第9章:褌の英霊と、別海町に響く股間粉砕の銃声(クリーンヒット)
「良太。風呂は沸いているか? ……なら、早くその風呂場へ連れて行け」
リムから真顔で「カメムシの匂いがする」とバッサリ切り捨てられた岡田竹蔵水兵長は、さすがにショックだったのか、ガックリと肩を落としながら、しかしどこか軍人らしい毅然とした態度で俺を促した。
俺とリムは、これ以上のカメムシテロを部屋の中で拡大させないためにも、深く無言で頷いた。
離れを出て、別海町の冷たい夜霧が立ち込める牧場の敷地を横切り、母屋へと向かう。
道中、竹蔵は暗闇の向こう――岡田牧場の敷地の端で「キエェ……」と寂しそうに丸まっている巨大なプテラノドンと、その横で悠然と寝そべるエゾオオカミのウルフを懐中電灯の光越しに見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「なあ、良太。あの、やたらめったらバカでかい『ヤマタノオロチ』と『樺太犬』は、ここで飼っているのか?」
「……は?」
俺は唖然とした。プテラノドンをヤマタノオロチ、エゾオオカミを樺太犬って、おじいちゃんの昭和初期フィルターも大概にしてほしい。
隣を歩くリムに至っては、完全にシカトを決め込んでいた。汗と硝煙と血が混ざり合った竹蔵からのあまりの悪臭に、もはや一言も話す気すら起きないらしい。口元の刺青が、怒りと不快感でぴくぴくと痙攣している。
ガラガラ、と母屋の引き戸を開けて玄関に入る。
居間の方を見ると、親父の博や兄貴夫婦はすでに寝室へ引っ込んだようだったが、まだお袋の由里子だけが起きて片付けをしていた。
(あ、……やばいっ!!!!)
俺は直感的に、またしても全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。
いくらなんでも、深夜の0時に、泥と硝煙にまみれた本物の軍服を着た、カメムシの匂いをプンプンと撒き散らす不審な小男を連れて帰ってきたのだ。さすがのお袋だって、今度こそ大パニックを起こして警察に通報するに決まっている。
案の定、玄関に現れた俺たちを見たお袋は、手にした雑巾を持ったまま「……え?」と目が点になり、呆然と立ち尽くした。
「やべえ……なんて説明したら……!」
俺が焦り出した、その瞬間。後ろからリムがあっさりとした、透き通るような声で言い放った。
「お母様。……先ほど、私がアイヌの伝統の祈りを、聖なるシマフクロウ(コタンコロカムイ)と共に夜空へと唱えたところ――こちらの岡田家のご先祖様が、遥か異郷の地よりみえられましたわ」
「……」
お袋は目を点にしたまま、じっと軍服姿の竹蔵を見つめた。
竹蔵は、九〇式鉄帽こそないものの、泥にまみれた海軍三種軍服の襟を正し、直立不動の姿勢で立っている。その身体からは、牛糞の百倍のカメムシ臭が漂っている。
「……まぁぁぁぁっ! リムちゃん、そうだったの!?」
お袋はポンと手を叩くと、一瞬で満面の笑みを咲かせた。
「早く言ってよぉ、びっくりするじゃない! ご先祖様だなんて! まぁまぁ、遥々こんな遠いところまで、本当にお疲れ様です! さあさあ、早くお風呂に入って、長年の垢を綺麗に流してきてちょうだい! 石狩鍋の残りも、台所にまだたっぷりありますからね!」
「……う、うちのお袋、本当に大丈夫なのか……?」
俺は目を見張った。もはやポジティブフィルターというより、スピリチュアルに対する受容体がバグり散らかしている。アイヌの美少女シャーマンが言えば、戦跡から召喚された悪臭プンプンの軍人すら「ちょっと遠くから来た親戚のご先祖様」としてノータイムで受け入れてしまうのだから、岡田家の女性陣の器の大きさは宇宙規模だ。
「かたじけない、ご婦人……。では、お言葉に甘えて湯をいただく!」
竹蔵は感激した様子で脱衣所へと突撃すると、海軍仕込みの凄まじい手際で、泥にまみれたカーキ色の軍服を脱ぎ捨てた。
長年着古されて生地が薄くなった軍用シャツ、擦り切れた袴、汗を吸いすぎてカチコチになった軍足(靴下)、そして最後に、大日本帝国軍人の最後の砦である、真っ白な――いや、長年の戦火で薄汚れた「褌」を、潔く引き抜いて放り投げた。
一物も身にまとわない、完全なる丸裸になった竹蔵。
その身体は、長年の戦場で鍛え上げられつつも、戦況の悪化による栄養失調でガリガリに痩せ細っており、あちこちに銃創や爆破の破片の痕が刻まれていた。そんな痛々しい姿のはずなのだが、お風呂の湯気の向こうで、ひいおじいちゃんはニヤニヤと、実に岡田家の男らしい、下品極まりないゲス顔を浮かべていた。
脱衣所の引き戸の隙間から、バスタオルを持ったリムを覗き込み、竹蔵は嬉しそうに股間をぶらつかせながら言い放った。
「がははは! いやぁ、素晴らしい風呂だ! ――時に、リムちゃん。せっかくだから、わしのこの傷だらけの背中と……ついでに、この『キンタマ』を優しく流してはくれないか? ぐへへ、お国の為に戦った英霊への、ちょっとしたご褒美としてだな――」
――ヒュッッッ!!!!
言葉の後半は、肉を引き裂くような凄まじい「風切り音」によって完全に掻き消された。
アイヌの美少女シャーマン・リムの、しなやかな右脚が、脱衣所の狭い空間で神速のローキックとなって一閃した。
――ドゴォォォォォォンッッッッ!!!!!
岡田牧場の母屋に、まるで三八式歩兵銃の弾丸が至近距離で炸裂したかのような、凄まじい打撃音が響き渡る。
リムの、寸分の狂いもない鋭い蹴り(アンクルホールドを仕掛けるかのような完璧な角度)が、竹蔵がニヤニヤしながら突き出していた股間の中心部へ、寸分の狂いもなくクリーンヒットしたのだ。
「ぶふぇぇぇぇぇぇあばばばばばばばっっっっ!!!!」
竹蔵水兵長は、人間が発してはならない超高音の悲鳴を上げながら、股間を押さえてその場で垂直に一メートルほど跳ね上がった。そして、そのままお風呂の洗い場のタイルへと、魚のように激しくのたうち回りながら墜落した。
あまりの激痛に、竹蔵は再び完全に白目を剥き、口から「あわわわわ」と大量の泡を噴き散らしながら、カブトムシの幼虫のように丸まってピクピクと痙攣している。
タラワで米軍の12.7mm重機関銃の猛射にすら怯まなかった英霊の誇りは、現代の別海町のお風呂場で、美少女の物理的な一撃によって完全に粉砕(玉砕)された。
「……ハァ、ハァ……。この、救いようのない変態どスケベ一族が……。神々の祟りの前に、私が直接、その歪んだ遺伝子をここで断ち切ってあげますわ……!!」
リムは、湯気の中で右脚を高く上げた美しいポーズのまま、手の甲の刺青を真っ青に激怒させて、ハァハァと激しい息を荒らげていた。その目は、今度こそ完全に「岡田家の男絶滅」を誓う、恐ろしいハンターのそれだった。
脱衣所の外で、全裸につなぎ姿のまま、自分の股間をギュッと押さえてガタガタと震え上がるひ孫の俺。
(ひいじいちゃん……おっぱいは良くても、キンタマは絶対にダメだよ……!!)
別海町の夜は、カメムシの匂いと、股間を強打された英霊の哀れな呻き声を乗せて、ますます予測不能な爆笑の混沌へと沈んでいくのだった。
(第9章・終わり)




