第3話:積み重ねた時間
――翌週/石田トレーニングラボ
制服からジャージへ着替えた剛志は、緊張した面持ちで訓練スペースへ向かった。
石田は腕を組み、その姿を見つめる。
「今日から本格的に始める。まずは体を作る」
剛志は大きく頷いた。
「はい!」
石田は足元へ一枚の紙を置いた。
基礎体力メニューだった。
「インサイダーは、剣を振れるだけじゃ務まらない。最後まで立っていられる体があって、初めて人を守れる」
「今日は、これを全部やる」
剛志は紙へ目を落とした。
想像していたより、ずっと多い。
それでも迷いはなかった。
「お願いします!」
石田は紙を指で示した。
「よし。始めよう」
最初に渡されたのは、剣でも盾でもなかった。
ランニングシューズと、基礎体力表。
放課後にジムへ着くと、剛志はまず近くの河川敷を走らされた。
まだ夕方の熱が残る道を何周も走る。
一周目は、思っていたより楽だった。
二周目で息が乱れ始め、三周目には太ももの裏が熱を持った。
汗が目に入り、視界が滲む。
河川敷を吹く風は涼しいはずなのに、喉だけが乾いていく。
ジムへ戻ると、休む間もなく筋力トレーニングが始まった。
腕立てに続いてスクワット、さらに体幹まで終えた頃には、サンドバッグへ触る前から膝が笑っていた。
「構えろ」
石田に言われ、剛志はふらつく足で拳を上げる。
「体が疲れた時に崩れるものが、本当の実力だ」
その言葉と同時に、石田の手が剛志の肩を軽く押した。
たったそれだけで足元が崩れ、マットへ膝をつく。
息が喉で引っかかり、汗が顎から落ちた。
「もう一度」
剛志は歯を食いしばり、立ち上がった。
石田の口元が、わずかに緩む。
「その顔だ」
その日は、剣を一度も握らなかった。
帰り道では、駅の階段を上がるだけで脚が重かった。
つり革を握る手にも力が入らず、電車の揺れに合わせて身体が小さく流れる。
家に帰ると、母が玄関で目を丸くした。
「剛志、大丈夫?」
「……大丈夫」
そう答えたものの、靴を脱ぐだけで太ももが震えた。
風呂に入ると、湯が疲れた筋肉へ染み込むたび痛みが走る。
湯気の向こうで腕を持ち上げれば、肩が鈍く軋んだ。
それでも、体の底にはまだ熱が残っていた。
今日、自分は一歩だけ進んだ。
そう思えた。
◇
五月に入る頃には、ジムへ向かう道も少しずつ日常へ変わっていた。
学校が終わると、剛志は教室で急いで荷物をまとめる。
友人たちに遊びへ誘われる日もあったが、「用事がある」とだけ答えて席を立った。
藍子とは、帰りの昇降口でよく会った。
「剛志、今日も用事?」
「うん。ちょっとな」
「最近忙しそうだね」
藍子は責めるでもなく、どこか楽しそうに剛志を見ている。
「何してるの?」
「ジム」
「え、ジム?」
「体鍛えようと思って」
藍子は目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「すごいじゃん。急にどうしたの?」
「なんとなく」
「なんとなくでジム行く?」
「行くやつもいるだろ」
「いるかなぁ」
藍子がくすくす笑う。
その声を聞くと、疲れていた肩が少し軽くなった。
本当のことは言わなかった。
インサイダーを目指していることも、その理由の中に藍子がいることも。
今はまだ、自分の中にしまっておきたかった。
資格を取った時、きっと驚く。
その顔を想像するだけで、足が前へ出た。
◇
休日の夕方。
ジムから帰ると、自宅の前に人影があった。
藍子だった。
紙袋を両手で抱え、落ち着かない様子で玄関の前に立っている。
「あれ、藍子?」
振り向いた藍子が、ほっとしたように笑った。
「よかった」
「ちょうど帰ってきた」
剛志は汗を拭きながら近づく。
「どうした?」
藍子は紙袋を差し出した。
「本当に頑張ってるんだね。休日なのに」
少し照れたように笑う。
「これ、作ってみたの」
「よかったら食べて」
紙袋の中には、小さく包まれた手作りの焼き菓子が入っていた。
剛志は少し驚いて、それから嬉しそうに笑う。
「わざわざありがとう」
「嬉しいよ」
藍子は肩の力を抜いた。
その時だった。
「……あ」
剛志は自分の服を見下ろす。
汗でジャージが張り付き、髪も乱れている。
「ちょっと待ってて。着替えてくる」
藍子は慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫」
「これから予定あるから、すぐ帰らなきゃ」
「そうか」
剛志は紙袋を持ち直した。
藍子は一歩下がって手を振った。
「じゃあね!」
走り出す。
少し進んだところで振り返る。
「剛志!」
「無理しちゃ駄目だよー!」
夕焼けの住宅街へ、その声だけが残る。
剛志は手を振り返した。
紙袋からは、甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
◇
六月。
魔法理論の授業が始まった。
ジムの奥にある小さな教室には、長机とホワイトボードが置かれている。
壁には人体図と魔力循環の図が貼られ、棚には分厚い参考書が何冊も並んでいた。
「普通高校からインサイダーを目指すなら、学科で落ちるな」
石田はそう言って、剛志の前へ問題集を置いた。
「実技だけできても資格は取れない。魔法災害の基礎、法律、救助判断、ダンジョン構造。全部必要だ」
ページをめくる音が、やけに重く聞こえた。
学校の勉強に加えて、さらにこの量。
喉の奥がわずかに詰まる。
けれど、石田は淡々と授業を進めた。
「今日は魔法の基礎だ。まずはマナ・リリースを覚える」
石田は机へ軽く手を置く。
「魔法は、自分の中にある魔力を外へ放出できなければ始まらない」
剛志は頷いた。
「肩の力を抜け。深く息を吸って、体の中の魔力を外へ押し出すイメージだ」
言われた通りに呼吸を整える。
最初は何も起こらなかった。
ただ立っているだけに思えた。
けれど何度も繰り返すうち、指先から何かが抜けていくような、不思議な感覚が生まれる。
石田は剛志の指先を見た。
「それがマナ・リリースだ。その感覚を忘れるな」
剛志は何度も呼吸を繰り返す。
放出される感覚はまだ弱く、不安定だった。
それでも、確かに今までとは違う。
「次は適性属性を調べる。属性が分かれば、それに対応したルーンを覚えていく」
剛志はもう一度頷いた。
魔法は、ただ魔力があれば使えるものではない。
一つずつ順番に積み重ねていく技術なのだと、その日初めて知った。
◇
夏になる頃には、制服の肩が少し窮屈になっていた。
朝、シャツへ袖を通すと、二の腕のあたりで布が引っかかる。
鏡の前で腕を曲げれば、以前よりはっきり筋肉の線が浮いた。
「剛志、背伸びた?」
朝食の席で、母が首を傾げた。
「いや、体重は増えた」
「筋肉?」
「たぶん」
父は新聞をたたみ、剛志の皿を見た。
「食え。動くなら、食わないと保たない」
そう言って、焼き魚を一切れ剛志の皿へ寄せる。
「ありがとう」
何気ないやり取りだった。
けれど、ジムの月謝を知っているからこそ、食卓の温かさが以前より重く感じられた。
父の帰りが遅くなった日があった。
母が疲れた顔で買い物袋を下ろす日も増えた。
二人は何も言わない。
だから剛志も、黙って食べた。
その分、走った。
その分、ノートを開いた。
支えてもらっている時間を、無駄にはしたくなかった。
◇
七月も終わりに近づき、教室では夏休みの話題が増えていた。
終業のチャイムが鳴る。
剛志は鞄を肩へ掛け、いつものようにジムへ向かう支度を始めた。
その横へ、藍子が歩いてくる。
「剛志、もうすぐ夏休みだね」
「ああ」
藍子は一度言葉を探し、それから言った。
「せっかくだしさ。夏休みに、ショッピングモール行かない?」
剛志は少し驚いた。
「二人で?」
「うん」
「買い物もしたいし、新しくできたお店も見てみたいなって」
少しだけ照れたように笑う。
剛志も自然と笑った。
「いいぞ。行こう」
藍子の表情がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ああ」
「やった」
その笑顔を見ていると、不思議と疲れまで軽くなった。
「じゃあ予定決めようね」
「おう」
二人はそのまま並んで昇降口へ向かった。
◇
別の日の放課後。
剛志は教室の後ろで帰りの荷物をまとめていた。
少し離れたところから、同じ学年の男子生徒が藍子へ声を掛ける。
「木下さん」
「夏休み暇? よかったら映画でも行かない?」
藍子は少し困ったように笑う。
「ごめん」
男子は苦笑して肩をすくめた。
「そっか」
そのまま去っていく。
近くで見ていた友達が笑った。
「また断ったの?」
「うん」
「もしかして好きな人いる?」
藍子は視線を横へ逃がした。
「……どうだろ」
そう答えながら、教室の後ろへ目を向けた。
ジムへ向かう支度をしている剛志が、何も気づかないまま鞄を肩へ掛けている。
藍子はそのまま剛志の隣へ並んだ。
「今日もジム?」
「ああ」
「じゃあ駅まで一緒」
「おう」
二人は並んで教室をあとにした。
◇
夏休み。
藍子と駅前のショッピングモールへ行った。
外は焼けるように暑く、アスファルトの上には陽炎が揺れている。
モールの自動ドアが開くと、冷房の風が汗ばんだ首筋へ一気に触れた。
藍子は入口で小さく息を吐く。
「涼しい……生き返る」
「大げさだな」
「剛志が暑さに強すぎるんだよ」
そう言いながら、藍子は剛志の腕をちらりと見た。
「やっぱり、前よりがっしりしたよね」
「そうか?」
「うん。すごいと思う」
その一言で、足元が少し軽くなった。
ジムで転がされ、腕が上がらなくなるまで鍛えた日々が、報われた気がした。
「頑張ってるんだね」
藍子の声はやわらかかった。
「まあ、それなりに」
照れ隠しのように答えると、藍子は楽しそうに笑う。
「剛志って、そういうとこあるよね」
「どういうとこだよ」
「本気になってるのに、あんまり言わないところ」
剛志は返事を詰まらせた。
「……そんなことないだろ」
「あるよ」
藍子はそう言って、フードコートの方へ歩き出した。
剛志も隣に並ぶ。
モールの中は家族連れで賑わい、子どもの笑い声や店内アナウンスが天井へ反響していた。
窓の向こうには白く霞んだ夏空が広がり、その奥には滅亡時計の数字が静かに浮かんでいる。
誰も長くは見上げない。
それでも、その数字は、今日も確かに秒を刻んでいた。
フードコートへ向かう途中だった。
ゲームセンターの前で、藍子がふいに足を止めた。
「ねぇ」
ガラス越しに並んだプリクラ機を指差す。
「撮ろ」
剛志は思わず目を丸くする。
「俺?」
「うん。高校に入って最初の夏休みだし」
少し照れたように笑う。
「記念」
剛志は少し身を引いた。
「男が撮るもんじゃないだろ」
藍子は袖を軽く引いた。
その勢いに押されて、剛志も肩をすくめた。
「……一回だけだからな」
「やった!」
藍子は嬉しそうにプリクラ機へ駆け寄っていく。
剛志も苦笑しながら、その後を追った。
ブースへ入ると、狭い空間へ二人並んで立つ。
画面の向こうから明るい音声が流れた。
『もっと近づいてくださーい!』
「いやいや、近いって」
剛志が思わず半歩下がる。
「ほら」
藍子が服の袖を軽く引いた。
肩が触れる。
二人とも一瞬だけ固まった。
「はい、笑ってー!」
フラッシュが光る。
思わず顔を見合わせる。
藍子が吹き出した。
「剛志、顔固い!」
「しょうがないだろ!」
「もっと笑って!」
「無茶言うな!」
笑いながら二枚、三枚と撮影が進んでいく。
最後の一枚は、お互い自然と笑っていた。
撮影が終わると、画面はそのまま落書きモードへ切り替わる。
藍子はペンを手に取り、並んだ写真を嬉しそうに眺めた。
「どうしようかな」
小さく呟きながら、写真の端へ星を一つ描く。
その横へ、小さく日付を書き添えた。
『高校に入って最初の夏休み』
「こんな感じかな」
やがて機械が軽く動き始め、プリクラが印刷された。
藍子は半分に分けると、一枚を剛志へ差し出した。
「はい」
「俺も?」
「もちろん! 思い出なんだから」
剛志は少し照れながら受け取った。
写真の中では、二人とも笑っている。
「なくさないでね」
「……おう」
剛志は大事そうに財布へしまった。
藍子はその様子を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃ、お昼食べよ」
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
ゲームセンターの賑やかな音が少しずつ遠ざかり、夏休みの人波へ自然と溶け込んでいく。
財布の中には、さっき撮ったばかりのプリクラが入っていた。
剛志は財布をそっと叩いた。
(その時まで)
インサイダーになり、胸を張って藍子の前へ立てる日まで。
◇
二年生になっても、生活は大きく変わらなかった。
学校の授業を受け、放課後はジムへ向かい、夜は机に向かう。
遊ぶ時間は減ったが、それでも藍子との関係は切れなかった。
休日の夕方に少しだけ会う。
駅前で話す。
近所の祭りへ行く。
そんな短い時間が、高校生活の中で息を抜ける場所になっていた。
ジムでは、剛志の訓練内容も少しずつ変わっていく。
剣を握る時間が増え、盾の扱いも学び始めた。
防御姿勢を取るたび、肩や腰へ重さが落ちる。
「お前は前へ出るより、支える方が向いている」
ある日、石田がそう言った。
「支える、ですか」
「ああ。押し返す力がある。逃げない重さもある」
石田は模擬盾を剛志へ渡す。
「派手な一撃に憧れる気持ちは分かる。だが、戦場で本当に必要なのは、倒れない奴だ」
(藍子を守れるなら、派手じゃなくてもいい)
剛志は盾の内側へ腕を通した。
重い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
足を開いて腰を落とすと、石田の木剣が振り下ろされる。
衝撃が盾越しに腕を貫き、そのまま肩へ抜けた。
歯を食いしばって踏みとどまると、足裏がマットへ深く沈む。
――逃げない。
その感覚だけが、身体へ残った。
◇
三年生になる頃、進路の話が教室でも増え始めた。
昼休みの窓際で、藍子は求人票の束を眺めていた。
「私、就職にしようと思ってる」
その声は、思っていたより明るかった。
「そうなんだ」
「うん。早く働いて、お金貯めたいし」
春の光が窓から差し込み、藍子の髪をやわらかく照らしている。
剛志は自分の進路希望票を鞄の中へ押し込んだ。
そこには、インサイダー養成専門学校の名前が書かれていた。
「剛志は?」
「俺は……専門に行くかも」
「へぇ、何の?」
「体を使う仕事の」
答えになっていない。
自分でも分かっていた。
藍子は少しだけ目を細めたが、それ以上は聞かなかった。
「そっか。剛志らしいね」
「そうか?」
「うん」
藍子は笑った。
その笑顔を見るたび、早く伝えたいという思いが強くなる。
けれど、まだだった。
資格もない。
ただ目指しているだけの自分では足りない。
ちゃんと掴んでから言いたかった。
「インサイダーになった」
そう言って、藍子を驚かせたい。
その時に、好きだと伝える。
だから、その日も言わなかった。
まだ言う時ではないと、自分へ言い聞かせた。
窓の外では、校庭の砂が風に巻かれて薄く舞っている。
藍子は求人票を閉じ、剛志の方を見た。
「卒業してもさ。たまには会おうね」
鞄の持ち手を握る指に、わずかに力が入る。
「ああ。当たり前だろ」
剛志がそう返すと、藍子は安心したように笑った。
その笑顔を見つめながら、剛志は声には出さずに誓った。
あと少し。
あと少しで、藍子の前に立てる自分になる。
そうしたら、全部伝える。
剛志はそう決めて、窓の外へ目を向けた。




