第7話 帰還
馬車はゆるやかな坂を下り、石畳の道を進んでいた。
石の継ぎ目から、冬を越した雑草が淡い緑をのぞかせている。
車輪の音が一定のリズムで響く中、向かいの席でカリムが腕を組んだ。
甲冑の肩飾りは外しているのに、その姿勢は崩れない。
「……まさか、姫様自ら現場に出られるとはな」
視線を窓の外にやりながら、ぼそりとこぼす。
「殿下の命でも、そう簡単に動くとは思わなかった」
その声に、隣のリサが小さく身を縮めた。
けれど、セレナの返答は穏やかだった。
「殿下と約束しましたからね。アウレナのために頑張ると」
カリムはちらりとセレナを見て、すぐに視線を外へ戻す。
陽に照らされた横顔が、わずかに曇った。
「……あんた、本気でこの国の人間になるつもりか」
彼は短く息を吐き、革手袋を外して膝に置く。
「ルナワの姫が、アウレナのために、か。サフィアが聞いたらどう思うだろうな」
セレナは扇を静かに握り直した。
セレナにとっては、戦を止めさせてしまった責任の延長線だった。
アウレナの復興を支えることは、ごく当然の務めだと思っていた。
それが――“外の者が出しゃばる”ように映っているのだとしたら。
胸の奥に小さな痛みが走る。
リサが心配そうに見上げるが、セレナは気づかぬふりで口を開いた。
「……いけませんか? 私は、正妃候補ですよ。
後宮の者として、務めを果たしているだけです」
カリムはその静かな反論に、目を細めた。
青空の映る窓辺から視線を外し、彼女へ向き直る。
「……あんた、相変わらず言葉が強いな」
苦笑が漏れる。
「殿下が姫を前に出す理由、少し分かった気がする」
「……どういう意味ですか?」
カリムはしばらく彼女を見つめ、やがて短く息を吐いた。
「……覚悟があると思ってた。ただの飾りなら、そんな顔で話さない」
その声に、皮肉はなかった。
「でもな……“務めを果たす”って言葉の中には、命も入る。
それを分かってるのか、確かめたかっただけだ」
セレナのまつ毛がかすかに震えた。
ふと、遠い記憶が脳裏をかすめる。
前世――香山美月だった頃、依頼人のために命を懸けて悪魔祓いをしていた夜々。
今は“清務”という形で、人の命を繋ごうとしているのだ。
同じようでいて、まるで違う。
でも――言えることはひとつだけ。
「命を懸ける……その自覚は、まだありません」
静かに顔を上げ、カリムを見据える。
「だけど……一生懸命、頑張るつもりです」
リサが小さく息を吐いた。
カリムは唇の端をわずかに持ち上げ、視線をそらす。
「……そうか。なら、殿下も安心するだろうな」
低く落とされた声に、からかいはなかった。
カリムはそれきり視線を窓の外へ戻した。
◆
机上には、疫の広がりを示す地図と、後宮・神殿・兵舎からの報告書が並んでいた。
アルシオンは印の打たれた地図を見つめ、眉間に皺を刻む。
まだ終わってはいない。
だが、人々はようやく息をつき始めていた。
そこへ、衣擦れの音が静かに近づく。
ザリーナが扇を手に姿を現した。
「……殿下。ようやく街の音が戻ってまいりましたね」
アルシオンは筆を置き、視線だけで応じた。
「民が持ちこたえてくれた。――姫の働きも大きい」
その一言に、ザリーナの扇がぴたりと止まる。
だが微笑は崩さない。
「殿下。今こそ形をお示しになる時です。
恐れから解き放たれた民が、次に求めるのは安心。
それを目に見える形で示すことが肝要でございます」
「……形、ですか」
アルシオンの視線が、一瞬だけ地図の端に落ちる。
まだ色の濃い区画が、そこには残っていた。
「今はまだ、終わったとは言えません。
民は式よりも、水と薬を求めている」
「だからこそ、でございます」
ザリーナは一歩前へ進み、まっすぐ見据えた。
「殿下が信を置かれた“武”がございますでしょう。
戦を食い止め、国を守った者――サフィアですわ」
香炉の煙が、ふっと揺れる。
「彼女の姿を民に示すことは、
殿下ご自身がこの国を掌握しておられると告げることに等しい。
凱旋は、彼女のためではございません」
ザリーナは微笑を崩さぬまま、静かに言い切った。
「――殿下のためでございます」
理屈としては正しい。
否定のしようもない。
だが――どこかが、微かに噛み合わない。
胸の奥に、小さなざらつきが生まれる。
「……王妃。凱旋の件は、少し考えさせてください」
「ええ。ご英断をお待ちしておりますわ」
それだけ告げ、ザリーナは静かに身を引いた。
王妃が去った後、アルシオンは机上の地図の端に目を留めた。
そこには、ラシードの注釈が添えられている。
《北街区・倉庫群にて物資不明。供給経路、豪族ベネフ家筋》
ベネフ家――王妃の縁筋。
……偶然だろう。
そうであってほしい。
だが、胸の奥に差した影は消えなかった。
アルシオンは深く息を吐き、静かに呟く。
「……なぜ、今なのだ」
◆
王都の南門が見えてきた。
灰を溶かした灰汁の匂いが、春の風にかすかに混じっている。
門扉の上には白布が掛けられ、戦の凱旋旗ではなく、疫の鎮まりを祈る印が揺れていた。
「……帰ってきた、のか」
手綱を引く指先に、微かな震えが残る。
兵の列は沈黙していた。
勝鬨を上げる者はいない。
――誰もが、ただ生きて帰れたことに胸を押さえている。
門の脇で、王妃付きの従者が一礼した。
「サフィア指揮官殿。王妃様より伝言がございます」
「……なんだ」
「“殿下は政務殿にて国務にあたられております。
まずは体を清め、静養を。その後、王妃様がお目通りを望まれています”」
礼を述べて従者が下がると、門番たちが静かに門を開いた。
軋む音とともに、王都の空気が流れ込む。
焦げたような煙の気配と、香草の残り香。
サフィアは馬上から街を見渡した。
石畳の隅では女たちが桶を抱えて灰を撒き、
井戸端には祈りの姿勢を取る子どもたちがいる。
誰も笑ってはいない。
病を恐れる気配は、まだ濃く残っている。
本来なら怯えに呑まれて立ち尽くしていてもおかしくないのに、人々はそれぞれの持ち場で手を動かしていた。
……戦の外で、何があった?
耳にした噂がよぎった。
――後宮の姫が、祓いの段取りを整えたらしい。
――それで街が、少しずつ落ち着いた、と。
ただの風聞だ。
だが、兵の中でそれを笑う者はいなかった。
……本当に、そんなことができるのか。
胸の奥が、ざらりと軋む。
守り切ったはずなのに、どこかで置いていかれたような感覚。
「王妃殿下との謁見……」
小さく零れた声を、風が攫っていった。
兵たちは無言のまま馬を進め、夕陽の中へ列を伸ばしていく。
アルシオン……早く会いたい……。
その想いだけが、確かな重みを持って胸に残る。
その思いを胸に抱えたまま、サフィアは王宮へ入った。
到着するなり、王妃付きの女官たちが静かに歩み寄ってくる。
「サフィア指揮官殿。王妃殿下のご意向により、まずはお清めを」
返事をする間もなく、馬が引かれ、従者が剣を受け取った。
導かれるまま通されたのは、王妃の居間に近い身支度の間だった。
湯気の立つ洗い桶と清布、香草を煎じた湯が用意されていた。
サフィアは黙って外套を脱ぐ。
甲冑の跡が肩に残り、包帯を巻いた腕が露わになった。
侍女のひとりが、その傷を見て一瞬だけ手を止める。
「……失礼いたしました」
すぐに頭を下げ、清布を差し出した。
サフィアは短く首を振った。
「構わない」
久方ぶりのまともな湯のはずなのに、心は少しもほどけない。
湯で埃と汗を落とし、傷口を洗われ、包帯を巻き直される。
それだけのことなのに、ひどくもどかしかった。
包帯を巻き直される腕を見下ろし、サフィアは小さく息を吐いた。
清めを終えると、黒衣の武官服が改めて整えられ、
乱れた髪も手早く結い直された。
「王妃殿下がお待ちです」
その声に、サフィアは短く頷いた。
身支度の間を出て、後宮の回廊を無言のまま歩く。
やがて王妃の居間の前で、静かに膝を折った。
「お入りなさい」
柔らかな声。
扉を押すと、白檀の香が満ちた室内に灯りが滲んでいた。
高座に座すザリーナが、いつもの微笑を浮かべている。
「お戻りになりましたね、サフィア」
サフィアは深く頭を垂れる。
「王妃殿下。任務は完遂いたしました」
「ええ。あなたが前線を守ってくださったおかげで、国は持ちこたえました」
ザリーナはゆっくりと身を乗り出し、指先でサフィアの頬に触れた。
サフィアは一瞬だけ目を伏せ、その手を黙って受ける。
「殿下もお喜びでしょう。
……そして今こそ、民に示す時です」
サフィアは目を瞬せた。
「あなたの凱旋を行いましょう。
民に示すのです。“国はまだ立っている”と」
「凱旋を……」
思わず零れた声。
脳裏に浮かぶのは、門前の光景。
白布、咳き込む声、桶を抱える女たち。
……この時期に?
だが疑問は、喉の奥で止まった。
王妃の瞳は揺るがず、静かにサフィアを見つめている。
「それを伝えられるのは、あなたしかいませんわ」
その言葉に、サフィアは息を詰めた。
……殿下のためなら。
考える前に、体が動いた。
静かに膝をつき、頭を垂れる。
「承知いたしました。
殿下と王妃殿下のため、尽力いたします」
ザリーナの唇が、満足げに弧を描いた。
……凱旋のはずなのに。
喜ぶべきことのはずなのに、心は少しも軽くならなかった。
理由は分からない。
分からないからこそ、考えないようにした。
私は、守った。
そう思うしかない。
その思いだけが、
細い針のように胸に残った。




