第10章:二百歳の卑弥呼様と、岡田牧場の青い空(第一部・完)
翌る日の朝。
別海町の広大な大地に朝靄が立ち込める中、俺は自然と目が覚めた。
酪農家の朝は早い。いつものように、岡田牧場の雄鶏が……いや、昨晩プテラノドンに進化したあの空の王者が、地響きのような声で「キエエエエエッ!」と朝の訪れを告げていた。
「ん……」
ふと、自分の布団の横を見る。そこには、朝日に照らされて透き通るような白い肌をした、清らかなリムの美しい寝顔があった。スウェットの隙間から覗くデコルテが眩しい。三十五歳独身の俺にとって、これ以上ないご褒美のような朝――。
――のはずだった。
「……あれ? ひいじいちゃんは?」
俺が首を傾げ、リムの布団の全体を見渡した瞬間、俺の全身の血の気が引いた。
なんと、大日本帝国海軍の英霊・岡田竹蔵水兵長は、俺から借りたトランクス一丁の姿で、リムの背後から完全にバックハグの状態で密着してスヤスヤと爆睡していたのだ。
(いくら英霊でも、やっていいことと悪いことがあるだろ! 仮にもリムはひ孫の嫁さん(予定)だぞ!!)
俺が唖然として固まっていると、背後に背負った「あまりにも生々しい老人特有の違和感」によって、リムの二重瞼の大きな瞳がパチッと開いた。
一瞬の静寂。次の瞬間、リムは無言で布団を跳ね除け、ガバッと起き上がって仁王立ちになった。
「とうッッ!!!!」
――ドゴォォォォォンッッッッ!!!!!
柔道のオリンピック選手も真っ青の、腰の入った見事な一本背負い投げが脱衣所に続いて離れの畳の上で炸裂した。
「ぶへぇぇぇぇぇぇっっっっ!!!?」
早朝の岡田牧場に、八十年前の老兵の哀れな悲鳴が木霊した。天井に激突せんばかりの勢いで投げ飛ばされた竹蔵は、またしても腰を強打して這いつくばっている。岡田家の男のエロの遺伝子は、朝一から物理的に粉砕されたのだった。
その後、俺たち三人(パラサイトシングル男、アイヌ美女、腰痛の英霊)は洗面を済ませて居間へと向かい、岡田家の揃っての朝食となった。
居間に現れた、軍服に着替えた悪臭プンプンの曾祖父さんを見た親父の博と、兄貴の健太、そして義姉さんの美奈子の三人は、やはり完全に絶句していた。「本当にご先祖様が来ちゃったよ……」と箸を持ったまま固まる一同。
親父の博は、そんな竹蔵の姿をじっと見つめた後、「ちょっと用事がある」と言い残し、朝食を早々に切り上げて軽自動車に乗ってどこかへと出かけていった。
朝食後、俺は気を取り直して牛舎の掃除を済ませ、鶏小屋の(プテラノドン以外の)ニワトリたちに餌をあげる作業に入る。
家族や、尋常じゃなくデカいペット(?)は増えてしまったが、いつもの岡田牧場の日常が始まる。そう思った、次の瞬間だった。
――モオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!
牛舎の数十頭の肉牛たちが、昨日を遥かに凌駕する凄まじい悲鳴を上げて騒ぎ出した。
俺とひいじいちゃんが慌てて外に飛び出すと、なんと、放牧地の柵のすぐ側に、立ち上がれば優に三メートルを超える、丸々と太った巨大なオスのエゾヒグマが、鋭い爪を光らせて咆哮を上げていた。
「ひ、……ヒグマだァァァァァッッ!!」
「うわあああ! 敵の戦車かッッ!?」
俺と曾祖父さんは、あまりの巨体の恐怖にその場で完全に腰を抜かした。四百キロを超える別海の怪物を前に、人間の無力さを痛感する。やばい、どうしたらいい!?
そう思った、刹那。
――キエエエエエエエエエエエオオオオオオオッッッ!!!!
岡田牧場の端から、爆音と共に漆黒の巨大な影が飛び出した。
元・雄鶏のプテラノドンだ。航空機並みの翼を羽ばたかせた空の王者は、急降下しながらその凶悪なクチバシで、巨大ヒグマの脳天へ強烈な一撃を見舞った。
ドガァァン! と地響きが鳴り、一撃で脳震盪を起こして倒れたヒグマに向けて、今度は荷台から跳躍したエゾオオカミのウルフが容赦なく襲いかかる。
わずか数十秒の後、別海町を恐怖に陥れていたはずの巨大なオスヒグマは、プテラノドンとウルフの、ただの朝の「美味しい餌」へと成り果てていた。バリバリと骨を噛み砕く音が響く。
「……はは、これ、これからの餌代が浮いたな……」
俺は引きつった笑いを浮かべて苦笑いするしかなかった。隣でリムが、穏やかな顔で手を合わせる。
「ヒグマ(キムンカムイ)も、アイヌの大切な信仰の対象ですよ。山の神様からの授かりものですから、ありがたくいただいてね、ウルフ、プテラノドン」
なんという弱肉強食。スピリチュアルどころか、完全にジュラシック・パークの生態系が岡田牧場に完成しつつあった。
ズウウウウウウウウウウウウウウオン……!!
その時、別海町の広大な大地の地平線の向こう――陸上自衛隊の「矢臼別演習場」の方角から、地響きを伴う巨大な爆音が響き渡った。155mm榴弾砲の特科火力演習の音だ。
「敵襲ーーーっ!! 総員退避ッッ! 米軍の、120ミリ迫撃砲の集中砲撃だァァァァァッッ!!!!」
竹蔵水兵長は、その爆音を聴いた瞬間、頭を抱えて地面に五体投地し、戦場さながらの形相で絶叫した。タラワのトラウマが完全に呼び覚まされている。
「じいちゃん、落ち着けって! 敵襲じゃないよ! あれは陸上自衛隊の演習だよ!」
俺は地面に這いつくばるひいじいちゃんを抱き起こし、彼が死んだ後の歴史の行き先を詳しく説明してやった。
日本は戦争に負けたこと。だけど、今はアメリカとも仲良くなって、平和な国として戦後八十年もの間、奇跡的な復興を遂げたこと。そして、あの爆音は国を守る「自衛隊」という現代の兵隊たちが練習している音なのだということ。
「そうか……。日本は負けたが……滅びなかったのだな。みんな、平和に暮らせているのだな……」
竹蔵はしみじみと空を見上げ、涙を拭った。
そんな良い雰囲気の中、俺はずっと気になっていた、最大の疑問をリムに向かって投げかけた。
「……なあ、リム。さっき、ひいじいちゃんの子供の頃の話をしてただろ? 君、一体いくつなんだ?」
見た目は瑞々しい十代後半から二十代前半にしか見えない美少女だ。だが、彼女の口から出た言葉は、想像を絶するものだった。
リムは少しはにかむように俯いて、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ふふ。200歳くらい、かしらね?」
「二百歳ィィィィィィッッッッ!!!!????」
俺は顎が地面にめり込むかと思うほど口を開けた。二百歳って、江戸時代の生まれじゃねーか! 卑弥呼様どころの騒ぎじゃない、本物の不老長寿のシャーマンだ。
「え、じゃあさ……、俺たちの赤ちゃんとかって、本当にできるの……?」
俺が少し不安になって、下心混じりに尋ねると、リムは突然、冷酷極まりない怒りの目で俺をギロリと睨みつけた。
「多分……大丈夫だと思うわ。でも、今度そんなふしだらな目を私に向けたら、あなたの『カブトムシの幼虫』を本当にすり潰しますからね?」
「ひっ、ごめんなさい!」
俺がガタガタと震えていると、よせばいいのに、横から腰痛を抑えた竹蔵じいちゃんがニヤニヤしながら口を挟んだ。
「おぉ、二百歳か! 熟女も良いものだな! 時にリムちゃん、わしは……わしのような英霊でも、子供はできるかのう?」
「亡くなっている方は、生物学的に100%無理ですわ」
リムが秒で即答する。しかし、竹蔵はさすが海軍陸戦隊の生き残り、これっぽっちもめげなかった。
「なぁにを言うか! わしは死んでおるが、ここはまだまだ現役バリバリ、元気そのものだぞ! 出でよ、わしの大日本帝国海軍式・九六式二十五ミリ高角重機関銃ッッ!!!!」
あろうことか、ひいおじいちゃんは、俺から借りたばかりのトランクスのゴムを両手で力任せに引き下げ、岡田牧場の神聖な朝の放牧地のど真ん中で、自分の「それ(重機関銃)」をリムに向けて露出(ぶっ放そう)としたのだ!!
――パパーーーーーーーーンッッッッ!!!!!!
朝の別海町の青空に、昨日を遥かに凌駕する、音速の壁を突破した完璧な往復ビンタが炸裂した。
「朝からあなたは、一体全体何をやっているのですかーーーーーっっっっ!!!!」
リムのブチギレ大絶叫と共に、竹蔵水兵長はトランクスを下げた不名誉極まりない姿のまま、再び白目を剥いて放牧地の草むらの上へと文字通り吹っ飛んで撃沈した。朝から口から泡を噴いて痙攣している英霊。岡田家の男のエロの血脈は、本日も完璧にリムの手によってお仕置きされたのだった。
ピピッ、とクラクションの音が響いた。
見ると、朝早くに車で出かけていた親父の博の軽自動車が、砂煙を上げて帰ってきたところだった。
車から降りてきた親父は、何も言わずに後部座席のドアを開けた。そこには、親父が道東のあちこちにあるアイヌコタン(集落)を必死に回って集めてきてくれたのだろう――色鮮やかな幾何学模様が刺繍された、たくさんの本物の、美しいアイヌの伝統衣装が綺麗に積み重ねられていた。
「これ……、お父様が……?」
それを見たリムは、それまでの怒り顔を完全に消し去り、大粒の涙をその二重瞼の瞳から溢れさせた。
不器用で、大金はないけれど、リムを本当の家族として、岡田家のお嫁さんとして迎え入れようという、博の精一杯の優しさだった。
「お父様……、本当に、本当にありがとうございます……!」
リムは伝統衣装を愛おしそうに抱きしめ、岡田家の男たちの不器用な温かさに、心からの感謝の涙を流した。
白目を剥いて草むらでピクピクしているひいじいちゃん。
ヒグマの骨をバリバリと美味しそうに貪っているプテラノドンとウルフ。
それを見て「餌代が浮いた」と笑うお袋と、新婚の兄貴夫婦。
そして、二百歳の美しいアイヌのシャーマンを隣に並べた、三十五歳・ほぼニートだった俺。
家族やペット、そして時代錯誤な英霊まで増えてしまったけれど。
ここ、北海道別海町の岡田牧場の、どこまでも青く広い空の下で――俺たちの、不条理で賑やかで、ちょっとスケベな長い長い日々が、今まさに新しく始まろうとしていた。
(第一編・完。第二編『矢臼別演習場の自衛隊が、岡田牧場のプテラノドンをF-15戦闘機と誤認してスクランブル発進してきた件』に続く)




