第9話 紐
夜明け前、まだ薄闇が部屋の隅に残っていた。
サフィアは自室の寝台に横たわっていた。
ようやく静かな夜を取り戻したはずなのに、眠れなかった。
……アルシオンは、政務で忙しい。それは分かってる。
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは鎮まらない。
政務殿の灯りは夜通し消えず、きっと彼はその部屋で国の未来と向き合っている。
それを思えば誇らしい――はずなのに。
「でも、呼んでほしかった……」
唇を噛みしめる。
戦場では、その声があった。
命令でも叱責でも――彼の声を聞けば、前へ進めた。
今は、それがない。
枕元の灯がゆらぎ、壁に影が滲む。
胸の奥に積もるのは、安堵ではなく空白。
考えたくないのに……一人になると、嫌なことばかり浮かぶ。
静かに寝台から身を起こす。
傷のある腕を撫でながら、窓の外を見る。
空の端がわずかに白んでいた。
「アルシオン、まだ私を必要としてくれてるよね……」
あなたが望むなら、私はまだ剣を取れるの――
そのとき、扉の外から侍女の声がした。
「――サフィア様。王妃様がお呼びです」
短く息を整え、衣の襟を正す。
「……すぐに行く」
サフィアは包帯の上から腕を押さえ、静かに立ち上がった。
王妃の私室には、朝の光が淡く差し込んでいた。
ザリーナはすでに席にいる。
淡桃の衣の袖を整え、静かに茶器へ湯を注いでいた。
「おはようございます、サフィア」
サフィアは背筋を正し、膝を折る。
「王妃様……お呼びとのことで」
ザリーナは茶碗を押し出し、手招きした。
「座って。あなたにも一服を。
戦の疲れを癒やさねば」
部屋には白檀の香が漂い、
差し出された茶からは薄荷の清い匂いが立っていた。
その香に包まれると、ほんの少しだけ思考が緩む。
「殿下は今朝も政務にお励みよ。
夜通し、報告書を読まれていたとか」
サフィアのまつげが、わずかに揺れた。
「……そう、ですか」
湯の注がれる音が、静かに落ちる。
「城の内では、皆そう言っています。
――“国を守ったのはサフィアだ”と」
「そんな……私は、務めを果たしただけで」
「謙遜は美徳。でも、今は違うわ」
ザリーナの瞳が、細められる。
「あなたが立たなければ、誰が人々に希望を示せるの?
殿下も……それを否定なさる方ではありません」
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
ザリーナは茶碗を置き、何気ない調子で続けた。
「そうそう――セレナ殿下には、清務をお願いしているの」
サフィアの指が、わずかに止まる。
「……清務、ですか?」
「王都が最も揺れていた時に、祓いと清めの仕組みを作ってくださったでしょう。
その流れを、今は制度として形にしているところなの」
セレナが。
サフィアは茶碗の縁を見つめた。
指先が、ほんの少しだけ冷える。
ザリーナは気づかぬふりで、静かに茶を口へ運ぶ。
「あなたが戦で国を守ったように、
姫殿下は“内側”を守ってくださっているの。
どちらも、殿下にとって欠かせぬ柱ですわね」
私は……外。
その言葉だけが、胸の奥に落ちた。
ザリーナは扇を手に取り、ゆるやかに揺らす。
「凱旋の場は整いました。
あなたは“殿下の剣”として、民の前に立つの」
「殿下の……剣」
「ええ。その姿を見せるだけでいいわ。
あとは私が導きます」
サフィアはしばし黙し、やがて小さく頷いた。
「……はい。王妃様のご意のままに」
ザリーナの笑みが、朝の光の中でやわらかく深まる。
「いい子ね。
殿下にとっても、あなたは特別な存在。
どうかその誇りを忘れないで」
サフィアの胸が熱くなる。
それは安堵に似ていた。
けれど同時に、胸の奥をそっと縛られるようでもあった。
白檀の香が揺れ、部屋を満たす。
サフィアは茶碗を両手で包んだまま、
その香の中で、ただ小さく息を吸った。
◆
灰水の匂いが、まだ街路に残っていた。
清めに使われた水が石畳を流れ、溝に白く乾いた跡を残している。
通りの脇には香草の束と空になった桶が積まれ、
往来は少なく、声も抑えられていた。
セレナは粘土板に記録しながら、昨日を思い出す。
……殿下、嬉しかっただろうな。
サフィアが無事に帰ってきて。今頃……。
ふと、そんな考えがよぎって、セレナは小さく首を振った。
……こんな時期に、何を考えているのよ、私。
忙しいと、どうしても余計な思考が滑り込んでくる。
前世の記憶が、不意に浮かんだ。
――仕事を終えて、疲れ切って帰った夜。
抱きしめられたと思ったら、
「おれも疲れた」
「なにそれ」
なんて、笑い合ったこと。
……人恋しいだけね、私。
「はぁ……」
セレナは気持ちを切り替えるように歩調を整えた。
その時だった。
鼻先を、場違いな甘さがかすめた。
セレナは足を止め、顔を上げる。
香料を積んだ荷車が列をなして進んでいく。
清務の物資とは明らかに違う、甘い匂い。
カリムが足を止めた。
「……おかしいな。これは式の支度だ」
リサがはっと息を呑む。
「式……? でも、まだ清めも終わっていないのに……」
白布に金糸の王章。
王家の旗と、神殿前に据える供物の壺。
行列の清めに焚く香炉。
どう見ても、凱旋式の準備だった。
セレナは眉を寄せ、荷車の行き先を見る。
「殿下は、今は行わないと仰っていたはず……」
「行き先は南区の神殿前だ。王妃付きの連絡兵も動いてる」
「――現場の責任者を探しましょう」
カリムを先頭に、足を進める。
神殿前では、神官たちが白布を張り、
供物台の位置を測り、香炉の火を整えていた。
設えを検めていたのは、巫女長アリヤナ。
セレナは歩み寄り、声をかける。
「失礼いたします。清務監理の姫、セレナです。
こちらの準備、どなたのご命令で?」
アリヤナは一瞬だけ視線を細め、
すぐに微笑を作った。
「殿下の御名にて、凱旋の段取りを」
「殿下のご意向、ですか」
セレナは穏やかに笑みを保ったまま、わずかに首を傾げる。
「その御命令書、拝見してもよろしいでしょうか」
アリヤナは一瞬だけ動きを止め、背後の女官へ視線を投げた。
女官の袖には、王妃宮の印章が縫い込まれている。
「殿下の名義にて、王妃様が取りまとめを。
式場は明日までに整える予定です」
「王妃様が……」
セレナの胸に、かすかな違和感が走る。
殿下の名で、王妃が動かしている……?
けれど、言葉をのみこんだ。
今ここで騒げば、現場の人々が困惑するだけだ。
セレナは表情を崩さず、静かに言った。
「私は殿下の命で清務を行っております。
確認したところ、この一帯はまだ清めの完了報告が上がっておりません。
清め未了の区画にあたります――どうか、今は立ち入られませんように」
アリヤナは香炉の煙越しにセレナを見据え、
静かに、しかしはっきりと言い返す。
「凱旋は、勝利を“神前で確定させる”ための儀です。
時を置けば、勝利は人の口に委ねられ、
噂や不安に削られていきます」
ざわり、と神殿官たちが息を呑む。
「それを防ぐためにこそ、
神殿は“今”御名を掲げるのです」
セレナは一歩も引かず、穏やかな声音で続けた。
「式典はもちろん行うべきと存じます。
ですが、式典に相応しく場を整えなければなりません。……そうでしょう?」
「……ですが――」
「それに、まだ病に伏している民もおります。
皆が顔を上げられる時にこそ、凱旋は“誉れ”になります。
――きっと、それまで待つ方がよいと思います」
アリヤナは唇を引き結び、
清め未了の区画を示す標示板へ視線を走らせた。
「……清めが済み次第、再開いたしましょう」
低く告げると、神殿官たちに合図を送った。
白布が音もなく下ろされ、
式の設えは静かに止められた。
「ご理解、感謝いたします」
セレナは深く一礼し、その場を後にした。
――殿下の命で、ですって?
では、これは……手違い? それとも……。
ふと、あの王妃の目を思い出す。
柔らかな笑みの奥で、光を映さぬ深い琥珀の瞳。
見据えられた時、息を詰めたあの圧。
セレナは外套の留め具に手を置き、政務殿の方向を見やった。
確かめなければ。
これが、本当に殿下の望まれたことなのか。
◆
「殿下、姫殿下がお見えです」
「通せ」
入室したセレナは、清務後に身を整えた衣で深く礼をした。
髪はまだわずかに湿り、低く結い留められている。
袖口からは、石鹸の淡い匂いがした。
「遅い時刻に申し訳ありません。
確認すべきことがありまして」
アルシオンは返事をする前に、ふと視線を止めた。
それから筆を置き、顔を上げる。
「構わぬ。どうした」
「王都南区で凱旋式の準備が進んでおりました。
殿下の御名にて行われているとのことで、
現場を一時停止させております」
「……式? そんな命は出していない」
「私もそう思いました。
ですが、神殿と後宮の双方から“殿下のご意向”として進行しており、
王妃様の印章が使用されていました」
「――王妃の印章か」
セレナはその表情をそっと窺った。
王妃は一体、どうしてこんなことを――。
この時期に式典を、わざわざ殿下の名を使ってまで。
胸の奥に、冷たいざわめきが広がる。
アルシオンは机上の文書を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「よく止めた。
……お前でなければ、誰も止められなかっただろう」
「いえ……当然のことをしたまでです」
「命を果たすだけの者が、そこまで考えるものか」
セレナは、胸の奥が小さく沈むのを感じた。
サフィアが無事に戻ってきたのだから、
殿下も少しは安心されたのだと思っていた。
……でも、違う。
アルシオンの顔色は変わらず悪い。
目元の影も、机に置かれた指先の強張りも、消えていなかった。
セレナは言いづらそうに唇を開き、声を落とした。
「……殿下。大丈夫、ですか?」
一瞬、沈黙が落ちた。
アルシオンは目を伏せ、かすかに息を吐く。
「……俺は王太子だ。
揺らぐことを、許される立場ではない」
セレナは一瞬、言葉を失った。
けれど、胸の奥に押し込めた何かが勝手にほどけていく。
気づけば、唇が動いていた。
「……お言葉ですが……王太子も、人であることには変わりありません。
どうか……ご自身を労ってください」
どうしてこんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
けれど、この人を見ていると――自然と、そう言わずにはいられなかった。
アルシオンは驚いたように目を上げ、わずかに瞬きをした。
その瞳の奥に、一瞬だけ柔らかな光が宿る。
「……そう言われたのは、初めてだ」
静かな声が落ちる。
言葉にならない温度だけが残った。
◆
「――殿下。第六補給庫の件、確証が取れました」
ラシードは巻物を開きながら、静かに報告を始めた。
「どこからだ」
「ベネフ家の私邸裏手にある井戸跡です。
倉庫の裏方を洗ったところ、私邸側に繋がり、通過札の束が発見されました。
本来は倉庫で保管されるべき札です」
ラシードは一拍置き、続ける。
「記録上は“返納済み”とされていましたが、
実際には焼却前にまとめて廃棄されていたようです」
「……偶然ではないな」
「ええ。
倉庫の記録板と見つかった札の番号を照合した結果、
“全量納入”と記された日付と札は一致しました」
アルシオンの指が、机の上で止まる。
「検問所は」
「問題ございません。札の動きも、そこでは乱れておりません。
中継のリーファ・ザルク家は相変わらず記録が粗く“隙”は多い。
ですが今回、荷を抜いた形跡は出ておりません」
「抜かれたのは、倉庫に入ってからということか」
「はい。
……姫殿下が違和感に気づかなければ、
この線は浮かび上がらなかったでしょう」
アルシオンは筆を置き、静かに頷いた。
「……仕組みが王太子を補うなら、使わねばならぬな」
ラシードは静かに一礼し、言葉を継ぐ。
「――王都の病、根が見えました。
あとは切る時を誤らぬだけです」
「……それが一番難しい」




