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転生姫はお飾り正妃候補。愛されないので自力で幸せ掴みます  作者: 福嶋莉佳
三章

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第10話 香

回廊の角を曲がった瞬間、リサは思わず足を止めた。


視界の端に、甲冑の影が差す。

金具がかすかに鳴り、聞き覚えのある歩調が近づいてくる。


……え。


向こうも気づいたらしく、殿下付きの武官が一瞬だけ目を細める。


「……あんた」


低い声。

名を呼ばれないことが、余計に胸を跳ねさせた。


「寺院で――拾ってやった女だな」


「ひ、拾っただなんて……!」


声が裏返る。

頬の熱が、一気に上がるのが分かった。


武官は一歩だけ近づいた。

甲冑越しの体温が、息の届く距離で伝わる。


周囲をちらりと見回し、何でもないことのように言う。


「姫様が凱旋を止めたと聞いた。

 ……あんた、姫様付きの侍女だろう」


え、なんでそんな話を、私に……!?


「……そ、そうですけど……」


しどろもどろに答えるリサを、武官は一瞬だけ不思議そうに見た。

そして、ふっと短く息を吐く。


「主君のために走る侍女か」


言葉を一拍置く。


「……悪くない」


その声が、妙に近い。

胸の奥が、じわりと熱くなる。


そのとき。


「リサ?」


澄んだ声が、回廊に落ちた。


はっと振り向くと、そこにはセレナがいた。


「……あら?」


セレナの視線が、武官とリサを行き来する。


「お知り合い?」


「ち、違いますっ!」


リサは全力で首を振った。


「し、知り合いではありません!

 ええと、その……通りすがりで……」


言葉が完全に迷子になる。


武官は一歩下がり、簡潔に頭を下げた。


「殿下付きの者です」


それだけ言い残し、何事もなかったように去っていく。


残されたリサは、しばらく動けなかった。


「……リサ?」


「な、なんでもありませんっ!!」


声が裏返る。


なに……今の……。


胸の奥が、じんわりと熱い。


セレナは首を傾げながらも、それ以上は追及しなかった。

ただ、赤くなったリサの耳を一瞬だけ見て、小さく微笑む。


回廊の空気が、ふっと緩んだ直後だった。


「――セレナ様」


声を掛けられて振り向くと、レイラとアシュラが並んで立っていた。

二人とも、どこか浮き立った表情をしている。


「セレナ様、お願いがございますの」


アシュラが、ためらいなく切り出す。


「また、あの石鹸を分けていただけません?」


「え……もうなくなりましたか?」


「ええ。だって肌の調子がまるで違いますのよ。

 あれを使ってから、粉も吹きませんし……」


レイラも深く頷いた。


「ええ。肌荒れが嘘のように落ち着きましたわ。

 もう、他のものでは戻れません」


リサは思わず目を瞬かせる。


私たちが作った石鹸が……姫君方に……。


セレナは困ったように微笑んだ。


「ありがとうございます。

 ですが……今は清務用が最優先なのです。

 病が完全に落ち着くまでは、個人用に回せる数がどうしても足りなくて……」


「まあ……」

「そんな……」


即座に不満の声が漏れる。


「少しぐらい、融通してくださっても……」

「姫殿下、真面目すぎますわ」


「申し訳ありません。

 ですが、今はどうか民を優先させてください。

 病が落ち着きましたら、必ず姫君方を優先いたしますから」


二人は顔を見合わせ、渋々息をついた。


「……それなら」

「仕方ありませんわね……」


その横で、リサは内心でため息をつく。


姫様方……石鹸を作るのって、本当に大変なんですよ。

油も灰も量が要るし、数は簡単に増やせないし……。


セレナは考え込むように視線を伏せた。


そして、次の瞬間、顔を上げる。


「なら、姫君方のお肌に合わせて、香草を調整した特別なものを作りましょう」


「……え?」


アシュラが目を輝かせる。


「香草を?」


レイラも身を乗り出した。


「香りを選べるのですか?」


「ええ。今は数が限られていますが、もし量を作れるようになれば……

 姫君方それぞれに合わせた調合も可能です」


その言葉が落ちた瞬間――


「……!」


セレナが、はっと息を呑んだ。


リサは、その表情を見逃さなかった。


セレナ様の……閃いた時のお顔だ……。


セレナの扇を握る指に、わずかな力が籠もる。


回廊に漂っていた石鹸と香草の匂いが、ふいに別のものへ変わった気がした。





夕刻の光が、訓練場の砂を赤く染めていた。


サフィアは剣を収め、呼吸を整える。

戦の後も、刃を鈍らせるわけにはいかない。

そう思いながら、無意識に剣を抜いていた。


「……サフィア」


振り返ると、カリムが立っていた。

その表情には、言いづらそうな影がある。


「政務殿からの伝令だ。……凱旋式は中止になった」


「――中止?」


サフィアの手が止まる。


「どうして……準備はもう進んでいたはず。民も待っているのに」


「南区の清めが終わっていないからだ。

 ……姫様の進言でな」


「……セレナ様が?」


わずかな風が吹き抜け、砂を舞い上げた。

その名を口にした瞬間、胸の奥がざわめく。


嫌いじゃない。

敵だとも思いたくない。


でも、その名が出るたびに――私の“場所”が削られていく気がする。


「病の広がりを防ぐためだ。正しい判断だと思う」


カリムが淡々と言う。

だがその冷静さが、なぜか遠く感じられた。


サフィアは拳を握りしめる。


「分かってる。殿下のため……国のため、でしょ」


「そうだ」


「けど……」


言葉が喉で止まる。

胸の奥から熱がこみ上げ、静かに声が震えた。


「なぜ、私には何も……知らせてくださらなかったの?」


カリムは沈黙した。

やがて、低く答える。


「殿下はお前を信じている。だが、“剣”にも休む時がある」


「私は……殿下の剣だ」


サフィアの声は硬く、静かに響いた。


「立てと言われれば立ち、戦えと言われれば戦う。

 それが、私のすべて――なのに」


休息も、今は嬉しくない。

退け、と言われた気がした。


遠くで、政務殿の灯がともるのが見えた。

その光の中に、誰かの姿が見えた気がして、胸が痛む。


アルシオン……そこに、誰といるの……。


見えもしない影を、勝手に見てしまう。

疑うのは卑しい。


それでも、疑わないふりをするほど、私は強くない。


――呼んで。


一言でいい。

いつもの声で。


それだけで、私はまた立てるのに。


「サフィア」


カリムの声が、現実に引き戻す。


「お前は戦で十分に示した。あとは、殿下がどう動くかだ」


どうして――。


胸の奥に、熱と冷たさが混じる。

それが怒りなのか、焦りなのか、自分でも分からなかった。


遠く、王宮の塔で時刻を告げる鐘が鳴った。

その音を聞きながら、サフィアは剣の柄を握りしめた。


――私は、何を望んでいるの……?


その思考の先を、誰にも聞かせぬまま、唇の奥でかき消した。





翌朝、後宮の空気は妙に静かだった。

白檀の香が濃く漂う回廊を、セレナは一人で歩いていた。


……呼び出しの理由は分かっている。


式典は中止となった。

当然、その判断がどこへ火を飛ばすかも。


扉の向こうから、やわらかな声が響く。


「入ってちょうだい、姫様」


セレナは静かに一礼し、扉を押し開けた。


部屋には薄桃の帳が垂れ、香煙が淡く揺れている。

中央の座に、ザリーナがいた。


「まあ……お顔の色がよろしいこと。

 清務のご多忙と伺っておりましたのに」


「お心遣い、痛み入ります」


セレナは深く礼をした。


ザリーナは扇を軽く動かし、笑みを保ったまま言葉を継ぐ。


「昨夜、凱旋式が中止になったと聞きました。

 あなたが、現場で止められたそうですね?」


「はい。清めが完了していない区域で、病の再燃が懸念されました。

 殿下のご威光をお借りする場で、民を危険にさらすのは恐れ多く――」


「恐れ多く、ですか」


王妃はその言葉を、笑みの奥で静かになぞった。


「殿下の御名が掲げられていたのよ。

 その場を止めるほどのご判断を、姫様がお持ちとは……頼もしいこと」


「おっしゃる通りでございます。

 出過ぎた真似と、深く反省しております」


セレナはわずかに顔を上げる。


「ですが、殿下の寛大なご理解をいただき、清務の判断としてお許しを賜りました。

 身に余るお心遣いと、感謝しております」


ザリーナの笑みが、わずかに深まる。

扇の骨が小さく鳴り、香煙が二人のあいだを漂った。


「……まあ。殿下のお心にお応えしたというわけね。けれど、王の御名を扱う責は重いもの。

 お忘れなきように」


「肝に銘じます」


「清務のご尽力、感謝いたしますわ。

 殿下のためにも、これからもお力添えを」


「身を尽くします」


セレナは再び深く頭を下げ、静かに下がった。


扉を出ると、白檀の香が衣に残っていた。

その香が、胸に絡みつくように離れない。


……私が王妃にとって邪魔なのは分かった。

けれど、その理由までは見えない。


回廊に射す朝光が眩しく、セレナはわずかに目を細めた。


でも、私のやるべきことは変わらない。


アウレナを、少しでもよくする。

今は、それだけだ。





政務殿の扉の前に立つと、サフィアの胸は荒く上下していた。


凱旋の準備が止められた。


王妃の言葉が、耳の奥でまだ響いている。


――あなたは“殿下の剣”として、民の前に立つの。


その一言を支えに、ここまで来た。

だというのに、式は中止になった。


殿下のご判断だと聞いた瞬間、足が勝手に動いていた。


扉を押し開けると、灯火の下にアルシオンがいた。

机上の書簡に目を落としていた彼は、気配だけで来訪を察したように顔を上げる。


「……サフィア。どうした」


「凱旋式が、中止になったと聞きました」


声は、自分でも驚くほど硬かった。


「本当に……殿下のご判断なのですか」


「中止は俺の判断だ。だが――」


アルシオンは筆を置き、短く息を吐いた。


「そのような儀を、そもそも俺は命じていない」


「……え?」


サフィアは言葉を失った。


「王妃殿下が段取りを進めていたらしい。

 俺の名を掲げてな」


耳の奥で、何かが崩れる音がした。


「では……殿下は」


喉がひどく渇いていた。


「私を、民の前に立たせるおつもりでは……なかったのですか」


アルシオンはすぐには答えなかった。


「……今の王都で民を集めるのは危うい。

 清めが済んでいない区域がある。姫の報告で判明した」


「……姫殿下が」


名を口にした瞬間、胸の奥がざらりと痛んだ。


「そうだ。適切な判断だった」


迷いのない声だった。


責める余地などない。

正しい。

分かっている。


それでも、その正しさが、今は刃のように胸へ触れた。


「私は……」


サフィアは唇を噛む。


「私は、あの式のために備えていました。

 殿下が民の前に立たれる。その隣に、私も立てるのだと……信じていました」


「お前の働きを軽んじたわけではない」


「分かっています」


即座に答えた声が、震えた。


「分かっているのです。病を防ぐためなら、中止は正しい。

 姫殿下の判断も、間違っていない」


言葉にするほど、胸の奥が冷えていく。


「けれど……」


サフィアは視線を落とした。


「私は、何を支えに戻ってきたのでしょう」


政務殿に沈黙が落ちた。


アルシオンは低く言う。


「サフィア。お前は戦で十分に示した。

 今は剣を収める時だ」


静かな声だった。


けれど、欲しかった言葉ではなかった。


「……殿下は、もう私を必要とされないのですか」


「違う」


すぐに返った。


「必要の形が変わるだけだ」


それが慰めなのか、距離の宣告なのか、サフィアには分からなかった。


ただ一つだけ、はっきりしていた。


自分が信じていた場所は、思っていたよりもずっと脆かった。


サフィアは背筋を伸ばし、深く頭を下げる。


「……失礼いたしました」


踵を返す。


扉へ向かう間、背中にアルシオンの視線を感じた。

けれど、呼び止める声はない。


政務殿を出ると、夜風が頬を撫でた。


アルシオンの傍にいるのは……もう、私じゃないの?


遠くに灯る塔の光が、滲んで見えた。





整然と積まれた紙束の間で、ナヴァリスは一枚の報告書から視線を上げた。


「――つまり、姫殿下は“石鹸”を、常の作りに乗せたいと?」


「はい。王都で病の広がりを抑えられた理由の一つが、清めです。

 そして、その清めを支えた品が石鹸でした」


セレナは扇を胸元に寄せ、静かに続ける。


「今なら、“病を止めた品”として、国の信用とともに名を立てられます」


ナヴァリスの目が、わずかに細まった。


「……穢れを防ぐ仕組みを、“利”に転じる、と?」


「ええ。それに、民の暮らしを立て直すには、働ける場が要ります。

 石鹸の生産なら、女性や、戦で暮らしの崩れた者たちも関われます。

 油脂と灰は倉庫にありますし、既存の設備でも始められます」


軽く首を傾げ、言葉を落とす。


「――そうすれば、清めはもっと身近になります」


ナヴァリスはしばし黙した。


「輸出も視野に?」


「もちろんです。

 各国から滞在している姫君方の名義で、祖国へ贈呈するのがよいかと。

 “王都の品”として届ければ、王家の威を損なわずに広められます」


「……つまり、“贈り手を借りる外交”ですね」


「まあ、そういうことです。

 姫君方も石鹸を気に入ってくださっていますし。

 これが回り始めれば、皆の益になります」


セレナは扇を伏せた。


「アウレナ特有の薬草や香料を使えば、他国との差別化も図れます。

 香りの調合は、妃候補の姫君方にも評判がよく……後宮からも協力を得られるでしょう」


ナヴァリスは羽根筆を取り、淡々と記録を始めた。


「……なるほど。

 一時の清めで終わらせず、王都の暮らしへ落とし込む。

 そして、その倣いを品にして外へ出す」


紙の上で、筆先が静かに走る。


「清務を、民の生活と外交の両方へ広げるお考えですね」


セレナは静かに微笑んだ。


「ええ。

 戦いの場を外交に移して、今度こそ、アウレナを勝たせましょう」


ナヴァリスは筆を動かしながら、内心でひとつ、結論を下す。


……これは商いではない。

国そのものを、武器にする策だ。


それでも、羽根筆は止まらなかった。





政務殿の午後は、異様なほど静かだった。


机の上には、ナヴァリスの筆跡でまとめられた新たな建議書。

――石鹸の営みの立ち上げ案。


「穢れを防ぐ清めの品、か……」


アルシオンは小さく呟き、指先で紙の端をなぞった。


剣で守ったものは、いつかまた剣を要する。

だが――これは違う。


彼女の描いた線は、血も、誓いも、勝鬨も要らない。


ただ、明日を続かせるための形だった。


アルシオンは紙から視線を上げ、誰もいない政務殿で短く息を吐いた。


……俺は、もう戻れないな。


かすかな苦笑が漏れる。


そのとき。


扉の外から、ほのかに香草の香りが流れ込んできた。


アルシオンは、ゆっくりと顔を上げる。


「失礼いたします、殿下」


セレナの声だった。


その声だけで、張りつめていた思考がわずかにほどける。


手には、小ぶりの木箱があった。


「……姫か。何か用か」


「清務を進める中で作った、石鹸の試作です」


セレナは一歩進み、箱をそっと机の上に置いた。


「穢れを落とす働きだけでなく、肌を整える効き目もあります」


「……肌を整える、か」


「はい。妃候補の姫君方にも、好評をいただいております」


「……ほう」


「髪にも良いのですよ」


そう言って、セレナは指先で自分の髪をすくい上げた。

淡い光を受けて、ダークブラウンの髪がゆるやかに流れる。


……まずいな。


アルシオンは、そう思った。


これは、品の話ではない。


無意識に身を乗り出し、机を挟む距離が、ひと呼吸分だけ縮まる。


セレナはその沈黙に、小さく首を傾げた。


「……殿下?」


アルシオンは咳払いを一つして、視線を逸らす。


「……心得た」


「恐縮です」


セレナは微笑み、静かに一礼して下がった。


扉が閉まる。


残されたアルシオンは、木箱を見つめた。


香草の匂いが、まだ室内に残っている。


建議書に目を戻すべきだと分かっていた。

石鹸の価値を、清務の延長として見極めるべきだとも。


それなのに、先ほど光を受けて流れた髪の色ばかりが、目の奥に残っている。


アルシオンは額に手を当て、低く息を吐く。


「……危ういな」


その言葉が、石鹸に向けたものなのか。

それとも、彼女に向けたものなのか。


自分でも、もう分からなかった。

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― 新着の感想 ―
私もセレナちゃん派です。サフィアでは王妃は無理ですね。思考が足りないわ。
はいはーい!私もセレナちゃん派です。 サフィアはかわいそうだけど、サフィアにお似合いなのは、サフィアの弱さも強さも丸ごと受け止めてくれる幼馴染さんなのではないかと思います。 サフィアが違う恋愛をみつ…
サフィアちゃん大分可哀想だけど、 私はセレナ派なの…!! 文句のつけどころのない姫さまで しかもちょっと可愛いかったら、 多分コロッと行くよね…多分…!!泣 あと王太子様戦争のお熱が下がって冷静になっ…
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