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転生姫はお飾り正妃候補。愛されないので自力で幸せ掴みます  作者: 福嶋莉佳
三章

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第8話 象徴

呼びは、まだ来ない。


それだけで、時間が長く感じられた。


回廊の灯は落とされ、夜気だけが残っている。

サフィアは柱にもたれ、静かに呼吸を整えた。


清めは終えた。

報告の言葉も、頭の中で何度もなぞった。

――あとは、呼ばれるだけだ。


……忙しいだけよね。


そう思えば済むはずなのに、

胸の奥が妙に落ち着かなかった。


戦場では、考えなかった。

剣を握っている間は、迷いようがなかった。


けれど王宮に戻った途端、

押し込めていたものが、息を吹き返す。


そのとき、王妃の声がふと蘇った。


「象徴」「凱旋」「殿下のため」


あの言葉に頷いた時、

たしかに自分は報われた気がした。


王妃に認められた。

そう思えば、少しは胸が軽くなるはずだった。


――なのに。


角の向こうで、人の気配が動いた。


サフィアは反射的に背筋を正す。

名を呼ばれる準備は、もうできている。


それでも、胸の奥に生まれたざらつきだけは、

どうしても消えてくれなかった。





王都の南外れ。

灰の匂いがまだ地に残る中、夕陽が瓦の上を鈍く染めていた。


街路の角に設けられたセレナの標示板は、柱に固く固定されている。


セレナはその前に立ち、板の位置と刻まれた印を確かめた。

粘土板を胸に抱え、指先で一つ、印をなぞる。


うん……ここも案内図どおり。人の流れもスムーズね。


小さく頷き、記録を走り書きする。

通行方向、水場、滞留なし――短い符号だけを刻んだ。


「リサ。ここの水桶は、もう半刻したら下げていいわ」


「はい」


灰汁と香草の匂いが混じる空気は、数日前よりも明らかに柔らいでいる。

それを確かめるように、セレナは通りを一望した。


そのとき、リサが声を落とす。


「……南門からの伝令が来ていました」


水桶を抱えたまま、周囲を気にして続ける。


「前線の兵が戻ったそうです。サフィア様も、ご無事で」


セレナは記録の手を止め、ゆっくり振り返った。

そして、リサにだけ分かる程度に微笑む。


「そう……無事に戻ってきたのね。よかったわ」


これで……殿下も一息つけるわね。


そう思った直後――ほんの僅かに、鈍い痛みが残った。


「……?」


理由を探る前に、少し離れた場所で腕を組んでいたカリムが口を開く。


「戻ったのは事実だ。

 それとは別に……凱旋の話が出てる」


セレナが視線を向ける。


「どうして分かるのですか?」


カリムは街道の先――南門の方角を顎で示した。


「兵の入城準備を手伝った。

 王妃宮の紋入り外套を着た連絡兵が、門と警備に指示を出してた。

 ……凱旋のときの動きだ」


なるほど、と腑に落ちた。


リサの瞳が揺れた。


「凱旋……? でも、まだ人々は……」


「咳も葬列も途絶えていない。今は祭りどころじゃねぇ」


「きっと、準備だけでしょう」


セレナは小さく息をつく。


「この状況で、殿下が急がれるとは思えないもの」


「ああ。俺もそう思う」


記録板を抱え直し、通りを見渡す。


「でも……皆、あれほどの働きをされたのに。

 少し、寂しいわね」


リサは水桶を抱えたまま、小さく頷いた。


「せめて、ちゃんと迎えてさしあげたいですね……」


セレナは空を仰ぐ。


視線を下ろす。

通りの両脇、まだ閉じられたままの店。

戸口に立つ人影は少なく、声も抑えられている。


「式典も、褒美も、集まることすらできないなんて……」


指先が粘土板を、とん、と叩いた。


何か……何かないかなぁ――


その瞬間、前世の記憶がふいに差し込む。

感染禍の報道。

静まり返った街と、画面越しに語られる、困ったような声。


行き場を失い、

使われるはずだったものを前に、

どうすることもできず立ち尽くす人の姿。


「……あ」


胸の奥に、ひとつの光がともった。


セレナは粘土板を握り直した。





後宮の中庭は、夜の冷気に沈んでいた。


衣装部屋へ続く回廊の陰で――

上質な絹をまとった王妃付きの侍女が、足を止めて囁いた。


「……まだ、姫様のもとに先があると思っているの?」


「で、でも……今は姫様が王宮でも重く見られていて……」


「あなたが誠実なのは見ていれば分かるわ。

 でも、誠実なだけでは後宮では残れないでしょう?」


「……え?」


「尽くす相手は大事よ。けれど、それだけで守られるほど後宮は甘くないでしょう?

 安定が必要よ。少なくとも、明日の居場所くらいは」


一歩、距離を詰める。


「王妃様のお側なら、衣も俸も、すぐに上がる。

 名前も残るし、どこへ回されるか怯えずに済む。

 ……今のうちに動いた方が、賢いと思わない?」


侍女の指が、無意識に衣の端を握る。


「……姫様のもとでは、先が見えないって……?」


「そういうこと」


王妃付きの侍女は、やわらかく微笑んだ。


「姫様は“今”の方。

 でも、王妃様は……“変わらない”でしょう?」


低く笑い合いながら、王妃付きの侍女がそっと袖を掴んだ。


その瞬間――


「勤務時間外の勧誘は、記録に残る。

 控えた方が身のためだ」


涼やかな声が、冷えた空気に差し込んだ。


影の中から現れたのは、ナヴァリス。

記録板を片手に、細い瞳で二人を見据える。


「……ナヴァリス様……」


「感心しますよ。

 不安を煽り、先を約束する。

 後宮らしい“教育”だ」


王妃付きの侍女の顔から、かすかに笑みが引いた。


「王妃宮にも、その熱心さはありのまま残しておきましょう」


にこりともせずに言い、ナヴァリスは踵を返す。


侍女たちは息を呑み、

冷えた夜気の中、その背を見送ることしかできなかった。




「――後宮で動きがございます。

 王妃付きの侍女が、姫殿下の教育座の侍女たちを勧誘しておりました」


アルシオンの眉が、わずかに寄る。


「勧誘、だと?」


「“姫は終わり。今後は王妃様のもとで仕えるべき”と。

 数名が揺らいでおります」


「……王妃の意図か」


「直接の命ではございません。

 ですが、後宮の空気は変わりつつあります。

 “姫の功績”を口にすることを避け、

 代わりに、“王妃様のもとこそ安定”という囁きが出始めております」


アルシオンは、筆先で机を軽く叩いた。


安定を餌に人を引く――後宮では、珍しくもないやり方だ。


――それでも。


「……しばらく、様子を見よう」


“様子を見る”――そう言えば、王妃の描いた形に収まる。

それが分かっていて、その言葉を選んだ自分が、どうしようもなく腹立たしい。


ナヴァリスは報告書を閉じ、静かに頷いた。

「承知しました。

 ……動く者ほど、いずれ痕跡を残します」


アルシオンは答えず、机上の書面に視線を落としたまま、短く息を吐く。


「……今日はここまでだ」


ナヴァリスは一礼し、何も言わずに身を引いた。

扉が閉まる音が、政務殿に小さく響く。


一人になった室内で、アルシオンは椅子の背にもたれた。

こめかみに指を当て、目を閉じる。


……そろそろ、呼ばなければならない。





政務殿の扉が開いた瞬間、胸の奥が熱を帯びた。

懐かしい香が、かすかに胸を打つ。

机に向かうその背を見つけた途端、サフィアの呼吸が止まる。


「……殿下」


声が、わずかに震えた。

気づけば、いつもより一歩、距離を詰めている。


「……よく戻った」


「はい。殿下のお導きがあったからこそ、砦は守られました」


頭を垂れると、掌がかすかに震えた。


本当に……帰ってこられた。


アルシオンは一歩だけ近づき、低く言う。


「よくやった。お前が踏ん張らなければ、王都はもたなかった」


胸の奥が熱を帯び、言葉が喉までせり上がる。


「……アルシオン」


名を口にした瞬間、はっと息を呑む。

けれど、止められなかった。


アルシオンはわずかに視線を落とす。


「……体はもう平気か。王妃からも報告を受けた」


「ええ、大丈夫。

 それより……凱旋の話が出ていると、耳にしたの」


「……凱旋?」


「王妃様が……そういう段取りが要ると。

 てっきり、あなたのお考えでもあるのだと……」


僅かに言葉が早まる。


だが、アルシオンは短く沈黙したのち、低く言った。


「……初耳だ。

 王妃が、そこまで先に進めているとは思わなかった」


「……そう、なの?」


声が、わずかに揺れる。


「……じゃあ、アルシオンは。

 凱旋を……望んでいないの?」


アルシオンは一瞬だけ口を開きかけ――閉じた。

言葉にできない沈黙が、室内に落ちる。


そのとき、扉の向こうから侍従の声。


「――セレナ殿下、現地よりご帰還です」


サフィアの肩が、かすかに跳ねる。


アルシオンの足が半歩、扉の方へ向く。


……いまの、何。


扉が開く。

淡金の衣をまとったセレナが、一礼とともに入室した。


「ただいま戻りました、殿下」


「……ご苦労だった、姫」


その声が、ほんの僅かにやわらぐ。

その変化を、サフィアは聞き逃さなかった。


セレナは一歩進み、隣に立つサフィアへも静かに頭を下げる。


「防衛、お疲れさまでした。

 ――貴女方の奮闘があって、私たちは守られました」


穏やかで、しかし芯のある声。


サフィアは一瞬、言葉を失う。


……どうして、そんなふうに言えるの?


ほんのわずかに視線を逸らし、短く答える。


「務めを果たしたまでです」


セレナはそれ以上踏み込まず、扇を胸に抱き直した。


「現地では混乱も収まりつつあります。

 祓いの印の活用で、住民の動線と清め作業が定着しました」


少し間を置いて、セレナは顔を上げた。


「……耳にしたのですが、凱旋をされるのですか?」


サフィアのまぶたが、かすかに動く。


アルシオンは息を詰め、短く答えた。


「――聞いているのか」


「はい。ですが、まだ街では葬列も絶えず、民の疲弊も続いております。

 式典は、時期を改めた方がよいかと」


サフィアは思わず唇を結ぶ。


アルシオンは沈黙ののち、低く言った。


「……今は、見送る。

 確かに、今の王都に“祭”の熱を強いるのは早い」


「ありがとうございます。

 ――それでも、兵たちをねぎらう手立ては必要かと思います」


セレナは扇を胸に当て、続けた。


「祝宴ではなく、酒を配ってはいかがでしょう。

 各詰所で一息つけるように」


アルシオンはわずかに目を細めた。


「……それなら、人を集めずに兵を労える」


短く考え、頷いた。


「よい。すぐに酒の配分を手配しよう」


「感謝いたします」


セレナは静かに頭を下げる。


香炉の煙がふたりの間を流れ、

サフィアは言葉にならない焦りを飲み込んだ。


アルシオンが頷いた、その瞬間。

視界の端で、殿下の視線が――セレナに沈む。


……また、あの目。


胸の奥が、かすかに軋んだ。

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― 新着の感想 ―
ただ、ただ、セレナちゃんの活躍と恋の成就を祈ってます。 王妃にふさわしのは絶対セレナちゃん。けど、アルシオンの未熟さがちょっと気になります。 若気の至りということで許すか~(上から目線で失礼しました。…
武官なのにめっちゃネチャネチャしとるなサフィア。幼馴染くんも見守り男子気取ってるけど言うべきことを言わず決断も判断も遅いね。
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