第10話 香
回廊の角を曲がった瞬間、リサは思わず足を止めた。
視界の端に、甲冑の影が差す。
金具がかすかに鳴り、聞き覚えのある歩調が近づいてくる。
……え。
向こうも気づいたらしく、殿下付きの武官が一瞬だけ目を細める。
「……あんた」
低い声。
名を呼ばれないことが、余計に胸を跳ねさせた。
「寺院で――拾ってやった女だな」
「ひ、拾っただなんて……!」
声が裏返る。
頬の熱が、一気に上がるのが分かった。
武官は一歩だけ近づいた。
甲冑越しの体温が、息の届く距離で伝わる。
周囲をちらりと見回し、何でもないことのように言う。
「姫様が凱旋を止めたと聞いた。
……あんた、姫様付きの侍女だろう」
え、なんでそんな話を、私に……!?
「……そ、そうですけど……」
しどろもどろに答えるリサを、武官は一瞬だけ不思議そうに見た。
そして、ふっと短く息を吐く。
「主君のために走る侍女か」
言葉を一拍置く。
「……悪くない」
その声が、妙に近い。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
そのとき。
「リサ?」
澄んだ声が、回廊に落ちた。
はっと振り向くと、そこにはセレナがいた。
「……あら?」
セレナの視線が、武官とリサを行き来する。
「お知り合い?」
「ち、違いますっ!」
リサは全力で首を振った。
「し、知り合いではありません!
ええと、その……通りすがりで……」
言葉が完全に迷子になる。
武官は一歩下がり、簡潔に頭を下げた。
「殿下付きの者です」
それだけ言い残し、何事もなかったように去っていく。
残されたリサは、しばらく動けなかった。
「……リサ?」
「な、なんでもありませんっ!!」
声が裏返る。
なに……今の……。
胸の奥が、じんわりと熱い。
セレナは首を傾げながらも、それ以上は追及しなかった。
ただ、赤くなったリサの耳を一瞬だけ見て、小さく微笑む。
回廊の空気が、ふっと緩んだ直後だった。
「――セレナ様」
声を掛けられて振り向くと、レイラとアシュラが並んで立っていた。
二人とも、どこか浮き立った表情をしている。
「セレナ様、お願いがございますの」
アシュラが、ためらいなく切り出す。
「また、あの石鹸を分けていただけません?」
「え……もうなくなりましたか?」
「ええ。だって肌の調子がまるで違いますのよ。
あれを使ってから、粉も吹きませんし……」
レイラも深く頷いた。
「ええ。肌荒れが嘘のように落ち着きましたわ。
もう、他のものでは戻れません」
リサは思わず目を瞬かせる。
私たちが作った石鹸が……姫君方に……。
セレナは困ったように微笑んだ。
「ありがとうございます。
ですが……今は清務用が最優先なのです。
病が完全に落ち着くまでは、個人用に回せる数がどうしても足りなくて……」
「まあ……」
「そんな……」
即座に不満の声が漏れる。
「少しぐらい、融通してくださっても……」
「姫殿下、真面目すぎますわ」
「申し訳ありません。
ですが、今はどうか民を優先させてください。
病が落ち着きましたら、必ず姫君方を優先いたしますから」
二人は顔を見合わせ、渋々息をついた。
「……それなら」
「仕方ありませんわね……」
その横で、リサは内心でため息をつく。
姫様方……石鹸を作るのって、本当に大変なんですよ。
油も灰も量が要るし、数は簡単に増やせないし……。
セレナは考え込むように視線を伏せた。
そして、次の瞬間、顔を上げる。
「なら、姫君方のお肌に合わせて、香草を調整した特別なものを作りましょう」
「……え?」
アシュラが目を輝かせる。
「香草を?」
レイラも身を乗り出した。
「香りを選べるのですか?」
「ええ。今は数が限られていますが、もし量を作れるようになれば……
姫君方それぞれに合わせた調合も可能です」
その言葉が落ちた瞬間――
「……!」
セレナが、はっと息を呑んだ。
リサは、その表情を見逃さなかった。
セレナ様の……閃いた時のお顔だ……。
セレナの扇を握る指に、わずかな力が籠もる。
回廊に漂っていた石鹸と香草の匂いが、ふいに別のものへ変わった気がした。
◆
夕刻の光が、訓練場の砂を赤く染めていた。
サフィアは剣を収め、呼吸を整える。
戦の後も、刃を鈍らせるわけにはいかない。
そう思いながら、無意識に剣を抜いていた。
「……サフィア」
振り返ると、カリムが立っていた。
その表情には、言いづらそうな影がある。
「政務殿からの伝令だ。……凱旋式は中止になった」
「――中止?」
サフィアの手が止まる。
「どうして……準備はもう進んでいたはず。民も待っているのに」
「南区の清めが終わっていないからだ。
……姫様の進言でな」
「……セレナ様が?」
わずかな風が吹き抜け、砂を舞い上げた。
その名を口にした瞬間、胸の奥がざわめく。
嫌いじゃない。
敵だとも思いたくない。
でも、その名が出るたびに――私の“場所”が削られていく気がする。
「病の広がりを防ぐためだ。正しい判断だと思う」
カリムが淡々と言う。
だがその冷静さが、なぜか遠く感じられた。
サフィアは拳を握りしめる。
「分かってる。殿下のため……国のため、でしょ」
「そうだ」
「けど……」
言葉が喉で止まる。
胸の奥から熱がこみ上げ、静かに声が震えた。
「なぜ、私には何も……知らせてくださらなかったの?」
カリムは沈黙した。
やがて、低く答える。
「殿下はお前を信じている。だが、“剣”にも休む時がある」
「私は……殿下の剣だ」
サフィアの声は硬く、静かに響いた。
「立てと言われれば立ち、戦えと言われれば戦う。
それが、私のすべて――なのに」
休息も、今は嬉しくない。
退け、と言われた気がした。
遠くで、政務殿の灯がともるのが見えた。
その光の中に、誰かの姿が見えた気がして、胸が痛む。
アルシオン……そこに、誰といるの……。
見えもしない影を、勝手に見てしまう。
疑うのは卑しい。
それでも、疑わないふりをするほど、私は強くない。
――呼んで。
一言でいい。
いつもの声で。
それだけで、私はまた立てるのに。
「サフィア」
カリムの声が、現実に引き戻す。
「お前は戦で十分に示した。あとは、殿下がどう動くかだ」
どうして――。
胸の奥に、熱と冷たさが混じる。
それが怒りなのか、焦りなのか、自分でも分からなかった。
遠く、王宮の塔で時刻を告げる鐘が鳴った。
その音を聞きながら、サフィアは剣の柄を握りしめた。
――私は、何を望んでいるの……?
その思考の先を、誰にも聞かせぬまま、唇の奥でかき消した。
◆
翌朝、後宮の空気は妙に静かだった。
白檀の香が濃く漂う回廊を、セレナは一人で歩いていた。
……呼び出しの理由は分かっている。
式典は中止となった。
当然、その判断がどこへ火を飛ばすかも。
扉の向こうから、やわらかな声が響く。
「入ってちょうだい、姫様」
セレナは静かに一礼し、扉を押し開けた。
部屋には薄桃の帳が垂れ、香煙が淡く揺れている。
中央の座に、ザリーナがいた。
「まあ……お顔の色がよろしいこと。
清務のご多忙と伺っておりましたのに」
「お心遣い、痛み入ります」
セレナは深く礼をした。
ザリーナは扇を軽く動かし、笑みを保ったまま言葉を継ぐ。
「昨夜、凱旋式が中止になったと聞きました。
あなたが、現場で止められたそうですね?」
「はい。清めが完了していない区域で、病の再燃が懸念されました。
殿下のご威光をお借りする場で、民を危険にさらすのは恐れ多く――」
「恐れ多く、ですか」
王妃はその言葉を、笑みの奥で静かになぞった。
「殿下の御名が掲げられていたのよ。
その場を止めるほどのご判断を、姫様がお持ちとは……頼もしいこと」
「おっしゃる通りでございます。
出過ぎた真似と、深く反省しております」
セレナはわずかに顔を上げる。
「ですが、殿下の寛大なご理解をいただき、清務の判断としてお許しを賜りました。
身に余るお心遣いと、感謝しております」
ザリーナの笑みが、わずかに深まる。
扇の骨が小さく鳴り、香煙が二人のあいだを漂った。
「……まあ。殿下のお心にお応えしたというわけね。けれど、王の御名を扱う責は重いもの。
お忘れなきように」
「肝に銘じます」
「清務のご尽力、感謝いたしますわ。
殿下のためにも、これからもお力添えを」
「身を尽くします」
セレナは再び深く頭を下げ、静かに下がった。
扉を出ると、白檀の香が衣に残っていた。
その香が、胸に絡みつくように離れない。
……私が王妃にとって邪魔なのは分かった。
けれど、その理由までは見えない。
回廊に射す朝光が眩しく、セレナはわずかに目を細めた。
でも、私のやるべきことは変わらない。
アウレナを、少しでもよくする。
今は、それだけだ。
◆
政務殿の扉の前に立つと、サフィアの胸は荒く上下していた。
凱旋の準備が止められた。
王妃の言葉が、耳の奥でまだ響いている。
――あなたは“殿下の剣”として、民の前に立つの。
その一言を支えに、ここまで来た。
だというのに、式は中止になった。
殿下のご判断だと聞いた瞬間、足が勝手に動いていた。
扉を押し開けると、灯火の下にアルシオンがいた。
机上の書簡に目を落としていた彼は、気配だけで来訪を察したように顔を上げる。
「……サフィア。どうした」
「凱旋式が、中止になったと聞きました」
声は、自分でも驚くほど硬かった。
「本当に……殿下のご判断なのですか」
「中止は俺の判断だ。だが――」
アルシオンは筆を置き、短く息を吐いた。
「そのような儀を、そもそも俺は命じていない」
「……え?」
サフィアは言葉を失った。
「王妃殿下が段取りを進めていたらしい。
俺の名を掲げてな」
耳の奥で、何かが崩れる音がした。
「では……殿下は」
喉がひどく渇いていた。
「私を、民の前に立たせるおつもりでは……なかったのですか」
アルシオンはすぐには答えなかった。
「……今の王都で民を集めるのは危うい。
清めが済んでいない区域がある。姫の報告で判明した」
「……姫殿下が」
名を口にした瞬間、胸の奥がざらりと痛んだ。
「そうだ。適切な判断だった」
迷いのない声だった。
責める余地などない。
正しい。
分かっている。
それでも、その正しさが、今は刃のように胸へ触れた。
「私は……」
サフィアは唇を噛む。
「私は、あの式のために備えていました。
殿下が民の前に立たれる。その隣に、私も立てるのだと……信じていました」
「お前の働きを軽んじたわけではない」
「分かっています」
即座に答えた声が、震えた。
「分かっているのです。病を防ぐためなら、中止は正しい。
姫殿下の判断も、間違っていない」
言葉にするほど、胸の奥が冷えていく。
「けれど……」
サフィアは視線を落とした。
「私は、何を支えに戻ってきたのでしょう」
政務殿に沈黙が落ちた。
アルシオンは低く言う。
「サフィア。お前は戦で十分に示した。
今は剣を収める時だ」
静かな声だった。
けれど、欲しかった言葉ではなかった。
「……殿下は、もう私を必要とされないのですか」
「違う」
すぐに返った。
「必要の形が変わるだけだ」
それが慰めなのか、距離の宣告なのか、サフィアには分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
自分が信じていた場所は、思っていたよりもずっと脆かった。
サフィアは背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
「……失礼いたしました」
踵を返す。
扉へ向かう間、背中にアルシオンの視線を感じた。
けれど、呼び止める声はない。
政務殿を出ると、夜風が頬を撫でた。
アルシオンの傍にいるのは……もう、私じゃないの?
遠くに灯る塔の光が、滲んで見えた。
◆
整然と積まれた紙束の間で、ナヴァリスは一枚の報告書から視線を上げた。
「――つまり、姫殿下は“石鹸”を、常の作りに乗せたいと?」
「はい。王都で病の広がりを抑えられた理由の一つが、清めです。
そして、その清めを支えた品が石鹸でした」
セレナは扇を胸元に寄せ、静かに続ける。
「今なら、“病を止めた品”として、国の信用とともに名を立てられます」
ナヴァリスの目が、わずかに細まった。
「……穢れを防ぐ仕組みを、“利”に転じる、と?」
「ええ。それに、民の暮らしを立て直すには、働ける場が要ります。
石鹸の生産なら、女性や、戦で暮らしの崩れた者たちも関われます。
油脂と灰は倉庫にありますし、既存の設備でも始められます」
軽く首を傾げ、言葉を落とす。
「――そうすれば、清めはもっと身近になります」
ナヴァリスはしばし黙した。
「輸出も視野に?」
「もちろんです。
各国から滞在している姫君方の名義で、祖国へ贈呈するのがよいかと。
“王都の品”として届ければ、王家の威を損なわずに広められます」
「……つまり、“贈り手を借りる外交”ですね」
「まあ、そういうことです。
姫君方も石鹸を気に入ってくださっていますし。
これが回り始めれば、皆の益になります」
セレナは扇を伏せた。
「アウレナ特有の薬草や香料を使えば、他国との差別化も図れます。
香りの調合は、妃候補の姫君方にも評判がよく……後宮からも協力を得られるでしょう」
ナヴァリスは羽根筆を取り、淡々と記録を始めた。
「……なるほど。
一時の清めで終わらせず、王都の暮らしへ落とし込む。
そして、その倣いを品にして外へ出す」
紙の上で、筆先が静かに走る。
「清務を、民の生活と外交の両方へ広げるお考えですね」
セレナは静かに微笑んだ。
「ええ。
戦いの場を外交に移して、今度こそ、アウレナを勝たせましょう」
ナヴァリスは筆を動かしながら、内心でひとつ、結論を下す。
……これは商いではない。
国そのものを、武器にする策だ。
それでも、羽根筆は止まらなかった。
◆
政務殿の午後は、異様なほど静かだった。
机の上には、ナヴァリスの筆跡でまとめられた新たな建議書。
――石鹸の営みの立ち上げ案。
「穢れを防ぐ清めの品、か……」
アルシオンは小さく呟き、指先で紙の端をなぞった。
剣で守ったものは、いつかまた剣を要する。
だが――これは違う。
彼女の描いた線は、血も、誓いも、勝鬨も要らない。
ただ、明日を続かせるための形だった。
アルシオンは紙から視線を上げ、誰もいない政務殿で短く息を吐いた。
……俺は、もう戻れないな。
かすかな苦笑が漏れる。
そのとき。
扉の外から、ほのかに香草の香りが流れ込んできた。
アルシオンは、ゆっくりと顔を上げる。
「失礼いたします、殿下」
セレナの声だった。
その声だけで、張りつめていた思考がわずかにほどける。
手には、小ぶりの木箱があった。
「……姫か。何か用か」
「清務を進める中で作った、石鹸の試作です」
セレナは一歩進み、箱をそっと机の上に置いた。
「穢れを落とす働きだけでなく、肌を整える効き目もあります」
「……肌を整える、か」
「はい。妃候補の姫君方にも、好評をいただいております」
「……ほう」
「髪にも良いのですよ」
そう言って、セレナは指先で自分の髪をすくい上げた。
淡い光を受けて、ダークブラウンの髪がゆるやかに流れる。
……まずいな。
アルシオンは、そう思った。
これは、品の話ではない。
無意識に身を乗り出し、机を挟む距離が、ひと呼吸分だけ縮まる。
セレナはその沈黙に、小さく首を傾げた。
「……殿下?」
アルシオンは咳払いを一つして、視線を逸らす。
「……心得た」
「恐縮です」
セレナは微笑み、静かに一礼して下がった。
扉が閉まる。
残されたアルシオンは、木箱を見つめた。
香草の匂いが、まだ室内に残っている。
建議書に目を戻すべきだと分かっていた。
石鹸の価値を、清務の延長として見極めるべきだとも。
それなのに、先ほど光を受けて流れた髪の色ばかりが、目の奥に残っている。
アルシオンは額に手を当て、低く息を吐く。
「……危ういな」
その言葉が、石鹸に向けたものなのか。
それとも、彼女に向けたものなのか。
自分でも、もう分からなかった。




