19-3 南へ
前に、少し雨が降っています。
どうやら私たちの速度も、「ゆっくり」になりそうです。
轟!
雨粒が砲弾みたいに幌の屋根を叩く。
馬車ぜんぶが震えた。
外は、もう雨の音しかない。
「林へ入れ!」
前の御者が声を張り上げた。
「曲がれ!」
車体がぐっと傾く。
あたしは慌てて車枠をつかんだ。
エイリンがヴァンスのほうへぶつかり、彼がさっと支える。
ザカは、そこまで運がよくなかった。
ごん、と一発。
頭がそのまま幌へ突き刺さった。
パフたちは、もうとっくに籠の中へ縮こまっている。
何本もの尻尾が、ぐちゃぐちゃに絡んでいた。
「前もこんなだった」
ザカは頭をさすりながら言った。
エイリンが顔を上げる。
「前も?」
ザカは答えなかった。
ただ、アーロンを見る。
アーロンは幌の垂れを少しだけめくった。
横殴りの雨が、すぐ車内へなだれ込んでくる。
「水精霊が、餘燼竜について上空まで来てる」
「ああ!」
エイリンはすぐわかったらしい。
「水精霊と大気精霊が遊んでるんだ」
あたしは、いつ破れてもおかしくない幌を見る。
ずいぶん楽しそうな遊び方だ。
轟!
ちょうど雷が落ちた。
エイリンは黙って首をすくめた。
……
車列は一台ずつ街道を外れた。
脇の林へ潜り込む。
大きく広がった梢が、ようやく雨を少し受け止めてくれた。
少なくとも、頭から何杯も水をぶっかけられている感じではない。
車が止まったばかりのころ。
御者は地面を確かめるため、すぐ飛び降りた。
しばらくしてから。
びしょ濡れのまま戻ってくる。
「ひとまず降りましょう」
「この雨じゃ、本当に進めません」
誰も反対しなかった。
足を地面につけた途端。
泥水が靴の中へ流れ込んできた。
ほかの馬車からも、人が次々と降りてくる。
皆で防水布を張った。
木と馬車の間に、どうにか雨をしのげる場所がいくつもできる。
あたしたちは、その一つへ押し込んだ。
最後に入ってきたのはザカだった。
彼が座った瞬間。
天幕が急に狭くなった。
エイリンは黙ってヴァンスのほうへ寄る。
ザカは一度見て、自分も肩をすぼめた。
あまり変わらない。
あたしは吹き出しそうになった。
御者は反対側に腰を下ろし、袖から水を絞っている。
「すみませんね」
アーロンは首を振った。
どうせ今は、誰も進めない。
雨が梢を叩く音は、ようやく少し怖くなくなった。
パフたちを籠から出してやろうとしたとき。
隣のエイリンが、ふいに静かになった。
森の奥を見ている。
ヴァンスも同じだった。
「どうした?」
エイリンは、すぐには答えない。
少ししてから言った。
「近いの」
「何が?」
ヴァンスが森を一度見た。
「家だ」
ようやく気づいた。
この数日、あたしたちは森の外縁を西へ進んでいた。
もっと奥へ入れば。
そこは二人の故郷だ。
あたしはエイリンを見る。
「じゃあ、先に帰らないのか?」
エイリンは少し驚き、また森のほうを振り返った。
それでも最後には首を振る。
「いいよ」
「あとで帰ればいい」
小さく笑った。
「時間なら、いくらでもあるし」
ヴァンスも何も言わない。
たぶん、同じことを思っている。
時間なら、いくらでもある。
あたしは濡れたパフの尻尾を撫でた。
たしかに、そうだ。
でも……
あたしが毛皮の歌を出てから、もう二年以上になる。
誰かの家の子は、また背が伸びただろうか。
部族の年寄りは、まだ何人、あのいつもの場所に座っているだろう。
祖父は元気だろうか。
きっと。
前は、二年なんて長いと思ったこともなかった。
今考えると。
ずいぶん長い。
エイリンはもう、ヴァンスに森の話をしていた。
あたしは、そんなことを口にしなかった。
……
雨がまた強くなった。
皆、少しずつ静かになる。
車輪にもたれて休む者。
雨で濡れた荷を整え始める者。
あたしは天幕の端に座り、外の雨を聞いていた。
ふいに。
耳が動く。
何か聞こえた。
顔を上げる。
同じときに、ザカも背を伸ばしていた。
目が合う。
次の瞬間。
雨の向こうから、また小さな声がした。
「……たす……け……」
遠い。
すぐに消えそうだった。
でも、十分だ。
あたしは立ち上がった。
ザカはもう雨の中へ飛び出している。
「人がいる!」
アーロンたちも、すぐあとを追った。
……
声は、もう少し奥の林から聞こえた。
ザカが先頭を行く。
ほとんど迷わない。
じきに木々の間で、横倒しになった馬車を見つけた。
片方の車輪が、そっくり泥にはまっている。
車体は斜面に引っかかっていた。
二頭の馬が、どうしようもなく取り乱している。
馬車のそばには、一人倒れていた。
片脚の半分が、車台の下敷きになっている。
あたしたちを見ると、その人はもう一度叫んだ。
ザカはまっすぐ馬車へ行った。
持ち上げようとする。
「待て」
アーロンが止めた。
彼はしゃがみ、泥地を見る。
馬車の下は、雨でほとんど柔らかくなっていた。
本当に持ち上げたら、そのまま斜面を滑り落ちるかもしれない。
ヴァンスはすぐ縄を出し、馬車をそばの木へ固定した。
あたしは先に、その人のそばへしゃがみ込む。
中年の男だった。
顔色がひどく白い。
膝とすねを触る。
よかった。
変な方向に飛び出しているものはない。
「いいぞ」
アーロンが言った。
ザカが、もう一度車台の下をつかむ。
「上げる」
馬車が少しずつ浮いた。
あたしとアーロンで、急いで男を引きずり出す。
悲鳴が、雨の音を消しかけた。
でも、これだけ叫べるなら。
たぶん、ひどすぎはしない。
もう一度、怪我を確かめる。
足は動く。
感覚もある。
まず固定した。
ヴァンスは怯えた馬を落ち着かせに行く。
エイリンは散らばった荷を木の下へ運んだ。
アーロンは、ひっくり返った馬車を見ている。
車軸にひびが入っていた。
でも、完全には折れていない。
まだ直せる。
商人はそれを聞くと、目に見えて力を抜いた。
自分で立とうとする。
けれど足が地面についた途端、顔がぐしゃりと歪んだ。
ザカは、彼の前にそのまましゃがんだ。
商人は、その背中を見た。
もう意地は張らなかった。
戻る途中。
ザカは男を背負っていた。
荷物を一袋余計に背負っただけみたいに見える。
……
あたしたちは布をもう一枚張り、商人をその下に座らせた。
あたしは脚を包み直す。
ほかの皆は、持ち帰れる荷から先に運んだ。
雨は、まだ止まない。
誰もすぐには何も聞かなかった。
男が温かい水を飲み。
顔色が少し戻ってから。
ようやく、あたしたちを見た。
「西へ行くのか?」
御者がうなずく。
次の宿場まで送るだけだと話した。
商人の手の中で、杯が止まる。
御者はすぐ気づいた。
前で何かあったのかと聞く。
男は、しばらく黙っていた。
「俺は、そっちから逃げてきた」
その一言で。
ザカまで顔を上げた。
アーロンの手にあった、車軸を直す道具も止まる。
商人自身も、何が起きているのかはっきり説明できなかった。
最初は、ただ獣が増えた。
特に鹿だ。
群れになって、南へ行く。
それから野羊や角鹿、いつもなら山裾をめったに離れないものまで動き始めた。
時期はばらばら。
けれど向かう先は、だいたい同じだった。
ザカが数を聞く。
商人は言った。
午後一つで、何十頭も見えることがあったと。
数日前に見た二頭の鹿を思い出す。
ザカは、最近は多いと言っていた。
たまたまじゃなかった。
エイリンは、明らかに別のことを考えた。
「森へ入ってた?」
商人は首を振る。
彼が通ったのは、森の西側を走る商道だった。
ずっと森に沿って進んだ。
でも中へは入っていない。
少なくとも、彼が見た獣たちも外にしかいなかった。
エイリンはうなずいた。
それ以上は聞かない。
けれど御者の顔は、少し曇った。
あたしたちも、これからその道を行くからだ。
道は切れていない。
橋も残っている。
問題は、道の上にいるものだった。
商人は袖をまくった。
腕には、かさぶたになった傷が何本もある。
深い。
小さな獣の仕業じゃない。
「赤肌熊だ」
彼は言った。
少し間を置く。
「二頭」
ザカが眉を寄せた。
一頭でも面倒だ。
二頭なら……。
この商人がここに座れているのは、たしかに運がよすぎる。
草を食べる獣が南へ行く。
追うものも、あとをついて行く。
狼。
熊。
それから、商人にも名前のわからないもの。
数日前まで、彼は小さな商隊と一緒だった。
その商隊も、獣に突っ込まれて散り散りになったらしい。
ほかの者がどこへ行ったのか。
彼は知らない。
ただ、自分は東へ走った。
振り返ることもできなかった。
エイリンは、森の近くの様子をもう少し聞いた。
商人の知ることは多くない。
森沿いに獣が多いのは確かだが、中へ入るのは見なかった。
ヴァンスは、ずっと口を開かなかった。
一度だけ、林の奥を見た。
……
さらに西の話になると、もっとあやふやだった。
北では今年、寒くなるのがずいぶん遅いらしい。
季節に似合わないほど暖かい場所さえある。
火で焼けたような土地を見た者もいる。
けれど商人は、そこへ行ったわけではない。
道で聞いた話ばかりだった。
ここで初めてアーロンが聞いた。
「いつからだ?」
商人は考える。
「一月ちょっと」
「もっと北では、もう少し早かったみたいだ」
エイリンがすぐアーロンを見た。
たぶん、あたしと同じものを考えた。
「餘燼竜?」
アーロンは一言だけ返した。
「かもしれない」
エイリンの目が、急に明るくなる。
でもヴァンスが一度見ると、その光は自分で引っ込んだ。
少なくとも、今は。
……
御者がもっと気にしていたのは、やはり道だった。
彼は商人に長く聞いた。
結局わかったのは、前の二つの宿場がまだ残っていることだけだ。
その先は。
もう何とも言えない。
迂回する商隊もある。
道そのものを諦める商隊もある。
荷は少なくなり、道中の物は高くなった。
よそ者を中へ入れたがらない村さえある。
待たずに荷をまとめ、東へ向かう者もいた。
アーロンが顔を上げる。
「どこへ?」
決まってはいない、と商人は言った。
皆、行ける場所を探している。
一番よく聞くのは、鉄港だった。
「あそこは、まだ人を入れてくれる」
彼は温かい水を握ったまま言う。
「働く気さえあれば、ひとまず置いてもらえるそうだ」
あたしは、鉄港の外にあった天幕を思い出した。
馬車に載せられた鍋。
毛布。
椅子。
外された一枚の扉。
商人がそのあと何を話したのか、少し聞いていなかった。
とにかく、彼も鉄港へ行く。
御者はようやく、最近東へ向かう馬車がいつも満員だった理由を知ったのだろう。
雨はゆっくり弱まった。
森に、また少しだけ音が戻る。
ほんの少しだけ。
ザカは、ずっと外を見ていた。
「どうした?」
彼は耳を傾ける。
「静かすぎる」
あたしも聞いた。
雨。
水滴。
葉。
ずっと遠くの鳥の声。
何かが、たしかに足りない気がした。
商人も聞き、前の晩も似たようなものだったと言う。
西から来る道中ずっと、いつもより静かだった。
今度はアーロンも聞かなかった。
ただうつむいて、車軸を直し続ける。
……
夕方。
雨はまだ完全には止まず。
車列は林で夜を越すことにした。
商人の脚はひどく腫れていた。
幸い、悪くはなっていない。
あたしは薬を替えた。
今夜はもう、勝手に動くなと言う。
男は、ずいぶん素直にうなずいた。
すぐに約束する人ほど、信用できない。
包帯をもう一周巻いた。
ザカは天幕の端で食べている。
エイリンとヴァンスは、濡れた荷を整えていた。
アーロンはまだ馬車を直している。
ときどき御者と言葉を交わした。
誰も、商人に西のことを聞き続けなかった。
知っていることは、あれだけだ。
その先は。
聞いたからといって、急に答えが生えてくるわけじゃない。
暗くなると、森はいっそう静かになった。
あたしは毛布に横たわり、天幕の屋根から水が一滴ずつ落ちるのを聞いていた。
昼間の言葉を、また思い出す。
時間なら、いくらでもある。
エイリンの家はすぐそこだ。
帰りたくなれば、いつでも帰れる。
あたしの家は、ずっと遠い。
一日進むごとに、少しずつ近くなるだけだ。
目を閉じた。
それ以上は考えなかった。
……
翌日。
雨は薄く降るだけになり、雲もずっと軽くなっていた。
水滴がどこにでもぶら下がっている。
ときどき葉の先から落ち、ちょうど人の頭に当たった。
アーロンは、もうずいぶん前から起きていた。
昨日ひびの入った車軸は、固定し直されている。
御者が何度か押すと、車輪は無事に一周回った。
「鉄港までは保つ」
アーロンが言う。
「宿場で換えればいい」
商人は何度もうなずいた。
あたしも、彼の脚をもう一度見た。
地面は踏める。
でも長く歩ける状態じゃない。
少なくとも今度は、自分が平気だと証明しようとはしなかった。
皆で荷を馬車へ戻す。
商人の荷はいくらか失われた。
それでも大半は残っている。
ザカが最後の箱を載せた。
商人は、またあたしたちへ礼を言う。
ザカはいつものように、一度うなずいただけだった。
まるで何もしていない顔をしている。
……
彼はやはり、東へ向かうことにした。
この道には馬車が多い。
ゆっくり行けば、ほかの人たちについていける。
最後にどこへ行くのか、誰かが聞いた。
やはり鉄港だ。
皆、今はそう言う。
人を受け入れてくれる。
仕事がある。
少なくとも、いられる場所がある。
本当かどうかは、彼も知らない。
でも引き返すよりはいい。
アーロンは、最後にもう一度車輪を見た。
急ぎすぎるな、と商人に言う。
商人は御者台へ上がり、手綱を引いた。
馬車はゆっくり東へ進む。
遠くまで行ってからも。
彼は振り返って、手を振った。
エイリンも振り返す。
馬車が道の向こうへ消えるまで。
御者は何も言わなかった。
それから口を開く。
「先に、一つ話があります」
もともと彼が送るのは、次の宿場までだった。
前なら、そこへ着けば次の西行きの馬車が自然に見つかった。
今もあるかどうかは、彼には約束できない。
商人の話を聞いた今、彼も余計なところまでは行くつもりがなかった。
もともと、自分の行く道ではない。
自分も馬も、試す理由がない。
アーロンはうなずく。
「それでいい」
御者は彼を見た。
「それでも行くんですか?」
「ああ」
彼はもう止めなかった。
次の宿場に着いたら、まず先の道をよく聞けと言う。
……
皆がまた馬車へ乗った。
雲は散り始めている。
裂け目から日が落ちてきた。
森じゅうが濡れている。
エイリンが最後に乗り込む。
片足をかけたところで、急に止まった。
顔を上げる。
あたしもつられて見た。
雲は高い。
灰白色の大きな塊。
間から、青い空がいくつも見えている。
何もない。
少なくとも、あたしには見えなかった。
「どうした?」
エイリンはしばらく見ていた。
「何でもない」
……
彼女の口からその二文字を聞くのは、本当に変だった。
馬車がまた動く。
林を出てからも、あたしは我慢できずに聞いた。
エイリンは、もう散り始めた雲を振り返る。
「さっき、影があった」
「すごく高いところ」
少し止まる。
「竜みたいだった」
アーロンが目を開いた。
ザカもそちらを見る。
あたしは聞いた。
「餘燼竜か?」
「かもしれない」
また、かもしれない。
でもエイリンは、いつもみたいに聞き返さなかった。
ただ空を見続ける。
しばらくしてから、つけ足した。
「一頭じゃない」
雲はゆっくり散っていく。
影は、もう二度と見えなかった。
……
御者が手綱を鳴らした。
馬車はまた、森沿いの道へ戻る。
右は森。
左は、雨に洗われた原っぱ。
道は泥だらけで、昨日よりずっと遅い。
じきに、遠くに数頭の鹿が見えた。
草地を横切っていく。
南へ。
もう少し行くと、また小さな群れがいる。
やはり南へ。
ザカはそれを見ても、何も言わなかった。
エイリンは先に鹿を見て、それから雲を見上げる。
アーロンは車枠にもたれ、同じように見ていた。
あのこと全部に、つながりがあるのかどうか。
誰にもわからない。
あたしたちにわかるのは。
前の道が、あの商人が逃げてきた方向だということだけだ。
車輪がまた泥へ沈む。
一回。
また一回。
西へ進む。
あたしたちも、進み続けた。
北の地では、本当に何かが起きているようです。
赤肌熊は、大きなものなら三尺にもなります。
そんな猛獣まで逃げているなら、そこにはいったい何があるのでしょう?
このすべては、謎の餘燼竜と関係しているのでしょうか?
どうぞ第四節「悪いもの」をお楽しみに。




