第3章:母親のポジティブフィルターと、今夜は美味しい石狩鍋
岡田牧場の端に爆誕した、白亜紀の空の王者プテラノドン。
それが「キエエエエエエッ!」と甲高い金属音のような大咆哮を上げ、巨大な皮膜の翼をバサバサと羽ばたかせるたびに、突風が吹き荒れて離れのトタン屋根がガタガタと悲鳴を上げる。
そのすぐ足元には、灰色の巨体を誇るエゾオオカミのウルフが悠然と佇み、その横ではアイヌの美少女リムが、未だにフンスと怒り顔のまま腕を組んでいる。
完全に世紀末、いや白亜紀。
三十五歳独身の居候男が、自宅の裏庭で直面していい情報量じゃない。
「おい、良太! 一体全体、何の騒ぎだい!?」
その時、暗闇を切り裂くように一本の懐中電灯の光が差し込んできた。
母屋の方から小走りで近づいてきたのは、俺の母親である岡田由里子だった。
(あ、……やばいっ!!!!)
俺の脳内に、一気に真っ赤な警告灯がパトランプのように激しく回転し始めた。
よりによって一番見つかってはいけない、岡田家の家計と家庭環境を牛耳るお袋が登場してしまった。
冷や汗どころじゃない、嫌な汗が脇の下から滝のようにドバドバと流れ落ちる。
なんて説明したらいい!?
「ちょっとお隣の遺品整理に行ったら、アイヌのシャーマンの女の子に『変態童貞スケベ野郎』って罵られてビンタされて、その腹いせにうちの雄鶏を魔術でプテラノドンにしちゃいました!」なんて、正気の沙汰と思われるはずがない。一発で精神病院に叩き込まれるか、牧場から永久追放だ。
俺がパニックのあまり白目を剥きかけていると、リムはすっと怒りの表情を消し、懐中電灯を持った母ちゃんに向けて、おっとりと上品に、そして完璧な所作で深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私はリムと申します」
「……」
母ちゃんは、手に持った懐中電灯をリムに向けたまま、完全に動きを止めた。
目は点になり、開いた口からは言葉も出ない様子で、全身を小刻みにガタガタと震わせている。
当たり前だ。夜の牧場に、突如として現れたアイヌの伝統衣装を着た刺青の美少女。そしてその後ろに控える巨大なオオカミと、ヘリコプター並みにでかい怪獣だ。ショックで卒倒してもおかしくない。
「りょ、……良太ぁっっ!!!!」
地を這うような低い声で、母さんが俺の名前を呼んだ。
ひっ、と短い悲鳴が喉から漏れる。俺はギュッと目を瞑り、すべての終わりを覚悟した。怒髪天を突いたお袋から、どんな怒号が飛んでくるのか――。
「なんて、……なんて可愛いアイヌのお嬢さんなのーーーっっ!!!!」
「……へ?」
耳を疑うような、黄色い大歓声が夜空に響き渡った。
俺が恐る恐る目を開けると、母さんは懐中電灯を放り出しそうになりながら、両手を頬に当てて大興奮で身悶えしていた。
「嘘でしょう!? うちの、あのパッとしない、人間関係が苦手で職を転々として優柔不断で居候ニート一歩手前の良太に、こんなに、こんなに可愛いガールフレンドがいたなんて!! 母さん、ちっとも知らなかったわよーーーっ!」
「いや、母さん、待って。ガールフレンドじゃなくて、これはその……」
俺の必死の弁明など、お袋の耳には一ミリも届いていなかった。
しかし、まだ残る最大の問題は、リムの後ろで「キエエエ!」と鳴いているこの凶悪な顔つきをしたジュラシック・パークの珍獣だ。いくらなんでも、これを見過ごすわけにはいかないだろう。
俺が恐る恐るプテラノドンを指差すと、母さんはこれまた信じられないようなポジティブフィルター全開の笑顔でリムに話しかけた。
「リムちゃん、その子たちはあなたのペットかしら? まぁぁ、随分と大きくて立派なシベリアンハスキーだこと! それに、後ろにいるのは……まぁ! なんて立派なオオタカ(大鷹)なのかしらねぇ! ハスキーにオオタカだなんて、本当に素敵な組み合わせだわ! やっぱり、アイヌのお嬢さんはこうでなくっちゃねぇ!」
(オオタカ……!? ハスキー……!?)
俺は空いた口が塞がらなかった。顎が外れるかと思った。
どう見ても絶滅したはずの巨大エゾオオカミだし、後ろの奴に至っては鳥類ですらない、白亜紀の爬虫類(翼竜)だぞ。クチバシの形も翼の皮膜もどう見てもプテラノドンじゃねーか!!
だが、母さんの目は、完全に「可愛い息子の恋人(仮)」という大金星の前に、すべての現実を都合よくねじ曲げて解釈していた。
「リムちゃん、これから夕ご飯なんだけど、一緒に食べていく? 急なことで、特にたいしたご馳走はないんだけれど……」
母ちゃんの優しいお誘いに、リムはそれまでの俺への冷徹な態度が嘘のような、満開のひまわりみたいな極上の笑顔を咲かせた。
「ありがとうございます! 実は私、お腹がペコペコなんです。……それに、もし許されるのでしたら、これからも良太様のお側において頂けると、とっても嬉しいです。牧場の仕事はあまりお手伝いできないかもしれませんが、家事ならとっても得意ですの」
首を少し傾げ、健気に微笑むリム。手の甲の刺青すら、今の母ちゃんには高貴なチャームポイントにしか見えていないようだった。
「いいのいいの! 大丈夫よぉ!!」
お袋は、なんと両目から滝のような涙をジャージャーと流しながら、感動のあまり絶叫した。
「何も問題なんてないわ! リムちゃんみたいな、こんなに素敵で、礼儀正しくて可愛いフィアンセ(婚約者)なら、農作業なんてしなくていいのよ! 良太、お前本当にやったわね! 見直したわ!」
「いや、だからフィアンセじゃなくて……」
「よし、今夜は奮発して石狩鍋よ! 鮭もいくらもたっぷりあるから、みんなで一緒にお腹いっぱい食べましょうね! お風呂も、ちょうど一番風呂が沸いているわよ、さあ入って入って!」
「嬉しいです。お母様、お言葉に甘えさせていただきますね」
母ちゃんとリムは、まるでもう何年も連れ添った本物の義理の親子かのように、和気藹々と笑顔で腕を組みながら、楽しげに母屋の方へと歩き出してしまった。
荷台から降りたウルフも、心なしか嬉しそうに尾を振りながら、二人の後ろをトコトコとついていく。
ぽつんと、別海町の冷たい夜風の中に一人取り残される、三十五歳独身の俺。
そして、岡田牧場の敷地の端で、外灯に照らされながら「キエェ……?」と寂しそうに首を傾げている、元・雄鶏のプテラノドン。
(……俺の人生、これから一体どうなっちゃうんだ?)
遠くから、母さんたちの「石狩鍋、美味しいわよぉ」「楽しみです!」という賑やかな声が響く中、俺はただただ、空いた口を塞ぐことができないまま、呆然と突っ立っていることしかできなかった。
(第3章・終わり)




