第6話 照命
あばばばば遅れまして申し訳ございません((((;゜Д゜))))
砦の空は、橙色に染まっていた。
サフィアは手袋を外し、指先の小さな傷を眺める。
戦は終わった。砦は……どうにか耐えた。
何も得られなかったはずの戦で、それでも「帰る顔」だけは作れた。
ようやく──殿下の元へ戻れる。
胸の奥に、静かな安堵が落ちていく。
「殿下は……どう思われるだろう」
任務を果たした。砦も守った。
これでまた一歩、正妃に近づける──
そう考えるべきなのに、胸の奥がかすかに軋む。
一瞬だけよぎった影を、首を振って追い払う。
殿下のところへ戻る。それだけだ。
手袋をはめ直す指先に、静かな温度が戻っていく。
訓練場では、兵たちが片付けをしながらも笑い声をあげていた。
「指揮官殿、お疲れさまでした! 本当に……お見事でした!」
「皆が踏ん張ったからだ。私一人の功ではない」
言うと、兵たちは胸を張って頷いた。
「いえ、指揮官殿がいなければ砦は落ちてました!
殿下も、きっとお喜びになります!」
胸の奥がひそかに熱を帯びる。
「都に戻ったら……やっぱり指揮官殿は殿下のすぐ側に?」
「正妃は……指揮官殿しかいません!」
サフィアは眉を寄せた。
「軽々しく言うな。身分の話だ」
叱られても若い兵は怯まず、まっすぐ言い返した。
「でも俺たち、本気で思ってます。
殿下の隣に立つのは、指揮官殿しかいません!」
胸の奥がきゅっと鳴る。
そこは、自分が信じ続けてきた場所だった。
「……都に戻れば、まず殿下に拝謁だ」
そう言うと、兵たちは誇らしげに頷いた。
「はいっ! 胸を張って戻れます、指揮官殿!」
胸に、細い針のような違和感が沈む。
気づかないふりをして、サフィアは空を見上げた。
アルシオン……やっと会える。
その想いだけが、静かに灯り続けていた。
◆
ラシードは机上に散らした地図と書状の束を整え、手を止めた。
その正面で、セレナは息を整えてから口を開く。
「では、よろしくお願いします」
「承りました、姫殿下」
姫殿下だって。緊張しちゃう……。
清務を設立するにあたって、セレナはラシードに一から手順を乞うことになった。
ラシードは巻物の紐を解く。
「まず最初に見直すべきは、“祓いと清めの流れ”そのものです。
姫殿下が現場で用いられた仕組みは、祈りと作業が同時に動く形。
──だからこそ、人の手足に合わせて再構成する必要があります」
セレナは静かに頷いた。
ラシードは巻物を押し広げ、区画を指で示す。
「検問所、神殿、侍女筋、兵、医師。
祓いは人の心を整え、清めは病を断つ。
この二つが交わる地点が最も負担になります。
まずはその律速を見つけねばなりません」
セレナの表情が引き締まる。
ラシードは続けた。
「そして──ここからが本題です、姫殿下。
清務を制度として動かす以上、既存の権限と必ず重なります」
「……既存の権限?」
「はい。順を追って説明いたします」
ラシードはひとつ指を立てた。
「一つ目は、殿下のご判断。これはすでに下りました」
指を二本立てる。
「二つ目は、政務筋の検証。
祓いは後宮と神殿、清めは侍女と検問と軍医。
複数の手が絡む以上、どこかが必ず“自分の領分が侵される”と感じます」
セレナは筆を握りしめる。
ラシードは三本目の指を立てた。
「三つ目は、その不満を事前にどこまで整えられるか。
姫殿下の清務は侍女筋を動かします。
ゆえに──後宮監ナヴァリス殿との協議は避けられません」
「……そうですか……」
ナヴァリスとの協議……
大丈夫かなぁ、言いくるめられそう……。
「はい。後宮の流れに触れる制度です。
ナヴァリス殿が“知らぬまま動く”ことは、決して許されない」
巻物を閉じ、ラシードは静かに言葉を置いた。
「姫殿下。
制度は王命で立ちますが──
動かすのは人です。
人が納得しなければ、一歩も前に進まない」
「私に、務まるでしょうか……」
「……出来ますよ、姫殿下」
セレナが顔を上げる。
「誤解なされてはなりません。
“皆を動かす”のは姫殿下のお役目ではありません。
殿下の命があり、政務が調整し、後宮監が仕組みに沿って人を配する。
姫殿下が担うのは──ただ一つ」
彼は巻物の一点を指で示した。
「現場の止まる場所を見抜くことです」
「止まる場所……?」
セレナは瞬きを落とす。
「手順が乱れるところ、負担が跳ね上がるところ、
姫殿下の目で見れば、必ず分かります。
現場は形だけでは動かない。
ですが──姫殿下が現場に立てば、人は自然と従います」
「従う……?」
「王都東区が証明しております」
その時の光景が脳裏に蘇る。
「祓いの声を発したとき、兵も、医師も、民も動いた。
姫殿下が“こうしましょう”と言えば、現場はその形に合わせて整っていく。
それは、命令だけでは生まれぬ力です」
セレナは息を呑んだ。
「ですから、出来ます。
姫殿下には、“人を動かす言葉”と“場を見る目”がある。
制度を機能させるうえで、それが最も欠けてはならぬ資質です」
セレナの指が扇に触れた。
……私のやるべき事は、皆を導く事……?
「姫殿下が見るべきは“人の動き”だけです。
それ以外は、我らが整えます」
「……私は、一人じゃあないのですね……」
呼吸が少しだけ、楽になる。
そして──
コン……
控えめなノックが、室内の空気を震わせた。
「え……?」
ラシードの眉がわずかに動く。
次の瞬間。
「……王妃様が、お通りになります」
女官の声が、廊下の向こうで静かに響いた。
空気がぴん、と張る。
ラシードはすぐに書状を揃え、姿勢を正した。
「続きは後ほどに。
姫殿下、そのままお控えください」
扉の前に、女官が跪く影が揺れた。
奥から近づく衣擦れが、静かに響いた。
セレナは内心でそっと息を呑み、背筋を正した。
次の瞬間──白い扉の前で金の装飾が淡く揺れ、ザリーナが姿を現した。
優美な目元の奥に、鋭い光だけが潜んでいた。
ザリーナは視線をラシードに向けるでもなく、まっすぐセレナへ歩み寄った。
「……あら、姫様。
政務殿に足を運ばれているとは、熱心なことでございますね」
微笑みを崩さぬまま、セレナを見下ろす。
その気配の鋭さに、侍女たちは息を呑んで動けなくなる。
セレナは扇を胸元に寄せ、丁寧に一礼した。
「お声をかけていただき……光栄に存じます、王妃殿下」
その柔らかな返答に、ザリーナの瞳がわずかに細くなる。
ザリーナは扇を胸に当て、言葉を落とす。
「ええ……あなたがどれほど政務殿に通われているのか、後宮でも噂になっておりますから。
顔を見に来たのですわ、姫様」
ザリーナの視線が鋭くセレナを射抜く。
「……姫様。
後宮の務めを忘れてまで、政務に関わってはおりませんわよね?」
セレナは扇を胸元にそっと寄せ、静かに答えた。
「……後宮の務め、でございますか」
一度まぶたを伏せる。
埃をかぶった台帳、形だけの祈祷、巫女長の姿──
そんな光景が頭をよぎる。
だが、顔を上げた時には、もう表情を整えていた。
「はい、忘れてはおりません。
正妃候補として──王宮に注力させていただくこと、お許しくださいませ」
その言葉に、ザリーナの扇の動きがぴたりと止まる。
沈黙が広がる。
そして、ゆっくりと絹のような笑みが浮かんだ。
「……まあ。“自覚”をお持ちなのはよいことですわ、姫様」
ザリーナはさらに一歩近づき、囁きを落とす。
「──後宮の務めを……取り違えませんように。姫様」
それだけ告げ、背を向ける。
裾が揺れ、王妃の影が廊下に消えていく。
ラシードは静かに息を吐き、口を開いた。
「……姫殿下」
セレナが顔を向ける。
「殿下は、姫殿下を必要としておいでです。
それだけは、取り違えなきよう」
セレナは扇を指でなぞり、胸のざわめきをそっと整えた。
◆
夜の政務殿には、灯火のゆらぎだけが残っていた。
巻物を並べた机の上で、ラシードが筆を止める。
「……やはり、合いませんな。荷の重さと受け帳の記載が」
扉の向こうから入ってきたアルシオンが眉を顰めた。
「どこでだ」
「倉庫筋です。検問所はやはり問題なし。札も記録も正確でした」
ラシードは巻物をめくりながら淡々と続ける。
「しかし受け帳には“すべて届いた”と記されているのに、
現物は半分も残っておりません」
「……到着後に抜かれた、ということか」
「はい。しかし、中継を担うリーファ・ザルク家は記録が杜撰で隙は多いものの――
今回は“減らした証拠”まではありません。
数量が消えたのは、倉庫に入ってからのみと見てよいでしょう」
「倉庫の管理は?」
「王妃派の豪族、ベネフ家です。
帳面の形式も他と異なり……“手”が入った跡があります」
その瞬間、アルシオンの表情がわずかに険しくなった。
「……王妃の所領の倉庫か」
……王妃が直接手を汚すとは思えない。
だが、その名の下で不正が起きている以上、見過ごせはしない。
「まだ確証はないが――最も黒いのはベネフ家だな」
政務殿の灯が静かに揺れた。
「……証を積め。王妃領の倉庫記録を、もう一度洗い直せ」
「承知しました、殿下」
外では夜風が塔の旗をひっそりと鳴らしていた。
◆
清務の協議は、思ったより滑らかに進んだ。
ナヴァリスと向き合った時は、もっと衝突するかと思っていたのに──杞憂だった。
ただ一つ意外だったのは、あの秩序の男の口から、王妃派を外すべきだという判断が淡々と出てきたことだ。
ナヴァリスは巻物を指でなぞりながら、静かに告げた。
「王妃殿下の侍女が入れば流れは止まります。
彼女らは“書かれた順”でしか動けず、現場の判断に従いません」
「どうしてですか?」
「姫様が指示しても、王妃を優先する者では動きが乱れます」
あまりにも平然と言われて、返す言葉が詰まった。
つまり、要領よく動けないってこと……?
そんな露骨に言っていいの?
王妃に睨まれている私としては助かるけど……本当にいいのかしら。
ナヴァリスは別の記録板を叩いた。
「そして、姫様。
最も問題なのは……姫様が“後宮の雑務”に縛られている点です」
セレナの眉がぴくりと動く。
「雑務……?」
「後宮台帳の整理、侍女の交代印、物資受領。
本来、正妃候補の職務ではありません。
後宮監である我々が担うべき領分です」
「その雑務を押しつけたのは、あなたでしょう……?」
「当時は姫様が最も適任でした。
ですが今後は違います。
清務を担う方に、後宮の台帳仕事は不要です」
ナヴァリスはまったく悪びれず、微動だにしない。
私の扱い……酷すぎじゃない?
ナヴァリスは後宮台帳を開き、指先でいくつかの欄を区切るように叩いた。
「……姫様。後宮雑務の再分配について、具体を提示いたします」
セレナが扇を傾けると、ナヴァリスは続けた。
「後宮台帳の整理は侍女長ルダへ。
受領印と物資管理は後宮監補佐の二名へ戻します。
交代印と侍女配置は、従来どおり私の管轄下でまとめます」
「……では、私は?」
ナヴァリスはわずかにセレナを見やった。
「姫様に残るのは“決裁印”のみです。
清務に関わる人員・物資の最終許可──それだけでよい」
「……それは、正妃候補の役目として受け取ってよろしいのですか」
ナヴァリスは一拍だけ沈黙し、淡々と答えた。
「よろしいかと。
姫様はもはや、後宮の手を動かす方ではなく、
後宮を通して物事を動かす方です」
セレナは小さく息を呑んだ。
「……わかりました」
清務に集中できるのはありがたいけれど……
もう少し早く言ってほしかった……。
その時、控えめなノックとともに女官の声がした。
「姫様。殿下がお呼びです。政務殿にてお待ちとのこと」
セレナはナヴァリスへ軽く一礼する。
「続きはまた後で。
……色々助かりました」
ナヴァリスは深く頭を垂れはしないが、揺るがぬ声で返した。
「姫様の働きがあれば、清務は形になります」
セレナが退室し、扉が静かに閉じた。
◆
「入れ」
扉が開き、セレナが静かに姿を見せた。
一礼した彼女に、アルシオンは机から離れて歩み寄った。
「……姫。来てくれてありがとう」
また……言われた。
胸の奥がかすかに熱を帯びる。
アルシオンはふっと笑みを落とし、本題へ戻った。
「清務のことだ」
地図の上に手を置く。
「ラシードと後宮監から報告を受けた。
流れの下描きがようやく形になり始めた、と」
セレナは小さくまばたきを落とした。
「だが、制度として固めるにはまだ足りない。
祓いと清め、侍女筋と検問所、神殿と医師……
書面の上では動いても、実際の手は別だ」
アルシオンの指が一点を叩く。
「現場がどこで止まるか──それは、姫。お前にしか見えん」
セレナの胸がかすかに揺れた。
「私……ですか?」
「ああ」
即答だった。
「王命で制度は立てられる。
だが、動かすには――東区を見たお前の目が要る」
橙の光が二人の影を重ねる。
「頼めるか」
セレナは胸奥の震えを押しとどめ、静かに頷いた。
「……はい。行ってまいります」
アルシオンは小さく息を吐いた。
「ありがとう、姫」
アルシオンは視線を外さぬまま、低く告げた。
「出立は三日後。……同行はカリムに任せる」
ほんの僅かに言葉が途切れる。
「気をつけて行け。……頼んだ」
「……承知いたしました……」
声にした瞬間、胸の奥で鼓動が跳ねる。
悟られまいと、そっとまぶたを伏せた。
灯火が頬をかすめて揺れる。
呼吸が触れそうな距離の中で、何かが確かに揺らいだ。
だが次の瞬間、アルシオンは背を向けた。
「……行け」
扉へ歩き出したセレナの背に残る熱だけは、消えなかった。




