第4章:岡田家の男たちの大号泣と、夜霧の湯船への案内人
岡田家の母屋のダイニング。
そこには、別海町の歴史、いや道東の開拓史始まって以来の、信じられない光景が広がっていた。
「……は? え? おい、良太……お前、本当に良太なのか?」
居間に足を踏み入れた途端、親父の博と、新婚ホヤホヤの兄貴・健太、そしてその嫁さんの美奈子の三人は、文字通り目が点になって呆然と立ち尽くしていた。あまりの衝撃に、全員が膝の力を失って、畳の上へズルズルと腰を抜かすようにして座り込んでしまう。
それもそのはずだ。いつもは部屋の隅で暗い顔をしている三十五歳の居候男の後ろから、息を呑むほど美しい、アイヌの伝統衣装をまとったお嬢様がしずしずと現れたのだから。道東の田舎町に、これほど綺麗なアイヌのお嬢さんがいたなんて、岡田家の誰も想像すらしていなかった。
「皆様、お初にお目にかかります。私はリムと申します。良太様には大変親切にしていただき、この家にお邪魔させていただくことになりました」
リムは深く、気品に満ちた動作でお辞儀を済ませると、彼女は居間の奥にある岡田家の大きな仏壇へと歩み寄った。そして、誰に言われるでもなく、静かに膝を突き、丁寧に両手を合わせて目を閉じたのだ。
「まぁ……まぁぁぁ、なんて信心深くて素晴らしいお嬢さんなのかしら……!」
その姿を見ただけで、お袋の由里子だけでなく、親父の博までもが早くも目頭を熱くして感激し始めている。
そのまま、リムはお袋に連れられて「お手伝いしますわ」と台所へ入っていった。パタパタと小気味よい包丁の音が響き、お袋とリムが笑顔で楽しそうに話している声が聞こえてくる。
美少女が台所に並ぶその夢のような空間を前にして、残された親父の博と兄貴の健太は、一転して般若のような恐ろしい真顔になって俺を囲んだ。
「おい、良太。座れ」
「……何だよ、二人して怖い顔してさ」
「お前、まさか詐欺でも働いたんじゃないだろうな? あんなかわいい女の子に嘘をついて、騙して誘拐してきたんじゃないだろうな!?」
「兄貴まで何を言うんだよ! 俺がそんな大犯罪できるタマに見えるか!?」
「言っとくけどな、良太! うちの牧場には、そんなお前がやらかした国際ロマンス詐欺の身代金を払えるような大金はねえぞ! 正直に白状しろ!」
俺は唖然とした。何言ってんだ、こいつらは。確かにリムは息を呑むほどの美女だが、実の息子、実の弟を一体何だと思っているんだ。
そんな俺たちの男世帯の不毛な言い争いは、台所から運ばれてきた「石狩鍋」の圧倒的な香りの前についに霧散した。大ぶりの鮭、地元の新鮮な野菜がたっぷりと詰まった味噌仕立ての鍋。
「美味しい……! リムちゃんの味付け、格別だわ!」
確かにリムの料理は格別だった。新婚の義姉さんも絶賛するほどで、あれだけ俺を犯罪者扱いしていた親父と兄貴も、箸が止まらず、あっという間に満腹になった。
食後、男たちの間でビールが開き、タバコに火がつけられて紫煙が揺らぎ始める。
ふと見ると、リムは岡田家の仏壇の横に飾られている、二枚の古い遺影をじっと見つめていた。それに気づいた親父の博が、少し照れくさそうにビール缶を置いて説明した。
「ああ、リムちゃん。それは俺の祖父母――つまり、良太のひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの写真だよ。ちなみに俺の両親、良太のじいちゃんとばあちゃんは、今は市内の介護施設に入っていてね。まぁ、元気にやってるさ」
「……そうなのですね。おじい様とおばあ様、とても優しそうなお顔をされています」
リムは深く頷き、慈愛に満ちた目で遺影を見つめる。そんな彼女の横顔を見て、親父の博がふと疑問を口にした。
「そういえば、リムちゃん。ご家族はどちらに? ご両親やご兄弟は?」
その問いが発せられた瞬間、リムの端正な顔立ちが、微かにピキリとひきつった。彼女は少しだけ視線を落とし、寂しげな笑みを浮かべて呟いた。
「……私は、もう、両親も兄弟もおりませんの。ずっと一人でした」
しまっ、と居間の空気が凍りついた。親父も兄貴も、お袋までもが「とんでもないデリカシーのないことを聞いてしまった」と顔を真っ青にして大焦りする。
「ご、ごめんなさいね、リムちゃん! そんな辛いことを聞いてしまって……!」
「いいえ、大丈夫ですわ、お母様」
リムはすぐに顔を上げ、岡田家の面々を一人ずつ見つめながら、健気な笑顔を作った。
「ですから……もし皆様さえよろしければ、私をこの家に、良太様のお側に置いてくださると、とっても嬉しいです。家事なら得意ですので……」
その、健気で、健気すぎる美少女の告白を聞いた瞬間。
岡田家の絶対権力者である頑固親父・博の涙腺が、ついに決壊した。
「ウオオオオオオオオオオオオオン!!!!」
親父はビール缶を放り出し、畳に突っ伏して「おいおい」と子供のように大号泣し始めたのだ。
「不精岡田博――っ! 介護施設にいる親父とお袋よ、見てくれーーーっ! こんな、こんな甲斐性のない、できの悪いバカ息子の良太のところに……こんなに美しくて、お姫様の様な、妖精の様な、卑弥呼様の様な女の子が、お嫁に来てくれるなんて! 俺は、俺は嬉しいぞおおおおおっっ!!!!」
「いや、親父、卑弥呼様ってなんだよ! 時代がバグってんだろ!」
俺の至極真っ当なツッコミなど、号泣する親父と、もらい泣きしてハンカチを噛み締めているお袋の耳には届かない。いつの間にかリムは「お嫁さん」として完全に岡田家の戸籍に登録されんばかりの勢いだった。
「はいはい、お父さん泣かないの。近所迷惑でしょ」
呆れ果てた顔でお袋の由里子が立ち上がり、パンパンと手を叩いて俺に鋭い視線を向けた。
「ほら、リムちゃんもお腹いっぱいになって疲れたでしょうし、先にお風呂にしましょう。良太! 突っ立ってないで、早く案内しなさい!」
「え!? お、俺が!?」
「当たり前でしょう! 早く行きなさい!」
背中をドンとお袋に押され、俺はたじろいだ。
ついさっき、下心を出して「変態童貞スケベ野郎」と罵られて強烈なビンタを喰らったばかりの俺が、初日の夜からこの美少女を風呂場へ案内する一対一の状況になるなんて……。
俺が冷や汗を流しながら隣を見ると、リムはすっかり泣き止み、口元の刺青をピクッと動かして、あの二重瞼の大きな瞳でじっと俺を凝視していた。その瞳の奥には、「変な気を起こしたら、今度は本当にあのプテラノドンにあなたを丸呑みにさせますわよ?」という無言の、だが絶対的な脅迫の炎がパチパチと揺らめいているように見えたのだった。
(第4章・終わり)




