第13話 正形
後宮監ナヴァリスは、静かに台帳を閉じた。
清務には王妃の名が冠されている。
だが実際に動かすのは清務方であり、
日々の務めには女官と侍女が組み込まれた。
石鹸、香草、布。
それらの物資の流れも、侍女たちの割り振りも、
すでに後宮の日々の中へ入り込んでいる。
異を唱える声は出ていない。
――正確には、出せなかったのだ。
王妃の名を掲げながら、
誰か一人の手に旨味が集まらぬようにすること。
止めれば、王妃自らが「善き務め」を退けたことになる。
口を出せば、これまで後宮を私物のように動かしていたことが浮かび上がる。
どの角度から見ても、
反論は、自らの非を認めることに繋がっていた。
これは権力争いではない。
剣も、糾弾も、名指しもない。
ただ――
正しい流れを、先に置いただけだ。
結果として、
後宮の侍女たちは、ただ命じられて動く者ではなくなった。
技を持ち、務めを担う者として扱われ始めた。
王妃派が握っていた采配の余地は、
音もなく剥がれ落ちていく。
ナヴァリスは机上に置かれた壺へ、視線を落とした。
台帳にも、命令書にも載らない異物。
王妃が、息子の即位を望んでいることも。
そのために後宮を押さえようとしていたことも、
今さら確かめるまでもない。
「後宮を動かせぬ王妃派に……
もはや、王位を動かす力はない」
ナヴァリスは台帳を元の位置に戻し、
壺から視線を外した。
「王妃が、これで引くとは思わない。
だが――」
少なくとも、
次の一手は、以前よりはるかに重くなる。
◆
昼下がりの政務殿は、いつもより静かだった。
扉の前に立ったまま、サフィアは一度だけ息を吐いた。
……噂でしかない。
そう言い聞かせて、拳を軽く握った。
「……失礼します」
返ってきた声は、いつもより低い調子だった。
「入れ」
扉を開けた瞬間、
机に向かうアルシオンの姿が目に入る。
それだけで、胸が詰まった。
「……サフィア?」
名を呼ばれ、肩がわずかに跳ねる。
「はい」
声が、思ったよりも細かった。
アルシオンは書簡から視線を上げ、
彼女の表情を見て、眉を寄せる。
「どうした。何かあったのか」
その優しさが、今は痛い。
サフィアは一歩、前に出た。
「殿下……」
喉が、ひどく乾く。
言うのよ。
ここまで来て、黙って帰るわけにはいかない。
「……昨夜」
それだけで、胸が締めつけられる。
「殿下が……
後宮に行かれたと……聞きました」
アルシオンの手が止まった。
「……誰から聞いた」
否定ではなかった。
その一言だけで、サフィアは悟った。
……本当なのだ。
胸の奥が、ずきりと痛む。
「……セレナ殿下の、お部屋へ……
行かれたのですか」
アルシオンはすぐには答えず、椅子から立ち上がった。
そして、机の前へ回る。
「……ああ」
視界が、揺れた。
……どうして。
声にならない音が、胸の内で崩れる。
それでも、泣かなかった。
泣くわけには、いかなかった。
「……そう、ですか」
「サフィア。
これは――」
「殿下」
遮った声は、震えていた。
「……理由を、聞いても……
よろしいですか」
アルシオンはしばらく視線を伏せた。
やがて、静かに口を開く。
「……俺は」
一拍置いてから、言葉を選ぶように続けた。
「……あの夜のことを、
ただの過ちだとは言えなかった」
その言葉は、
サフィアの胸に、静かに突き刺さった。
そんなにも――
殿下の心は、あの姫に。
指先が、わずかに震える。
「……私は」
声が、かすれた。
「殿下の剣でいることに……
誇りを持っていました」
初めて、感情が滲んだ。
「必要だと……
隣に立っていいと……
そう言っていただけたことを……
信じていました」
視線を上げる。
瞳は、濡れていた。
「だから……」
言葉が、そこで詰まる。
「……私では、足りなかったのですか」
「……違う。
お前が足りないなどと、一度も思ったことはない」
その言葉が、
逆に、胸を締めつけた。
……では、何なのか。
サフィアは、唇を噛みしめた。
「……そう、ですか」
背筋を伸ばし、礼を執る。
「……失礼しました」
踵を返し、部屋を出る。
扉が閉じた瞬間、
ようやく感情が追いついた。
……ばか。
誇りも、覚悟も、
胸の奥で、ひどく頼りなく崩れていた。
政務殿から足早に去っていくサフィアの背を、
物陰から一人の男が見ていた。
◆
清務方の昼は、墨と紙の匂いがほのかに漂っていた。
セレナは長机に広げた台帳に目を落としていた。
だが、視線は行の上を滑るばかりで、意味はほとんど頭に入ってこない。
胸の奥に、じんわりとした熱だけが残っている。
額を押さえ、視線を落としたそのとき――
「姫様、次の記録は、これで間違いありませんか」
背後から落ちた声に、肩がびくりと跳ねた。
「っ……! ラ、ラシード様……!」
反射的に立ち上がると、台帳が机の上で小さく音を立てる。
ラシードは片眉をわずかに上げ、机上を一瞥した。
「……随分と熱心ですな。
記録を“眺めている”にしては、顔色が随分と赤い」
「な、何でもありません!」
慌てて台帳を開き直すが、さきほど見ていた行が、どこにも見当たらない。
ラシードはその様子をしばし眺め、静かに口を開いた。
「……殿下のことを考えすぎて、記録が頭に入らないご様子ですね」
「っ……!?」
否定の言葉が、喉で止まった。
ラシードは書簡を机に置く。
「政務殿で、殿下が一度だけ仰いました。
“姫は……避けておられるのか”と」
セレナの肩が、かすかに揺れる。
「私から見れば、殿下は理由が分からず困っておられるようでした」
「こ、困って……?」
「ええ。殿下は姫様の変化には敏い方です。
距離を置かれれば、当然、気にされます」
「……それは……」
言いかけて、言葉が途切れる。
机に視線を落としたまま、声が出なかった。
ラシードは、わずかに瞬きをする。
「殿下は――“愛する者を正妃に”と仰いました。
ですが、それが誰であるかは……
殿下ご自身にも、まだ定まってはおりません」
胸の奥が、強く打った。
「……姫殿下。
覚えておいでですか」
「え……?」
「“人の心は移ろうもの”――」
指先が、ぴたりと止まる。
「殿下のお心が、すでにどこかへ定まっている。
そう決めつけるのは、少々早いかと」
「……でも、私は……」
「分からぬのでしょう」
顔を上げると、ラシードの視線が、静かに重なった。
「――ご自分が、どう感じておられるのか」
言葉が、胸の奥に落ちる。
名を与えなければ、前にも進めない。
だが、名付けてしまえば、戻れなくなる。
ラシードはそれ以上は語らず、一礼した。
「姫様。
確認は、気持ちが落ち着いてからでも遅くはありません」
扉へ向かいながら、ほんのわずか、口元を緩める。
「……殿下も、同じように迷っておられますから」
一人残された清務方で、セレナは立ち尽くした。
胸の奥に残っていた熱は、
さっきよりも、少しだけ輪郭を持っていた。
◆
アルシオンは目を閉じた。
書簡を前にしても、思考が定まらない。
政務へ意識を戻そうとして――すぐに諦める。
政務殿の扉を叩く、控えめな音が響いた。
「入れ」
扉が開き、ナヴァリスが記録台帳を抱えて入室する。
その表情はいつも通り落ち着いていが、声だけがわずかに低い。
「殿下。後宮物資に関する件で、報告がございます」
アルシオンは顔を上げ、短く頷いた。
「報告を」
ナヴァリスは机に台帳を置き、頁を開いた。
「“受領済み”と記されながら、実物が確認できない物資が複数ございます。
いずれも、管理印は――マリシェ殿のものです」
「……横流しか」
「可能性は高いかと」
ナヴァリスは懐から一枚の図示紙を取り出し、机上へ置いた。
そこには、小壺の簡略な図が描かれている。
「例の小壺です。
台帳上は納入済み。
ですが、後宮入口の受領記録には残っておりません」
アルシオンは短く息を止めた。
「……毒の入っていた壺か」
「はい。後宮の正規経路を、一度も通っておりません」
ナヴァリスは淡々と続ける。
「台帳の改ざんと、物資の失踪。
軍務で発覚した横領案件とも照合すると、
いずれも“王妃陛下の側近筋”へと繋がります」
アルシオンは椅子にもたれ、低く言う。
「……王妃の周辺、か」
ナヴァリスは一歩引き、慎重に頭を下げた。
「ただし殿下。
現時点では、まだ決定的な証拠には至っておりません」
「ここで動けば、隠されるな」
「はい」
アルシオンは机の端に指を置き、ゆっくりと叩いた。
「……まだ、動くな」
「は。水面下で追います。
物資が“外”で消えている以上、必ず痕跡は残ります」
アルシオンは短く頷いた。
「続けろ。今は刺激するな。
――姫に、余計な不安を与えるわけにはいかない」
「承知しました」
ナヴァリスは深く一礼し、退出した。
扉が閉じ、政務殿には灯火の揺れだけが残る。
後宮、軍務、王妃派――。
絡み合う火種は多い。
アルシオンは台帳を閉じ、しばし黙考した。
◆
翌朝。
回廊の角を曲がった瞬間、清らかな香りが流れ込んできた。
数歩先を、侍女を伴ったセレナが歩いている。
それを見た途端、サフィアの胸がざわついた。
……どうして。
セレナはこちらに気づくと、足を止めた。
扇を胸に当て、何も言わずに一礼する。
それが、余計に痛い。
通り過ぎればいい。
そう思ったはずなのに、サフィアの口が勝手に動いた。
「……セレナ様」
セレナが小首を傾げる。
「……何でしょう」
聞きたいことは山ほどあった。
昨夜のこと。
殿下のこと。
どうして、そんなふうに平然としていられるのか。
――離れて。
――何があったの。
――お願いだから、殿下から手を引いて。
どれも、喉の奥で詰まった。
自分は武官。
相手は正妃候補。
この場で感情をぶつける資格がないことを、身体が先に理解していた。
「……いえ」
絞り出した声は、それだけだった。
「お務めの途中でしたら……
どうぞ、そのまま」
「お気遣い、ありがとうございます」
柔らかい声だった。
そして、セレナは静かに歩き去っていく。
すれ違ったあと、香草の匂いだけが残った。
サフィアは、その場から動けなかった。
……何を言いたかったんだろう。
悔しさだけが、遅れて胸に満ちてくる。
言えなかった。
聞けなかった。
ただ――
もう、戻れない場所に足を踏み入れた気がしていた。
◆
政務殿。
会議を終えたアルシオンが扉を閉じ、深く息を吐いた、その瞬間――
「……殿下。お時間をいただけますか」
振り向くと、カリムが立っていた。
いつもの気安さは、どこにもなかった。
「……どうした、カリム」
アルシオンが眉を寄せる。
カリムは歩み寄り、殿下の正面で立ち止まった。
「サフィアが――泣いていました」
その一言で、アルシオンの呼吸が止まった。
カリムは拳を強く握りしめていた。
殿下の衣を掴みかねないほどの距離で、それでも踏みとどまっている。
「殿下のお心を、俺が決めることはできません。
誰を選ばれるかも、俺が口を出すことではない」
淡々とした口調だった。
だが、声はわずかに震えていた。
「……ですが」
カリムは一瞬も目を逸らさず、言葉を続ける。
「揺れたまま、サフィアに接するのだけは……
俺は、見過ごせません」
アルシオンは、言葉を失った。
「サフィアは、殿下のためなら笑って剣を取る女です。
殿下が無事なら、それでいいと本気で思える女です」
カリムの拳が、かすかに震える。
「なのに、昨夜……
殿下が誰の部屋に行かれたかを聞いて、
あいつは、自分でも抑えられないほど傷ついていました」
沈黙が、重く落ちた。
カリムは、静かに続ける。
「殿下。
サフィアを選ばないなら、それでいいんです」
アルシオンが、喉の奥で息を詰まらせた。
カリムは一歩だけ下がり、最後の言葉を落とす。
「ただ――
選ばないなら、ちゃんと言ってやってください。
あいつは……
殿下の沈黙が、一番、堪えるんです」
アルシオンは目を伏せたまま、何も言えなかった。
カリムは深く一礼し、静かにその場を去っていく。
残された廊下には、風のない静寂だけが落ちた。
アルシオンは指先を強く握りしめたまま、微動だにできなかった。
――答えられる言葉は、ひとつもなかった。
◆
机に置かれた書簡の封蝋を、セレナはしばらく指で撫でていた。
封蝋には、ルナワ王家の紋。
見慣れたはずのそれが、今日はやけに重たく感じられる。
……お父さん。
書簡の内容は、胸の奥で形を持たないまま漂っていた。
「せ、セレナ様……? どうされましたか」
心配そうに覗き込んだリサに、セレナは小さく微笑んだ。
「ううん。なんでもないよ」
そう答えたつもりだったのに、
自分の声が、どこか遠くに響いて聞こえた。
リサが静かに下がると、
セレナは机の上の台帳を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
窓を開けると、王都の夕風が頬を撫でた。
遠く、政務殿の灯火が小さく瞬いている。
セレナは書簡を胸に抱いたまま、
しばらく、その場から動けずにいた。




