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穢祓師 ー負の感情が穢れとして視える僕は、命を削る治癒の力で、人の心を治すー  作者: 早谷 蒼葉
第七章 堕落の街

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第55話 残響

55.残響


『——ありがとう』


 あの人の言葉——その意味をずっと考えていた。


 気がつけば、特事(とくじ)の待合室。そこで僕は座っていた。


 白い壁。

 蛍光灯の光。

 長椅子の硬い感触。


 感覚が曖昧で、いつここに座ったのかも思い出せない。


 廊下を忙しなく、特事の職員が行き交っている。


 あの人の部屋から運ばれてきた書類。

 封鎖された部屋の報告。

 医療班への連絡。

 管理人の保護。


 全て誰かがやってくれている。僕は何もしていない。


 ただ座っていた。


 誰かの声がする。近くで電話が鳴っている。


 でも——


 その全てが、遠かった。耳の奥で何度も再生される音だけが、はっきりとした輪郭を持っている。


 何度も反響する、優しい声。




「大祐くん……」


 はるかさんが、隣に座った。いつもの凛とした声ではない。


「……ごめんなさい」


 それだけ言った。でも、その一言に、はるかさんの想い全部が入っていた。


 僕は首を振る。


「いえ……僕も、気づけませんでした……」


 喉に力が入らない。


 はるかさんは、何も言わずに隣にいてくれる。


 それだけで——少し息ができた。


 しばらくそうしていると、特事の職員が報告書を持ってきた。


「局長。神代(かみしろ)の部屋に関する、追加調査の結果です」


 あの人の名前を聞くだけで、心臓が痛む。それを顔に出さないようにした。


 はるかさんは書類を受け取り、素早く確認する。


「……何も残ってないわね」

「僕も……見ていいですか?」

「いいけど、大丈夫?」


 心配そうな視線に気づかないふりをして、僕は覗き込んだ。


 物がほとんど残っていない。指紋は取れず、逃走経路は、未だ不明。


 ただ——


 部屋には、生活の痕跡があった。


 出したままのコーヒーカップ。

 読みかけの本。

 中身の残ったペットボトル。


 人が暮らしていた跡。


 あの人はここで——普通に生きていた。


 僕の、書類を握る手が熱を帯びる。


 部屋で本を読みながらコーヒーを飲む彼。


 異常さと同様に存在するその普通さが、一番怖かった。




「大祐」


 雪村くんが、廊下から声をかけてくれた。


「屋上に行くぞ」

「……うん」


 僕たちはビルの屋上まで上がった。


 夜風が、僕の頬を撫でていく。空には星が出ていた。穏やかな、それは他人事の夜空。


 雪村くんは、手すりに肘をついて夜景を見ている。僕はその隣に立った。


 しばらくは無言の時が過ぎる。言いたいことを、上手く形にできない。


 夜風が、二人の間を無関心に通り過ぎていく。


「……雪村くん」

「ん?」

「僕は……何も見えてなかったんだね」


 あれほど波だっていた気持ちが、少しだけ落ち着いてきた。だが、それはひどく脆い。


「あの人の、中身を見ようとしてなかった……」


 胸の奥が、穢れだけで染まりそうになる。


「僕は今まで、本当に——人を救っていたのかな?」


 その問いに、雪村くんはすぐには答えなかった。


 沈黙が、僕の肩を落とした。


 だが——


「なぁ、大祐……」


 雪村くんは、ほんのわずかに息を吐き出した。


「神代の正体を知っていたら、お前は助けなかったのか?」

「……えっ?」

「今回、お前は奴に騙された」

「うん……」


 胸が、鈍い音を立てて痛んだ。


「だが、それが悪いことか?」

「え……」


 下を向いていた顔を上げた。


「疑ってばかりの奴に、人は救えねぇ」


 その横顔は、いつもより柔らかかった。


「お前は信じた」

「……」

「だから、神代はお前を選んだ」


 その言葉を、ゆっくりと飲み込む。そして、時間をかけ溶かしていく。


 選ばれたのは、僕にとって良いことだろうか?その答えは出ない。


 ただ……選ばれる、何かが僕にはあった。


「誰かに感謝されたくて、戦ってるんじゃねぇだろ?」

「……そう、だね」

「なら、お前の優しさは間違ってねぇよ」


 雪村くんは、僕を見た。


「人は色々な顔を持ってる」


 僕はみんなの顔を思い浮かべた。


「それが——人間だ」


 胸の奥に、何かが込み上げてきた。抑えていた気持ちが溢れる。


 あの人の笑顔が浮かぶ。

 あの手の温もりが蘇る。

 嘘ではなかった。

 それが、胸を締め付ける。


 そして——


 色んな感情が混ざり合い、涙が頬を伝った。


 雪村くんは、真っ直ぐ前を見ている。


「僕は……救えたと思っていたんだ……」

「あぁ」

「ちゃんと、届いてるって……」

「あぁ」


 雪村くんは、何も言わずに聞いている。ただ、返事をするだけ。


 僕の方を見てもいない。その気持ちが有り難かった。


 唇が震える。

 鼻の奥がツンとする。

 声が出そうになるのを堪える。

 

 頬の涙は、夜風が拭いてくれる。


 なら、今だけは止めなくていいと思った——



 どれくらい、そうしていただろう。


 僕の涙が枯れた頃、雪村くんは口を開いた。


「行くか」

「……うん」


 夜は深まり、ここから見える景色も瞬いている。その光、一つ一つに誰かの物語がある。


 僕は歩き出すことにした。


 屋上の扉の前で、雪村くんが急に立ち止まる。僕には背中しか見えない。


「なぁ、大祐」

「なに?」

「……俺と共に来るか?」

「——!」


 それは、あの路地裏と同じ問いかけだった。僕の覚悟が試された日。


 違うのは、手を差し出されていない。背中で問いかけるのみだった。


 僕の足元が震えている。


「……また、間違えるかもしれない」


「……また、裏切られるかもしれない」


 それでも、僕は——


「だけど——行くよ」


 救えない人がいる。

 届かない人がいる。

 それでも、信じて手を伸ばすしかない——


「やっぱ、お前は……お前だな」


 それは、あの日と同じ言葉だった。


「……どういう意味?」

「何でもねぇよ……なぁ、大祐——」


 雪村くんは、振り返った。


「——ありがとな」


 満面の笑みで、そう言った。


 涙はようやく止まった。 


 でも、胸の痛みは消えていない。


 ただ——


 僕の中で、あの人の残響が少しだけ静かになった。


 叫びたくなるほどの、熱い気持ちが胸の奥から湧き上がる。


 その熱は、この時からずっと僕の中に残っている——


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