第14話 綻
投稿遅れまして申し訳ございません。
中庭には、春を思わせる陽が差していた。薄紅の花弁が風に舞い、金の茶器にひらりと落ちる。
「ねえ、聞いた? まだ戦、続いてるんですって」
レイラが蜂蜜を落としながら、ため息まじりに言う。
「市中でも熱や咳の病が流行ってるとか。こわいわね」
アシェラが扇で口元を隠し、涼しい声をこぼした。
「そういえば……王宮の官人にも出たと聞いたわ」
アナヒータが眉をひそめる。
「そうそう。けど後宮は誰も倒れてないのよ。不思議よねぇ」
レイラが首を傾げた。
「祈祷のおかげかしら」
くすくすと笑い声が重なり、すぐに話題は変わった。
「ねえ、この香り――乳香と薄紅の薔薇の精油だって。わたし専用に調合してもらったの」
「ふふ、あの木片だって高貴なものだから、香りも格が違うわ」
「見て、この肌。最近、調子がすごくいいの」
「戦とか病とか、みんな大変そうだけど……女はこういう時こそ綺麗でいなくちゃ」
誰も否定しなかった。
乳香と薔薇の甘い匂いだけが、風に残った。
◆
政務殿の扉が開き、ラシードが巻物を携えて入ってきた。彼は恭しく頭を下げ、低く告げる。
「殿下。市中にて熱と咳の者が急増しております。市場、井戸端、役所の詰所……すでに十箇所を超えました。
死者はまだ正式報告に上がっておりませぬ」
アルシオンは眉を寄せ、地図から視線を外した。
「……もうそこまで広がったか」
廷臣たちがざわめく中、駆け足の靴音が響く。伝令が巻物を掲げ、膝をついた。
「殿下――ルナワの姫君、セレナ殿下より、代官経由にて急ぎの文が届いております! 現地より直筆の指示です!」
「……セレナ、だと?」
アルシオンの指が止まる。
この時期に――戻ってきたのか。
だがすぐ顔を引き締め、封泥を砕いた。視線が紙面を走る。
アルシオンは低く、読み上げた。
「――寝床を分け、水を煮沸し、口元を覆え」
アルシオンは顔を上げた。
「――聞け!」
廷臣たちが背筋を伸ばす。
「市中に触れる役人はただちに徹底せよ! 井戸に見張りを置き、病人と健常者を分けろ。役所には隔ての場を、神殿にも同じ手を打たせよ」
その声音が石壁に響いた。
「恐れが国を蝕む前に、民を守れ!」
廷臣たちが一斉に頭を垂れ、使いが慌ただしく走り出す。
命令が飛び交う中、ラシードは目を細め、アルシオンの横顔を眺めた。
◆
セレナはリサの案内で町外れの家を訪れた。
途中、街道には人影がまばらだった。
放棄された畑の土はひび割れ、井戸の前では女たちが壺を抱えたまま座り込んでいる。
咳をこらえながら荷車を引く男の背が、夕暮れの道に揺れていた。
前世では、戦も疫病も本や画面の向こう側の話だった。
けれど今は――
窓の外から流れ込む荒れた空気と、人々の呻きが、
馬車の中にいても胸に届いた。
石造りの家々が途切れ、丘を越えた先に、リサの実家が見えた。
古い戸口に現れたのは、年を重ねた男女。
リサが駆け寄り、涙ぐみながら声を上げる。
「お父さん! お母さん!」
セレナも一歩進み、静かに頭を下げた。
抱き合う姿を見て、セレナは小さく息をついた。
しばしの語らいのあと、セレナは静かにリサを見つめた。
「……リサ。ここに残ってもいいのよ。
あなたがいれば、ご家族も周りの人たちもきっと安心できるわ」
リサは目を見開き、すぐに首を横に振る。
「いいえ。私はセレナ様のお傍に仕えたいのです。
お父さんも、『行ってこい』と言ってくれました。
家族のことは……もう、大丈夫ですから」
その言葉にセレナは目を瞬かせ、小さく頷く。
「リサ……ありがとう」
セレナはもう一度だけリサの両親に頭を下げた。
「お身体をお大事に」
馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませた。
馬車はゆっくりと町を離れていった。
◆
「……敵、退かぬようです。夜になっても火を絶やしておりません」
副官の報告に、サフィアは城壁の上から平野を見下ろした。
闇の向こう、無数の焚き火が赤く揺れている。
「挑発か、それとも短期で押し潰す構えか……どちらにせよ、こちらは動けない」
槍の柄を軽く叩き、短く息を吐く。
幾度かの衝突を退けたが、敵は退かない。陣を張り続け、夜風の中に炎だけが揺れていた。
兵たちは焚き火の傍らで干し肉をかじり、水を分け合っている。
数日前に届いた物資のおかげで飢えはしのげているが、その袋も次第に軽くなりつつあった。
……あの補給がなければ、砦はもう持たなかった。
だが――まだ終わりじゃない。
耳を澄ませば、咳き込む声が夜風に混じって届く。
戦で傷を負った兵だけでなく、熱を訴える者がわずかに増え始めている。
「熱の者、また出たか」
横に立つ副官が顔を顰めた。
「この砦の寒気のせいでしょうか……」
……向こうの陣からも、ときどき咳の声が聞こえる。
戦場は、誰の兵が倒れているかなど気にしない。
サフィアは視線を焚き火へ落とし、静かに答えた。
「原因は断じられん。だが――兵を怯えさせるには十分だ」
病か、疲れか。
立ち止まる暇はない。
サフィアは槍を握り直した。
殿下。我々はまだ持ちこたえています。
私は――最後まで守り抜きます。
火の粉が夜空に散り、砦の上には重い沈黙だけが降りていた。
◆
政務殿の重い扉が軋み、絹の衣擦れが外から流れ込んだ。
振り向いたアルシオンの前に、ザリーナがゆるやかに歩み入る。
廷臣たちが慌てて頭を下げる中、彼女はまっすぐに進んだ。
「アルシオン。兵糧が砦に届いたと聞きました。本当なの?」
「……はい、王妃陛下。伝令によれば確かに。
兵の士気も立ち直ったとの報です」
「まあ、それは良いこと。けれど――どうして流れるようになったのかしら?」
アルシオンは言葉を探し、視線を逸らした。
「……理由までは、まだ詳しくは分かりません。
政務に縛られており、補給路の確認までは手が回らず……」
ザリーナは静かに頷いた。
「そう……理由はともあれ、兵が救われたのなら何よりね」
そのとき、伝令が駆け込んだ。
「殿下! ルナワの姫君、セレナ様が本日、王都にお戻りになりました!」
巻物を整えていたラシードが眉を上げた。
「……遂に戻られましたな」
アルシオンは手を止め、低く呟いた。
「セレナが……」
伝令が続けた。
「王宮へ入らず、市中の隔離所をご視察中にございます。
寺院で施薬と祈祷の手配をされているとのこと」
廷臣たちがざわめく。
「市中に? この混乱の中で……」
「正妃候補がご自身で……?」
「……あの方は、何をお考えなのか」
ラシードが淡々と告げた。
「あの方らしい動きですな」
アルシオンは眉をひそめた。
ザリーナが口を開いた。
「まあ……なんと無謀なこと。正妃候補が市中に下りるなど前代未聞ですわね」
ザリーナはアルシオンに歩み寄った。
「王宮に留まってこそ威光も守られるものを……危ういこと」
ラシードがふっと口元を歪めた。
「殿下……お呼びになりますか?
王宮に戻るように。もっとも――あの方は、言うことを聞かれない気もいたしますが」
「……余計なことを」
「失礼いたしました。……取るに足らぬことでしたかな」
その横で、ザリーナはアルシオンの肩に手を置く。
「そうですよ、アルシオン。
あの子は――飾りとしてこそ美しいものですわ。
あなたを支えるのは、剣でしょう?」
アルシオンは拳を握り、答えを飲み込んだ。
◆
王都の空気は、どこか濁っていた。
城門をくぐった瞬間、石畳の街路に漂う、汗と薬草と焦げた香の匂いが胸を刺す。
前に訪れた町よりも、人の数が多いぶん、咳と足音が絶えず石畳に響いていた。
咳き込みながら歩く者、
担架に横たわった子どもを抱えて走る父親。
寺院の鐘が重く鳴り、人々は縋るように頭を垂れていた。
隣でリサが怯えた声を上げる。
「セレナ様……王宮へ急ぎませんと。ここにいては危険です!」
セレナは首を横に振った。
「リサは先に戻ってて。私は、少し様子を見るだけだから」
「せ、セレナ様!」
セレナは微笑んだ。
「大丈夫よ。すぐ戻るわ」
——たぶん、ね。
「……どうしてですか?」
「え?」
セレナは目を瞬き、少し驚いたように振り返る。
「セレナ様が……されなくても……」
セレナは苦笑しながら肩をすくめた。
「……少し、いい格好したいだけよ」
「セレナ様……」
セレナは歩きながら、小さく息を吐いた。
結局、私は自分をよく見せたいだけだ。
悪魔祓いを続けていたのも、
崇高な理由があったわけじゃない。
それでも神父は笑って、“そのままでいい”と言ってくれた。
だから私は、今世でもきっと変わらない。
リサが前を見たまま、小さく告げた。
「……私もついていきます」
セレナは困ったように笑った。
「リサ、前の町でも言ったでしょう?
危ないから、無理して私に合わせなくてもいいのよ」
「それでも……私はセレナ様と一緒にいたいのです」
セレナは目を細め、静かに頷いた。
「ありがとう」
今世も、神父のようにはなれない。
それでも――偽善者を貫いてやる。
◆
巻物に目を落としていたラシードが、顔を上げて口を開く。
「姫様、なかなかお戻りになられませんな。いっそ誰かを迎えに出しましょうか。……もっとも、耳を貸されるとは思えませんが」
周囲の文官たちが顔を見合わせる。
そのざわめきを断ち切るように、アルシオンが椅子を押しやった。
「……ならば俺が迎えに行く」
「殿下、直々に? 市中は危険にございます!」
「どうかお控えくださいませ!」
制止の声が重なり合うなか、アルシオンは外套を取り、迷いなく肩へ掛ける。
「黙れ。王太子が自国の街を歩けぬ道理はない」
その光景を見やりながら、ラシードが目を細めた。
「……さすがでございます」
アルシオンは応えず、扉を押し開けた。




