18-1 光る島
黑稻相癸です。
お待たせしました。
第十八章『繁茂仙境』ができあがりました。どうぞ第一節「光る島」をお楽しみください。
至頂群峰を離れて四日目。ようやく餘暉号にも、笑う者が出てきた。
仲間がまだ生きているのを見て、喉の奥から無理やり絞り出すような声じゃない。
本当に、笑っていた。
修理した木桶を甲板の上で転がして、別の誰かに追いかけられながら怒鳴られる者がいた。夜番の交代の隙に、仲間の寝床の脇へ死んだ魚を吊るした者もいた。クレイゲンでさえ、誰かを怒鳴る声にここ数日より少し力が戻っていた。
至頂群峰は後ろにある。
海は、やっぱり海だった。
それ自体は、喜ぶようなことじゃない。
けれど、海そのものが目の前にそそり立ち、その下でさえ向きが変わる場所を見たあとでは、いつもの波音が急に、とても大事なものになった。
餘暉号の壊れたところは、まだ直りきっていない。船首に打ちつけたばかりの板は色が薄く、遠くから見ると鱗が一枚欠けたみたいだった。メインマストの根元にも、留めるための太い縄が二重に巻かれている。
それでも船は、しっかり進んでいた。
左舷から風が吹く。塩気と、日に温められた帆布の匂いを連れて。
足の下には水がある。
空は、上にある。
あたしは毎日、もう一度ずつ見てしまう。
ちゃんと壊れていないか、確かめるために。
それに、次の目的地も近かった。
繁茂仙境。
その四文字だけで、水夫たちの手はいつもより少し遅くなった。
「仙境には、エルフがいるのか?」
縄束に腰かけた若い水夫が聞いた。
隣にいた者が、すぐ答える。
「そりゃいるさ。しかも、たくさんな」
「行ったことあるのか?」
「叔父の友だちの兄貴が行った」
「それのどこが行ったことになるんだよ」
「そこにいるエルフは月光みたいに綺麗だってさ」
帆布を繕っていたロイが、すぐに顔を寄せた。
「俺も聞いたことがある。あそこの果実は摘まなくても、熟れたら勝手に手の中へ落ちてくるんだって」
ハーンは、顔も上げなかった。
「おまえが聞いたことのない場所なんて、あるのか?」
ロイはむっとする。
「今度は本当だ」
「前は巨大群礁に、歌う人魚がいると言っていただろう」
「海霊だって歌う」
「あれは人の漁歌を、おまえが求愛だと聞き違えただけだ」
近くですぐ、笑い声が上がった。
ロイは口を開きかけ、結局、手にした針と糸をぴんと引いた。
「とにかく、あそこにはきっといい物がある」
別の水夫が、拭きかけの杯を置く。
「島の川は水じゃないって、俺は聞いたぞ」
「じゃあ何なんだ?」
「酒だ」
甲板が一瞬、静かになった。
それからみんな、本気の顔で彼を見た。
薬袋を整えていたあたしまで、手を止めた。
ずいぶん怪しい話だった。
けれど、木と草しかないよりは、水夫たちもこっちを信じたかったらしい。
ちょうどクレイゲンが船尾から歩いてきた。しばらく聞いていたんだと思う。肩が一度震え、それからとうとう笑い出した。
「ははは!」
手を上げ、船首の方を指す。
「アーロン。この腹ぺこどもに、あそこに何があるのか教えてやれ」
アーロンは船縁にもたれ、小さな硬い木片を削っていた。呼ばれると、期待でいっぱいの顔を並べた一同を見回した。
「木」
みんな少し待った。
「たくさんの木」
川が酒だと言った水夫が、顔をしかめる。
「……それから?」
アーロンは目を落とし、また木を削り始めた。
「草」
誰も何も言わなかった。
波が船腹を叩く。
さっきまで一番いい服を引っ張り出すかどうか話していた者たちも、みんな散っていった。杯を拭いていた者はまた杯を拭き、帆布を繕っていた者はまた帆布を繕う。ロイまで、夢の中の酒の川を誰かに干上がらされたみたいな顔をしていた。
あたしはアーロンを見る。
「本当に、それだけ?」
「花もある」
「それ、あまり良くなってない」
彼は少し笑った。
「おまえには違う」
言い返そうとした。
でも、少し考えて、やめた。
見てみたい気持ちは、たしかにあった。
ほんの少しだけ。
……
午後の日差しは薄雲に隠れた。甲板もそれほど熱くない。あたしは薬袋とノートを船尾の陰へ運び、中の乾いた葉、根茎、残り少ない薬液の瓶をもう一度数え直した。
薬袋の中には、小さな水晶の瓶が一つある。
瓶の外側は布で二重に包まれ、一番奥へ押し込んである。瓶越しに見える金色の液体は、夕暮れのひとかけらを閉じ込めたみたいに、底に静かに張りついていた。
イデリルの根の長老がアーロンへ託した、生の樹脂だ。
彼は自分で持たなかった。
乗船してまもなく、保管をあたしに任せた。自分の物は外套の中や船縁や、どこかの怪物の腹のそばへ置き忘れがちだから、という理由で。
最後の一つは、冗談に聞こえなかった。
だから薬袋を整えるたび、ちゃんとあるか確かめていた。
エイリンがあたしを見つけたとき、ちょうど水晶瓶を戻すところだった。
彼女は後ろからひょいと顔を出し、あたしは危うく瓶を板の隙間へ落としかけた。
「それ見てたの?」
「歩く音、しないの?」
「するよ」
彼女は悪びれずに言った。
「あたしが集中してただけ」
瓶をまた包み直す。
「どうしたの?」
エイリンはあたしの隣に座った。薬袋へ隠した小さな膨らみを見つめている。その視線がすぐ別のものへ飛んでいかないのは、珍しかった。
「その樹脂って、結局何に使うの?」
あたしも知りたかった。
ただ、アーロンは話題にするたび、「返しに行く」としか言わない。金色の樹脂の瓶なんて、誰かの手紙を預かっているのと変わらないみたいに。
少し離れたアーロンを見る。
彼は滑車の詰まりを外すのを、水夫一人と手伝っていた。その水夫は汗だくだったが、アーロンの指は落ち着いている。
あたしは声を張った。
「アーロン」
彼が振り向く。
「樹脂は何に使うの?」
彼はすぐには来なかった。外した木栓を水夫に返し、手を拭いてから、あたしたちのそばに腰を下ろした。
「今、大陸で樹精をほとんど見かけない理由を知っているか?」
あたしは彼を睨んだ。
知らないとわかっていて、聞いている。
けれど先に口を開いたのはエイリンだった。
「森精霊が、人の多い場所に残るのを許さなくなったから」
アーロンは彼女に目を向け、うなずいた。
「それは後の話だ」
あたしの薬袋のそばから乾いた海藻を一本取り、板の上へゆっくり円を描く。
「大災厄の前には、大陸にもたくさんの樹精がいた」
あたしがこの種族を見たのは、一度だけだ。
部族の年寄りは、山や森で一番古い木は、風のない夜に話すことがあると言っていた。迷ったら、気軽に近づくな。道を教えてくれるかもしれない。でも、何十年も前に降った雨の話をしたいだけかもしれない、と。
昔のあたしは、子供が森の奥へ行かないようにするための話だと思っていた。
アーロンが言う。
「暮らしは、あまり良くなかった」
エイリンの指先が、膝の上で止まる。
あたしは聞いた。
「樹精は、どうやって生まれるの?」
アーロンはあたしを見た。
「睨むんじゃなかったのか?」
「今回は先に聞いた」
口元が少し動いた。
「森精霊が、木に命を与えた」
「どうして?」
「最初は、友だちが欲しかっただけだ」
風が帆の間を抜けていく。
あたしは少し待った。
続きはなかった。
「それだけ?」
アーロンはうなずく。
「あの方たちは森が好きだ」
木の枝に見立てた海藻を見る。
「木々は長いあいだ、そばにいた。だからある日、そのうちの何本かに、聞くことと答えることをできるようにした」
その理由は変だった。
でも、どう言い返せばいいのか少し困る。
何かを守れと、誰かに頼まれたわけじゃない。
何か大きなことをしろと、無理にやらされたわけでもない。
森精霊が、友だちに話してほしかっただけだ。
エイリンもしばらく黙っていた。
「でも樹精には、たくさん魔力がある」
と、アーロンは続けた。
エイリンが聞く。
「それは、いいことじゃない?」
「そうだ」
アーロンの声は平らだった。
「ならず者たちも、そう思った」
あたしの耳が、ゆっくり後ろへ伏せる。
アーロンは続けた。魔具には魔力がいる。術式を刻まれた物の多くは、誰かが力を補ってやらなければならない。自分で魔力を生み出せる種族は少ない。けれど竜人には爪と翼があり、十分な力もある。エルフは歩けるし、逃げられるし、魔法も使える。
樹精は、木だった。
まったく動けないわけじゃない。
本気で根を抜けば、歩くこともできる。
でも、とても遅い。
それに根を土へ下ろして長いから、周りの木一本ずつの匂いを知っている。どの根が水を欲しがっているか、どの小獣の巣が毎年どこで冬を越すかも知っている。
海藻で描いた円を見る。
「あまり動けない、木の人……」
あたしはつぶやいた。
「ああ」
エイリンは眉を寄せる。
「でも、魔法は使える」
「その通りだ」
アーロンは少し間を置いた。
「だが、木なんだ」
最初に思い浮かんだのは火だった。
火は獣を追い払える。
肉を煮ることもできる。
乾いた林を半日で黒い木だけにしてしまうこともできる。
「火が怖い」
あたしは言った。
アーロンがあたしを見る。
「自分たちが怖いかどうかは、一番大事なことじゃない」
すぐにわかった。
木を一人、捕まえたいなら。
先に切り倒す必要なんてない。
そばに薪を積み上げればいいだけだ。
アーロンの話では、樹精を工房の近くへ連れていき、毎日、魔具へ魔力を補わせる者もいた。樹精が拒めば、そいつらは周りの木を焼いた。若木を焼いた。森に棲む鳥や獣を焼いた。
「樹精は抵抗できる」
アーロンは言った。
「だが、森ごと燃えるのを見たくはなかった」
ふと、前に見た鉄の輪を思い出した。
何人かの首に、はめられていたもの。
錆、汗、傷、それから怖がっている匂いが混じって、とても濃かった。押されて歩く彼らは、目を勝手に動かすこともできないみたいだった。
口には出さなかった。
ただ、薬袋の口を少し強く引いた。
布越しに、水晶瓶が手の甲へ触れる。
中の生の樹脂は軽い。
それなのにあのときは、薬袋にある石瓶を全部足したより重く感じた。
エイリンは、もう口を挟まなかった。
しばらくしてから、ようやく聞く。
「あの大災厄は……森まで焼いたの?」
アーロンは海を見た。
午後の光が赤くなり始め、海の上には誰かが薄い血を撒いたみたいだった。
「たくさんの場所が焼けた」
彼は言う。
「樹精の多くは、本当は逃げられた」
あたしは眉を寄せた。
「じゃあ、どうして逃げなかったの?」
風が一度、止まった。
海全体から風が消えたわけじゃない。
ただ、ここだけ帆が一瞬、垂れた。
アーロンは遠くを見て、長いあいだ口を開かなかった。
「森は逃げられない」
あたしはもう聞かなかった。
泥へ根を下ろしている、普通の木。
葉を二枚出したばかりの若木。
穴に隠れ、遠くへ飛べず、速く走れないものたち。
樹精は根を抜ける。
でも、そばの森にはできない。
そのあと、森精霊たちはひどく自分を責めたのだと、アーロンは言った。
最初はただ、友だちが欲しかった。
それなのにその友だちは、魔力のせいで目をつけられ、閉じ込められ、森と一緒に火の中で死んだ。
それからも森精霊は、いくつかの木を目覚めさせる。
けれど、新しく生まれた樹精を人のいる場所へ出すことは、ほとんどなくなった。
今、ほとんどの樹精は、大陸から遠い海の上にいる。
エイリンが顔を上げた。
あたしもつられて見る。
アーロンは手を伸ばし、前方を指さした。
「あそこだ」
日が落ちかけていた。
海には最後の暗赤色だけが残っている。その向こうに、小さな光があった。
最初は別の船かと思った。
海の上で誰かが火を焚いているのかもしれない、とも。
でも波に揺れていない。
しかも、だんだん大きくなる。
甲板の者たちも、ゆっくり気づいていった。
木と草だと聞いて散っていった水夫たちが、また一人、また一人と船縁へ集まる。ロイは縄束の上にまで乗り、ハーンに引っ張られた。海へひっくり返りそうだったからだ。
餘暉号は、その光へ向かって進む。
最初に届いたのは、匂いだった。
前から海風が吹いてきたとき、あたしの鼻は一気にいっぱいになった。
花。
湿った土。
折れたばかりの枝葉の青い匂い。
酸っぱくなりそうなほど甘い果実の香り。
温かな樹脂。
それから、嗅いだことのない何種類もの薬草の匂い。細く混じり合い、誰かが山一つ分の薬箱を海風の中へひっくり返したみたいだった。
あたしはほとんどすぐ、ノートへ手を伸ばした。
それから止めた。
多すぎる。
鼻だけでは、どの匂いがどこから来たのか、今はまるで分けられない。
少し悔しかった。
だから、もっと陸へ上がりたくなった。
ついに島が、夜の中から姿を見せた。
大きくはない。
少なくとも、果てがないほど大きかった至頂群峰の山々に比べれば、この島は海に生えた濃い緑の獣毛の塊みたいに小さい。
でも、驚くほど明るかった。
夜はもう完全に落ちているのに、島は暗くならない。
深緑の梢では青い光が葉脈を這い、低い花むらは淡い紫を散らしている。枝先から下がる果実は温かな黄を透かしていた。小さな光の粒がたくさん林の中を舞い、集まると砕いた灯火みたいで、散ると風に飛ばされた花粉みたいだった。
岸に近い海の底では、太い根もかすかな緑を帯びている。
あたしは少し、見惚れた。
頭に最初に浮かんだのは、鉄港の夜の灯りだった。
でもここには家がない。
通りもない。
本当の灯りは、一つもない。
生きている島全体が、暗闇の中でゆっくり息をしているだけだった。
エルフや酒の川を話していた者は、もう誰も口を開かなかった。
餘暉号は速度を落とし、浅そうな岸へ近づく。
あたしはもう、湿った土の匂いを嗅いでいた。
樹皮を剥いだときにだけする、あの苦くて甘い匂いも。
そのとき、右舷から叫び声がした。
「船長! 船の下に何かいる!」
みんながすぐ、そちらへ押し寄せる。
あたしも黒い水を覗き込んだ。
最初は何も見えない。
それから、長く太い影が一本、島の方から船底をすべるように横切った。
二本目。
三本目。
水の下で曲がり、巨大な海獣がゆっくり触手を伸ばしているようだった。
甲板の匂いが、一気に変わる。
緊張した汗。
剣を抜くとき、鞘革が擦れて出る油の匂い。
銛を取りに行く者がいる。
帆へ走る者もいる。
「勝手に動くな!」
クレイゲンが怒鳴った。
「まず、よく見ろ!」
次の瞬間。
どん。
餘暉号が、軽く震えた。
ぶつかったんじゃない。
大きな丸太が船首に当たり、船体を半分ほど横へ押しやったような感じだった。
クレイゲンはすぐ舵を切る。
「修正! 岸へ寄せろ!」
船はまた島へ近づく。
もう一度。
どん。
今度は船の横だった。
黒い水の中の影が、少し近くへ浮かんだ。あれの表面は鱗でも、ぬるい皮でもない。
樹皮だった。
太い根が水中から餘暉号を支えている。強くぶつけるわけではない。ただ、ひどく頑固に、外へ押している。
すると別の側から、さらに二本の根が回り込んできた。
船体を押さえる。
一度。
もう一度。
近づかせない。
水の下で木が船殻を擦り、低く鈍い音を立てる。餘暉号はゆっくり外海へ向きを変えた。岩の隙間へ潜り込もうとする魚を、何かが枝でつついて外へ出すみたいに。
クレイゲンは舵輪を握りしめ、顔を苦根草を半樽ぶん飲み込んだみたいに険しくした。
「いったい、何なんだこれは?」
アーロンはずっと船首に立ち、動かなかった。
水の下の根を見て、それから夜の中でまだ光っている島を見る。
「ぶつけるな」
クレイゲンが振り返る。
「何だと?」
アーロンの声は大きくない。
それでも近くにいた全員が聞いた。
「船は拒まれている」
お読みいただきありがとうございます。
船は拒まれてしまいましたね。
次の節では、いよいよ仙境の中へ入ります。
でも、どうやって入るのでしょうか?
この機会に、皆さんへお伝えしておきたいことがあります。
『孤旅』も、残りの章へ入り始めました。
安心してください。完結が近いという意味ではなく、この「前日譚」が終わりへ近づいている、ということです。
そうです。これまで描いてきた数々の冒険は、実はすべて『孤旅』の前日譚でした。
次の本編は、すでに予定に入っています。オーデラスの世界にある魔法を中心に、物語を広げていく予定です。どうぞお楽しみに。
どうぞ第二節「根は覚えている」をお楽しみに。




