誰も止めなかった。
アーロンは道端で柵を直している人を見つけた。
レノのことを聞く。
その人は、すぐ顔を上げた。
「レノ?」
「うん」
「英雄のレノ?」
あたしは少し固まった。
アーロンは、あまり反応しない。
「そうだ」
その人は坂の上を指した。
「たぶん、あっちにいる」
「さっきまで、老タッカーの屋根を直してた」
言うと、また木の杭を打ち始めた。
「英雄のレノ」なんて、ここではごく普通の名前みたいに。
あたしたちは、指されたほうへ歩いた。
あまり行かないうちに。
エイリンが急に止まった。
危うくぶつかるところだった。
「どう――」
彼女は、いきなり走り出した。
その先を見る。
坂の下。
洗ったばかりの布を籠いっぱいに抱えたエルフが、こっちへ歩いてきていた。
金色の長い髪は、前より少し伸びている。
着ているものも、あたしの記憶にある、ほとんどほどけかけた魔法使いのローブじゃない。
ごく普通の服だった。
袖は肘までまくっている。
手にはまだ水がついていた。
アイラ。
彼女もエイリンを見た。
全身が、その場で止まった。
籠が手から滑りかける。
「お姉ちゃん?」
エイリンは、もう駆け寄っていた。
いきなり抱きつく。
「アイラ!」
半分の坂に聞こえるくらい大きな声だった。
アイラはぶつかられて、二歩後ろへよろめいた。
籠から布が一枚落ちる。
手をどこに置けばいいのか、まるでわからない顔をしていた。
最後には。
ゆっくり抱き返した。
「お姉ちゃん……」
声は小さい。
でも、ちゃんと笑っていた。
エイリンは、もっと強く抱きしめる。
「無事だった」
「うん」
「本当に無事だった」
「うん」
「わたしは大丈夫」
アイラは、エイリンが次に言うことをたぶんわかっていた。
先に遮った。
そこでようやく、エイリンは少しだけ腕をゆるめた。
それでも両手は、妹の肩をつかんでいる。
頭から足まで見る。
自分で確かめなきゃ気がすまないみたいに。
「痩せた」
アイラは彼女を見る。
「お姉ちゃんも」
「わたしは痩せてない」
「痩せてる」
「痩せてない」
……
うん……やっぱり姉妹だ。
ヴァンスが歩いてきた。
アイラへ一度うなずく。
アイラもうなずき返した。
多くは言わない。
それから。
アイラは、ようやく後ろにいる者たちを見た。
まず、あたし。
次にザカ。
最後に。
アーロン。
顔の笑みが、少し止まった。
消えたわけじゃない。
ただ、ゆっくり薄くなった。
「あなたたち……」
アーロンが前へ出る。
「久しぶりだ」
アイラは彼を見た。
数呼吸してから、ようやく言う。
「本当に来たんだ」
アーロンは笑わなかった。
「一年遅れた」
あたしの胸も、一緒に沈んだ。
高原で。
あたしたちは約束した。
手元のことが片づいたら。
風息谷へ行くと。
最後には。
海。
鉄港。
ひとつ終わる前に、またひとつ。
本当にこの道を歩き出したときには。
あまりに時間が過ぎていた。
アイラは、落ちた布を拾うためにうつむいただけだった。
泥を払う。
「待ってなかった」
ごく普通の一言だった。
あたしたちを責めていない。
許しているわけでもない。
だって、どちらも要らないみたいだった。
あのとき。
彼女たちは、待てるはずがなかった。
アーロンは彼女を見る。
最後には、一度うなずくだけだった。
「レノは?」
アイラの手が止まった。
沈黙が、さっきより長い。
エイリンが気づく。
「どうしたの?」
アイラは目を上げた。
まず周りを見る。
道にはまだ人がいる。
遠くで、誰かが子どもを家に呼んでいた。
彼女は横へ数歩行った。
あたしたちもついていく。
ほかの人から少し離れてから。
ようやく口を開いた。
「生きてる」
あたしの胸は、まずほどけた。
でも、次の言葉が来ない。
アイラは籠の縁を握った。
指の節が少し白くなる。
「それに、元気そうに見える」
エイリンが眉を寄せた。
「見える?」
アイラは坂の上を見た。
「人の前では」
風があたしたちのあいだを通った。
籠の濡れた布が一枚、めくれた。
彼女は押さえた。
「もう、もちそうにない」
……
何を言えばいいのか、急にわからなくなった。
ここは、明らかに大丈夫そうなのに。
人がいる。
家がある。
畑がある。
子どもがいる。
鶏までいる。
「何があったの?」
エイリンが低く聞いた。
アイラは、すぐには答えなかった。
「先に会いに行こう」
彼女は言った。
「自分たちで見て」
……
アイラについて、坂を上った。
途中。
何人もの人が彼女に声をかけた。
アイラは、ひとりひとりに返事をする。
屋根を増し張りしている木の家の近くまで来ると。
上から叩く音がした。
とん。
とん。
とん。
あたしは見上げた。
屋根の上に、一人座っている。
袖をまくり。
手には槌。
片足は横木を踏み。
反対側には板が何枚か積んであった。
記憶より痩せている。
髪もずっと伸びていた。
顎には、剃り残した無精ひげが一周している。
でも、間違いなくレノだった。
下では老人が梯子を支えていた。
何度も声をかけている。
「左にも隙間があるぞ」
「見えてる」
「昨日の夜、漏ったんだ」
「それは反対側だ」
「こっちも漏る」
レノは少し止まった。
老人を見下ろす。
「じゃあ、なんで昨日まとめて言わなかった?」
老人は楽しそうに笑った。
「お前が逃げると思ってな」
レノも笑った。
「今日も逃げる」
「なら先に直せ」
「わかってる」
あたしは下に立ったまま。
しばらく呆けていた。
……
これが、もうもちそうにないってこと?
レノは、あと二度叩いた。
そこで下に急に人が増えたのに気づく。
見下ろした。
最初にアイラ。
次にエイリン。
止まる。
それから、あたし。
ザカ。
アーロン。
槌が空中で止まった。
なかなか、下りてこない。
「……お前たち?」
レノは、すぐ屋根から下りてきた。
老人が何度も、ゆっくりしろと叫ぶほど速い。
最後の二段は、もう飛び降りた。
地面に着いてから。
最初にアーロンを見た。
それから、あたしとザカ。
確かめるみたいに。
最後に。
笑った。
「本当に来たんだな」
声は、前とあまり変わらない。
むしろ、前より落ち着いている。
アーロンが言った。
「遅れた」
レノは首を振る。
「来たなら、それでいい」
それだけだった。
説明を求めない。
なぜ遅れたのかも聞かない。
エイリンのほうを向く。
「君がエイリンだな?」
エイリンが答える前に。
アイラが言った。
「わたしの姉」
レノは小さく笑う。
「見ればわかる」
エイリンが、すぐ聞いた。
「どこで?」
レノは彼女を見た。
それからアイラ。
少し考える。
「わからない」
「でも、わかる」
エイリンは、明らかに不満そうだった。
でも追及する暇はない。
老人が横から呼んでいる。
「レノ」
「屋根」
「わかってる」
レノは振り返る。
それから、またあたしたちを見た。
「少し待っててくれ」
そして本当に、また登っていった。
……
あたしはアイラを見た。
アイラも、あたしを見る。
何も言わなかった。
たぶん、あたしが何を考えているかわかっている。
どこがおかしい?
壊れかけているようには、どこにも見えない。
……
レノは、あたしたちを長く待たせなかった。
最後の板を直し。
老人の梯子まで家の裏へ運んだ。
老人は何度も引き留めて。
夜は食べに来いと言った。
レノは笑って頷く。
でも十歩も行かないうちに。
また誰かに呼び止められた。
「レノ!」
向こうでは。
女の人が大きな木桶を抱えている。
底が割れていた。
レノは止まった。
「また壊れた?」
「前のとは違うわよ」
「君たち、いくつ桶があるんだ?」
女の人は彼をにらんだ。
レノは笑って、受け取る。
「あとでな」
そこで、女の人もあたしたちに気づいた。
「友達?」
「うん」
目が、いきなり明るくなった。
「外から来たの?」
「遠いところから」
「じゃあ、夜はうちに食べに来なさいよ」
レノが答える前に。
女の人は、もうあたしたちを見ていた。
「知らないでしょ?」
彼女は肘でレノをつついた。
「この人、うちの英雄なのよ」
レノの顔には、まだ笑みがあった。
「そう呼ぶなって」
女の人は、まるで聞かない。
「この人がいなかったら――」
「桶、割れてるんだろ?」
レノは、すぐ言葉を切った。
「まだ言うなら直さない」
「はいはい」
女の人は笑って行った。
レノは木桶を抱えたまま。
やっぱり笑っていた。
本当に、ただ照れているだけみたいに。
でも、その笑みはすぐ消えた。
最初からなかったみたいに、早く。
……
戻る道でも。
さらに二人がレノを呼び止めた。
一人は水路のことを聞いた。
もう一人は、明日、山へ石を運びに行くかと聞いた。
彼は全部引き受けた。
どの家に道具が足りないか。
どの道が歩きにくいか。
どの子が昨日また熱を出したか。
全部知っていた。
小さな女の子が、後ろから走ってきた。
レノの脚に抱きつく。
「英雄お兄ちゃん!」
レノの体が、一瞬だけ固まった。
本当に、一瞬だけ。
それから下を見る。
その子を抱き上げた。
「誰がそう呼べって教えた?」
女の子は遠くを指した。
男の人が、すぐ背を向ける。
何も見ていないふりをしていた。
レノはため息をついた。
「真似するな」
「なんで?」
「いい呼び方じゃない」
「いいよ」
女の子は本気だった。
レノは、どうしようもない。
地面に下ろした。
頭を撫でる。
「家に帰れ」
走っていく前に。
彼女はやっぱり一度叫んだ。
「英雄お兄ちゃん!」
レノは振り返らなかった。
片手を上げて。
振っただけ。
……
あたしは、アイラの言った意味がわかりはじめた。
具合が悪そうだからじゃない。
その反対だ。
あまりにも、ちゃんとして見えるからだ。
……
夜。
村の人たちは、あたしたちのために無理やり一軒の空き家を空けてくれた。
空き家と言っても。
実際は半分しかできていない。
片側の壁からは、新しい木の匂いが強かった。
でも、寝床がある。
屋根もある。
それで十分だった。
夕食は、たくさんの人が一緒に持ってきた。
ザカでさえ、珍しく足りないと文句を言わないくらい。
誰かがパンを持ってくる。
誰かが肉のスープを持ってくる。
別の誰かは、ぐずぐずになるまで煮た豆を大きな鉢で運んできた。
みんな、ついでみたいに聞く。
「レノは?」
アイラはいつも答えた。
「知らない」
最初は、本当にそうなのだと思った。
三人目が聞き終えたとき。
彼女はただ、彼の代わりに探してやりたくないのだと気づいた。
レノは、結局来た。
ずいぶん遅く。
入ってきたとき。
髪には木くずがいっぱいついていた。
手にはまだ、直した木桶を持っている。
「まだ食える?」
ザカは机を見る。
「少し」
本当は、たくさんある。
レノは笑って座った。
誰かが彼のために一杯よそった。
受け取る。
横に置く。
それから、この一年どこへ行っていたのか聞きはじめた。
海。
巨大群礁。
海竜王。
至頂群峰。
繁茂仙境。
もちろん、全部を話せるわけじゃない。
エイリンは最初の少しを話しただけで。
いつの間にか、話は別のほうへ曲がっていた。
海獣に呑まれたと聞いたとき。
レノは、ようやく前とそっくりの顔をした。
信じられない、という顔。
「お前たち、どうやって今まで生きてきたんだ?」
あたしはすぐアーロンを指した。
「こいつに聞いて」
アーロンはスープを飲んでいた。
「俺に何の関係がある」
「毎回、道を決めるのはあなただから」
「海を決めたのは俺じゃない」
「だいたい同じ」
レノは笑った。
今度は少し長い。
アイラも笑っている。
あたしは危うく思った。
彼女が心配しすぎただけなのかもしれない、と。
みんなが食べ終わりかけたころ。
レノは立ち上がった。
空の器をいくつか重ねる。
外へ持っていくつもりらしい。
あたしは、彼の器を見た。
まだ、いっぱいだった。
表面から、もう湯気は出ていない。
……
アイラも見た。
何も言わない。
ただ手を伸ばし。
その器を火のそばへ戻した。
もう一度、温める。
手つきは慣れていた。
……
その夜。
あたしは、あまりよく眠れなかった。
寝床のせいじゃない。
馬車より、ずっと楽だった。
ただ、夜中に起きたとき。
外で音がした。
危ない音じゃない。
とても小さい。
誰かが薪を割っているみたいな音。
しばらく横になっていた。
また聞こえた。
かり。
かり。
あたしは起き上がった。
隣のみんなは眠っていた。
眠っているように見えた。
靴を履く。
外へ出た。
夜は寒かった。
山風が、耳をじんと痺れさせる。
村のほとんどは暗い。
遠くに、火の明かりが小さく一つだけあった。
あたしは音を追った。
最後に。
坂の裏でレノを見つけた。
薪を割っていたわけじゃない。
木を一本、削っていた。
そばには、削り終えた木の杭が何本か積まれている。
あたしは少し立っていた。
彼が顔を上げたのは、そのあとだった。
「起こしたか?」
「少し」
「悪い」
彼は小刀を置いた。
あたしは近づく。
隣に座った。
ここは村より少し高い。
下の屋根が見えた。
まだ灯りのついている家も、いくつかある。
もっと遠くは。
黒い山ばかりだった。
あたしは杭を見た。
「これ、何?」
「明日、柵を補強する」
……
真夜中に?
聞かなかった。
レノはもう一本取った。
また削りはじめる。
あたしは、彼の手を見た。
傷が多い。
古いのも。
新しいのも。
指の腹まで裂けていた。
「アイラが、もうもちそうにないって言ってた」
小刀が一度、止まった。
一度だけ。
レノは笑った。
「心配しすぎだ」
「うん」
あたしはうなずいた。
「あたしもそう思う」
彼はあたしを見た。
そんなことを言うとは、思っていなかったらしい。
あたしは、また彼の手の中の木を見る。
「じゃあ、もう帰って寝ればいい」
レノは少し固まった。
それから笑い出す。
小さな声で。
「コラ」
「ん?」
「ずいぶん変わったな」
「どこが?」
「前なら、そんな言い方はしなかった」
あたしは考えた。
「前なら何て言う?」
「たぶん、いきなり小刀を奪う」
……
ありそう。
あたしは手を出した。
レノは、すぐ小刀を反対側へやった。
「やめろ」
あたしは睨んだ。
彼はもう一度、少し笑う。
最後には。
木を置いた。
帰りはしなかった。
ただ、一緒に座っていた。
しばらくして。
あたしは聞いた。
「風息谷は、どうなった?」
レノの笑みが、ゆっくり消えた。
少し後悔した。
でも、もう聞いてしまった。
彼は下を見た。
「空だ」
「知ってる」
「聞いた」
「うん」
風が吹いてきた。
新しい木と草の匂いがする。
レノは両手を膝のあいだに垂らした。
長いあいだ。
それから、続けた。
「戻ったとき」
「思っていたよりひどかった」
声は平らだった。
遺跡でみたいに。
泣かない。
叫ばない。
おかしくもならない。
ただ、平らだった。
彼は話した。
戻ってから。
あのときあたしたちが言ったやり方でやった、と。
まだ歩ける人を、先に高いところへ移した。
水は全部煮た。
病人は離した。
風を通せる家は、全部空けてもらった。
苦根草は、すぐ尽きた。
そのあとは、自分たちで代わりになるものを探すしかなかった。
アイラは、ほとんど休まなかった。
ドワーフは、まだ力の残っている人たちを連れて、人を運んだ。
レノは何でもやった。
担げるものは担いだ。
担げないものは。
扉板に乗せて運んだ。
最初の人たちが出ていったとき。
彼は、もしかしたら本当に間に合うかもしれないと思ったらしい。
「たくさん助けた」
彼は言った。
あたしはうなずく。
「うん」
「たくさん」
レノは、もう一度自分で言った。
皮肉じゃない。
彼はわかっている。
「いま下に住んでる人たちは」
「ほとんど生き残った」
あたしは、どう返せばいいかわからなかった。
最後には、こう言うだけ。
「それは、よかったじゃん」
「うん」
また一言。
それから、何もない。
あたしは彼を見た。
「でも?」
レノはうつむいた。
親指で、手のひらの古い傷をゆっくり撫でる。
「重すぎた人もいた」
「運べなかった」
「次の場所までもたなかった」
何人死んだのかは言わない。
あたしも聞かなかった。
「老人が一人いた」
レノが、急に言った。
「俺が子どものころ、そいつの家の果物を盗んだ」
あたしは彼を見る。
「俺だってわかってた」
「でも、ずっと何も言わなかった」
レノは少し笑った。
とても薄く。
「戻ったときには」
「もう俺のことがわからなかった」
風は、ずっと吹いている。
耳が少し冷たくなった。
でも動かなかった。
「おばさんも一人いた」
「カイルが子どものころ、よくその家で飯を食ってた」
彼は少し止まった。
「俺に聞いた」
「カイルはどこへ行ったって」
胸が、急に締まった。
レノは、あたしを見ない。
「俺は言った」
「高原にいるって」
……
それは嘘じゃない。
少なくとも、完全な嘘じゃない。
あたしは思った。
「そのあと?」
レノは首を振る。
「そのあとなんてない」
「次の日に死んだ」
何を言えばいいかわからなかった。
薬草。
血を止めること。
熱を下げること。
そういうことは、あたしにもできる。
でも、あのときもう知っていた。
あたしに本当にできないこともある。
「レノ」
あたしは口を開いた。
「あなたは、たくさんの人を助けた」
「うん」
返事は早かった。
あたしは少し止まった。
否定すると思った。
首を振ると思った。
どっちもしなかった。
「わかってる」
レノは言った。
それから。
顔を上げる。
山の下の家々を見た。
「だから困る」
あたしは眉を寄せた。
「何が?」
レノは、しばらく黙った。
「何も助けられなかったなら」
「たぶん、そのほうが簡単だった」
「少なくとも、俺が失敗したってことになる」
「でも、いまは違う」
彼は手を上げた。
下を指す。
一軒の家。
それから、もう一軒。
「あの屋根」
「あの水路」
「あの畑」
「中にいるのは、生きてる人間だ」
「わかってる」
声が、少しだけ揺れはじめた。
とても小さく。
「毎日わかってる」
「あの人たちも、ずっと言ってくる」
「ありがとう」
「レノ」
「英雄」
最後の二つを。
彼はとてもゆっくり言った。
あたしは急に思い出した。
昼間の、あの小さな女の子。
英雄お兄ちゃん。
レノは笑って、真似するなと言った。
照れていたわけじゃなかった。
「その名前が嫌いなんだ」彼は言った。
「英雄?」と、あたしは聞いた。
「うん」
「どうして?」
今度は。
彼はずいぶん長く答えなかった。
答えないのかと思うくらい。
最後に、レノはあたしに聞いた。
「カイルが最後に何を言ったか、覚えてるか?」
胸が一度、止まった。
覚えている。
もちろん覚えている。
あの暗い廊下。
ザカが膝をついたこと。
石が地面に落ちた音。
それから、もうほとんど動けなかった人。
「あなたに帰れって言った」
あたしは言った。
レノは目を閉じる。
「うん」
「言った」
「行くな」
「みんなを連れて帰れ」
あたしは声を出さなかった。
「俺はあのとき、何て答えた?」
今度は、あたしが答えなかった。
でも彼自身が知っている。
「黙れって言った」
レノは少し笑った。
ひどい笑い方だった。
「言った」
「お前を置いていけるわけないって」
その言葉も覚えている。
レノはうつむいた。
「ずっと思ってた」
「俺は、あいつを助けるためにやったんだって」
「でも、あとになってわかった」
彼は息を吸った。
「あいつは、俺に自分を助けろって言ってたんじゃない」
「ほかのみんなを助けろって言ってた」
……
あたしは彼を見た。
一言も出なかった。
「あいつのほうが、俺より先にわかってた」
レノが言った。
「もう石になりかけてたのに」
「俺より先にわかってた」
声が、ようやく少し裂けた。
彼は手を上げ、顔を強く拭った。
涙はなかった。
少なくとも、あたしには見えなかった。
「あのとき、あいつの言うことを聞いていたら?」
来た。
この言葉のあとに何が来るか、あたしにはわかっていた。
でも止められない。
「最初から、あの遺跡に入っていなかったら?」
「最初から、村の人たちを連れて行っていたら?」
「数日早く風息谷に戻っていたら?」
「ひどく病んでた人たち」
「歩けたんじゃないか?」
「あの老人」
「あのおばさん」
「ほかの人たちも」
レノの手が、ゆっくり握られた。
「死なずにすんだんじゃないか?」
あたしは口を開いた。
「わからない」
レノはうなずいた。
「そうだ」
返事は軽かった。
「わからない」
彼はあたしを見た。
目は赤い。
でも泣いていなかった。
「それが一番ひどい」
……
風が、坂の下から吹き上がった。
一軒の家が灯りを消した。
下は、少しだけ暗くなる。
「自分が間違えたとわかっていたら」
レノは言った。
「少なくとも、どこで間違えたかわかる」
「次はしない」
「でも、誰にも教えてもらえない」
「もっと早く戻っていれば」
「死んだ人は少なかったかもしれない」
「俺たちが風息谷に残っていたら」
「誰も出られなかったかもしれない」
「カイルは、結局死んでいたかもしれない」
「あのとき、そんなことを知れるはずがなかったのはわかってる」
彼は言った。
「全部わかってる」
急に思った。
わからないより、この言葉のほうが苦しい。
「でも、ときどき」
「誰かが俺を英雄って呼ぶと」
レノは、あの家々を見た。
「思うんだ」
彼は長いあいだ止まった。
「もともと、あの人たちに英雄なんて要らなかったんじゃないかって」
「もっと早く風息谷を出ていれば、英雄なんて要らなかった」
……
あたしはうつむいた。
足元で草が揺れている。
なぜだかわからない。
数日前の草原を思い出した。
多摩獣。
掘毯獣。
泉背獣。
みんな、ちゃんと生きていた。
生きているって、本当はあんなふうに普通のことみたいだった。
でも、ここの人たちは。
家の中に座って食事をするだけで。
そのために、誰かが死んでいる。
「でも」
あたしは口を開いた。
レノは、あたしを見ない。
「あなたは、やっぱりあの人たちを助けた」
「うん」
また同じ返事。
あたしは眉を寄せた。
少し腹が立ってきた。
「じゃあ、あなたはどうしたいの?」
レノは少し止まった。
あたしも少し止まった。
言い方がきつすぎたかもしれない。
でも、もう言った。
もういい。
「あなたは神様じゃない」
あたしは言った。
「別の道で何が起きるかなんて、どうしてわかるの?」
レノは怒らなかった。
少し笑っただけ。
「わかってる」
……
また、わかってる。
その三文字が、急に嫌いになった。
「じゃあ――」
あたしは詰まった。
じゃあ、考えるな?
そんなこと、あたしだって言えない。
誰かに祖父のことを考えるなと言われたら。
たぶん噛みつく。
続きの言葉を飲み込んだ。
「もういい」
レノはあたしを見た。
「慰めようとしてるのか?」
「してない」
「へえ」
「……少しだけ」
今度は。
彼は本当に少し笑った。
短かった。
でも、昼の笑い方とは違った。
これがいいことなのか、あたしにはわからない。
二人で、もう少し座っていた。
後ろから、急に足音がした。
振り向く必要はない。
匂いでわかった。
アーロン。
彼は歩いてきた。
手には器が二つ。
一つをあたしに渡す。
もう一つをレノに渡した。
温かい。
さっきの鍋のスープだと思う。
レノは受け取った。
下を見た。
「アイラが来いって?」
「うん」
アーロンは反対側に座った。
「今日も食べてないって言ってた」
レノは反論しない。
器を抱えただけ。
アーロンも急かさなかった。
しばらくして。
レノが急に言った。
「アーロンさん」
「うん?」
「あなたは、あのとき言った」
彼は、器から上がる湯気を見ていた。
「カイルの名前を家に連れて帰れって」
アーロンは何も言わない。
「連れて帰った」
レノは横を見る。
あたしも視線を追った。
そこで初めて、坂の裏に石が何枚かあるのに気づいた。
墓じゃない。
少なくとも、中に人は埋まっていない。
ただ、簡単な石の標が一列に並んでいた。
名前が刻まれているものもある。
印が一つだけのものもある。
端に。
少し小さい石が一枚あった。
文字は、触られすぎて滑らかになっている。
カイル。
胸が急に詰まった。
本当に、彼は連れて帰ってきたんだ。
名前だけを。
レノは、その石を見た。
「でも、ときどき思う」
「俺があいつを、あそこに残したんだって」
アーロンも、しばらく見ていた。
「うん」
レノが顔を向けた。
そんな答えが返ると思わなかったらしい。
あたしもアーロンを見る。
彼はまだ、石の標を見ている。
「お前は確かに、あそこに残した」
……
危うく蹴りたくなった。
でもレノは動かなかった。
アーロンは続ける。
「お前は確かに、あいつの名前も家へ連れて帰った」
「どちらも本当だ」
風が、焚き火のほうから煙を少し運んできた。
淡い。
アーロンは視線を戻した。
「人は生きていると」
「たくさんの、ぶつかり合うものを抱える」
レノは器を持っている。
指がゆっくり強くなった。
「でも、みんな俺を英雄と呼ぶ」
アーロンはうなずく。
「うん」
「俺は違う」
「それは俺にはわからない」
レノは顔を上げた。
アーロンは彼を見る。
「でも、その名前を選んだのはお前じゃない」
レノは何も言わない。
「あの人たちが、なぜお前に礼を言うのか」
「それも、あの人たちのことだ」
アーロンは山の下を見た。
「生きている者の分まで決めるな」
レノは固まった。
長いあいだ。
答えなかった。
あたしも答えなかった。
だって、その言葉は、彼が自分を許すべきかどうかを言っているようじゃなかった。
ただ。
彼に助けられた人たちにも。
自分たちの分を覚えている資格がある、ということだ。
レノが死んだ人を覚えているみたいに。
あの人たちは、生き残った日を覚えている。
どちらも、嘘じゃない。
……
ようやくレノはうつむいた。
スープを一口飲む。
もう少し冷めていた。
眉をひそめる。
「まずい」
あたしはすぐ言った。
「エイリンが作った」
アーロンが言った。
「へえ」
遠くの家の中から、いきなり声がした。
「聞こえてるから!」
……
エイリンの耳、いったいどうなってるんだ?
絶対、空気の精霊だ。
レノは少し止まった。
それから声を上げて笑った。
今度は、もっと長い。
咳までした。
アーロンはあたしを見た。
「お前のせいだ」
「へえって言ったのはあなた」
「俺は、へえと言っただけだ」
「あなたのへえは、わかりやすすぎる」
レノはまだ笑っている。
途中で。
またゆっくり止まった。
急に元気になったわけじゃない。
急に何もかもわかったわけでもない。
ただ、うつむいて。
もう一口飲んだ。
今度は、まずいと言わなかった。
……
次の朝。
レノは、あたしたちより早く起きていた。
あたしが外へ出たときには。
もう水路のそばにいた。
手には、やっぱりあの槌。
昨夜、何もなかったみたいに。
アイラが隣に立っていた。
手には、何か入った器。
「先に食べて」
「あとで」
「今」
「ここを――」
「レノ」
彼女は名前だけ呼んだ。
レノは止まった。
アイラを見る。
最後には。
槌を置いた。
器を受け取る。
あたしは遠くに立っていた。
近づかなかった。
昨日見た女の子が、ちょうど走ってきた。
どこで拾ったのかわからない花を一本、手に握っている。
「英雄お兄ちゃん!」
レノは器を持ったまま。
肩がほんの少し止まった。
それから、彼女を見下ろす。
「そう呼ぶなって言わなかったか?」
女の子は花を彼の手へ押しつけた。
「でも、みんなそう呼ぶよ」
レノは、握られて少し潰れた花を見た。
何も言わない。
女の子はもう走っていった。
ずっと遠くまで行ってから。
また振り返って叫ぶ。
「英雄!」
レノは水路のそばに立っていた。
片手には朝ごはんの器。
もう片方には、ほどけかけた花。
長いあいだ。
もう、そう呼ぶなとは言わなかった。
ただ、うつむいて。
一口食べた。
あたしは急に思った。
英雄って、たぶんこういうものなのかもしれない。
誰より高いところに立っているんじゃない。
いつも、自分が正しかったかどうか知っているわけでもない。
ときには。
たくさんの人が生き残っただけで。
死んだ人を覚えるために残された者が。
たまたま、まだ立っている。
レノは少しでも良くなっているかな。
何もかも、少しずつ良くなっていけばいい。
そして僕たちも、一年間そのままにしていた問題を片づけに行かないとね。
次回——
第八節 安寧の谷




