第8章:カメムシの匂いがする英霊と、岡田家の血脈
白目を剥いて口から泡を噴き、ガレージの隅でピクピクと痙攣していた大日本帝国海軍・岡田竹蔵水兵長を、俺はなんとか抱き起こした。
いくら「変態どスケベ英霊」とはいえ、タラワの地獄から召喚された俺のひいおじいちゃんだ。全裸につなぎ一丁の俺は、フンスと怒り心頭のリムにペコペコと頭を下げながら、竹蔵をずるずると引きずるようにして、自分のテリトリーである「離れ」の室内へと連れ戻した。
パイプ椅子に腰掛けさせた竹蔵は、驚くほどタフだった。
さっきのリムの音速超えビンタによるダメージからケロッと復活すると、俺が差し出したサッポロクラシックの缶をグイッとあおり、マールボロ・赤マルを美味そうに吸い始めた。
「プハァァァ……! う、美味い……! 生き返る、いや、もう死んどるが、文字通り生き返る心地だ! 南洋の、あの泥水のような配給水とは比べ物にならん!」
竹蔵は目を細め、タバコの煙をご機嫌そうに吐き出す。
俺は苦笑いしながら、冷蔵庫からキンキンに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを彼に手渡した。竹蔵はそれを受け取ると、現代の透明なプラスチック容器に一瞬驚きつつも、キャップを開けて一気に喉へと流し込む。
「ふーっ……。これほど澄んだ冷たい水が、こんな便利な筒に入って飲み放題とは、素晴らしい時代だな。良太よ、感謝するぞ」
じわりと目頭を熱くして涙ぐむひいおじいちゃん。
戦後八十年の奇跡の再会、そして超大作歴史ドラマのような感動のひととき――のはずなのだが、俺の鼻腔はさっきから限界を迎えていた。
(……っていうか、めちゃくちゃ臭うな……)
離れの狭い室内を満たしているのは、マールボロの匂いだけではない。
赤道直下の強烈な熱気、何ヶ月も風呂に入っていない人間の凝縮された汗、熱砂の泥、そして米海兵隊との壮絶な肉弾戦で染み付いた、生々しい硝煙と血の臭い。
岡田牧場で毎日嗅いでいる牛糞の、優に百倍はあろうかという、脳髄を直接揺さぶるような「戦場の激烈なディテール」が、彼の海軍三種軍服から強烈に漂っているのだ。
「ひいじいちゃん……落ち着いたら、早くお風呂に入りなよ」
俺が鼻をひくつかせながら言うと、竹蔵はタバコを灰皿でもみ消し、部屋の隅で未だに警戒を解かずにこちらをじっと見つめているリムへと視線を向けた。
「なあ、良太。……あのアイヌのお嬢さんは、お前の嫁さんか?」
不意の質問に、俺の心臓がトクンと跳ねる。
さっき脱衣所で「一生養う」と約束したばかりだ。裏切れば一族もろとも神々の祟りに遭うという、ある意味で血の誓いを交わした関係。
俺は少し照れくさそうに頭を掻きながら、小さく頷いた。
「……まあ、そうだよ」
すると、竹蔵は「ハハハ!」と豪快に笑い声を上げ、ビール缶を傾けた。
「やはり血は争えんなぁ! 良太、実はな……わしの女房――お前にとってのひいおばあちゃんも、アイヌの血を引くおなごだったのだぞ」
「えっ!? 本当に!?」
初耳だった。親父からもそんな話は聞いたことがない。
竹蔵は遠い目をしながら、懐かしむように言葉を紡ぐ。
「ああ、本当だ。昭和のあの頃は、今よりもずっと偏見や差別も多かった時代だがな。周囲の反対を押し切って一緒になったんだ。応召されて南洋へ送られるまでの、本当に短い結婚生活だったが……わしは、死ぬほど幸せだった。……アイヌのおなごはな、本当に家庭を大事にするし、裁縫も料理も、驚くほど上手なんだぞ。女房が作ってくれた熊肉の温かい鍋や、冬に食べたルイベの味は、タラワの塹壕の中でも毎晩のように夢に出てきたものだ」
しみじみと語るひいおじいちゃんの言葉には、八十年の時を超えてなお色褪せない、亡き妻への深い深い愛が詰まっていた。
なるほど、だからこそリムが「苦しかった思いをぶつけて」と言ったとき、竹蔵の頑なな心が解けたのだ。岡田家とアイヌの不思議な縁に、俺も思わず胸が熱くなり、リムの方を見た。リムもまた、その二重瞼の大きな瞳を少し和らげ、竹蔵の語る過去の記憶に耳を傾けている。
感動的な、岡田家の血脈のルーツが明かされる沈黙。
しかし、竹蔵水兵長は、やはり岡田家の男だった。
「――それに、何と言ってもな、良太。アイヌのおなごは、おっぱいがバカでかいんだ!! あの吸い付くような柔らかさはだな――」
「お前の方が偏見だろうがっっ!!!!」
俺はすかさず、灰皿をひっくり返しそうな勢いで怒涛のツッコミを炸裂させた。
せっかくの良い話が、わずか数秒で台無しだ。このエロじじい、亡き妻への純愛の思い出と、おっぱいへの飽くなき執着が完全に脳内で同列に並んでやがる。美談に見せかけたただのセクハラだ。
「何を言うか! これはわしの実体験に基づく、大日本帝国海軍としての厳正なる事実――」
竹蔵がさらに熱弁を振るおうとした、その瞬間だった。
「竹蔵さん」
それまで黙って聞いていたリムが、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。
その顔は、笑顔でもなければ、さっきのような怒りの表情でもない。完璧に、一切の感情が削ぎ落とされた、恐ろしいほどの「無」の表情だった。
リムは自分の鼻を小さくひくつかせると、竹蔵を真っ直ぐに見据えて、氷点下の声で冷徹に言い放った。
「竹蔵さん。……あなた、カメムシの様な匂いがしますわ」
「……え?」
竹蔵の動きがピタリと止まった。咥えようとした二本目のマールボロが、指先からポロリと畳の上へ落ちる。
「汗と、泥と、さっきの変態的な発言が混ざり合って、まるで部屋の中に大量のカメムシをぶちまけたかのような悪臭が漂っています。……ですので、お国のためだかおっぱいの為だかは存じませんが、早く、やはり今すぐに、入浴された方がいいと思いますの」
ゾクゥゥゥッッ!!
離れの室内の空気が、文字通り一瞬でガチガチに凍りついた。
カブトムシの幼虫に続いて、今度はカメムシ。
ギルバート諸島で数千人の米軍を恐怖に陥れた海軍陸戦隊の勇士が、戦後八十年目に召喚された北海道の地で、アイヌの美少女から「カメムシ」という最悪の虫類系ディスりを受ける。
あまりのショックに、竹蔵は再び白目を剥きかけながら、自分の軍服の袖の臭いを恐る恐る嗅ぎ、そのままフリーズしてしまった。
岡田牧場の夜は、絶滅したオオカミと、空を飛ぶプテラノドン、そしてカメムシの匂いがする英霊を巻き込んで、ますます不条理な混沌の中へと突き進んでいくのだった。
(第8章・終わり)




