第14話 決別
回廊を進んでいたサフィアは、ふと足を止めた。
柱の影に半分隠れる位置で、二人の姿が目に入った。
妃候補の一人と、若い武官。
どちらも見覚えがある。
――良縁の宴。
あの場で顔を合わせ、
何度か言葉を交わしていた二人だった。
「流行り病も、ようやく落ち着きそうですね」
妃候補が、穏やかに微笑む。
「ええ。次は城外の視察も再開されるでしょう。
その折には――ご一緒できれば」
武官が、照れたように笑った。
――許された距離。
サフィアは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
彼らはもう、
「この先」を話している。
それを、疑いなく口にできる関係。
……ああ。
自分は、そこに立っていない。
二人がこちらに気づく前に、
サフィアは踵を返した。
歩きながら、
胸の内に生まれた感覚に、名前をつけられずにいた。
ただ――
自分が、同じ場所には立っていないのだという事実だけが、
遅れて、静かに沁みてきた。
◆
教育座に設けられた小広間には、柔らかな香りが満ちていた。
机の上には、泡立てた試作品の石鹸がいくつも並び、
アナヒータが真剣な顔で泡の量を観察している。
「セレナ様。この三番は、香りが強すぎますね。洗い流しても残ります」
「ええと……そう、ですね……」
セレナは答えながらも、上の空だった。
泡立てた侍女が顔を見合わせる。
アナヒータも、ひそかに眉を寄せた。
「……セレナ様、今朝は少しお疲れでは?」
「そ、そんなことないです……」
言いながら、石鹸の泡を見つめる指がかすかに止まった。
お父さんの手紙……返事しないと……。
その時。
「あらぁ、セレナ様。泡より遠くを見てるけど?」
レイラが扇をぱたぱたさせながら、にやりと笑った。
「最近の殿下みたいに、ぼーっと……ね?」
「れ、レイラ様!?」
セレナは泡の器をひっくり返しそうになった。
アシュラも微笑を深める。
「三番の香り……“夜にふと近づかれたとき”に似ていますわね。
――どうなさったんです? 最近、殿下とお話していないのかしら」
「っ……!」
言葉が喉にひっかかる。
アナヒータが少しだけ視線を逸らした。
レイラは楽しそうに、セレナの後ろに回り込む。
「ねえ姫様。噂は噂として……
本当のところ、どうなの?」
「な、何がですの……」
「殿下が“来た”って話。
――夜に、あなたのお部屋に」
セレナの顔から血の気が引いていく。
アシュラは扇で口元を隠しながら、しれっと続けた。
「まあ、殿下がどなたのお部屋へ行かれようと……
“後宮は全部見ている”だけですわ」
セレナは慌てて口を開く。
「そ、そんな……深い意味なんて……」
しかしレイラが、すかさず肩をつついた。
「その“深い意味がない顔”が、一番深いのよねぇ?」
「~~~~っ」
セレナは扇で顔を覆った。
アナヒータは苦笑しつつ、試作品の香りを確かめる。
「……セレナ様。今は何も、頭に入りませんでしょう?」
「……っ、そ、そんなこと……」
「では、三番と四番の香りの違いを言えますか?」
「……う……」
セレナは言葉に詰まった。
レイラとアシュラは同時にため息をつく。
「恋に落ちると、みんな同じ顔しますのねぇ……ルナワの姫でも」
「か、からかわないでくださいっ……!」
真っ赤になったセレナに、アナヒータだけは落ち着いた声で話しかけた。
「殿下とのことは……殿下と、ゆっくりお話を。
後宮は、些細なことで空気が変わりますから」
その言葉が、刺として胸に落ちる。
セレナは息を吐き、石鹸の試作品を見つめ直した。
◆
教育座を出てから、セレナとリサは並んで歩いていた。
「今日は……皆さま、ずいぶん楽しそうでしたね」
リサが、少し照れたように言う。
「そ、そうかしら……?」
セレナは曖昧に笑い、歩調を緩めた。
「でも……」
リサは前を向いたまま、ぽつりと続けた。
「最近、後宮の皆さん……
“次はどうなるんでしょう”って、よく話してるんです」
「どう、って?」
「その……流行り病も落ち着いてきましたし、
清務も回り始めて、
石鹸の件も、侍女たちすごく誇りにしていて……」
セレナは足を止めかけて、思い直して歩き続ける。
「それで……」
リサが、少し声を潜めた。
「皆さん、
“そろそろ正妃様も決まる頃かしら”って……」
「……え?」
セレナが思わず振り返る。
リサははっとして、慌てて両手を振った。
「ち、違います!
べ、別に決まったとか、そういう話じゃなくて……!」
そして、つい勢いで出てしまったように、
「だから、その……
セレナ様が正妃様になるのも、近いんじゃないかって……
――ひゃっ!」
言ってから、自分で驚いたらしい。
「す、すみません!
今の、聞かなかったことにしてください!」
セレナは、完全に足を止めていた。
「……リサ」
「は、はいっ!」
「……そんな話、
後宮で……出てるの?」
リサは一瞬だけ迷ってから、こくりと頷いた。
「はい。
“なってほしい”って……
言い方のほうが、近いかもしれません」
夕風が吹き抜ける。
セレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そう」
それ以上、何も言えなかった。
自分の胸の奥が、
少しだけ、ざわりと音を立てたから。
リサは不安そうに見上げる。
「セレナ様……?」
「大丈夫」
セレナは、いつものように微笑んだ。
「……ちょっと、びっくりしただけ」
再び二人は歩き出した。
回廊の先に灯りはなかった。
夕刻を告げる鐘の余韻だけが、石壁に淡く残っている。
そのとき――
「リサ、ちょっと来なさい」
少し離れた場所から、女官の声が飛んだ。
リサがはっと振り返る。
「あ……す、すみません、セレナ様。
すぐ戻りますから……!」
「先に戻ってるから大丈夫よ」
セレナがそう言うと、リサは頭を下げて駆けていった。
……今日は、色々あったな。
セレナは回廊をゆっくりと歩いていた。
アナヒータ様の言う通り……浮つきすぎね。
ふいに、背中のあたりの空気がわずかに沈むのを感じた。
「……?」
思わず足を止めかけた、その瞬間。
「姫様」
前方から声が落ちた。
マリシェ女官長だった。
久々に見た彼女は、やつれたように頬がこけ、
どこか焦りを抱えた目をしていた。
「こんな時間にお一人で? 巡察中にお姿を見つけまして」
声は丁寧だが、その瞳はセレナではなく、
セレナの肩越し――背後の一点を見続けている。
……何を、見て……?
胸の奥で警鐘が鳴りかけた矢先、背後で布擦れのわずかな音がした。
振り返ろうとした瞬間――
影が飛びかかってきた。
「……っ!」
暗がりから女官の影が刃を抜き放ち、
セレナの背へ鋭い風が迫った。
刃が背へ届こうとした瞬間――
「下がれ!」
金属が弾ける鋭い音が、回廊に響いた。
斬撃を弾き飛ばしたのはサフィアだった。
抜き放った剣が、襲撃者の手から刃を叩き落とす。
衝撃に耐えられず、女官はよろめき、石畳に膝を突いた。
サフィアは一歩踏み込み、低く告げる。
「……後宮で姫殿下に刃を向けるとは」
女官が怯えて後ずさる中、
サフィアは振り返らずに問うた。
「怪我はありませんか、姫殿下」
セレナは手を胸元に当て、呼吸を整えながら答えた。
「だ……大丈夫です。
……ありがとう、サフィア殿」
サフィアの肩が、わずかに揺れた。
彼女はすぐに表情を引き締め、女官を鋭く見据える。
「その構え……ためらいがなかった。
誰の命令だ」
女官は何も答えず、震えるだけだった。
そこへマリシェが早足で割って入る。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいまし!
その者は……っ、わ、私が連れて――」
「女官長。今の状況で最初に動くべきは、姫殿下を庇うことです。
あなたは……ただ“見ていた”。
反応が遅すぎます」
マリシェの表情が引きつる。
セレナははっとした。
刃が向かった瞬間、マリシェは微動だにしなかった。
驚きの色すら薄かった。
サフィアは剣を下げると、淡々と告げた。
「弁明は後宮監殿の前で。
ここで取り繕う必要はありません」
マリシェは蒼白のまま、思わず一歩後ずさる。
サフィアは女官を取り押さえながら、腰元の笛を短く吹いた。
鋭い音が、灯りの落ちた回廊に響く。
ほどなく、遠くから足音が返ってきた。
「……巡回の者が来ます」
そう告げてから、ようやくセレナの方を向く。
「姫殿下。怪我はありませんね」
「ええ……大丈夫です」
サフィアは一瞬、安堵したように息を吐いた。
「ここは安全ではありません。
教育座の控室へ戻りましょう。――私が、付き添います」
セレナは小さく頷く。
二人が歩き出したところで、近衛と女官が数名、駆け込んできた。
サフィアは立ち止まり、簡潔に指示を出す。
「襲撃者は拘束。
女官長マリシェは、後宮監殿のもとへ。
回廊の灯りを、すぐに復旧させろ」
再び歩き出したとき、
セレナは隣を歩くサフィアの横顔を見た。
それは、政務殿で見たときと同じ――
感情を押し殺したような顔だった。
「……サフィア殿、ありがとうございました」
サフィアは足を止めず、短く答える。
「任務です、姫殿下」
それ以上、言葉は続かなかった。
教育座の灯りが見えてきた頃、セレナは気づく。
サフィアの歩調が、
わずかだけ、早くなっていることに。
◆
教育座に近い侍女控室は、小さな灯りが揺れていた。
サフィアに案内され、セレナは木の椅子へそっと腰を下ろす。
「姫殿下。ここでお待ちください。外へは決して出ないように」
「……はい。お気をつけて、サフィア殿」
短く礼を交わすと、サフィアは控室を出ていった。
扉が閉まると、張りつめていたものが一気に緩む。
さすがに、人間に襲われたのは初めて。
びっくりしたな……。
セレナは胸元を押さえ、深く息をついた。
そのとき――
バタタタッ、と小走りの音が廊下から迫り、
控室の扉が勢いよく開いた。
「セレナ様っ……!」
リサだった。
息を切らし、目に涙を溜めたまま駆け寄ってくる。
「お怪我は……! 本当に……っ!」
「リサ、大丈夫よ。ほら、そんなに慌てないで」
セレナは立ち上がり、飛びついてきたリサの手をそっと包む。
「サフィア殿がすぐに守ってくれたの。私は無事だから」
リサは震える唇をぎゅっと結び、深く頭を下げた。
「……よかった……本当によかったです……」
張りつめていた空気がほどけ、
温かな息遣いが戻っていく。
その直後。
控室の扉が再び、今度は荒々しく開いた。
「――セレナ!」
呼ばれた名と同時に、
強い腕が、躊躇なく身体を引き寄せる。
「っ……!」
「無事でよかった……!」
セレナを抱き締めたまま、アルシオンが息を震わせる。
「で、殿下……?」
その声で、アルシオンの動きが止まった。
腕から力が抜け、すぐに距離を取る。
「……すまない。だが……」
押し殺した声が掠れる。
「お前が……刃を向けられたと聞いて……」
セレナは胸の前で手を握りしめる。
「殿下……私は大丈夫です。サフィア殿が守ってくれました」
「……そうか……」
アルシオンは息を整え、ゆっくり顔を上げた。
「危険はもう排除する。お前は必ず守る……セレナ」
名を呼ぶ声が近すぎて、胸の奥が小さく跳ねた。
控室の外。
半開きの扉の隙間から、
その光景を一瞬だけ目にしてしまった者がいる。
サフィアだった。
何も言わず、彼女は音もなく扉を閉じた。
そして、そのまま回廊の闇へと身を引いた。
◆
後宮監の詰所にある尋問室は、灯火がひとつだけ揺れる、小さな石室だった。
冷えた空気のなか、マリシェは椅子に座らされていた。
背筋を保とうと必死だが、指先の震えまでは隠せない。
向かいに立つナヴァリスは、後宮管理記録一式を机へ置き、淡々と口を開いた。
「女官長。本日は“事実確認”です」
マリシェは引きつった笑みを作る。
「わ、わたくしは……無実です。
あの者が勝手に動いただけで……!」
「襲撃した女官から、すでに供述を得ています。
“あなたに指示された”と」
マリシェの肩が跳ねる。
ナヴァリスは三通の公文書を選び出し、
机上へ揃えて滑らせた。
灯火が、押された印影を赤く照らす。
「――中庭巡察の導線変更命令書。
控え倉庫通行許可証。
そして、襲撃した女官の特別休務申請書」
マリシェの息が止まった。
「いずれも、あなたの印が押されている」
「そ、そんな……!
これは……全部、偶然で――!」
「偶然にしては、揃いすぎている」
マリシェは必死に言い返す。
「ち、違います!
わたくしは調整しただけで……
決して、その……!」
遮るように、ナヴァリスは書類から目を離して告げた。
「――セレナ姫殿下は
“あなたが巡察中に声をかけてきた”と仰っていました」
マリシェの呼吸が止まる。
ナヴァリスは、ゆっくり視線を上げた。
「しかし女官長。
あなたに巡察任務はありません。
後宮で“最も巡察から縁遠い役職”が、あなたでしょう」
石室の空気が凍りついた。
「どの記録にも、あなたが巡察に出た形跡はない。
にもかかわらず――“そこにいた”。
姫殿下ではなく、姫殿下の“背後”を見つめながら」
マリシェの顔から血の気が引いていく。
ナヴァリスは書類を閉じ、淡々と告げた。
「……偶然では済みませんよ、女官長」
マリシェの唇が震え、声にならない悲鳴が漏れる。
「あなたが単独で動いたとは思っていない。
だが、黙っていれば――
あなたひとりが“切り捨てられる側”になります」
灯火だけが揺れる。
やがて、マリシェは崩れ落ちるように吐き出した。
「ち、違います……!」
椅子に縋るように身を乗り出す。
「わたくしは……後宮を守ろうとしただけです!
あの姫は……
後宮を乱し、王妃陛下のお立場を……!」
声が裏返る。
「後宮は、昔から……!
わたくしたちが、血のにじむ思いで守ってきた場所で……!
それを……外から来た姫が……!」
言葉が、次第に崩れていく。
「わたくしは……悪くありません……!
あの姫が悪いのです……!!」
ナヴァリスは、しばらく何も言わなかった。
灯火が、ぱちりと音を立てる。
「……そうですか」
ナヴァリスは立ち上がり、部屋をあとにした。
扉が閉じ、残されたのは、
椅子に縋るように崩れたマリシェの震えだけだった。
◆
後宮の訓練場脇。
低い灯火が砂地に長い影を落としていた。
遠くでは、夜番の足音が一定の間隔で返ってくる。
サフィアは呼ばれたときから、落ち着かなかった。
それを隠すように背筋を伸ばし、アルシオンの前に膝を突く。
「殿下。ご用命とあれば」
「……サフィア。立て」
その声は、ひどく柔らかかった。
それだけで、押し込めていた痛みが疼く。
サフィアが立ち上がると、しばし沈黙が落ちた。
やがて、アルシオンは口を開く。
「……礼を言いたかった。
お前がセレナを守ってくれたことを」
その名が出た瞬間、奥歯を噛みしめた。
「……あの方を守るのは、任務です」
アルシオンは目を伏せる。
「サフィア。
お前に伝えねばならないことがある」
その一言で、張りつめていたものが切れた。
「……どうして……」
堪えていた声が、零れる。
「どうして、私じゃあ駄目なの……!?
あんなに……“愛してる”って言ったくせに……!」
アルシオンが瞠目する。
それでも、もう止まらなかった。
「私は、あなたの隣に立てると思っていた……。
剣としてだけでなく……一緒にいられると……!」
涙が、頬を伝って落ちた。
「なのに……あなたは、あの人を選ぶの……?」
アルシオンは答えるまでに、少し時間を要した。
「……お前を愛していなかったわけではない」
サフィアの肩が震える。
「だが……心が傾く先を、俺自身どうすることもできなかった」
「……私は何だったの?」
「……大切だった」
低い声が落ちる。
「お前がいてくれたから、立てた日もあった。
それを偽りだったとは言わない」
気遣われているのは分かった。
けれど、その優しさが、かえって深く刺さった。
「だが……“選ぶ相手”は違った。
もっと早く気づくべきだった。
お前を……苦しめる前に」
「……違った? 今さら……そんな言葉で、片づけるの?」
こんなことを聞きたいわけではなかった。
聞いたところで、何ひとつ救われない。
それでも、唇は止まらなかった。
「なにが違うのよ……あの人と、私……なにが違うの……?」
アルシオンは何も言えない。
「私の方が、あなたを思っているのに……。
私の方が、ずっと……あなたのために……なにが悪いのよ……!」
アルシオンは、苦しげに顔を歪めた。
「……お前は悪くない。悪いのは、俺だ」
そこで言葉が詰まる。
「お前が隣にいることを、疑わなかった。
……それでいいのだと、思っていた」
サフィアの瞳が揺れた。
「すまない……サフィア」
謝罪の言葉が落ちた瞬間、
サフィアの中で、何かが音を立てて崩れた。
酷い。酷い!
ずっと頑張ってきたのに。
戦場でも、後宮でも。
アルシオンの名を守るためなら、何でも耐えられると思っていた。
砦を守ったのも。
傷を負ってなお立ち続けたのも。
すべて、この人の隣に立ちたかったからなのに。
――それなのに。
アルシオンは、私を置いて、
あの人のいる場所へ行くのだ。
黒い熱が、身体の内側で灯った。
……憎い。
そう思った瞬間、サフィアは息を呑んだ。
違う。
そんなものを抱きたくない。
そう思いたくない。
けれど、止まらなかった。
アルシオンが憎い。
あの人に心を向けたことも。
自分を選ばなかったことも。
何より――それでもまだ、嫌いになりきれないことが。
その感情に呑まれかけたとき。
──皆、鏡を見ないのかしら。
不意に、セレナの声がよみがえった。
「……何で……」
何で、今、思い出すの。
胸が焼けるように痛いのに。
あの人のことなんて、考えたくないのに。
それでも、まぶたの裏に浮かぶのは――
揺るがない眼差し。
ひとりで立ち去った姿。
――あんな言葉、思い出したくないのに。
サフィアは震える手で涙を拭った。
そして、顔を上げる。
「……殿下の……お考えは、わかりました」
声はまだ震えていた。
それでも、瞳は揺れなかった。
「本当は……貴方を恨みたい。
どうして、と叫びたい……」
かすれた息が零れる。
「でも……私は、貴方を恨みません」
サフィアは拳を握りしめる。
「……わたしは、殿下に選ばれたかった。
誇りも、名誉も、すべて殿下のために捧げてきました」
涙がひと粒、落ちる。
「あの方に、貴方の心が向いたのなら……
もう、どうしようもないのでしょう」
アルシオンの唇が震える。
サフィアはまっすぐ彼を見据えた。
「殿下……わたしに、最後の誇りをください」
震える声で続ける。
「どうか、わたしを“哀れむ”目だけはしないでください」
アルシオンは言葉を失い、拳を強く握りしめた。
サフィアは深く一礼し、踵を返す。
灯火の届かぬ暗がりへ歩き出す背を、
アルシオンは呼び止めることができなかった。
◆
サフィアの姿が闇に消えても、
アルシオンは動けなかった。
彼女の涙が、目の裏に焼きついている。
拳を握ると、骨が軋んだ。
「最低だ……俺は」
独り言のような後悔だけが、夜に沈んだ。
歩き出さなければならない。
分かっているのに、身体がすぐには従わなかった。
そこへ――
「殿下!」
遠くから、切羽詰まった声が駆けてきた。
アルシオンは一度だけ目を閉じた。
そして、どうにか顔を上げる。
「……何事だ」
近衛の伝令が駆け寄り、深く頭を下げる。
「殿下、至急です。宰相ラシード殿よりご報告。
“必ず殿下に直接お見せしたいものがある”とのこと。
政務室へお越し願いたいと」
……今、か。
アルシオンは震えの残る手を、ゆっくりと握り直した。
「……すぐに向かう」
声は、かすかに掠れていた。
それでもアルシオンは顔を上げ、
政務室へ向かって歩き出した。




