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第6章:タラワの熱砂と日産80型、昭和の英霊を呼び覚ます呪文

 カブトムシの幼虫。

 アイヌの神秘的な美少女から放たれた、そのあまりにも虫類系に振り切った一言によって、俺の男としてのプライドはズタズタの消し炭と化していた。這う這うの体でお風呂を済ませ、逃げるようにリムを連れて母屋から自分のテリトリーである「離れ」へと戻ってきた。

 居間ではまだ親父の博がビールをあおりながら「我が家に卑弥呼様が……」とクダを巻いていたが、この離れは静かなものだった。

 冷蔵庫から冷えたサッポロクラシックの缶を取り出して一気に喉へと流し込み、サイドテーブルに置いてあったマールボロ・赤マルにジッポーで火をつける。

 カチッ、という金属音と共に立ち上る紫煙。その煙の向こうで、お袋のスウェットを借りて着たリムが、備え付けのパイプ椅子にちょこんと腰掛けていた。

 洗い立ての、濡れた黒い髪が肩に流れている。そこから漂うのは、さっきまでの野生の植物のような匂いではなく、岡田家の浴室にあった安っぽいメリットのシャンプーと、彼女自身の体温が混ざり合った、妙に艶めかしい芳醇な香りだった。

「ふぅ……」

 俺が煙を吐き出すと、リムは二重瞼の大きな瞳で、俺の目をじっと覗き込んできた。その視線は、さっき脱衣所で俺の股間を観察していた時とは完全に異なり、シャーマンとしての冷徹な深みを湛えている。

「良太様。さっき、あなたのお家のご先祖様のことが、少しだけ分かりましたわ」

「え? うちの先祖?」

「ええ。あなたのご先祖様は、大昔に内地(本州)からこの広大な北海道へと渡ってきた、いわゆる『屯田兵』の家系のようね。この別海の大地を、血と汗を流して切り拓いた一族。……そして、あの居間のお仏壇の上にあった、古い遺影。私、あそこから言葉にできないほど強烈な、無念のオーラを感じ取ったの」

 リムの言葉に、マールボロを咥えたままの俺の動きが止まる。

 お仏壇の上に飾られていた、あの白黒の遺影。まだ二十代そこそこにしか見えない、きっちりとセーラー服を着込み、錨のマークが刻まれた丸帽子――大日本帝国海軍の軍服姿の若い男性の姿。幼い頃から当たり前のように見上げていた、俺のひいおじいさんの若き日の姿だ。

「あなたが今まで、何をしても人間関係が上手くいかず、どの職場に行っても長続きしなかった理由。……それは、もしかしたらそのひいおじいさんにあるのかもしれないわ。きっとね、未だに成仏できずに、暗く冷たい異郷の泥の中で苦しんでいらっしゃるのよ。岡田の家における、ご先祖様への供養が少し足りなかったのかもしれませんね。……良太様、あなたのひいおじいさんは、申し訳ないけれど、戦争からお骨も返ってきていないはずでしょう? 本当にお気の毒に」

 ズバリと言い当てられて、心臓がドクリと跳ねた。

 俺は昔、おじいちゃんから聞いたことがあった。ひいおじいさんは、大東亜戦争における南洋の最激戦地――あの太平洋の赤道直下に位置するギルバート諸島、タラワ環礁で海軍陸戦隊として戦い、米海兵隊の圧倒的な艦砲射撃と猛攻の前に玉砕したのだと。岡田家にあるのは、厚生省から届いた一枚の戦没告知書と、中身が砂すら入っていない空っぽの桐の骨壺だけだ。

「ずっと、暗闇の中で寂しかったのね。きっと、誰かとお話し相手が欲しかったみたい」

 リムはマールボロの煙を顔に受けても瞬き一つせず、真剣そのものの表情で静かに言った。

「……良太様。そのひいおじいさんと、お話してみたい?」

「え……?」

 俺は思わずビール缶を置いた。灰皿の上のマールボロから、細い煙が揺らめきながら天井へと昇っていく。

「話すって、どうやって? 君、さっき言ってたみたいに、恐山のイタコみたいに自分の身体に霊を憑依させて、じいちゃんの声で喋り出す……みたいな、口寄せ的なことをやるのか?」

「いいえ、違うわ」

 リムは不敵に、 妖艶を帯びた口元の刺青を歪めて微笑んだ。

「私はシャーマンよ。憑依なんてまどろっこしいことはしない。――召喚(しょうかん)するのよ!」

 言うが早いか、リムはパイプ椅子から立ち上がり、離れの網戸を開けて夜の闇へと飛び出した。

「おい、リム!?」と俺が全裸につなぎだけを慌てて引っ掛けて追いかけると、彼女が向かったのは、母屋の後方に位置する頑丈な大型ガレージだった。

 普段は、ジョンディア製の大型トラクターや、ブロードキャスター(肥料散布機)などの重農機具を格納している、スチール製のアコーディオン扉がついた巨大なガレージだ。

 そのガレージの奥から、突如として――。

 ――ギギィィ……、カツン……、チチチチ……。

 冷え切った夜の空気の中を、明らかに現代の農機具からは鳴るはずのない、金属の熱収縮音と、古い不純物の多いオイルが重力に従って滴り落ちる乾いた音が響いてきた。

 さらに、鼻腔を突くのは、重油と、使い古されたリチウムグリス、そして半世紀以上も南洋の熱砂と湿気に晒され、そのまま凍結したかのような、カビ臭いカンバス生地の強烈なディテールを伴った臭気。

「何だ……? 一体何が起きてるんだ……!?」

 リムはガレージの前に立つと、怒りの残火が消えた澄んだ瞳を夜空へと向け、両手を交差させてアイヌの神秘的な呪文を低く唱えた。

 次の瞬間、ガレージの分厚いスチール扉が、内側からの見えない力によって、バリバリと火花を散らしながら左右へと引き裂かれた。

 ガレージ内の作業灯の、薄暗い裸電球の光が、その「異形」を照らし出す。

「……嘘だろ」

 俺の喉から、ひび割れた声が漏れた。

 そこにあったのは、岡田牧場のどの農機具でもなければ、現代の日本の公道を走っているどの自動車でもなかった。

 くすんだカーキ色――戦時中、大日本帝国海軍が陸上戦闘用に車両へと施した、独特の深い国防色に塗り固められた、重厚極まりないボンネット型の軍用トラックが、そこに鎮座していたのだ。

「これ、……日産80型トラックじゃねーか……!!」

 ミリタリーの知識が多少ある俺の脳裏に、当時の兵器スペックが走馬灯のように駆け巡る。昭和12年に登場し、12フィート半のロングホイールベース、そしてフロントグリルは日産伝統の縦型ルーバーを配した無骨なプレス加工。その中央には、長年の砂塵と油にまみれながらも、鈍い鈍色の輝きを放つ、陸軍の五芒星とは異なる「錨(いかり)」のマーク――帝国海軍章が、不気味なほどの存在感で鎮座している。

 水冷直列6気筒、排気量3,670ccのB型ガソリンエンジンを搭載した、当時の日本の工業力の結晶。

 フロントフェンダーは無骨に左右へと張り出し、タイヤは泥濘地や砂地を走破するための深いラグパターン。しかもそのゴムは、経年劣化でひび割れているどころか、たった今、昭和18年のタラワ環礁の熱い急造飛行場からロールアウトしてきたかのように、生々しく黒々と湿った弾力を保っている。左右のフェンダーの先端に設置された棒状の車幅灯(アポロ)のガラスレンズには、うっすらと北海道の夜霧が結露していた。

 運転席を覆うのは、南洋の強烈な紫外線で油が完全に抜けきってカサカサになった、だが破れ一つない分厚いオリーブドラブ色のカンバス(幌)生地だ。荷台の木製アオリには、右から左に向かって白ペンキで、うっすらと『横須賀鎮守府』、そしてかすれた文字で『岡田』と記されている。

「リム、これ……お前、一体何を召喚したんだよ……!」

 俺が恐怖と興奮でガタガタと歯を鳴らしながら尋ねると、リムは日産80型トラックの錆びついたスチール製フロントバンパーの前に立ち、静かにそのボンネットへと手を置いた。

「言ったでしょう、良太様。あなたのひいおじいさん――岡田の血を引く、最初の兵を、その生きた証である鉄の駿馬(しゅんめ)ごと、タラワの砂の底から呼び戻したのよ」

 ――チチチチ、カチリ。

 日産80型の、サイドにルーバーが切られた頑丈なエンジンフードの内部から、燃料ポンプがキャブレター(気化器)へ冷たいガソリンを送り込むような、不気味な機械音が再び静まり返ったガレージに響き渡った。

 この昭和の鉄の塊の内部には、今まさに、八十余年の時を超えて、冷たい燃料の血流が脈打ち始めようとしていた。

(第6章・終わり)

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