第5章:フランス製のランジェリーと、脱衣所のカブトムシ
お袋に背中をドンと押され、俺は冷や汗を流しながらリムを連れて母屋の奥にある脱衣所へと向かった。
居間からはまだ、親父の博が「卑弥呼様のようなお嫁さんがーーーっ!」とおいおい泣いている声がかすかに聞こえてくる。
パタン、と脱衣所の引き戸を閉めると、急に狭い空間に俺とリムの二人きりになった。
お風呂のボイラーの「ウィーン」という低い作動音と、ほんのりと温かい湿気が満ちている。
「あの、良太様」
洗濯機の前で、リムがしずしずと振り返った。二重瞼の大きな瞳が、照明の光を反射して怪しく、そしてどこか真剣に俺を見つめている。
「あなたのご家族は、どうやら私を温かく受け入れてくださるみたいですけれど……。肝心の、あなたはどうなのですか?」
ストレートな問いかけだった。
俺は一瞬、言葉に詰まった。だけど、ついさっき裏庭で雄鶏をプテラノドンに変えたあの圧倒的な奇跡(と、強烈無比なビンタ)を思い出す。それに、何よりもこの引きこもりニート一歩手前の三十五歳男を、岡田家の家族全員が「見直した!」と一瞬で認めてくれたのだ。
ここで日よるわけにはいかない。俺はリムの目を真っ直ぐに見つめ返し、胸を張って言い切った。
「俺は絶対に約束するよ。何があっても、君を一生養う」
「……」
リムは驚いたように小さく息を呑み、それから、ふっと真面目な、どこか警告するような重々しい表情を浮かべた。
「良太様。アイヌのシャーマンが、人間の男と夫婦の契りを結ぶということは、実は大変危険なことなのです。……もし、私を裏切ったり、他の女の人に現を抜かしたりしたら、あなただけでなく、あなたのご家族も全員、恐ろしい神々の祟りに遭うわよ?」
「ひっ……!」
リムの口元の刺青が、一瞬、呪術的な禍々しさを帯びて見えた。俺は完全に引いてしまった。裏切ったら一族もろとも神罰で滅ぼされるとか、重すぎるだろ。
しかし、同時に俺の脳裏に、これまでの冴えない三十五年間が駆け巡る。
ここでビビってリムを追い出したら、俺の人生は一生童貞のまま、実家で飼い殺しのニート同然の暮らしで終わるだけだ。そんなの、死ぬほど辛い。神様の祟りのリスクを背負ってでも、このチャンスを掴むほうが、実家で一生燻っているよりは遥かにマシだ。
「大丈夫だ。俺は一生、何があってもリムを食べさせます」
覚悟を決めてもう一度言うと、リムの表情がふっと和らいだ。そして、佐藤家のサイロで出会ってから初めて、俺に向かって、春の陽だまりのような優しい、本当の微笑みを向けてくれたのだ。
「ふふ、嬉しいですわ、良太様。……では、お風呂をいただきますね。お着替えを貸していただけますか?」
「お、おう! 任せとけ!」
すっかり舞い上がった俺は、リムに頼まれて、脱衣所の棚から新しいバスタオルと、お袋が買っておいてくれた新品の無地のレディーススウェットを持ってきて手渡した。
「ありがとうございます。それでは、失礼いたしますね」
リムはそう言うと、ためらいもなく、その華奢な手でアイヌの伝統衣装の帯を緩め始めた。
幾何学模様の美しい厚手の羽織が、するりと彼女の肩から滑り落ちる。
(えっ!? ちょっと待て、俺、目の前にいるんだけど!?)
三十五歳童貞男の理性は、一瞬で大気圏を突き抜けて蒸発した。
俺は息を呑み、顔がみるみるうちに真っ赤に沸騰していくのを感じた。心臓がうるさいくらいにバックバクと暴れ、全身の毛穴から脂汗のような汗が滝のように噴き出す。
見ちゃいけない、見ちゃいけないと思えば思うほど、俺の目は皿のように丸くなって、リムの動きを凝視してしまっていた。
伝統衣装の下から現れたのは、現代の、それも信じられないほど扇情的な光景だった。
「……え?」
俺は目を見張った。
リムの透き通るような白い肌を包んでいたのは、アイヌの伝統的な肌着なんかでは断じてなかった。
それは、繊細な極上のレースがあしらわれた、大人の色気が爆発しているような、超高級な黒いブラジャーとショーツの姿――いわゆる、ガチのランジェリー姿だったのだ。
「お、おい……リム、君、アイヌの伝統的なシャーマンだろ……!?」
混乱のあまり裏返った声で尋ねる俺に、リムはブラとショーツ姿のまま、髪をサラッと掻き揚げて、さも当然のようにつんと澄ました顔で言った。
「何をおっしゃっているのですか。やはり、ランジェリーはフランス製に限るわ」
「フランス製かよっっ!!!!」
アイヌの信仰や伝統を守っていると言いながら、下着のこだわりだけはパリジェンヌ並みに現代文明の極みを突き進んでいた。あまりのギャップと不条理さに、俺は返す言葉を失った。
――いや、失ったのは言葉だけではなかった。
あまりの興奮と混乱のドサクサで、俺自身もいつの間にか自分のつなぎの作業着をすべて脱ぎ捨ててしまっていたのだ。気がついた時には、俺は脱衣所のど真ん中で、文字通り一物も身にまとっていないフルチンの状態で、呆然と立ち尽くしていた。
「あ……」
我に返った時にはもう遅い。
フランス製ランジェリーを身にまとったリムが、俺のその、あまりにも無防備で情けない完全全裸の姿に気づき、まじまじと視線を落とした。
リムは二重瞼の大きな目をさらに丸くして、驚きと、どこか深い観察眼の混ざった不思議そうな表情で、俺の股間をじーーっと指差した。
「……まあ、良太様」
「な、何だよ、リム……」
羞恥心で死にそうになりながら前を隠そうとする俺に、リムは一切の悪気のない、純粋な子供のような無邪気さで、とんでもない一言を言い放った。
「あなたのは、まるで……カブトムシの幼虫みたいね!」
「カブトムシの幼虫ってなんだよぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
別海町の岡田牧場の脱衣所に、三十五歳男の悲痛な絶叫が木霊した。
伝統あるシャーマンの口から放たれた、あまりにも的確で、あまりにも容赦のない虫類系の例えに、俺の男としてのプライドは、プテラノドンに踏み潰されたかのように粉々に砕け散ったのだった。
(第5章・終わり)




