第2話:支えてくれる人
――数日後/岩山家・夕食
味噌汁の湯気が、食卓の上でゆっくり揺れていた。
焼き魚の香ばしい匂いに混じって、炊きたてのご飯の甘い香りが部屋へ広がっている。
台所では母が湯のみを並べ、父は食卓の端で新聞をたたんでいた。
テレビからは夜のニュースの音が流れている。
『本日発生したダンジョンブレイクでは、現役インサイダーの活躍により死者は確認されていません』
画面の中では、戦闘服姿のインサイダーたちが担架を運び、避難した人々を誘導していた。
煤に汚れた腕、泥のついた靴、泣きながら助け出される子ども。
光の中で誰かを抱き上げる背中が、剛志の目に焼きついた。
箸を持つ手が、自然と止まっていた。
父がその様子に気づき、湯のみを置く。
「珍しいな。ニュースなんて見て」
「……うん」
剛志は短く返したあと、もう一度画面を見た。
インサイダーの背中の向こうで、助けられた女性が何度も頭を下げている。
画面が切り替わると、駅前で見た獅子堂焔と御剣宗司の映像も流れた。
藍子の声が、記憶の中で重なる。
『誰かを守れる人って、かっこいいなって思う』
箸を置く音が、思ったより大きく聞こえた。
「父さん」
自分の声なのに、少し硬かった。
父と母が、同時にこちらを見る。
剛志は一度息を吸い、それからまっすぐ二人を見た。
「俺、インサイダーになりたい」
食卓の空気が、静かに止まった。
テレビの音だけが少し遠くで流れている。
味噌汁の湯気が揺れ、父の手が湯のみの縁に触れたまま止まっていた。
母は驚いたように目を丸くしていたが、すぐに何かを言うことはなかった。
剛志は続ける。
「本気なんだ」
「高校卒業したら、専門学校へ行って資格を取りたい。だから……今から勉強も、訓練も始めたい」
言葉にするたび、曖昧だった思いが少しずつ形になっていく。
父はしばらく黙っていた。
怒っているわけではない。
けれど、軽く頷ける話でもない。
そんな沈黙だった。
やがて、父は湯のみから手を離した。
「どうして急にだ」
剛志はすぐには答えられなかった。
本当は、藍子のことを言いたかった。
藍子がインサイダーを見上げていたこと。
守れる男をかっこいいと言ったこと。
その横顔を見て、自分もそうなりたいと思ったこと。
けれど、それだけを口にするのは、どこか違う気がした。
テレビの中では、避難した人々が毛布を受け取っている。
泣いている子どもの背中を、インサイダーがそっと撫でていた。
「……誰かを守れる人になりたい」
その言葉だけは、迷わず出た。
父は剛志をじっと見た。
その視線は厳しかった。だが、否定するものではなかった。
「簡単な道じゃないぞ。死ぬかもしれない仕事だ」
「うん。知ってる」
「途中で諦めるくらいなら、最初から行くな」
剛志は膝の上で拳を握り、まっすぐ頷いた。
「諦めない」
父の目が、ほんの少しだけ緩んだ。
母が湯のみを持ち上げ、両手で包む。
「剛志がそんなふうに夢を話したの、初めてね」
その言葉に、剛志は少し照れくさくなって視線を落とした。
「……そうかも」
父は母と一度目を合わせる。
それから、思い出すように口を開いた。
「近くに、元インサイダーがやっているジムがある」
「え?」
思わず顔を上げる。
父は頷いた。
「魔法教師ライセンスも持っている人だ。魔法も教えられるし、資格試験の勉強も見てくれるらしい」
剛志は思わず身を乗り出した。
「そんなところがあるの?」
「ああ。昔、仕事先の知り合いから聞いたことがある。本気でインサイダーを目指す人間を育てているらしい」
剛志の声が、先に出ていた。
「行ってみたい」
思わず口をついて出た言葉だった。
自分でも驚くほど、その声には力がこもっていた。
父は少しだけ口元を緩める。
「なら、一度話を聞きに行こう」
「向こうも、本気の人間しか受け入れないと聞く。見学して、話を聞いて、それでも目指したいなら、その時に考える」
「……うん!」
剛志は力強く頷いた。
母は心配そうにしながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。
「まずはご飯を食べなさい。夢を語るのもいいけど、冷めちゃうわよ」
「あ、うん」
茶碗を持ち直す。
白米の湯気が、さっきより温かく感じた。
◇
――数日後/インサイダートレーニングジム
夕方の空は、少しだけ橙色を帯びていた。
住宅街を抜けた先に、その建物はあった。
大きな看板には《石田トレーニングラボ》と書かれている。
外から見ると普通のジムに近いが、入口の横には魔法訓練許可証と、安全管理認定のプレートが掲げられていた。
剛志は父と母に挟まれるようにして、自動ドアの前に立った。
緊張で、鞄の持ち手を強く握る。
父が自動ドアへ目を向けた。
「行くぞ」
扉が開くと、まず鉄の匂いが届いた。
中には黒いマットが敷かれ、壁際には木剣や模擬槍、厚手の盾が整然と並んでいる。
奥の区画ではサンドバッグが重く揺れ、打撃のたびに低い音が腹の奥へ響いた。
さらに奥には、床へ魔法陣が刻まれた訓練スペースがある。
淡い光が足元で明滅し、数人の生徒が呼吸を整えながら魔力操作を行っていた。
普通高校の体育館とは、空気が違った。
ここでは誰も遊んでいない。
走る者も、剣を振る者も、魔法陣の前で目を閉じる者も、それぞれが何かへ向かっていた。
汗の匂いと、魔力が焦げるような微かな臭いが混ざり、呼吸をするだけで背筋が伸びていく。
「岩山さんですね」
声に振り向くと、一人の男が立っていた。
年齢は四十代半ばくらい。
大柄ではないが、肩から背中にかけて無駄のない厚みがあり、立っているだけで床へ重さが落ちているように見えた。
「石田です。昔はインサイダーをやっていました」
父が頭を下げる。
「本日はありがとうございます」
「いえ。まずは見ていってください」
石田は落ち着いた声でそう言い、施設の奥へ歩き出した。
剛志たちは後に続く。
訓練スペースでは、高校生くらいの少年が盾を構えていた。
指導員の一撃を受け、足が後ろへ滑る。
それでも倒れないように踏ん張る姿に、剛志は思わず目を奪われた。
石田が横で足を止める。
「インサイダーを目指すなら、戦う力だけでは足りません」
声は静かだった。
「救助、判断、魔法災害の知識、法律、撤退判断。全部必要です。ここでは実技と魔法、それから学科対策まで行います」
「学科も……」
剛志が呟くと、石田は頷いた。
「現場では、一秒の判断が命を分けることがあります。知識がない者は、助けるつもりで被害を広げる」
その言葉に、剛志は背筋を正した。
テレビの中で見ていた英雄は、ただ強いだけではない。
誰を先に助けるのか。
どこへ誘導するのか。
何をしてはいけないのか。
その全部を背負って動いている。
石田は剛志の方を見た。
「岩山君。なぜインサイダーになりたい」
数日前、食卓で答えたのと同じ問いだった。
けれど、この場所で聞かれると重さが違った。
サンドバッグの音、魔法陣の光、訓練生の荒い呼吸。
その全部が、答えを待っているように感じた。
剛志は一度だけ拳を握る。
「誰かを守れる人になりたいです」
石田の目が、少しだけ細くなる。
「誰か、か」
「はい」
「その“誰か”が一人でも、百人でも、君は前に出られるか」
喉が鳴った。
すぐには答えられなかった。
それでも、藍子の横顔が浮かんだ。
スクリーンを見上げていた目。
守れる男はかっこいいと笑った声。
剛志は顔を上げる。
「出たいです」
「今はまだ、出られるとは言えません。でも、出られるようになりたいです」
石田はしばらく剛志を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「なら、始める価値はあります」
その言葉を聞いた瞬間、握った拳に力が入った。
◇
説明を受けたあと、事務室で料金表が差し出された。
剛志は目を落とす。
月謝、教材費、魔法訓練施設の使用料、資格試験対策の追加講座――数字を追うたび、指先から熱が引いていく。
高校生が気軽に頼める金額ではなかった。
もちろん、分かっていたつもりだった。
それでも、目の前へ数字が並ぶと、料金表の白い紙だけがやけに重く見える。
父も母も、すぐには何も言わなかった。
石田は無理に勧めなかった。
「決して安くはありません。家庭の事情もあると思います。ご家族で、よく相談して決めてください」
その声は穏やかだった。
剛志は膝の上で拳を握る。
「……すみません」
自分でも、誰へ向けた謝罪なのか分からなかった。
◇
帰り道。
夕焼けに染まる住宅街を、三人で歩いていた。
さっきまでの訓練音はもう聞こえない。
代わりに、遠くで自転車のブレーキ音が鳴り、どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。
剛志は何度も口を開きかけて、結局黙っていた。
料金表の数字が頭から離れない。
父の歩幅はいつもと変わらない。
母も何も言わず、隣を歩いている。
沈黙に耐えきれず、剛志は足を止めた。
「やっぱり、無理だよ」
父と母が振り向く。
「俺、バイトしてからでもいいし。今じゃなくても――」
父は足を止めた。
夕焼けの中で、しばらく剛志を見つめる。
「……気にするな。俺も仕事を少し増やす」
母も穏やかに笑う。
「私もパートの日数を増やそうかな」
剛志は二人を見つめたまま動けなかった。
喉の奥が詰まり、うまく息ができなかった。
「でも……そんなの」
父は一歩近づき、剛志の肩へ手を置いた。
掌は大きく、少し硬かった。
「お前が初めて、自分の夢を話した。だったら応援するのが親だ」
母も頷く。
「ただし、無理だけはしないでね。体を壊したら意味がないから」
剛志は喉の奥が詰まって、すぐには返事ができなかった。
ジムで流した汗。
目の前へ並んだ料金表。
父の大きな手。
母の優しい笑顔。
夜風の冷たさの中で、その一つひとつが静かに重なっていく。
「……ありがとう」
やっと出た声は、かすれていた。
それでも二人には届いたらしい。
父は照れくさそうに視線を逸らし、肩から手を離した。
「まだ何も始まってない。本当に大変なのはこれからだ」
「うん」
剛志は頷いた。
その頷きだけは、さっきよりずっと重かった。
◇
その夜。
食事を終え、自室へ戻ると、部屋の空気は少し冷えていた。
机へ鞄を置き、窓を開ける。夜風が静かに流れ込み、カーテンが小さく揺れた。
住宅街には虫の声が響き、遠くの街明かりの上には、滅亡時計が今日も空へ浮かんでいる。
剛志は窓辺に立ったまま、その数字を見上げた。
藍子が見つめていた英雄たち。
石田の真っ直ぐな眼差し。
食卓で頷いてくれた父と母。
夜の中で、その一つひとつがゆっくり重なっていく。
剛志はゆっくり拳を握った。
(絶対になる)
風が頬を撫でる。
(インサイダーになって。ちゃんと、藍子に伝える)
その手に、もう一度力を込めた。
父が肩へ置いてくれた手の温もりが、まだ残っている気がした。




