第13話 乱
町の中央に構える代官邸は、高い塀に囲まれ、重い門がそびえていた。
門前では、訴えを待つ人々が列をなし、兵や役人が慌ただしく行き交っている。
戦と病が重なれば、どんな町でもまず行政が悲鳴を上げる――そんな光景だった。
セレナの一行が近づくと、門番たちは目を丸くした。
護衛が「属国ルナワの王女、セレナ殿下にあらせられる」と告げると、兵は息を呑み、顔を見合わせる。
「……せ、正妃候補のお方が……なぜ、こんな町に……」
門番は言葉を詰まらせ――ぎこちなく門が開いた。視線はなお定まらない。
「……そんなに怖がらなくてもいいのに」
中へ通されると、広間には粘土板や木板が山積みになり、書記たちが必死に筆を走らせていた。
代官は急ぎ立ち上がり、半ば信じられぬ表情のまま深く頭を下げた。
「……殿下ご自身が……? これは一体、どのようなご用向きで……」
「私は王宮に戻る途中で、この町の様子を目にしました。
……見過ごせませんでした。今、この町で何が起きているのですか?」
代官は苦い顔で唇を結び、机へ視線を落とした。
「……街道を行き来する商人や旅人の間で、咳と熱を訴える者が急増しております。
誰が病で、誰が無事かも分からぬまま宿を共にし、荷を受け渡しておりますゆえ……
あっという間に町中へ広がってしまいました」
セレナの胸に冷たいものが走った。
……広がった。やっぱり感染症なのね。
静かに息を吸い、問いを重ねる。
「……ということは、患者の隔離は出来ていないのですね?」
「……出来ておりませぬ。病の家は穢れとして避けられておりますが、
町の外に追いやる場所も人手もなく……結局、同じ屋根の下に押し込められております。
神官たちも祈祷で手一杯で、誰も近づこうといたしません」
続けて、さらに重い報告が落とされた。
「しかも戦が長引き、物資も尽きかけております。
食料も薬も、まず戦場へ回さねばならず……町にはほとんど残っておりませぬ」
セレナは唇を噛んだ。
顔を上げ、きっぱりと言う。
「どこか空き施設はありませんか? 神殿の別棟でも、倉庫でも構いません。
患者とその家族を分けて休ませる場所が必要です。このままでは、町全体が倒れます」
代官は苦渋の表情で首を振った。
「……姫様のお考えはもっともにございます。
ですが、穢れを集める場となれば民が怯えましょう。
世話をする者もおらず、人手も足りませぬ。
神官たちも祈祷で手一杯で……どうにも、手が回りませぬ」
セレナは胸の内で小さく舌を打った。
考えを巡らせ、言葉を選ぶ。
「“浄化の水”を配ると言って、人々を集めるのはどうでしょうか?」
「……浄化の、水……?」
「ええ。神官の祈祷と合わせて、穢れを祓うための水だと言えば、人々も拒みません。
その場に症状のある者だけを残して休ませれば……自然に隔離できます」
「……確かに……祈祷の名を借りれば、混乱なく集められましょう。
神官にも口実が立ちます」
セレナはほっと胸をなで下ろした。
「それから、浄化の水は必ず沸騰させてください。
そこに少量のはちみつと塩を混ぜて、病人に飲ませるんです」
前世で、母は熱のたびに塩と蜂蜜を溶いた湯を飲まされたものだ。
代官は眉を寄せた。
「……塩とはちみつを……? 薬ではなく、水に……?」
「体の力を戻すためです。味は少し変でも、衰弱を防げます」
言った瞬間――
いくらなんでも説得力がなさすぎる!
慌てて付け加える。
「……と、後宮の座で学びました。
それに、病に倒れた侍女の看護にも同じ方法を使ったことがあります」
代官は眉間にしわを寄せたまま沈黙したが、
やがて深く頭を下げた。
「……理は分かりませぬが、姫様のお言葉を信じましょう。
すぐに手配いたします」
背後で書記たちが一斉に筆を走らせ、
使いの者が命を受けて駆けていく。
セレナはその様子を見届け、小さく息をついた。
これで少しは持ち直せたらいいけど。
……まだ、見落としていることがある気がする。
「――私も現場を見ます」
代官は目を見開いた。
「し、しかし殿下……危険にございます!」
セレナは裾を正し、静かに微笑んだ。
「承知の上です」
代官の顔が強ばる。
その気配を背に、セレナは静かに立ち上がった。
◆
セレナは神殿で隔離施設のようなことをしていると聞き、神殿の別棟へ向かった。
この時代の医療現場って、どんなのかしら。
神殿に向かう途中、祈祷師は必死に経を唱え、病人の家族たちが膝を折って祈りを捧げていた。
こういった時、人は神にすがりたくなるのは、いつの時代も同じね。
前世で、神父に会うためだけに教会へ通っていたが、肝心の礼拝にはほとんど参加しなかった。
神父がさみしそうな顔をしていたのを思い出す。
だって私は呪術師であって、エクソシストじゃないんだもの。
神を信じなかったから、古代の姫に転生してしまったのか――。
そんなことを思いながら、セレナは神殿の別棟の前に立った。
「姫様……本当によろしいのでしょうか?」
代官が振り返り、不安げな表情で再度確認する。
前世で、遺体に触れたこともある。
だから平気だと思っていた。
セレナは頷き、扉が開けられた。
扉が開いた瞬間、熱と臭気が顔を打った。
空気が重い。
油皿の煙と、湿った藁の匂い。
そして、甘ったるい腐臭が喉に貼りついた。
「……う、酷い臭い……」
胃がひっくり返る。
思わず足が、止まった。
どうしよう……入りたくない。
セレナの腕を、リサが慌てて支えた。
「セレナ様……大丈夫ですか?」
心配げな瞳に見つめられ、セレナははっとする。
震える指先を自分の手で押さえ、呼吸を整える。
「……だいじょうぶ。ありがとう、リサ」
逃げたい気持ちを押し込み、再び部屋を見渡した。
祈祷師が香を焚き、「穢れよ去れ」と唱えていた。
だがその煙は熱を孕み、むしろ息苦しさを増すだけだった。
祈祷師の声の向こうで、看病役の女官が桶を抱え、床を拭いている。
だがその桶の水はすでに濁り、何度も使いまわされた痕がある。
拭うたびに、逆に悪臭が立ちのぼった。
壁際には布をかけた壺が並び、布の隙間から濁った液が見える。
「まず……空気の入れ替えと、清潔にしないと……」
痰を吐く音が床に落ち、低いうめきが重なった。
か、帰りたい……。
薬もないのに、私まで倒れたら――。
セレナは額に汗を滲ませ、裾を握りしめた。
でも……あんな偉そうな事言って……しかも、リサの前で引くわけには……。
「うう……」
それでも――。
口元に布を当て、
袖をたくし上げた。
やる、しか……ない!
セレナは、代官に向き直った。
「……まず、窓を開けましょう。外の空気を入れるだけでも、違います」
粘土板を借り取り、思いつく限りを書きつけていく。
震える指先で文字を刻み、板を代官に差し出した。
「今すぐ全部は無理でも、できるところからで構いません。……こうしてください」
窓へ駆け寄る。
開けた瞬間、冷たい風が流れ込む。
咳をしていた子に水を飲ませながら、セレナは胸の内で息をついた。
止まる保証なんてない。
それでも、何もしないよりはましだ。
吐き気を覚えながらも指示を出し、自らも手を動かして部屋を整えていく。
その背後で、祈祷師たちが小さくざわめいた。
「……姫君が、みずから手を……」
「穢れに触れれば身が曇りますぞ……だが、止めるわけにも……」
女官たちは目を伏せながらも、やがてひとり、またひとりと水桶を持ち上げた。
私だって、やりたくないわよ……!
でも、私が動かないと皆動かないもの。
やがてセレナは、代官に声をかけた。
「……この町だけで対策しても、隣から病が流れ込めば意味がありません。
周囲の村や町にも、同じように伝えてください」
代官は目を瞬かせ、それから深く頷いた。
「……はっ、承知いたしました。使いを飛ばしましょう」
伝令は遅い。
言葉は道中で形を変える。
だけど――
そのとき、先ほど水を飲ませた少年が、寝台の上からかすかに声を上げた。
「お姉ちゃん……ありがとう……」
セレナははっとして振り返り、そっと微笑み返した。
やれることはすべて、やってみよう。
セレナは黙々と作業を続けた。
◆
政務殿に届いた報せは、戦場からではなかった。
「……市中にて、高熱と咳を訴える者が相次いでおります。
負傷兵を受け入れた家々から広がっている模様にございます」
廷臣たちがざわめき、空気が一気に重くなる。
「市で病……?」
「兵糧を蓄えるどころではなくなるぞ」
アルシオンは巻物を受け取り、眉をひそめた。
……都にまで及んだか。戦火はまだ遠いというのに、影のほうが先に侵してくる。
政務殿には、紙と筆の擦れる音だけが続いていた。
サフィアは剣となり砦を守っている。
俺は机の上から支えるしかない。
蝋燭の炎が揺れ、壁に長い影が落ちる。
胸の奥に、ふいに穴のような空白が開いた。
もし正妃がいれば。
政を共に担ぎ、この重みを半分でも背負ってくれる者がいたなら……。
浮かんだひとりの顔を、アルシオンは歯を食いしばって押し戻した。
考えるな。愛は剣に託した。
政は俺が背負う。
筆を握り直す音だけが、静まり返った室内に響いた。
◆
セレナは神殿を後にし、馬車の中で深く息をついた。
ひとまず神殿は形になった。あとは代官に任せて、次はリサの実家のある町へ。
街道を進むと、石造りの門と小屋を備えた検問所が現れた。
馬と人は分けられ、荷駄は重さを測る台へ順に誘導されている。
嬉しい。私のアイデアが、ちゃんと機能してる!
役人が荷札を確かめ、ひとつずつ記録板に記していた。
ラシードの記録法も実施されてる。
通るついでに、少し確認しようかな。
検問所を抜け、次の町に入る。
その町の検問所に隣接する倉庫へと向かった。
倉庫の扉が開けられた瞬間――セレナは息を呑んだ。
「えっ……空っぽ?」
リサが小さく声を震わせる。
「セレナ様……ここにあるはずの物資が……」
セレナは町倉庫の記録板を手に取り、目を走らせた。
検問所を通過した荷駄の数は確かに記されている。
倉庫の帳簿にも「受領済み」とある。
だが、現物がどこにもない。
横領――その単語が胸を刺すように浮かんだ。
記録板の縁を、指が白くなるほど握る。
セレナは息を深く吐き、
代官に向き直った。
「――この街道は使わないでください。荷駄は別の道を通させるのです。
ここで騒げば抜き取りに気づかれ、手を変えられてしまいます。今は気づかぬふりをして、流れそのものを変えるべきです」
代官は一瞬目を見開き、すぐ深く頷いた。
「……はっ。直ちに手配いたします」
セレナは馬車へ戻りながら、扇を握りしめた。
本当は誰がやったか暴きたい。
でも今は、流れを断つほうが先だ。
◆
土煙を巻き上げ、荷駄が本砦へなだれ込んだ。
兵たちが歓声をあげ、我先にと手を伸ばす。袋からは干し肉や穀物がのぞき、桶には水袋が詰まっていた。
サフィアは息を吐き、槍を握る手から力を抜いた。
ここ数日、兵糧は尽きかけ、乾草を噛みしめる姿さえあった。
……よく持ちこたえた。だが、紙一重だった。
「殿下の名が、まだここに生きているぞ!」
「持ちこたえられる、これで戦える!」
兵たちが干し肉を分け合い、水を回して笑った。
疲れきった顔に、久しぶりに火が戻ってゆく。
サフィアは槍の石突を土に立て、空を仰いだ。
殿下……あなたが政を担うなら、私はここを守る。
この砦は、まだ落ちない。
槍を握り直し、声を張った。
「聞け! この物資でさらに持ちこたえるぞ! 殿下の旗のもとに!」
兵たちの声が、砦の石壁にこだました。
◆
政務殿に伝令が駆け込んだ。
「砦に物資が到着! 兵糧が補われ、士気も回復したとの報告です!」
廷臣たちがいっせいに顔を上げ、安堵のざわめきが広がる。
「持ちこたえられるぞ!」
「前線はまだ折れぬ!」
アルシオンは静かに息を落とした。
隣でラシードが巻物を整え、静かに言う。
「物資が届いたのは幸いです。しばらくは戦を継げましょう」
「前線を支えているあいつがいる。俺は政で支えるだけだ」
ラシードは低く言葉を落とした。
「……殿下。剣は殿下のために振るわれましょう。
ですが――剣だけでは国は持ちませぬ」
アルシオンは視線を巻物へ戻した。
……剣だけでは持たぬ。
それでも――俺はサフィアを信じる。
そのとき、伝令が続けて報告した。
「ただ……補給路の一部に乱れがあったとのこと。
記録上は届くはずの荷が途中で途絶えかけたようですが、
別路を経て砦には無事届けられた、との由にございます」
政務殿に、わずかな静寂が落ちた。
「……途絶えかけた?」
「だが届いたのなら問題あるまい。誰かがうまく立て直したのだろう」
廷臣たちはすぐに筆を走らせ、空気は動き始める。
アルシオンは眉を寄せ、机上に拳を置いた。
……補給の乱れを持ち直す判断をしたのは、誰だ?
前線ではない……では後方の誰かが。
胸の奥に、一瞬だけ別の顔がよぎる。
だがアルシオンは、名を浮かべる前に、唇を結ぶ。
その思考を、断ち切った。
◆
訓練場の片隅で、カリムは剣を磨きながら遠くの空を仰ぐ。
北の空はかすかに赤みを帯びていた。遠い戦火の反射だ。
……砦はまだ持っている。だが敵は退かない。
補給が滞れば、商人が値を吊り上げ、都の物価も跳ねる。
民が荒れれば、都が揺れる……嫌な流れだ。
布で刃を拭う。
刃の光に、自分の目の隈が映った。
サフィア……。お前は殿下の名誉を守るつもりだろうが、
名誉で腹は満たせない。長引けば、お前が一番苦しむ。
小さく息を吐き、夜空に目をやる。
殿下も分かっておられる。戦が長引けば民が痩せ、
都がじわじわと削れていくことくらい……誰より理解しているはずだ。
だが政務に縛られ、サフィアも砦に縛られている。
――誰も、戦を終わらせる決断を自由に下せない。
鐘の音が響く。
カリムは剣を鞘に収めた。
闇に沈む空へ、低く呟く。
「……頼む。早く終わらせてくれ」




