第6話:それぞれの春
――春/駅前通り
待ち合わせの日、空は薄く晴れていた。
駅前通りには春の風が流れ、街路樹の若い葉が光を受けて揺れている。
通勤客の流れが落ち着いた昼前で、カフェのテラス席では何人かが紙カップを片手に穏やかな声で話していた。
剛志はショーウィンドウに映る自分を見て、襟元を直す。
普段より少しだけ良いシャツに、落ち着いた色のジャケット。
靴も磨いてきた。
ポケットの中には、高校最後のクリスマスにもらった盾のキーホルダーがある。
何度も触れてきた革の感触は、もう指先へ馴染んでいた。
(……大丈夫だ)
息を吐いても、指先の緊張はほどけなかった。
インサイダーになった。
まだ新人で、現場経験も少ない。
それでも今日は、ようやく藍子に会える。
キーホルダーへ触れながら、何度も繰り返してきた言葉をなぞる。
(ちゃんと伝えよう)
その時、名前を呼ぶ声がした。
「剛志」
振り向いた瞬間、息が一瞬止まった。
藍子が立っていた。
髪は少し伸び、服装も高校の頃より大人びている。
左手首には、高校最後のクリスマスに贈ったブレスレットが今もそのまま残っていた。
けれど、笑った時の目元だけは変わらない。
風に揺れた髪を押さえ、少し照れたように近づいてくる。
「久しぶり」
「……久しぶり」
声が思ったより硬くなった。
藍子はそれに気づいたのか、小さく笑う。
「なんか、雰囲気変わったね」
「そうか?」
「うん。前より、ずっとしっかりした感じ」
指先に熱が差し、剛志は照れを隠すように肩をすくめた。
「まあ、色々あったからな」
「そっか」
二人は並んで歩き出した。
駅前通りは、昔より店が少し変わっていた。
高校時代によく入ったファストフード店は別のカフェになり、角の雑貨店も閉まっている。
それでも、歩道の広さや信号の音、遠くに見える駅ビルの形は変わらない。
懐かしさが、少しずつ会話をほどいていった。
「仕事はどうだ?」
「大変だけど、少し慣れたよ。最初は毎日、帰ったら寝るだけだったけど」
「分かる」
「剛志も?」
「ああ。こっちも毎日そんな感じだった」
藍子が笑った。
その笑顔を見ていると、言葉が喉元まで上がってくる。
今なら言える。
そう思った瞬間、足元が低く鳴った。
最初は大型車が近くを通ったのかと思った。
けれど次の瞬間、地面そのものが横へずれる。
ガラスが震え、街路樹の葉が不自然にざわめいた。
テラス席のカップが落ち、乾いた音を立てて砕ける。
「地震だ!」
誰かの叫びと同時に、揺れが強くなった。
剛志は反射的に藍子の腕を掴み、建物から離れようとする。
だが、駅前通りでは人々が一斉に足を止め、悲鳴と怒号の中で流れを失っていた。
頭上から、嫌な音が響く。
古い商業ビルの外壁へ亀裂が走り、細かな破片が降ってきた。
遅れて、大きな看板が支えを失う。
「危ない!」
剛志の身体が先に動いた。
藍子を歩道の端へ押し出し、自分は崩れかけた入口へ踏み込む。
中には、避難しようとして転んだ親子と、腰を抜かした老人がいた。
天井の一部が落ちる。
剛志は両足を開いて腕を上げる。
(《身体強化》)
脚から腰へ魔力が走り、
(《硬化》)
肩と腕へ重い膜が広がった。
次の瞬間、瓦礫が両腕へ落ちる。
衝撃が骨の奥まで突き抜け、視界の端が白く弾けた。
足裏がアスファルトへ沈み、膝が軋む。
それでも、崩れた天井は止まった。
「早く出ろ!」
親子が這うように外へ出る。
老人に手を貸した男性も、震えながら出口へ向かった。
瓦礫の重さが少しずつ増していく。
コンクリートの粉が顔へ落ち、息を吸うたび苦さが喉へ張りついた。
「急げ!」
最後の一人が抜けた瞬間、剛志は支える位置をずらし、崩れた柱を横へ逃がした。
轟音とともに瓦礫が歩道へ落ち、粉じんが一気に広がる。
剛志は咳き込みながら顔を上げた。
まだ終わっていない。
別の建物でも外壁が崩れ、信号機の支柱が傾いている。
道路には座り込んだ人や、泣き叫ぶ子どもがいた。
「剛志!」
崩れた街の向こうで、藍子がこちらを見つめていた。
顔は青ざめていたが、無事だった。
「無事か!」
「うん! 剛志は――」
「俺は平気だ。まず、ここから離れるぞ」
剛志は藍子のもとへ駆け寄り、その背を支えるようにして崩れた建物から離れた。
救助した親子と老人は、駆けつけた駅員たちに支えられ、通りの先にある開けた場所へ向かっている。
二人も、避難する人の流れへ入った。
藍子は歩きながら、戸惑いの残る目で剛志を見つめる。
「剛志……今の力……」
剛志は煤のついた顔で笑った。
「実は俺、インサイダーになったんだ」
藍子の目が大きくなる。
周囲では救助の声が飛び交い、サイレンが近づいていた。
ゆっくり話せる状況ではない。
それでも、これだけは伝えたかった。
「高校の時、言ってただろ。守れる男は格好いいって」
「驚かせたくてさ。高校一年の時から目指してた」
藍子は目を見開いたまま、息を止めた。
春の通学路も、駅前の大型スクリーンも、高校最後のクリスマスも思い返すように、その目が揺れた。
「……そうだったんだ」
藍子は目を伏せ、それから顔を上げる。
「……格好いいね」
藍子は息をつき、声を整えた。
「本当に」
剛志の中へ、その言葉が静かに落ちた。
高校一年の春から、追い続けてきた言葉だった。
藍子は優しく笑った。
「前から格好よかったけど……もっと格好良くなったよ」
剛志はその言葉を受け止めたまま、藍子を見つめた。
今なら言える。
高校最後のクリスマスに言えなかった言葉。
資格を取ったら伝えると、ずっと言わずに抱えてきた言葉。
「藍子、俺――」
その瞬間、藍子が小さく首を横へ振った。
「待って、剛志」
剛志の言葉が、そこで止まった。
藍子は笑おうとしていた。
けれど、その目だけは少し濡れていた。
「先に、私から言わせて」
剛志は、続きを飲み込んだ。
藍子は剛志の煤に汚れた顔を見つめた。
何かを言いかけて、唇を結ぶ。
「結婚することになったんだ」
言葉は聞こえた。
けれど、その意味だけが、すぐには胸まで落ちてこなかった。
周囲の喧騒が遠のいた。
サイレンも怒号も、崩れた瓦礫の音も、水の底から届くように鈍くなる。
それでも二人の足は、避難する人の流れに沿って動き続けていた。
剛志は息を吸おうとした。
けれど、浅い空気が喉に引っかかった。
さっきまで、すぐそこにあったはずの言葉が見つからない。
藍子はお腹へ手を添え、そっと目を伏せた。
剛志は、その手元を見つめる。
そこでようやく、告げられた言葉と目の前の仕草が、一つにつながった。
指先から、ゆっくりと力が抜けていく。
(……そうか)
何も聞かなかった。
「おめでとう」
口の中は乾いていた。
それでも、どうにかその言葉だけを押し出した。
藍子は口を結んだまま、小さく頷いた。
「ありがとう」
少しだけ間を置いて、視線を落とす。
「会社の人なの。まだ付き合って半年くらいなんだけどね」
半年。
その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。
自分が追いつこうとしていた時間にも、藍子の時間は進んでいた。
剛志は一度だけ唇を結び、それから頷いた。
「幸せになってな」
藍子は左手首のブレスレットに、そっと指を触れた。
「ありがとう、剛志」
その一言が耳の奥に残り、言えなかった言葉がもう一度、喉元までせり上がった。
けれど剛志はそれを飲み込み、何も言わずに前を向いた。
隣では、藍子も何かを言いかけるように唇をわずかに動かし、手首のブレスレットへ触れたまま目を伏せていた。
二人はそれ以上言葉を交わさないまま、春の風の中を並んで歩いた。
駅前広場の端へたどり着いたところで、道路の向こうから聞き覚えのある鋭い声が飛んだ。
「岩山君! 手を貸してくれ!」
崩れたビルの前にいたのは、専門学校の実習で何度か指導を受けたインサイダーだった。
肩には協会のエンブレム。
腕には血が滲んでいる。
「はい!」
「こっちのビルで人が閉じ込められてる! 支え役が足りない!」
「行けます!」
声の先では、傾いた梁に阻まれ、救助班が中へ入れずにいた。
行かなければならない。
剛志の足は、もうそちらを向いている。
一度だけ藍子を見る。
彼女も、まっすぐこちらを見つめていた。
「悪い。またな!」
藍子は少し驚いたあと、力強く頷く。
「うん。頑張って」
その声を背中で受け、剛志は振り返らずに走り出した。
瓦礫の粉が靴底で跳ね、近づいてくるサイレンが周囲の怒号へ重なる。
身体は重く、腕にはまだ痺れが残っている。
それでも、助けを求める人のもとへ向かう足は止まらなかった。
今は、それだけでよかった。
走るたび、ポケットの中で高校最後のクリスマスにもらった盾のキーホルダーが揺れた。
剛志はそれに触れず、崩れたビルの前へ飛び込んだ。
「支えます! 中の人を出してください!」
両足を開き、傾いた梁へ肩を入れる。
(《身体強化》)
熱が脚へ流れ込む。
(《硬化》)
肩と腕へ重い守りが広がり、梁の重さが全身へ落ちた。
さっきより、はるかに重い。
膝が震え、足裏が滑りかける。
それでも、剛志は奥歯を噛みしめた。
「行けぇ!」
救助班が中へ駆け込む。
泣き声が近づき、誰かが「助かった」と叫んだ。
剛志は、ただ支え続けた。
届かなかった言葉だけが、まだ残っている。
その痛みを抱えたまま、今は前へ出るしかなかった。
一人を守るために目指した力が、目の前で何人もの命を支えている。
けれど剛志にはまだ、その意味を考える余裕もなかった。
崩れかけた天井の下で歯を食いしばる。
梁の重さは、少しも変わらない。
それでも、誰かがその下を通り抜けるたび、あと少しだけ支えられる気がした。
命が、自分の肩の上を通っていく。
その感覚だけが、身体の奥へ深く刻まれた。




