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19-7 英雄

懐かしい友人。


一緒にいたのは一日にも満たなかったけれど、


みんな、今はどうしているんだろう……?

草原は、まだ終わっていなかった。


ただ、一日ごとに減っていった。


最初は。


道の両側に、見渡すかぎりの緑があった。


ときどき、遠くに獣の群れが見えた。


風が吹くと。


草の波が、山のふもとまで押し寄せた。


もっと西へ行くと。


地面に石が混じりはじめた。


最初は、ぽつぽつとだけ。


そのうち、どんどん増えた。


草も一緒に短くなる。


馬車は登りはじめた。


ゆっくり。


急すぎる坂では。


あたしたちまで、みんな降りて歩いた。


遠くで空に張りついていた山は。


一日ごとに高くなった。


最初の日は、灰青色の影だった。


数日後には。


中腹の樹林帯が見えるようになった。


さらに進むと。


岩壁の白い切れ目まで見えた。


ある夕方。


あたしは遠くを指した。


「そこって……」


アーロン(アーロン)は、あたしの指の先をちらりと見た。


「うん」


一言だけ。


よかった。


少なくとも、あたしの記憶違いじゃない。


そばでザカ(ザカ)が顔を上げる。


「歩いたことある?」


「うん」


あたしはうなずいた。


「前に」


エイリン(エイリン)も、あの山を見た。


「高い?」


「すごく」


「何があるの?」


あたしは考えた。


「風」


エイリン(エイリン)は待っている。


「それから?」


「もっと風」


彼女はあたしを見た。


どうやら、その答えでは不満らしい。


嘘じゃない。


あのころ、山の上には本当に風しかなかった。


……


草原を抜けてから。


あたしたちは、さらに二週間歩いた。


とうとう馬車では進めなくなった。


前の道は、ますます細くなる。


ところどころ、踏み固められた土の筋が二本だけだった。


最後には。


小さな集落に馬車と馬を置いた。


それからは、自分たちの足で行く。


幸い、残りの道は思ったほど遠くなかった。


その日の午後。


低い木の生えた坂を越えた。


アーロン(アーロン)が、急に足を止めた。


前に煙があった。


野火じゃない。


一本。


二本。


坂の向こうから立ちのぼっている。


風がこっちへ吹いてきたとき。


あたしにも匂いが届いた。


薪。


煮炊きの匂い。


家畜。


伐ったばかりの木。


それから、人。


たくさんの人。


「着いた?」


あたしは聞いた。


アーロン(アーロン)は、道中ずっとめくりすぎてぼろぼろになりかけた地図を取り出した。


一目見る。


「たぶん」


なぜだかわからない。


あたしは少しだけ足を速めた。


一年。


あの遺跡で別れてから。


もう一年以上だ。


レノ(レノ)。


アイラ(アイラ)。


それから、いつも自分で損をしたとぼやいていたあのドワーフ。


いま、どうしているんだろう。


坂を下る。


集落が、ゆっくり見えてきた。


思ったより大きい。


でも、ちゃんとした村には見えなかった。


家はきれいに並んでいない。


木の家もある。


石を半分だけ積んだ家もある。


屋根の色も、ばらばらだ。


新しい木。


古い板。


乾いた草。


どこから外してきたのか、扉板まで何枚かあった。


よそから運んできたものを。


無理やり寄せ集めて、家にしたみたいだった。


道の脇には、掘られて間もない排水溝がある。


斜面には畑がいくつも開かれていた。


まだ小さい。


低い芽しか出ていない畑もあった。


もっと高いところから水が引かれている。


新しく掘った浅い水路を流れていた。


その横で誰かが洗濯をしている。


子どもたちは鶏を追いかけていた。


鶏のほうが、子どもたちより速い。


よかった。


少なくとも、ここは疫病の土地には見えない。


あたしは少しだけ、力を抜いた。


近づくと。


人々があたしたちに気づきはじめた。


主にザカ(ザカ)に。


仕方ない。


あいつは、本当に目立ちすぎる。


手を止めて。


何度かこっちを見る人もいた。


でも、誰も止めなかった。


アーロン(アーロン)は道端で柵を直している人を見つけた。


レノ(レノ)のことを聞く。


その人は、すぐ顔を上げた。


「レノ?」


「うん」


「英雄のレノ?」


あたしは少し固まった。


アーロン(アーロン)は、あまり反応しない。


「そうだ」


その人は坂の上を指した。


「たぶん、あっちにいる」


「さっきまで、老タッカーの屋根を直してた」


言うと、また木の杭を打ち始めた。


「英雄のレノ」なんて、ここではごく普通の名前みたいに。


あたしたちは、指されたほうへ歩いた。


あまり行かないうちに。


エイリン(エイリン)が急に止まった。


危うくぶつかるところだった。


「どう――」


彼女は、いきなり走り出した。


その先を見る。


坂の下。


洗ったばかりの布を籠いっぱいに抱えたエルフが、こっちへ歩いてきていた。


金色の長い髪は、前より少し伸びている。


着ているものも、あたしの記憶にある、ほとんどほどけかけた魔法使いのローブじゃない。


ごく普通の服だった。


袖は肘までまくっている。


手にはまだ水がついていた。


アイラ(アイラ)。


彼女もエイリン(エイリン)を見た。


全身が、その場で止まった。


籠が手から滑りかける。


「お姉ちゃん?」


エイリン(エイリン)は、もう駆け寄っていた。


いきなり抱きつく。


「アイラ!」


半分の坂に聞こえるくらい大きな声だった。


アイラ(アイラ)はぶつかられて、二歩後ろへよろめいた。


籠から布が一枚落ちる。


手をどこに置けばいいのか、まるでわからない顔をしていた。


最後には。


ゆっくり抱き返した。


「お姉ちゃん……」


声は小さい。


でも、ちゃんと笑っていた。


エイリン(エイリン)は、もっと強く抱きしめる。


「無事だった」


「うん」


「本当に無事だった」


「うん」


「わたしは大丈夫」


アイラ(アイラ)は、エイリン(エイリン)が次に言うことをたぶんわかっていた。


先に遮った。


そこでようやく、エイリン(エイリン)は少しだけ腕をゆるめた。


それでも両手は、妹の肩をつかんでいる。


頭から足まで見る。


自分で確かめなきゃ気がすまないみたいに。


「痩せた」


アイラ(アイラ)は彼女を見る。


「お姉ちゃんも」


「わたしは痩せてない」


「痩せてる」


「痩せてない」


……


うん……やっぱり姉妹だ。


ヴァンス(ヴァンス)が歩いてきた。


アイラ(アイラ)へ一度うなずく。


アイラ(アイラ)もうなずき返した。


多くは言わない。


それから。


アイラ(アイラ)は、ようやく後ろにいる者たちを見た。


まず、あたし。


次にザカ(ザカ)。


最後に。


アーロン(アーロン)。


顔の笑みが、少し止まった。


消えたわけじゃない。


ただ、ゆっくり薄くなった。


「あなたたち……」


アーロン(アーロン)が前へ出る。


「久しぶりだ」


アイラ(アイラ)は彼を見た。


数呼吸してから、ようやく言う。


「本当に来たんだ」


アーロン(アーロン)は笑わなかった。


「一年遅れた」


あたしの胸も、一緒に沈んだ。


高原で。


あたしたちは約束した。


手元のことが片づいたら。


風息谷(ふうそくこく)へ行くと。


最後には。


海。


鉄港(てっこう)。


ひとつ終わる前に、またひとつ。


本当にこの道を歩き出したときには。


あまりに時間が過ぎていた。


アイラ(アイラ)は、落ちた布を拾うためにうつむいただけだった。


泥を払う。


「待ってなかった」


ごく普通の一言だった。


あたしたちを責めていない。


許しているわけでもない。


だって、どちらも要らないみたいだった。


あのとき。


彼女たちは、待てるはずがなかった。


アーロン(アーロン)は彼女を見る。


最後には、一度うなずくだけだった。


「レノは?」


アイラ(アイラ)の手が止まった。


沈黙が、さっきより長い。


エイリン(エイリン)が気づく。


「どうしたの?」


アイラ(アイラ)は目を上げた。


まず周りを見る。


道にはまだ人がいる。


遠くで、誰かが子どもを家に呼んでいた。


彼女は横へ数歩行った。


あたしたちもついていく。


ほかの人から少し離れてから。


ようやく口を開いた。


「生きてる」


あたしの胸は、まずほどけた。


でも、次の言葉が来ない。


アイラ(アイラ)は籠の縁を握った。


指の節が少し白くなる。


「それに、元気そうに見える」


エイリン(エイリン)が眉を寄せた。


「見える?」


アイラ(アイラ)は坂の上を見た。


「人の前では」


風があたしたちのあいだを通った。


籠の濡れた布が一枚、めくれた。


彼女は押さえた。


「もう、もちそうにない」


……


何を言えばいいのか、急にわからなくなった。


ここは、明らかに大丈夫そうなのに。


人がいる。


家がある。


畑がある。


子どもがいる。


鶏までいる。


「何があったの?」


エイリン(エイリン)が低く聞いた。


アイラ(アイラ)は、すぐには答えなかった。


「先に会いに行こう」


彼女は言った。


「自分たちで見て」


……


アイラ(アイラ)について、坂を上った。


途中。


何人もの人が彼女に声をかけた。


アイラ(アイラ)は、ひとりひとりに返事をする。


屋根を増し張りしている木の家の近くまで来ると。


上から叩く音がした。


とん。


とん。


とん。


あたしは見上げた。


屋根の上に、一人座っている。


袖をまくり。


手には槌。


片足は横木を踏み。


反対側には板が何枚か積んであった。


記憶より痩せている。


髪もずっと伸びていた。


顎には、剃り残した無精ひげが一周している。


でも、間違いなくレノ(レノ)だった。


下では老人が梯子を支えていた。


何度も声をかけている。


「左にも隙間があるぞ」


「見えてる」


「昨日の夜、漏ったんだ」


「それは反対側だ」


「こっちも漏る」


レノ(レノ)は少し止まった。


老人を見下ろす。


「じゃあ、なんで昨日まとめて言わなかった?」


老人は楽しそうに笑った。


「お前が逃げると思ってな」


レノ(レノ)も笑った。


「今日も逃げる」


「なら先に直せ」


「わかってる」


あたしは下に立ったまま。


しばらく呆けていた。


……


これが、もうもちそうにないってこと?


レノ(レノ)は、あと二度叩いた。


そこで下に急に人が増えたのに気づく。


見下ろした。


最初にアイラ(アイラ)。


次にエイリン(エイリン)。


止まる。


それから、あたし。


ザカ(ザカ)。


アーロン(アーロン)。


槌が空中で止まった。


なかなか、下りてこない。


「……お前たち?」


レノ(レノ)は、すぐ屋根から下りてきた。


老人が何度も、ゆっくりしろと叫ぶほど速い。


最後の二段は、もう飛び降りた。


地面に着いてから。


最初にアーロン(アーロン)を見た。


それから、あたしとザカ(ザカ)。


確かめるみたいに。


最後に。


笑った。


「本当に来たんだな」


声は、前とあまり変わらない。


むしろ、前より落ち着いている。


アーロン(アーロン)が言った。


「遅れた」


レノ(レノ)は首を振る。


「来たなら、それでいい」


それだけだった。


説明を求めない。


なぜ遅れたのかも聞かない。


エイリン(エイリン)のほうを向く。


「君がエイリンだな?」


エイリン(エイリン)が答える前に。


アイラ(アイラ)が言った。


「わたしの姉」


レノ(レノ)は小さく笑う。


「見ればわかる」


エイリン(エイリン)が、すぐ聞いた。


「どこで?」


レノ(レノ)は彼女を見た。


それからアイラ(アイラ)。


少し考える。


「わからない」


「でも、わかる」


エイリン(エイリン)は、明らかに不満そうだった。


でも追及する暇はない。


老人が横から呼んでいる。


「レノ」


「屋根」


「わかってる」


レノ(レノ)は振り返る。


それから、またあたしたちを見た。


「少し待っててくれ」


そして本当に、また登っていった。


……


あたしはアイラ(アイラ)を見た。


アイラ(アイラ)も、あたしを見る。


何も言わなかった。


たぶん、あたしが何を考えているかわかっている。


どこがおかしい?


壊れかけているようには、どこにも見えない。


……


レノ(レノ)は、あたしたちを長く待たせなかった。


最後の板を直し。


老人の梯子まで家の裏へ運んだ。


老人は何度も引き留めて。


夜は食べに来いと言った。


レノ(レノ)は笑って頷く。


でも十歩も行かないうちに。


また誰かに呼び止められた。


「レノ!」


向こうでは。


女の人が大きな木桶を抱えている。


底が割れていた。


レノ(レノ)は止まった。


「また壊れた?」


「前のとは違うわよ」


「君たち、いくつ桶があるんだ?」


女の人は彼をにらんだ。


レノ(レノ)は笑って、受け取る。


「あとでな」


そこで、女の人もあたしたちに気づいた。


「友達?」


「うん」


目が、いきなり明るくなった。


「外から来たの?」


「遠いところから」


「じゃあ、夜はうちに食べに来なさいよ」


レノ(レノ)が答える前に。


女の人は、もうあたしたちを見ていた。


「知らないでしょ?」


彼女は肘でレノ(レノ)をつついた。


「この人、うちの英雄なのよ」


レノ(レノ)の顔には、まだ笑みがあった。


「そう呼ぶなって」


女の人は、まるで聞かない。


「この人がいなかったら――」


「桶、割れてるんだろ?」


レノ(レノ)は、すぐ言葉を切った。


「まだ言うなら直さない」


「はいはい」


女の人は笑って行った。


レノ(レノ)は木桶を抱えたまま。


やっぱり笑っていた。


本当に、ただ照れているだけみたいに。


でも、その笑みはすぐ消えた。


最初からなかったみたいに、早く。


……


戻る道でも。


さらに二人がレノ(レノ)を呼び止めた。


一人は水路のことを聞いた。


もう一人は、明日、山へ石を運びに行くかと聞いた。


彼は全部引き受けた。


どの家に道具が足りないか。


どの道が歩きにくいか。


どの子が昨日また熱を出したか。


全部知っていた。


小さな女の子が、後ろから走ってきた。


レノ(レノ)の脚に抱きつく。


「英雄お兄ちゃん!」


レノ(レノ)の体が、一瞬だけ固まった。


本当に、一瞬だけ。


それから下を見る。


その子を抱き上げた。


「誰がそう呼べって教えた?」


女の子は遠くを指した。


男の人が、すぐ背を向ける。


何も見ていないふりをしていた。


レノ(レノ)はため息をついた。


「真似するな」


「なんで?」


「いい呼び方じゃない」


「いいよ」


女の子は本気だった。


レノ(レノ)は、どうしようもない。


地面に下ろした。


頭を撫でる。


「家に帰れ」


走っていく前に。


彼女はやっぱり一度叫んだ。


「英雄お兄ちゃん!」


レノ(レノ)は振り返らなかった。


片手を上げて。


振っただけ。


……


あたしは、アイラ(アイラ)の言った意味がわかりはじめた。


具合が悪そうだからじゃない。


その反対だ。


あまりにも、ちゃんとして見えるからだ。


……


夜。


村の人たちは、あたしたちのために無理やり一軒の空き家を空けてくれた。


空き家と言っても。


実際は半分しかできていない。


片側の壁からは、新しい木の匂いが強かった。


でも、寝床がある。


屋根もある。


それで十分だった。


夕食は、たくさんの人が一緒に持ってきた。


ザカ(ザカ)でさえ、珍しく足りないと文句を言わないくらい。


誰かがパンを持ってくる。


誰かが肉のスープを持ってくる。


別の誰かは、ぐずぐずになるまで煮た豆を大きな鉢で運んできた。


みんな、ついでみたいに聞く。


「レノは?」


アイラ(アイラ)はいつも答えた。


「知らない」


最初は、本当にそうなのだと思った。


三人目が聞き終えたとき。


彼女はただ、彼の代わりに探してやりたくないのだと気づいた。


レノ(レノ)は、結局来た。


ずいぶん遅く。


入ってきたとき。


髪には木くずがいっぱいついていた。


手にはまだ、直した木桶を持っている。


「まだ食える?」


ザカ(ザカ)は机を見る。


「少し」


本当は、たくさんある。


レノ(レノ)は笑って座った。


誰かが彼のために一杯よそった。


受け取る。


横に置く。


それから、この一年どこへ行っていたのか聞きはじめた。


海。


巨大群礁(きょだいぐんしょう)。


海竜王(かいりゅうおう)。


至頂群峰(しちょうぐんぽう)。


繁茂仙境(はんもせんきょう)。


もちろん、全部を話せるわけじゃない。


エイリン(エイリン)は最初の少しを話しただけで。


いつの間にか、話は別のほうへ曲がっていた。


海獣に呑まれたと聞いたとき。


レノ(レノ)は、ようやく前とそっくりの顔をした。


信じられない、という顔。


「お前たち、どうやって今まで生きてきたんだ?」


あたしはすぐアーロン(アーロン)を指した。


「こいつに聞いて」


アーロン(アーロン)はスープを飲んでいた。


「俺に何の関係がある」


「毎回、道を決めるのはあなただから」


「海を決めたのは俺じゃない」


「だいたい同じ」


レノ(レノ)は笑った。


今度は少し長い。


アイラ(アイラ)も笑っている。


あたしは危うく思った。


彼女が心配しすぎただけなのかもしれない、と。


みんなが食べ終わりかけたころ。


レノ(レノ)は立ち上がった。


空の器をいくつか重ねる。


外へ持っていくつもりらしい。


あたしは、彼の器を見た。


まだ、いっぱいだった。


表面から、もう湯気は出ていない。


……


アイラ(アイラ)も見た。


何も言わない。


ただ手を伸ばし。


その器を火のそばへ戻した。


もう一度、温める。


手つきは慣れていた。


……


その夜。


あたしは、あまりよく眠れなかった。


寝床のせいじゃない。


馬車より、ずっと楽だった。


ただ、夜中に起きたとき。


外で音がした。


危ない音じゃない。


とても小さい。


誰かが薪を割っているみたいな音。


しばらく横になっていた。


また聞こえた。


かり。


かり。


あたしは起き上がった。


隣のみんなは眠っていた。


眠っているように見えた。


靴を履く。


外へ出た。


夜は寒かった。


山風が、耳をじんと痺れさせる。


村のほとんどは暗い。


遠くに、火の明かりが小さく一つだけあった。


あたしは音を追った。


最後に。


坂の裏でレノ(レノ)を見つけた。


薪を割っていたわけじゃない。


木を一本、削っていた。


そばには、削り終えた木の杭が何本か積まれている。


あたしは少し立っていた。


彼が顔を上げたのは、そのあとだった。


「起こしたか?」


「少し」


「悪い」


彼は小刀を置いた。


あたしは近づく。


隣に座った。


ここは村より少し高い。


下の屋根が見えた。


まだ灯りのついている家も、いくつかある。


もっと遠くは。


黒い山ばかりだった。


あたしは杭を見た。


「これ、何?」


「明日、柵を補強する」


……


真夜中に?


聞かなかった。


レノ(レノ)はもう一本取った。


また削りはじめる。


あたしは、彼の手を見た。


傷が多い。


古いのも。


新しいのも。


指の腹まで裂けていた。


「アイラが、もうもちそうにないって言ってた」


小刀が一度、止まった。


一度だけ。


レノ(レノ)は笑った。


「心配しすぎだ」


「うん」


あたしはうなずいた。


「あたしもそう思う」


彼はあたしを見た。


そんなことを言うとは、思っていなかったらしい。


あたしは、また彼の手の中の木を見る。


「じゃあ、もう帰って寝ればいい」


レノ(レノ)は少し固まった。


それから笑い出す。


小さな声で。


「コラ」


「ん?」


「ずいぶん変わったな」


「どこが?」


「前なら、そんな言い方はしなかった」


あたしは考えた。


「前なら何て言う?」


「たぶん、いきなり小刀を奪う」


……


ありそう。


あたしは手を出した。


レノ(レノ)は、すぐ小刀を反対側へやった。


「やめろ」


あたしは睨んだ。


彼はもう一度、少し笑う。


最後には。


木を置いた。


帰りはしなかった。


ただ、一緒に座っていた。


しばらくして。


あたしは聞いた。


「風息谷(ふうそくこく)は、どうなった?」


レノ(レノ)の笑みが、ゆっくり消えた。


少し後悔した。


でも、もう聞いてしまった。


彼は下を見た。


「空だ」


「知ってる」


「聞いた」


「うん」


風が吹いてきた。


新しい木と草の匂いがする。


レノ(レノ)は両手を膝のあいだに垂らした。


長いあいだ。


それから、続けた。


「戻ったとき」


「思っていたよりひどかった」


声は平らだった。


遺跡でみたいに。


泣かない。


叫ばない。


おかしくもならない。


ただ、平らだった。


彼は話した。


戻ってから。


あのときあたしたちが言ったやり方でやった、と。


まだ歩ける人を、先に高いところへ移した。


水は全部煮た。


病人は離した。


風を通せる家は、全部空けてもらった。


苦根草(にがねぐさ)は、すぐ尽きた。


そのあとは、自分たちで代わりになるものを探すしかなかった。


アイラ(アイラ)は、ほとんど休まなかった。


ドワーフは、まだ力の残っている人たちを連れて、人を運んだ。


レノ(レノ)は何でもやった。


担げるものは担いだ。


担げないものは。


扉板に乗せて運んだ。


最初の人たちが出ていったとき。


彼は、もしかしたら本当に間に合うかもしれないと思ったらしい。


「たくさん助けた」


彼は言った。


あたしはうなずく。


「うん」


「たくさん」


レノ(レノ)は、もう一度自分で言った。


皮肉じゃない。


彼はわかっている。


「いま下に住んでる人たちは」


「ほとんど生き残った」


あたしは、どう返せばいいかわからなかった。


最後には、こう言うだけ。


「それは、よかったじゃん」


「うん」


また一言。


それから、何もない。


あたしは彼を見た。


「でも?」


レノ(レノ)はうつむいた。


親指で、手のひらの古い傷をゆっくり撫でる。


「重すぎた人もいた」


「運べなかった」


「次の場所までもたなかった」


何人死んだのかは言わない。


あたしも聞かなかった。


「老人が一人いた」


レノ(レノ)が、急に言った。


「俺が子どものころ、そいつの家の果物を盗んだ」


あたしは彼を見る。


「俺だってわかってた」


「でも、ずっと何も言わなかった」


レノ(レノ)は少し笑った。


とても薄く。


「戻ったときには」


「もう俺のことがわからなかった」


風は、ずっと吹いている。


耳が少し冷たくなった。


でも動かなかった。


「おばさんも一人いた」


「カイルが子どものころ、よくその家で飯を食ってた」


彼は少し止まった。


「俺に聞いた」


「カイルはどこへ行ったって」


胸が、急に締まった。


レノ(レノ)は、あたしを見ない。


「俺は言った」


「高原にいるって」


……


それは嘘じゃない。


少なくとも、完全な嘘じゃない。


あたしは思った。


「そのあと?」


レノ(レノ)は首を振る。


「そのあとなんてない」


「次の日に死んだ」


何を言えばいいかわからなかった。


薬草。


血を止めること。


熱を下げること。


そういうことは、あたしにもできる。


でも、あのときもう知っていた。


あたしに本当にできないこともある。


「レノ」


あたしは口を開いた。


「あなたは、たくさんの人を助けた」


「うん」


返事は早かった。


あたしは少し止まった。


否定すると思った。


首を振ると思った。


どっちもしなかった。


「わかってる」


レノ(レノ)は言った。


それから。


顔を上げる。


山の下の家々を見た。


「だから困る」


あたしは眉を寄せた。


「何が?」


レノ(レノ)は、しばらく黙った。


「何も助けられなかったなら」


「たぶん、そのほうが簡単だった」


「少なくとも、俺が失敗したってことになる」


「でも、いまは違う」


彼は手を上げた。


下を指す。


一軒の家。


それから、もう一軒。


「あの屋根」


「あの水路」


「あの畑」


「中にいるのは、生きてる人間だ」


「わかってる」


声が、少しだけ揺れはじめた。


とても小さく。


「毎日わかってる」


「あの人たちも、ずっと言ってくる」


「ありがとう」


「レノ」


「英雄」


最後の二つを。


彼はとてもゆっくり言った。


あたしは急に思い出した。


昼間の、あの小さな女の子。


英雄お兄ちゃん。


レノ(レノ)は笑って、真似するなと言った。


照れていたわけじゃなかった。


「その名前が嫌いなんだ」彼は言った。


「英雄?」と、あたしは聞いた。


「うん」


「どうして?」


今度は。


彼はずいぶん長く答えなかった。


答えないのかと思うくらい。


最後に、レノ(レノ)はあたしに聞いた。


「カイルが最後に何を言ったか、覚えてるか?」


胸が一度、止まった。


覚えている。


もちろん覚えている。


あの暗い廊下。


ザカ(ザカ)が膝をついたこと。


石が地面に落ちた音。


それから、もうほとんど動けなかった人。


「あなたに帰れって言った」


あたしは言った。


レノ(レノ)は目を閉じる。


「うん」


「言った」


「行くな」


「みんなを連れて帰れ」


あたしは声を出さなかった。


「俺はあのとき、何て答えた?」


今度は、あたしが答えなかった。


でも彼自身が知っている。


「黙れって言った」


レノ(レノ)は少し笑った。


ひどい笑い方だった。


「言った」


「お前を置いていけるわけないって」


その言葉も覚えている。


レノ(レノ)はうつむいた。


「ずっと思ってた」


「俺は、あいつを助けるためにやったんだって」


「でも、あとになってわかった」


彼は息を吸った。


「あいつは、俺に自分を助けろって言ってたんじゃない」


「ほかのみんなを助けろって言ってた」


……


あたしは彼を見た。


一言も出なかった。


「あいつのほうが、俺より先にわかってた」


レノ(レノ)が言った。


「もう石になりかけてたのに」


「俺より先にわかってた」


声が、ようやく少し裂けた。


彼は手を上げ、顔を強く拭った。


涙はなかった。


少なくとも、あたしには見えなかった。


「あのとき、あいつの言うことを聞いていたら?」


来た。


この言葉のあとに何が来るか、あたしにはわかっていた。


でも止められない。


「最初から、あの遺跡に入っていなかったら?」


「最初から、村の人たちを連れて行っていたら?」


「数日早く風息谷(ふうそくこく)に戻っていたら?」


「ひどく病んでた人たち」


「歩けたんじゃないか?」


「あの老人」


「あのおばさん」


「ほかの人たちも」


レノ(レノ)の手が、ゆっくり握られた。


「死なずにすんだんじゃないか?」


あたしは口を開いた。


「わからない」


レノ(レノ)はうなずいた。


「そうだ」


返事は軽かった。


「わからない」


彼はあたしを見た。


目は赤い。


でも泣いていなかった。


「それが一番ひどい」


……


風が、坂の下から吹き上がった。


一軒の家が灯りを消した。


下は、少しだけ暗くなる。


「自分が間違えたとわかっていたら」


レノ(レノ)は言った。


「少なくとも、どこで間違えたかわかる」


「次はしない」


「でも、誰にも教えてもらえない」


「もっと早く戻っていれば」


「死んだ人は少なかったかもしれない」


「俺たちが風息谷に残っていたら」


「誰も出られなかったかもしれない」


「カイルは、結局死んでいたかもしれない」


「あのとき、そんなことを知れるはずがなかったのはわかってる」


彼は言った。


「全部わかってる」


急に思った。


わからないより、この言葉のほうが苦しい。


「でも、ときどき」


「誰かが俺を英雄って呼ぶと」


レノ(レノ)は、あの家々を見た。


「思うんだ」


彼は長いあいだ止まった。


「もともと、あの人たちに英雄なんて要らなかったんじゃないかって」


「もっと早く風息谷を出ていれば、英雄なんて要らなかった」


……


あたしはうつむいた。


足元で草が揺れている。


なぜだかわからない。


数日前の草原を思い出した。


多摩獣(たまじゅう)。


掘毯獣(ほりたんじゅう)。


泉背獣(せんぱいじゅう)。


みんな、ちゃんと生きていた。


生きているって、本当はあんなふうに普通のことみたいだった。


でも、ここの人たちは。


家の中に座って食事をするだけで。


そのために、誰かが死んでいる。


「でも」


あたしは口を開いた。


レノ(レノ)は、あたしを見ない。


「あなたは、やっぱりあの人たちを助けた」


「うん」


また同じ返事。


あたしは眉を寄せた。


少し腹が立ってきた。


「じゃあ、あなたはどうしたいの?」


レノ(レノ)は少し止まった。


あたしも少し止まった。


言い方がきつすぎたかもしれない。


でも、もう言った。


もういい。


「あなたは神様じゃない」


あたしは言った。


「別の道で何が起きるかなんて、どうしてわかるの?」


レノ(レノ)は怒らなかった。


少し笑っただけ。


「わかってる」


……


また、わかってる。


その三文字が、急に嫌いになった。


「じゃあ――」


あたしは詰まった。


じゃあ、考えるな?


そんなこと、あたしだって言えない。


誰かに祖父のことを考えるなと言われたら。


たぶん噛みつく。


続きの言葉を飲み込んだ。


「もういい」


レノ(レノ)はあたしを見た。


「慰めようとしてるのか?」


「してない」


「へえ」


「……少しだけ」


今度は。


彼は本当に少し笑った。


短かった。


でも、昼の笑い方とは違った。


これがいいことなのか、あたしにはわからない。


二人で、もう少し座っていた。


後ろから、急に足音がした。


振り向く必要はない。


匂いでわかった。


アーロン(アーロン)。


彼は歩いてきた。


手には器が二つ。


一つをあたしに渡す。


もう一つをレノ(レノ)に渡した。


温かい。


さっきの鍋のスープだと思う。


レノ(レノ)は受け取った。


下を見た。


「アイラが来いって?」


「うん」


アーロン(アーロン)は反対側に座った。


「今日も食べてないって言ってた」


レノ(レノ)は反論しない。


器を抱えただけ。


アーロン(アーロン)も急かさなかった。


しばらくして。


レノ(レノ)が急に言った。


「アーロンさん」


「うん?」


「あなたは、あのとき言った」


彼は、器から上がる湯気を見ていた。


「カイルの名前を家に連れて帰れって」


アーロン(アーロン)は何も言わない。


「連れて帰った」


レノ(レノ)は横を見る。


あたしも視線を追った。


そこで初めて、坂の裏に石が何枚かあるのに気づいた。


墓じゃない。


少なくとも、中に人は埋まっていない。


ただ、簡単な石の標が一列に並んでいた。


名前が刻まれているものもある。


印が一つだけのものもある。


端に。


少し小さい石が一枚あった。


文字は、触られすぎて滑らかになっている。


カイル。


胸が急に詰まった。


本当に、彼は連れて帰ってきたんだ。


名前だけを。


レノ(レノ)は、その石を見た。


「でも、ときどき思う」


「俺があいつを、あそこに残したんだって」


アーロン(アーロン)も、しばらく見ていた。


「うん」


レノ(レノ)が顔を向けた。


そんな答えが返ると思わなかったらしい。


あたしもアーロン(アーロン)を見る。


彼はまだ、石の標を見ている。


「お前は確かに、あそこに残した」


……


危うく蹴りたくなった。


でもレノ(レノ)は動かなかった。


アーロン(アーロン)は続ける。


「お前は確かに、あいつの名前も家へ連れて帰った」


「どちらも本当だ」


風が、焚き火のほうから煙を少し運んできた。


淡い。


アーロン(アーロン)は視線を戻した。


「人は生きていると」


「たくさんの、ぶつかり合うものを抱える」


レノ(レノ)は器を持っている。


指がゆっくり強くなった。


「でも、みんな俺を英雄と呼ぶ」


アーロン(アーロン)はうなずく。


「うん」


「俺は違う」


「それは俺にはわからない」


レノ(レノ)は顔を上げた。


アーロン(アーロン)は彼を見る。


「でも、その名前を選んだのはお前じゃない」


レノ(レノ)は何も言わない。


「あの人たちが、なぜお前に礼を言うのか」


「それも、あの人たちのことだ」


アーロン(アーロン)は山の下を見た。


「生きている者の分まで決めるな」


レノ(レノ)は固まった。


長いあいだ。


答えなかった。


あたしも答えなかった。


だって、その言葉は、彼が自分を許すべきかどうかを言っているようじゃなかった。


ただ。


彼に助けられた人たちにも。


自分たちの分を覚えている資格がある、ということだ。


レノ(レノ)が死んだ人を覚えているみたいに。


あの人たちは、生き残った日を覚えている。


どちらも、嘘じゃない。


……


ようやくレノ(レノ)はうつむいた。


スープを一口飲む。


もう少し冷めていた。


眉をひそめる。


「まずい」


あたしはすぐ言った。


「エイリンが作った」


アーロン(アーロン)が言った。


「へえ」


遠くの家の中から、いきなり声がした。


「聞こえてるから!」


……


エイリン(エイリン)の耳、いったいどうなってるんだ?


絶対、空気の精霊だ。


レノ(レノ)は少し止まった。


それから声を上げて笑った。


今度は、もっと長い。


咳までした。


アーロン(アーロン)はあたしを見た。


「お前のせいだ」


「へえって言ったのはあなた」


「俺は、へえと言っただけだ」


「あなたのへえは、わかりやすすぎる」


レノ(レノ)はまだ笑っている。


途中で。


またゆっくり止まった。


急に元気になったわけじゃない。


急に何もかもわかったわけでもない。


ただ、うつむいて。


もう一口飲んだ。


今度は、まずいと言わなかった。


……


次の朝。


レノ(レノ)は、あたしたちより早く起きていた。


あたしが外へ出たときには。


もう水路のそばにいた。


手には、やっぱりあの槌。


昨夜、何もなかったみたいに。


アイラ(アイラ)が隣に立っていた。


手には、何か入った器。


「先に食べて」


「あとで」


「今」


「ここを――」


「レノ」


彼女は名前だけ呼んだ。


レノ(レノ)は止まった。


アイラ(アイラ)を見る。


最後には。


槌を置いた。


器を受け取る。


あたしは遠くに立っていた。


近づかなかった。


昨日見た女の子が、ちょうど走ってきた。


どこで拾ったのかわからない花を一本、手に握っている。


「英雄お兄ちゃん!」


レノ(レノ)は器を持ったまま。


肩がほんの少し止まった。


それから、彼女を見下ろす。


「そう呼ぶなって言わなかったか?」


女の子は花を彼の手へ押しつけた。


「でも、みんなそう呼ぶよ」


レノ(レノ)は、握られて少し潰れた花を見た。


何も言わない。


女の子はもう走っていった。


ずっと遠くまで行ってから。


また振り返って叫ぶ。


「英雄!」


レノ(レノ)は水路のそばに立っていた。


片手には朝ごはんの器。


もう片方には、ほどけかけた花。


長いあいだ。


もう、そう呼ぶなとは言わなかった。


ただ、うつむいて。


一口食べた。


あたしは急に思った。


英雄って、たぶんこういうものなのかもしれない。


誰より高いところに立っているんじゃない。


いつも、自分が正しかったかどうか知っているわけでもない。


ときには。


たくさんの人が生き残っただけで。


死んだ人を覚えるために残された者が。


たまたま、まだ立っている。

レノは少しでも良くなっているかな。


何もかも、少しずつ良くなっていけばいい。


そして僕たちも、一年間そのままにしていた問題を片づけに行かないとね。


次回——


第八節 安寧の谷

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