第8話 象徴
呼びは、まだ来ない。
それだけで、時間が長く感じられた。
回廊の灯は落とされ、夜気だけが残っている。
サフィアは柱にもたれ、静かに呼吸を整えた。
清めは終えた。
報告の言葉も、頭の中で何度もなぞった。
――あとは、呼ばれるだけだ。
……忙しいだけよね。
そう思えば済むはずなのに、
胸の奥が妙に落ち着かなかった。
戦場では、考えなかった。
剣を握っている間は、迷いようがなかった。
けれど王宮に戻った途端、
押し込めていたものが、息を吹き返す。
そのとき、王妃の声がふと蘇った。
「象徴」「凱旋」「殿下のため」
あの言葉に頷いた時、
たしかに自分は報われた気がした。
王妃に認められた。
そう思えば、少しは胸が軽くなるはずだった。
――なのに。
角の向こうで、人の気配が動いた。
サフィアは反射的に背筋を正す。
名を呼ばれる準備は、もうできている。
それでも、胸の奥に生まれたざらつきだけは、
どうしても消えてくれなかった。
◆
王都の南外れ。
灰の匂いがまだ地に残る中、夕陽が瓦の上を鈍く染めていた。
街路の角に設けられたセレナの標示板は、柱に固く固定されている。
セレナはその前に立ち、板の位置と刻まれた印を確かめた。
粘土板を胸に抱え、指先で一つ、印をなぞる。
うん……ここも案内図どおり。人の流れもスムーズね。
小さく頷き、記録を走り書きする。
通行方向、水場、滞留なし――短い符号だけを刻んだ。
「リサ。ここの水桶は、もう半刻したら下げていいわ」
「はい」
灰汁と香草の匂いが混じる空気は、数日前よりも明らかに柔らいでいる。
それを確かめるように、セレナは通りを一望した。
そのとき、リサが声を落とす。
「……南門からの伝令が来ていました」
水桶を抱えたまま、周囲を気にして続ける。
「前線の兵が戻ったそうです。サフィア様も、ご無事で」
セレナは記録の手を止め、ゆっくり振り返った。
そして、リサにだけ分かる程度に微笑む。
「そう……無事に戻ってきたのね。よかったわ」
これで……殿下も一息つけるわね。
そう思った直後――ほんの僅かに、鈍い痛みが残った。
「……?」
理由を探る前に、少し離れた場所で腕を組んでいたカリムが口を開く。
「戻ったのは事実だ。
それとは別に……凱旋の話が出てる」
セレナが視線を向ける。
「どうして分かるのですか?」
カリムは街道の先――南門の方角を顎で示した。
「兵の入城準備を手伝った。
王妃宮の紋入り外套を着た連絡兵が、門と警備に指示を出してた。
……凱旋のときの動きだ」
なるほど、と腑に落ちた。
リサの瞳が揺れた。
「凱旋……? でも、まだ人々は……」
「咳も葬列も途絶えていない。今は祭りどころじゃねぇ」
「きっと、準備だけでしょう」
セレナは小さく息をつく。
「この状況で、殿下が急がれるとは思えないもの」
「ああ。俺もそう思う」
記録板を抱え直し、通りを見渡す。
「でも……皆、あれほどの働きをされたのに。
少し、寂しいわね」
リサは水桶を抱えたまま、小さく頷いた。
「せめて、ちゃんと迎えてさしあげたいですね……」
セレナは空を仰ぐ。
視線を下ろす。
通りの両脇、まだ閉じられたままの店。
戸口に立つ人影は少なく、声も抑えられている。
「式典も、褒美も、集まることすらできないなんて……」
指先が粘土板を、とん、と叩いた。
何か……何かないかなぁ――
その瞬間、前世の記憶がふいに差し込む。
感染禍の報道。
静まり返った街と、画面越しに語られる、困ったような声。
行き場を失い、
使われるはずだったものを前に、
どうすることもできず立ち尽くす人の姿。
「……あ」
胸の奥に、ひとつの光がともった。
セレナは粘土板を握り直した。
◆
後宮の中庭は、夜の冷気に沈んでいた。
衣装部屋へ続く回廊の陰で――
上質な絹をまとった王妃付きの侍女が、足を止めて囁いた。
「……まだ、姫様のもとに先があると思っているの?」
「で、でも……今は姫様が王宮でも重く見られていて……」
「あなたが誠実なのは見ていれば分かるわ。
でも、誠実なだけでは後宮では残れないでしょう?」
「……え?」
「尽くす相手は大事よ。けれど、それだけで守られるほど後宮は甘くないでしょう?
安定が必要よ。少なくとも、明日の居場所くらいは」
一歩、距離を詰める。
「王妃様のお側なら、衣も俸も、すぐに上がる。
名前も残るし、どこへ回されるか怯えずに済む。
……今のうちに動いた方が、賢いと思わない?」
侍女の指が、無意識に衣の端を握る。
「……姫様のもとでは、先が見えないって……?」
「そういうこと」
王妃付きの侍女は、やわらかく微笑んだ。
「姫様は“今”の方。
でも、王妃様は……“変わらない”でしょう?」
低く笑い合いながら、王妃付きの侍女がそっと袖を掴んだ。
その瞬間――
「勤務時間外の勧誘は、記録に残る。
控えた方が身のためだ」
涼やかな声が、冷えた空気に差し込んだ。
影の中から現れたのは、ナヴァリス。
記録板を片手に、細い瞳で二人を見据える。
「……ナヴァリス様……」
「感心しますよ。
不安を煽り、先を約束する。
後宮らしい“教育”だ」
王妃付きの侍女の顔から、かすかに笑みが引いた。
「王妃宮にも、その熱心さはありのまま残しておきましょう」
にこりともせずに言い、ナヴァリスは踵を返す。
侍女たちは息を呑み、
冷えた夜気の中、その背を見送ることしかできなかった。
◆
「――後宮で動きがございます。
王妃付きの侍女が、姫殿下の教育座の侍女たちを勧誘しておりました」
アルシオンの眉が、わずかに寄る。
「勧誘、だと?」
「“姫は終わり。今後は王妃様のもとで仕えるべき”と。
数名が揺らいでおります」
「……王妃の意図か」
「直接の命ではございません。
ですが、後宮の空気は変わりつつあります。
“姫の功績”を口にすることを避け、
代わりに、“王妃様のもとこそ安定”という囁きが出始めております」
アルシオンは、筆先で机を軽く叩いた。
安定を餌に人を引く――後宮では、珍しくもないやり方だ。
――それでも。
「……しばらく、様子を見よう」
“様子を見る”――そう言えば、王妃の描いた形に収まる。
それが分かっていて、その言葉を選んだ自分が、どうしようもなく腹立たしい。
ナヴァリスは報告書を閉じ、静かに頷いた。
「承知しました。
……動く者ほど、いずれ痕跡を残します」
アルシオンは答えず、机上の書面に視線を落としたまま、短く息を吐く。
「……今日はここまでだ」
ナヴァリスは一礼し、何も言わずに身を引いた。
扉が閉まる音が、政務殿に小さく響く。
一人になった室内で、アルシオンは椅子の背にもたれた。
こめかみに指を当て、目を閉じる。
……そろそろ、呼ばなければならない。
◆
政務殿の扉が開いた瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
懐かしい香が、かすかに胸を打つ。
机に向かうその背を見つけた途端、サフィアの呼吸が止まる。
「……殿下」
声が、わずかに震えた。
気づけば、いつもより一歩、距離を詰めている。
「……よく戻った」
「はい。殿下のお導きがあったからこそ、砦は守られました」
頭を垂れると、掌がかすかに震えた。
本当に……帰ってこられた。
アルシオンは一歩だけ近づき、低く言う。
「よくやった。お前が踏ん張らなければ、王都はもたなかった」
胸の奥が熱を帯び、言葉が喉までせり上がる。
「……アルシオン」
名を口にした瞬間、はっと息を呑む。
けれど、止められなかった。
アルシオンはわずかに視線を落とす。
「……体はもう平気か。王妃からも報告を受けた」
「ええ、大丈夫。
それより……凱旋の話が出ていると、耳にしたの」
「……凱旋?」
「王妃様が……そういう段取りが要ると。
てっきり、あなたのお考えでもあるのだと……」
僅かに言葉が早まる。
だが、アルシオンは短く沈黙したのち、低く言った。
「……初耳だ。
王妃が、そこまで先に進めているとは思わなかった」
「……そう、なの?」
声が、わずかに揺れる。
「……じゃあ、アルシオンは。
凱旋を……望んでいないの?」
アルシオンは一瞬だけ口を開きかけ――閉じた。
言葉にできない沈黙が、室内に落ちる。
そのとき、扉の向こうから侍従の声。
「――セレナ殿下、現地よりご帰還です」
サフィアの肩が、かすかに跳ねる。
アルシオンの足が半歩、扉の方へ向く。
……いまの、何。
扉が開く。
淡金の衣をまとったセレナが、一礼とともに入室した。
「ただいま戻りました、殿下」
「……ご苦労だった、姫」
その声が、ほんの僅かにやわらぐ。
その変化を、サフィアは聞き逃さなかった。
セレナは一歩進み、隣に立つサフィアへも静かに頭を下げる。
「防衛、お疲れさまでした。
――貴女方の奮闘があって、私たちは守られました」
穏やかで、しかし芯のある声。
サフィアは一瞬、言葉を失う。
……どうして、そんなふうに言えるの?
ほんのわずかに視線を逸らし、短く答える。
「務めを果たしたまでです」
セレナはそれ以上踏み込まず、扇を胸に抱き直した。
「現地では混乱も収まりつつあります。
祓いの印の活用で、住民の動線と清め作業が定着しました」
少し間を置いて、セレナは顔を上げた。
「……耳にしたのですが、凱旋をされるのですか?」
サフィアのまぶたが、かすかに動く。
アルシオンは息を詰め、短く答えた。
「――聞いているのか」
「はい。ですが、まだ街では葬列も絶えず、民の疲弊も続いております。
式典は、時期を改めた方がよいかと」
サフィアは思わず唇を結ぶ。
アルシオンは沈黙ののち、低く言った。
「……今は、見送る。
確かに、今の王都に“祭”の熱を強いるのは早い」
「ありがとうございます。
――それでも、兵たちをねぎらう手立ては必要かと思います」
セレナは扇を胸に当て、続けた。
「祝宴ではなく、酒を配ってはいかがでしょう。
各詰所で一息つけるように」
アルシオンはわずかに目を細めた。
「……それなら、人を集めずに兵を労える」
短く考え、頷いた。
「よい。すぐに酒の配分を手配しよう」
「感謝いたします」
セレナは静かに頭を下げる。
香炉の煙がふたりの間を流れ、
サフィアは言葉にならない焦りを飲み込んだ。
アルシオンが頷いた、その瞬間。
視界の端で、殿下の視線が――セレナに沈む。
……また、あの目。
胸の奥が、かすかに軋んだ。




