第12話 余熱
後宮の回廊は、昼下がりの光に満ちていた。
静かだが、視線だけは確かにある。
サフィアはそれを気に留めず、一定の歩調で巡回していた。
甲冑は着けていない。
けれど、腰に剣がないだけで、戦場から戻った感覚はまだ身体に残っている。
――そのとき。
前方から、扇を手にした女が歩いてくる。
レイラ。
その名と顔を認識した瞬間、サフィアの内にわずかな緊張が走った。
以前なら、すれ違いざまに視線を逸らすか、含みのある笑みを残していく女だった。
……何か、来るか。
そう身構えた、次の瞬間。
レイラは足を止め、
扇を胸元に当て
軽く頭を下げた。
「……ご機嫌よう、サフィア殿」
一瞬、サフィアは足を止めた。
……?
今まで、一度もなかった。
視線を逸らされることはあっても、
こうして正面から礼を向けられることは。
「……ああ」
短く返す。
それ以上の言葉は出てこなかった。
レイラは何も言わず、
静かに通り過ぎていく。
甘い香の名残だけが、わずかに残った。
サフィアは振り返らず、歩みを再開する。
……前線での働きが、後宮にも届いたのだろう。
評価は、後からついてくる。
そういうものだ。
サフィアは拳を軽く握り、
すぐに力を抜いた。
後宮がどうであれ、私の役目は変わらない。
サフィアはそのまま、回廊の奥へ歩いていった。
◆
後宮の書庫は、朝から落ち着きがなかった。
女官たちが忙しなく行き交い、長机の上には未整理の書簡と台帳が積み重なっている。
「こちらは後宮日務の定例分です。
日ごとの確認印は、この欄に――」
セレナは台帳を開いたまま、女官に向かって淡々と説明する。
声は落ち着いているのに、胸の奥がわずかにざわついていた。
……引き継ぎって……こんなに大変だったなんて……。
ナヴァリスから告げられた言葉が、脳裏をよぎる。
――日務は、女官と侍女に回せ。
それは「任せていい」という許可であり、任せた後を見届ける責任でもあった。
「不明点が出たら、清務方へ直接回してください。
判断が要るものは、私のところへ」
女官が頷くのを確認しながら、ふと、手が止まる。
――昨日の、政務殿。
……何をしているの、私。
台帳の文字が、一瞬だけ滲んだ。
事故よ。
完全に、事故……。
そう言い聞かせるのに、胸の奥が妙に熱い。
触れ合った呼吸。
あの一瞬、確かに感じた体温。
……もう。変なこと考えないの。
小さく息を吐き、視線を文字へ戻す。
「……では、この件は以上です。
次はこちらを――」
そのとき。
「姫様」
振り返ると、ラシードが書簡の束を抱えて立っていた。
いつも通りの落ち着いた表情で、机の上をさっと見渡す。
「……お忙しそうですな」
「ええ、少々」
セレナは即答した。
「引き継ぎの途中でして。
今、手を離せないのですが……」
ラシードの視線が、机の上に積まれた書類へ落ちる。
「殿下への提出分ですね」
「はい。こちらを……」
迷いなく、書類の束を差し出す。
……これは逃げじゃない。今は必要な判断よ。
「お手数ですが、代わりにお渡しいただけますか」
ラシードは一瞬だけ眉を上げ、受け取った。
「承知しました。
……引き継ぎ、思った以上に多そうですね」
「ええ。石鹸の件も並行していますので」
「でしょうね」
ラシードはわずかに目を細めた。
「殿下には、こちらから説明しておきます」
「助かります」
セレナは軽く息を吐いた。
ラシードが去っていくのを横目で見送り、
セレナはすぐに女官へ向き直る。
「では、続けます。
次は物資受領の定例確認です」
胸元の扇を整え、台帳を開く。
……私、普通にできていたわよね……?
心の奥に残る熱を、
そっと仕事の奥へ押し込めた。
◆
侍従が取り次ぎ、政務殿の扉が開かれた。
ラシードは確認書類を抱えたまま中へ入り、机に向かうアルシオンに恭しく一礼した。
「殿下。清務方より、確認書類をお預かりしております」
アルシオンは手を止め、顔を上げた。
わずかに疲れの色が混じったまなざしが、書類ではなく、ラシードの手元を探る。
「……姫は?」
ラシードは、その一瞬の揺れを見逃さなかった。
「本日は後宮の引き継ぎが立て込んでおられるとのことで、書類の受け渡しのみ、私が預かりました」
アルシオンの動きが、わずかに遅れた。
「……そうか」
書類を受け取りながら、アルシオンは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「今日は……来られないほど忙しいのか」
「ええ。朝から台帳の整理と調整が続いております」
アルシオンは書類に目を落とした。
だが、すぐに頁をめくる手が止まる。
やがて書類を閉じ、ふいに窓の外へ視線を流した。
「……避けられているのだろうか」
ラシードはすぐには答えなかった。
一拍置き、慎重に言葉を選ぶ。
「姫殿下は……殿下を拒んでいるわけではないかと」
アルシオンが、わずかに目を細める。
「それは……“政務として”の話か?」
「さあ、そこまでは」
「……お前、わざとだろう」
「殿下のお立場を考えれば、軽々しく断言できる事柄ではありませんので」
ラシードはそこで一拍置き、静かに言葉を落とした。
「――正確には、距離を置いておられるように見受けられます」
アルシオンの指が、机の端で止まる。
「姫殿下はご自分を、“お飾りの正妃候補”と認識しておられます。
殿下には、すでに想われる方がいる。
そう考えておられるのでしょう」
沈黙が落ちる。
「ゆえに、殿下に近づくこと自体を、ご自身の立場を踏み越える行為だと捉えておられる。
……少なくとも、私にはそう見えます」
「……俺が、そう思わせているのか」
「少なくとも、拒絶ではございません。
姫殿下なりの線引きかと」
アルシオンは答えなかった。
ただ、閉じた書類の上に置いた指先だけが、わずかに強張る。
それだけ告げて、ラシードは一礼し、部屋を辞した。
◆
扉が閉じると、政務殿には静寂だけが残った。
アルシオンは書類を伏せ、
長い息を、ゆっくりと吐いた。
「……線引き、か」
俺が……あの距離を作った。
昨夜の光景が、断片的によみがえる。
曖昧な記憶の中で、
確かに残っているのは――熱だけだった。
あれほど近くにいて、
平静でいられたはずがない。
「……そんな顔をさせるつもりはなかった」
配慮の末の距離だと知り、
胸の奥に、鈍い重さが落ちる。
当然だ。
そう振る舞ってきた。
それでも――
「……昨日の俺は、どうかしていた」
一歩、踏み違えれば戻れなかった距離。
理性が、かろうじて踏みとどまっただけだ。
「……あれでは、避けられて当然だな」
……だが。
喉の奥で、ひとつ息が震えた。
「……俺は、本当に拒みたかったのか」
答えは出ない。
出したくもない。
本心に触れれば、
今の均衡が崩れる。
政務、王妃派、元老院、サフィア、そして――国。
どれ一つ、落とせない。
「……なのに」
無意識に、手が額へと伸びる。
そこに残る熱が、消えない。
「……あの女は、本当に……危うい」
アルシオンはしばらく机に手を置いたまま、
動けずにいた。
◆
それは――殿下と顔を合わせなくなって、三日目の夜のことだった。
静かな後宮の一室で、セレナは机に向かい、本を開いていた。
けれど文字は目に入っても、胸の奥には、ふわりとした熱が残っている。
いつまで引きずっているのよ、私……。
仕事もあるし、殿下と話さなきゃいけないのに……。
そう思おうとするほど、思考の端に絡みつく。
本を閉じ、そっと目を伏せた――そのとき。
「せ、セレナ様……!」
震える声で扉が叩かれた。
珍しく取り乱した様子で、リサが顔を出す。
「リサ? どうしたの、そんなに慌てて――」
「お、お部屋の前に……っ!
お、王太子殿下が……!」
「……え?」
扉の前に、長身の影が落ちていた。
「……姫」
アルシオンが、そこに立っていた。
夜灯が彼の肩を淡く照らしている。
いつもより顔色が悪く、目元には疲労の影が残っていた。
目が合った瞬間、セレナは息を呑んだ。
アルシオンはリサに軽く頷く。
「侍女。驚かせた。すまない」
リサは息を呑み、深く頭を下げた。
セレナは胸元の扇を握りしめる。
後宮で、夜に殿下を立たせたままにはできない。
逃げることも、恥をかかせることもできなかった。
「もし……よろしければ……
中で、お話を……」
言った瞬間、顔が熱くなる。
“部屋に入れる”という意味を、後宮で知らぬ者はいない。
けれど、アルシオンは一瞬だけ目を伏せ、静かに息をついた。
「……失礼する」
セレナが身を引くと、アルシオンは静かに部屋へ入った。
リサが外からそっと扉を閉める。
閉じられた扉の音が、やけに大きく聞こえた。
セレナは浅く息を吸う。
ちらりと見た殿下の顔色は、やはり優れない。
アルシオンは扉の近くで足を止めた。
しばらくの間、何も言わずにセレナを見つめている。
その視線は、政務殿で向けられるものとは違った。
もっと近くて。
けれど、どこか苦しそうだった。
「……姫」
静かな声だった。
「三日だ。
……お前の姿を見ないだけで、こんなに落ち着かないとは思わなかった」
「……!」
「政務殿で待っていた。
書類が来るたびに、お前が来たのかと思った」
低く落ちた声に、胸の奥がずきりと痛んだ。
どうして。
そんな顔をするの。
私のことで……?
「……お前が距離を置くなら、
俺は、どうすればよかったんだろうな」
その言葉に、セレナの瞳が揺れた。
あなたは、私に興味がないはずじゃ……。
だから、意識しないようにしていたのに……。
言葉にならない想いが、胸の奥で渦を巻く。
「殿下……」
気づけば、セレナの指先が伸びていた。
アルシオンの頬に触れそうになり、はっとして引こうとする。
その直前、アルシオンの手が上がった。
「……姫」
彼の指が、セレナの手の甲にそっと触れる。
そして、その手を静かに包み込んだ。
セレナの身体の奥に、熱が走った。
「……もう少し、このままで」
息が触れそうな距離だった。
「こんなふうに……
なるとは、思っていなかった」
額が触れそうなほど近い。
「……もう、避けないでくれ」
セレナの唇が、震えながら開く。
「……はい」
その一言が落ちた瞬間、
アルシオンの手がわずかに動いた。
けれど、触れる寸前で止まる。
「……駄目だ。
これ以上は、俺の方が戻れなくなる」
アルシオンは目を伏せ、深く息を吸った。
「約束してくれ。
避けないと、言ったな」
「……はい」
アルシオンはその返事を聞いて、苦しげに微笑む。
「……今日は、ここまでにする」
振り返らずに扉へ手をかけ、
開く直前、低く告げた。
「また、会いに来る。
……今度は、明るい時間に」
扉が静かに閉じられた。
残された部屋には、
触れなかったはずの熱だけが、
いつまでも消えずに漂っていた。
◆
夜の政務殿では、灯火が細い影を台帳の上に落としていた。
ナヴァリスは静かに一冊の旧台帳を開き、
押された印をひとつずつ確かめていた。
「……やはり、修正印が異常に多い」
背後で、ラシードが腕を組む。
「その期間は、マリシェ殿が物資管理を担っていた頃ですな」
「ええ。しかも修正されているのが、
“入荷数”と“受領数”ばかりです」
ナヴァリスは数字の列を指で示す。
「後宮倉庫の受領記録とも突き合わせましたが――一致しない。
つまり、台帳上だけ“受領したことにされた物資”が相当数ある」
「実際には、後宮へ届いていなかったということか」
「はい。物資は“外”で消えています。
後宮の名義を使い、数字だけを揃える――典型的な横領の手口です」
ナヴァリスの指が、ひとつの行で止まる。
「……ここ。“化粧具用の小壺”一点。
マリシェ殿の印で“納入済み”とありますが」
「後宮入口の受渡記録に該当なし。
予備倉庫にも在庫なし……つまり、
一度も“正規の経路”を通っていない」
ナヴァリスは机上の壺へ目を向けた。
「あの壺だけが、台帳と実際の流れから完全に外れている。
そして――外装の文様は、先の戦で敵国が使用していたものです」
ラシードの目が、わずかに細くなる。
「台帳をごまかし、実物を直接持ち込む……
できる者は限られてくるな」
ナヴァリスは淡々と答えた。
「王妃陛下の側近筋、でしょう」
灯火が揺れ、二人の影が長く伸びる。
ラシードは静かに言葉を落とした。
「軍務で横領が発覚したベネフ家も王妃派。
そして後宮でも台帳の改ざん……
二つの筋が、ひとつに繋がってくるわけだ」
ナヴァリスは壺の蓋を、指で軽く叩く。
「証拠はまだ乏しい。
ですが、“王妃派が外部と繋がり、
後宮を使って物資を動かした”と考えれば、
すべて説明がつきます」
「……戦時の物資不足は、
ベネフ家だけが原因ではなかった、ということか」
ナヴァリスは台帳を静かに閉じる。
「ええ。火は――
思っているより深い場所で燃えています」




