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転生姫はお飾り正妃候補。愛されないので自力で幸せ掴みます  作者: 福嶋莉佳
三章

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第9話 紐

夜明け前、まだ薄闇が部屋の隅に残っていた。


サフィアは自室の寝台に横たわっていた。

ようやく静かな夜を取り戻したはずなのに、眠れなかった。


……アルシオンは、政務で忙しい。それは分かってる。


そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは鎮まらない。

政務殿の灯りは夜通し消えず、きっと彼はその部屋で国の未来と向き合っている。

それを思えば誇らしい――はずなのに。


「でも、呼んでほしかった……」


唇を噛みしめる。

戦場では、その声があった。

命令でも叱責でも――彼の声を聞けば、前へ進めた。

今は、それがない。


枕元の灯がゆらぎ、壁に影が滲む。

胸の奥に積もるのは、安堵ではなく空白。


考えたくないのに……一人になると、嫌なことばかり浮かぶ。


静かに寝台から身を起こす。

傷のある腕を撫でながら、窓の外を見る。

空の端がわずかに白んでいた。


「アルシオン、まだ私を必要としてくれてるよね……」


あなたが望むなら、私はまだ剣を取れるの――


そのとき、扉の外から侍女の声がした。


「――サフィア様。王妃様がお呼びです」


短く息を整え、衣の襟を正す。


「……すぐに行く」


サフィアは包帯の上から腕を押さえ、静かに立ち上がった。


王妃の私室には、朝の光が淡く差し込んでいた。


ザリーナはすでに席にいる。

淡桃の衣の袖を整え、静かに茶器へ湯を注いでいた。


「おはようございます、サフィア」


サフィアは背筋を正し、膝を折る。


「王妃様……お呼びとのことで」


ザリーナは茶碗を押し出し、手招きした。


「座って。あなたにも一服を。

 戦の疲れを癒やさねば」


部屋には白檀の香が漂い、

差し出された茶からは薄荷の清い匂いが立っていた。


その香に包まれると、ほんの少しだけ思考が緩む。


「殿下は今朝も政務にお励みよ。

 夜通し、報告書を読まれていたとか」


サフィアのまつげが、わずかに揺れた。


「……そう、ですか」


湯の注がれる音が、静かに落ちる。


「城の内では、皆そう言っています。

 ――“国を守ったのはサフィアだ”と」


「そんな……私は、務めを果たしただけで」


「謙遜は美徳。でも、今は違うわ」


ザリーナの瞳が、細められる。


「あなたが立たなければ、誰が人々に希望を示せるの?

 殿下も……それを否定なさる方ではありません」


その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。


ザリーナは茶碗を置き、何気ない調子で続けた。


「そうそう――セレナ殿下には、清務をお願いしているの」


サフィアの指が、わずかに止まる。


「……清務、ですか?」


「王都が最も揺れていた時に、祓いと清めの仕組みを作ってくださったでしょう。

 その流れを、今は制度として形にしているところなの」


セレナが。


サフィアは茶碗の縁を見つめた。

指先が、ほんの少しだけ冷える。


ザリーナは気づかぬふりで、静かに茶を口へ運ぶ。


「あなたが戦で国を守ったように、

 姫殿下は“内側”を守ってくださっているの。

 どちらも、殿下にとって欠かせぬ柱ですわね」


私は……外。


その言葉だけが、胸の奥に落ちた。


ザリーナは扇を手に取り、ゆるやかに揺らす。


「凱旋の場は整いました。

 あなたは“殿下の剣”として、民の前に立つの」


「殿下の……剣」


「ええ。その姿を見せるだけでいいわ。

 あとは私が導きます」


サフィアはしばし黙し、やがて小さく頷いた。


「……はい。王妃様のご意のままに」


ザリーナの笑みが、朝の光の中でやわらかく深まる。


「いい子ね。

 殿下にとっても、あなたは特別な存在。

 どうかその誇りを忘れないで」


サフィアの胸が熱くなる。


それは安堵に似ていた。

けれど同時に、胸の奥をそっと縛られるようでもあった。


白檀の香が揺れ、部屋を満たす。


サフィアは茶碗を両手で包んだまま、

その香の中で、ただ小さく息を吸った。





灰水の匂いが、まだ街路に残っていた。


清めに使われた水が石畳を流れ、溝に白く乾いた跡を残している。

通りの脇には香草の束と空になった桶が積まれ、

往来は少なく、声も抑えられていた。


セレナは粘土板に記録しながら、昨日を思い出す。


……殿下、嬉しかっただろうな。

サフィアが無事に帰ってきて。今頃……。


ふと、そんな考えがよぎって、セレナは小さく首を振った。


……こんな時期に、何を考えているのよ、私。


忙しいと、どうしても余計な思考が滑り込んでくる。

前世の記憶が、不意に浮かんだ。


――仕事を終えて、疲れ切って帰った夜。

抱きしめられたと思ったら、

「おれも疲れた」

「なにそれ」

なんて、笑い合ったこと。


……人恋しいだけね、私。


「はぁ……」


セレナは気持ちを切り替えるように歩調を整えた。


その時だった。


鼻先を、場違いな甘さがかすめた。


セレナは足を止め、顔を上げる。


香料を積んだ荷車が列をなして進んでいく。

清務の物資とは明らかに違う、甘い匂い。


カリムが足を止めた。


「……おかしいな。これは式の支度だ」


リサがはっと息を呑む。


「式……? でも、まだ清めも終わっていないのに……」


白布に金糸の王章。

王家の旗と、神殿前に据える供物の壺。

行列の清めに焚く香炉。


どう見ても、凱旋式の準備だった。


セレナは眉を寄せ、荷車の行き先を見る。


「殿下は、今は行わないと仰っていたはず……」


「行き先は南区の神殿前だ。王妃付きの連絡兵も動いてる」


「――現場の責任者を探しましょう」


カリムを先頭に、足を進める。


神殿前では、神官たちが白布を張り、

供物台の位置を測り、香炉の火を整えていた。


設えを検めていたのは、巫女長アリヤナ。


セレナは歩み寄り、声をかける。


「失礼いたします。清務監理の姫、セレナです。

 こちらの準備、どなたのご命令で?」


アリヤナは一瞬だけ視線を細め、

すぐに微笑を作った。


「殿下の御名にて、凱旋の段取りを」


「殿下のご意向、ですか」


セレナは穏やかに笑みを保ったまま、わずかに首を傾げる。


「その御命令書、拝見してもよろしいでしょうか」


アリヤナは一瞬だけ動きを止め、背後の女官へ視線を投げた。


女官の袖には、王妃宮の印章が縫い込まれている。


「殿下の名義にて、王妃様が取りまとめを。

 式場は明日までに整える予定です」


「王妃様が……」


セレナの胸に、かすかな違和感が走る。


殿下の名で、王妃が動かしている……?


けれど、言葉をのみこんだ。

今ここで騒げば、現場の人々が困惑するだけだ。


セレナは表情を崩さず、静かに言った。


「私は殿下の命で清務を行っております。

 確認したところ、この一帯はまだ清めの完了報告が上がっておりません。

 清め未了の区画にあたります――どうか、今は立ち入られませんように」


アリヤナは香炉の煙越しにセレナを見据え、

静かに、しかしはっきりと言い返す。


「凱旋は、勝利を“神前で確定させる”ための儀です。

 時を置けば、勝利は人の口に委ねられ、

 噂や不安に削られていきます」


ざわり、と神殿官たちが息を呑む。


「それを防ぐためにこそ、

 神殿は“今”御名を掲げるのです」


セレナは一歩も引かず、穏やかな声音で続けた。


「式典はもちろん行うべきと存じます。

 ですが、式典に相応しく場を整えなければなりません。……そうでしょう?」


「……ですが――」


「それに、まだ病に伏している民もおります。

 皆が顔を上げられる時にこそ、凱旋は“誉れ”になります。

 ――きっと、それまで待つ方がよいと思います」


アリヤナは唇を引き結び、

清め未了の区画を示す標示板へ視線を走らせた。


「……清めが済み次第、再開いたしましょう」


低く告げると、神殿官たちに合図を送った。


白布が音もなく下ろされ、

式の設えは静かに止められた。


「ご理解、感謝いたします」


セレナは深く一礼し、その場を後にした。


――殿下の命で、ですって?

では、これは……手違い? それとも……。


ふと、あの王妃の目を思い出す。

柔らかな笑みの奥で、光を映さぬ深い琥珀の瞳。

見据えられた時、息を詰めたあの圧。


セレナは外套の留め具に手を置き、政務殿の方向を見やった。


確かめなければ。

これが、本当に殿下の望まれたことなのか。





「殿下、姫殿下がお見えです」


「通せ」


入室したセレナは、清務後に身を整えた衣で深く礼をした。

髪はまだわずかに湿り、低く結い留められている。

袖口からは、石鹸の淡い匂いがした。


「遅い時刻に申し訳ありません。

 確認すべきことがありまして」


アルシオンは返事をする前に、ふと視線を止めた。

それから筆を置き、顔を上げる。


「構わぬ。どうした」


「王都南区で凱旋式の準備が進んでおりました。

 殿下の御名にて行われているとのことで、

 現場を一時停止させております」


「……式? そんな命は出していない」


「私もそう思いました。

 ですが、神殿と後宮の双方から“殿下のご意向”として進行しており、

 王妃様の印章が使用されていました」


「――王妃の印章か」


セレナはその表情をそっと窺った。


王妃は一体、どうしてこんなことを――。

この時期に式典を、わざわざ殿下の名を使ってまで。


胸の奥に、冷たいざわめきが広がる。


アルシオンは机上の文書を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


「よく止めた。

 ……お前でなければ、誰も止められなかっただろう」


「いえ……当然のことをしたまでです」


「命を果たすだけの者が、そこまで考えるものか」


セレナは、胸の奥が小さく沈むのを感じた。


サフィアが無事に戻ってきたのだから、

殿下も少しは安心されたのだと思っていた。


……でも、違う。


アルシオンの顔色は変わらず悪い。

目元の影も、机に置かれた指先の強張りも、消えていなかった。


セレナは言いづらそうに唇を開き、声を落とした。


「……殿下。大丈夫、ですか?」


一瞬、沈黙が落ちた。


アルシオンは目を伏せ、かすかに息を吐く。


「……俺は王太子だ。

 揺らぐことを、許される立場ではない」


セレナは一瞬、言葉を失った。

けれど、胸の奥に押し込めた何かが勝手にほどけていく。


気づけば、唇が動いていた。


「……お言葉ですが……王太子も、人であることには変わりありません。

 どうか……ご自身を労ってください」


どうしてこんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。

けれど、この人を見ていると――自然と、そう言わずにはいられなかった。


アルシオンは驚いたように目を上げ、わずかに瞬きをした。

その瞳の奥に、一瞬だけ柔らかな光が宿る。


「……そう言われたのは、初めてだ」


静かな声が落ちる。

言葉にならない温度だけが残った。





「――殿下。第六補給庫の件、確証が取れました」


ラシードは巻物を開きながら、静かに報告を始めた。


「どこからだ」


「ベネフ家の私邸裏手にある井戸跡です。

 倉庫の裏方を洗ったところ、私邸側に繋がり、通過札の束が発見されました。

 本来は倉庫で保管されるべき札です」


ラシードは一拍置き、続ける。


「記録上は“返納済み”とされていましたが、

 実際には焼却前にまとめて廃棄されていたようです」


「……偶然ではないな」


「ええ。

 倉庫の記録板と見つかった札の番号を照合した結果、

 “全量納入”と記された日付と札は一致しました」


アルシオンの指が、机の上で止まる。


「検問所は」


「問題ございません。札の動きも、そこでは乱れておりません。

 中継のリーファ・ザルク家は相変わらず記録が粗く“隙”は多い。

 ですが今回、荷を抜いた形跡は出ておりません」


「抜かれたのは、倉庫に入ってからということか」


「はい。

 ……姫殿下が違和感に気づかなければ、

 この線は浮かび上がらなかったでしょう」


アルシオンは筆を置き、静かに頷いた。


「……仕組みが王太子を補うなら、使わねばならぬな」


ラシードは静かに一礼し、言葉を継ぐ。


「――王都の病、根が見えました。

 あとは切る時を誤らぬだけです」


「……それが一番難しい」 

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