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第4話:言えなかった言葉

――十二月二十四日/駅前広場


冬の夕方は、思っていたより早く街を青く染めていた。


駅前広場には白いイルミネーションが灯り、街路樹の枝を細かな光が包んでいる。


吐く息はすぐに白くなり、人々の声も冷たい空気の中で少し遠く聞こえた。


剛志は待ち合わせ場所の時計台の下で、手袋の中の指を何度も握っては開いていた。


制服ではない。


紺色のコートに、母が選んでくれたマフラー。


髪もいつもより整えてきた。


鏡の前では普通に見えたはずなのに、駅前の明るいガラスへ映る自分は、どこか落ち着かない。


ポケットの中には、小さな包みが入っていた。


何度も触れたせいで、その形も重さもすっかり覚えてしまっていた。


藍子へのクリスマスプレゼントだった。


(……大丈夫だ)


そう言い聞かせたそばから、手がまたポケットへ伸びた。


三年間、ずっと目指してきた。


普通高校へ通いながら、放課後はジムへ行き、土日も訓練に使った。


両親に支えてもらい、石田に何度も転がされ、眠い目をこすって参考書を開いた。


その理由のすべてを、今日伝えるわけではない。


けれど、今日は初めて自分から藍子を誘った日だった。


クリスマスに二人で会わないか。


そう送った時、返信は思っていたより早かった。


『うん。行く』


その短い文字を見てから、ずっと落ち着かないままだった。


「剛志!」


声がした。


顔を上げた瞬間、言葉が止まった。


藍子が人波の向こうから小走りで近づいてくる。


いつもの制服でも、近所へ出る時の服でもなかった。


淡い色のコートに、首元には白いマフラー。


髪はゆるく巻かれ、耳元の小さな飾りがイルミネーションを受けて揺れていた。


見慣れているはずなのに、初めて会う人のように見えた。


「ごめん、待った?」


藍子が息を弾ませながら見上げる。


白い息が、二人の間でふわりとほどけた。


「いや、全然」


剛志は慌てて首を振る。


「……その、似合ってる」


口にした途端、頬へ熱が集まった。


藍子は一瞬だけ目を丸くし、それから照れくさそうに笑った。


「……ほんと?」


「うん」


剛志が頷くと、藍子は目を細めた。


「ありがと」


少しだけ間を置く。


「……剛志に褒められるの、なんか嬉しい」


その一言で、剛志は返す言葉を失った。


広場の向こうでは、クリスマスマーケットが開かれていた。


木製の小さな屋台が並び、温かい飲み物や焼き菓子の匂いが冷たい空気へ溶けている。


魔導灯の光が屋根の雪飾りを照らし、子どもたちの笑い声が人の流れに混ざっていた。


「行こうか」


「うん」


二人は並んで歩き出した。


肩が触れそうで触れない距離だった。


いつもならもっと気軽に話せるはずなのに、その日の会話はどこかぎこちない。


藍子も同じなのか、時折マフラーの端へ触れながら屋台の方を見ていた。


「これ、あったかそう」


ホットチョコレートの屋台で、藍子が足を止める。


「飲む?」


「うん。剛志は?」


「俺も」


紙カップを受け取ると、指先へ熱が移った。


湯気の向こうから、甘い香りが届く。


藍子は両手でカップを包み、息を吹きかけてから口をつけた。


「甘い」


「そりゃそうだろ」


「でも、こういう日は甘い方がいいでしょ」


そう言って笑う藍子に、剛志もつられる。


いつもの藍子だった。


それでも、ふと目が合うたびに、どちらからともなく顔を逸らした。


剛志が屋台の商品を見ている間にも、藍子がこちらを見ている気配があった。


何かを待っている。


そんな空気が、二人の間に残っていた。


今なら、きっと届く。


そう思うのに、口を開こうとするたび、言葉が出てこなかった。


まだ資格を取っていない。


守れる男になってから言うと決めた。


その決意が、今は自分の言葉を塞いでいた。


屋台を一通り回ったあと、二人は駅前から少し離れた公園へ向かった。


中央には大きなツリーが飾られている。


枝へ巻かれた魔導イルミネーションが風に合わせて色を変え、白から青へ、青から金へと移る光が、足元の石畳へ淡い模様を落としていた。


ほかのベンチにも何組かが腰掛けていたが、奥まった一角は静かだった。


剛志と藍子は、空いていたベンチへ並んで腰を下ろす。


木の冷たさが、コート越しにも伝わってきた。


「もうすぐ卒業だね」


藍子がぽつりと言った。


「早いな」


「うん。高校入った時は、三年って長いと思ってたのに」


藍子はカップの縁を指でなぞる。


指先が、少し赤くなっていた。


「剛志、専門行くんだよね。遠いの?」


「そこまでじゃない。電車で行ける」


「そっか」


イルミネーションの光が、その横顔をゆっくり流れていく。


「私は就職だから、生活変わるかも」


「うん」


「でもさ」


藍子はそこで言葉を切った。


カップを包む指へ力が入る。


それから、剛志を見た。


「卒業してもさ」


少し笑う。


「ちゃんと会ってよ?」


「忙しいからって、連絡しなくなるのなしだからね」


剛志はポケットの中の包みに触れた。


紙越しに伝わる、小さな箱の形。


冷えた指先に、その感触だけがはっきり残った。


今なら言える。


好きだと。


ずっと一緒にいたいと。


喉まで込み上げた言葉は、そこで止まった。


まだ、藍子に胸を張れる自分ではない。


「……もちろん。会うに決まってるだろ」


出てきたのは、それだけだった。


藍子はほんの少し目を伏せる。


「よかった」


静かな声だった。


剛志はポケットの中の箱を、親指でなぞった。


違う。


伝えたかったのは、それではなかった。


◇


しばらく園内を歩いたあと、二人はベンチへ戻り、プレゼントを交換することにした。


「じゃあ、せーので出す?」


藍子が空気を変えるように言った。


「子どもかよ」


「いいじゃん、クリスマスだし」


その言い方が昔と変わらず、剛志の肩から少し力が抜けた。


「せーの」


二人は同時に包みを差し出す。


藍子から渡されたのは、小さな箱だった。


開けると、中には黒い革のキーホルダーが入っている。


金具には、小さな盾の飾りがついていた。


「ジム通ってるって言ってたから」


藍子はマフラーの端を指先で触れた。


「鞄とかにつけられるかなって。剛志、物あんまり買わないし」


「……ありがとう」


剛志はキーホルダーを手に取った。


革は柔らかく、指へしっとり馴染む。


盾の飾りは小さいのに、光を受けると銀色にきらめいた。


「大事にする」


「うん」


藍子は嬉しそうに頷いた。


剛志が渡した包みを開けると、藍子の手元に細いブレスレットが現れた。


派手ではない。


小さな青い石がひとつだけついた、落ち着いたものだった。


藍子はしばらくそれを見つめる。


「……かわいい」


「よかった」


「つけていい?」


「ああ」


藍子は手袋を外し、少し不器用にブレスレットを手首へ通した。


金具がうまく留まらず、指先が何度か空を掴む。


剛志は迷ったあと、そっと手を伸ばした。


「貸して」


藍子の手首に触れる。


冷えた肌の感触が指先へ伝わり、金具を留めるだけなのに呼吸が浅くなった。


藍子も黙ったまま、手元を見ている。


かちり、と小さな音がした。


「できた」


剛志が手を離す。


藍子は手首を持ち上げ、光へかざした。


青い石が、イルミネーションの中で小さく揺れる。


「ありがとう。ずっと大事にする」


その声を聞いた瞬間、胸の奥から言葉がせり上がった。


好きだ。


ずっと好きだった。


今、ほんの一部だけでも伝えればよかった。


それでも剛志は、口にできなかった。


「……よかった」


藍子はきょとんとする。


「よかったって何?」


思わず吹き出した藍子につられ、剛志も照れくさそうに頭をかいた。


「いや……なんでもない」


「変なの」


藍子は笑いながらブレスレットをもう一度見つめる。


「でも、本当にありがとう」


二人は顔を見合わせる。


少し照れて、また笑った。


◇


帰り道、駅前の人通りは少し減っていた。


イルミネーションはまだ明るいのに、夜の冷たさだけが深くなっている。


吐く息は白く、二人の足音が並んで舗装路へ落ちた。


「今日はありがとう」


藍子が小さく笑う。


「すごく楽しかった」


「俺も」


剛志も笑った。


少しだけ沈黙が流れる。


イルミネーションの光だけが二人の間を照らしていた。


藍子が少し寂しそうに笑う。


「高校生活も、あと少しなんだね」


剛志は小さく頷く。


「ああ……早いな」


その一言だけで、二人とも黙った。


駅の改札前で、二人は向かい合う。


いつもなら「また明日」で済む距離だった。


けれど、卒業は近い。


進路も違う。


これからは、同じ時間に同じ道を歩けるとは限らなかった。


藍子は何かを言いかけて、唇を閉じる。


手首のブレスレットへ指先を触れ、小さく息を吸った。


「……剛志」


呼ばれて、剛志が顔を上げる。


「ん?」


藍子は一度だけ口を開く。


けれど、そのまま小さく笑った。


「……ううん」


小さく首を横へ振る。


「剛志も、そのキーホルダー使ってね」


「ああ。絶対つける」


「約束」


「約束」


二人は少しだけ笑い合う。


その笑顔が少しずつ静まり、藍子は改札へ向かった。


数歩進んだところで、一度だけ振り返る。


その目は、まっすぐ剛志を見ていた。


今なら、まだ呼び止められる。


「藍子」


声を出しかけて、喉で止まる。


藍子は少しだけ首を傾げた。


剛志は拳を握る。


(言え。今言え)


それでも、別の言葉が胸の内側へ浮かぶ。


(まだだ。ちゃんとインサイダーになってからだ)


守れる男になってから。


剛志は無理に笑った。


「……気をつけて帰れよ」


藍子の表情が、ほんの少し揺れた。


それでもすぐに笑う。


「うん。剛志もね」


改札の光が藍子の背中を照らし、その姿は人波の中へ少しずつ紛れていった。


剛志はその場に立ったまま、見えなくなるまで見送った。


冬の風がマフラーの端を揺らす。


鞄の中には、藍子からもらったキーホルダーがある。


手首に触れた冷たさも、まだ指先へ残っていた。


それなのに、冬の静けさの中へ、言えなかった言葉だけが残っていた。


(資格を取ったら)


剛志は自分へ言い聞かせるように、息を吐いた。


(その時、ちゃんと言う)


空には、滅亡時計が浮かんでいた。


数字は今日も一つずつ減っている。


けれどその夜の剛志には、世界の終わりよりも、自分の中へ残ったたった一つの言葉の方が、ずっと重かった。


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