第5話:約束の続きを
――春/県立高校・卒業式の日
体育館の床は、いつもより冷たく感じた。
並べられたパイプ椅子の脚が小さく鳴り、壇上の校章へ春の光が淡く差し込んでいる。
卒業証書を受け取る名前が一人ずつ呼ばれるたび、後ろの列からすすり泣く声が滲んだ。
剛志は膝の上で手を握り、まっすぐ前を見ていた。
三年間が終わる。
そう思っても、実感はうまく降りてこなかった。
放課後にジムへ急いだ日々。
教室の窓際で藍子と進路の話をした時間。
クリスマスの夜に、言えなかった言葉。
すべてが頭の中で混ざり、式の声だけが少し遠く聞こえた。
卒業式が終わると、校門前は写真を撮る生徒たちでいっぱいになった。
笑い声とシャッター音が重なり、花束の香りが風に混じる。
友人たちは肩を組み、担任は泣き笑いしながら一人ずつに声をかけていた。
剛志は人の流れの中で、藍子を見つけた。
友人たちに囲まれて笑う制服の胸には、小さな花飾り。
手首には、あの日贈ったブレスレットが変わらず光っていた。
剛志は思わず目を細める。
指先が、わずかに熱を持った。
「剛志!」
藍子がこちらへ手を振る。
友人たちが冷やかすように笑い、藍子は頬を赤くしながら近づいてきた。
「卒業、おめでとう」
「藍子もな」
いつもの言葉なのに、声の奥だけが硬くなる。
春の風が二人の間を抜け、卒業証書の入った筒をかすかに鳴らした。
「これから専門だよね」
「ああ」
「頑張ってね」
藍子はまっすぐ笑った。
本当は、ここで伝えてもよかったのかもしれない。
インサイダーを目指していること。
ずっと言えずにいた言葉があること。
けれど、まだ資格はない。
藍子の前に立てる自分にもなれていない。
「藍子も、仕事頑張れよ」
結局、出てきたのはそれだけだった。
藍子はわずかに目を細め、それから頷く。
「うん。……卒業しても、連絡してね」
「する」
「絶対だよ?」
「ああ、絶対」
その言葉に、藍子は安心したように笑った。
剛志も笑い返したが、何かを置き忘れたような重さだけが残った。
◇
――四月/インサイダー養成専門学校
専門学校の訓練棟は、普通高校とはまるで違っていた。
高い天井に厚い防護壁、床を走る魔導ライン。
薬品と金属の混じった匂いが残り、廊下を歩くだけで、ここが命を預かる場所なのだと伝わってくる。
初日の説明会を終え、剛志はすぐに現実の壁を知った。
普通高校から来た者。
ジムで訓練してきた者。
幼い頃から専門教育を受け、家系ぐるみでインサイダーを目指してきた者。
同じ教室へ集まっていても、立ち方も、構えも、魔力の扱いも違っていた。
模擬戦が始まれば、その差はすぐ形になる。
相手の踏み込みが見えない。
盾を構えようとした瞬間には、もう肩へ衝撃が走っていた。
魔法の展開速度も、自分とは比べものにならない。
防護フィールドが判定音を鳴らし、剛志は膝をついた。
肩から背中へ重い痛みが残り、息がうまく入らない。
「岩山、立てるか」
教官の声に、剛志は歯を食いしばって頷いた。
「立てます」
立ち上がる。
足裏には力が戻る。
それでも、相手との距離だけが今までより遠く見えた。
ジムで積み重ねた三年間は、無駄ではない。
ただ、それだけでは届かなかった。
その事実が、汗より冷たく背中を伝った。
◇
日々は、思っていた以上の速さで削れていった。
朝は座学、昼は実技、夕方には自主訓練。
夜は寮の机へ向かい、魔法災害法、救助判断、ダンジョン生態、魔力循環理論――目の奥で文字が滲むまで参考書を読み続けた。
それでも、携帯端末には藍子から時々メッセージが届いた。
『仕事、まだ慣れないけど頑張ってるよ』
『剛志も専門どう?』
最初の頃は、すぐに返していた。
『大変だけど楽しい』
『こっちも頑張ってる』
けれど、時間が経つにつれて返信は遅くなった。
訓練から戻り、そのまま倒れ込むように眠った夜。
試験範囲を見直すうち、窓の外が明るくなった朝。
通知へ気づきながら、画面を閉じてしまう日も増えていく。
藍子へ弱音は吐きたくなかった。
まだ何者にもなれていない自分を、見せたくなかった。
気づけば、返す言葉は短くなっていた。
『ごめん、忙しい』
『また落ち着いたら』
送信するたび、指先に嫌な重さが残った。
それでも、今だけだと思っていた。
資格を取れば、すべて話せる。
『インサイダーになった』
そう伝えた時、藍子はどんな顔で笑うだろう。
その光景を思い浮かべ、剛志はもう一度参考書を開いた。
◇
一年目の終わり。
剛志は初めてインサイダー資格試験へ挑んだ。
筆記試験を終え、モンスター討伐試験、現役インサイダーとの対人戦へ臨む。
張り詰めた数日が過ぎ、やがて合格発表の日を迎えた。
掲示板へ並んだ受験番号の中に、自分の番号はなかった。
後日返却された評価票には、防御力や継戦能力、救助時の身体制御の高さが記されていた。
対人戦でも、最後まで立ち続けた点は認められている。
だが、モンスター討伐試験ではあと一歩届かず、時間切れによる撤退。
総合判定は、合格基準を下回っていた。
剛志は評価票を見つめ、拳を握った。
(まだ足りない)
両親が支えてくれた時間。
石田が叩き込んでくれた基礎。
藍子が「頑張ってね」と笑った卒業の日。
そのすべてを抱えたまま、評価票を閉じた。
その夜、剛志は専門学校の訓練場へ戻った。
靴紐を結び直し、盾を手に取る。
腕へ重みが落ち、吸い込んだ冷たい空気が肺の奥まで満ちていく。
倒れないだけでは足りない。
救うには、そこから動かなければならない。
剛志は、その感覚を身体へ刻むように一歩ずつ前へ出た。
◇
それから、藍子との連絡はさらに減った。
端末に彼女の名前が表示されるたび、指が止まる。
会いたい。
声も聞きたかった。
けれど今会えば、何も掴めていないまま好きだと言ってしまいそうだった。
それが怖くて、剛志は訓練へ逃げた。
実習で見たダンジョンは、想像していたよりはるかに厳しかった。
一歩判断を誤れば、人は簡単に命を落とす。
守るという言葉の重さを、現場は容赦なく突きつけてきた。
(今の俺じゃ、守れない)
藍子も。
目の前で助けを求める人も。
だから、前へ進むしかなかった。
魔法展開の遅れを減らすために、呼吸を整える練習を繰り返す。
盾を構えたまま走り、瓦礫を想定した重量物を支え、仲間役の訓練生を背負って階段を駆け上がる。
足裏の皮が剥け、肩の内側が熱を持ち、朝起きるたび身体は重かった。
それでも、少しずつ動きは変わっていく。
攻撃を受けたあと、次の一歩が出るようになった。
魔力の流れが乱れても、盾へ硬化を乗せ直せるようになった。
周囲の声を聞きながら、落ちる瓦礫の位置まで捉えられるようになった。
派手な成長ではない。
けれど、その一つひとつが確かに身体へ積もっていった。
◇
一年目の試験から、およそ一年。
剛志は再びインサイダー資格試験へ臨んだ。
筆記試験を終え、続くモンスター討伐試験、そして現役インサイダーとの対人戦へ挑む。
今度は違った。
モンスター討伐では焦らず間合いを詰め、一つずつ状況を組み立てながら確実に仕留めた。
対人戦でも攻撃を受け流し、最後まで立ち続ける。
試験を終えた剛志は、大きく息を吐いた。
腕には鈍い痛みが残り、戦闘服の内側は汗で張りついている。
それでも、去年のような悔しさはなかった。
やれることは、すべてやった。
そう思えた。
◇
そして春。
合格発表の日。
掲示板の前には、多くの受験者が集まっていた。
剛志は自分の番号を探す。
指先が冷たい。
心臓の音が、周囲のざわめきより大きく聞こえる。
番号を目で追い、途中で見失い、もう一度上から確認した。
(あった)
自分の番号が、そこにあった。
息が止まる。
次の瞬間、身体の奥から熱が込み上げた。
「……受かった」
声はかすれていた。
けれど、口にした途端、積み重ねてきた二年間が一気に押し寄せる。
ジムの床で何度も立ち上がった日々。
専門学校で叩きつけられた現実。
夜遅くまで机へ向かい続けた時間。
支えてくれた父と母。
言えずに抱え続けてきた、藍子への想い。
ばらばらだったものが、ようやく一つの形になった。
その日の夜、剛志は久しぶりに藍子へ連絡した。
何度も文面を書き直す。
指が画面の上で止まり、消しては、また打つ。
結局、送ったのは短い文章だった。
『久しぶり。会えないかな。話したいことがある』
返信を待つ時間が、どんな訓練より長く感じた。
数分後、端末が震える。
『いいよ。久しぶりに会いたい』
剛志は画面を見つめたまま、肩から力を抜いた。
胸の奥で、ずっと止めていた言葉が動き出す。
今度こそ言える。
インサイダーになった。
好きだ。
君を守れる男になりたかった。
窓の外には、春の夜が広がっていた。
滅亡時計の数字は、今日も遠くで秒を刻んでいる。
剛志はポケットの中のキーホルダーへ触れた。
高校最後のクリスマスにもらった、小さな盾。
指先に馴染んだ革の感触を確かめる。
そのぬくもりを確かめながら、剛志は目を閉じた。




