第54話 ありがとう
54.ありがとう
その声を聞いた時、世界が反転した。
自分の存在を否定される、どこまでも底のない闇——
『やぁ、ご機嫌よう。穢祓師の皆さん』
机の上に置かれたスマホ。そのスピーカーから聞こえてくる。
優しい声。
穏やかな声。
昨日、ありがとうと言ってくれた声——
何も変わっていない。
『大祐くん、いるんだろ?』
その問いかけに、僕は答えられなかった。代わりに雪村くんが呼びかける。
「神代」
『雪村くん、やはり、貴方が出ますよね』
スマホの向こうで、神代さんがふっと笑った気配がした。
「何の電話だ」
『お別れの挨拶ですよ』
まるで、近くに引っ越しの報告をするような言い方だった。
『君たちには、本当にお世話になりましたので』
まだどこか現実感がない。足元がふわふわしている。心臓の鼓動がうるさい。
「神代さん……」
僕は、思わず口を開いていた。
『——大祐くん、来てくれたんだね』
神代さんが、僕の名前を呼ぶ。昨日と同じ呼び方で。
『驚かせてしまったね、ごめんよ』
「……どうして」
声が震えているのを自覚する。
「どうして、こんなこと——」
『どうして?』
今度ははっきりと、神代さんは少しだけ笑う。
ふふ、と。
優しく。
『戻る場所があるからだよ』
「お前の所属する組織だな」
雪村くんが片手でスマホを操作し、特事に指示を出していた。
『けど——楽しかったね』
「……え?」
その一言は空気を止めた。
楽しかった。
頭の中で、その言葉が何度も反響した。
A.Vを打つことが。
心が壊れていくのを観察することが。
人を死なせたことが。
全部——
『君たちと過ごした時間、とても楽しかったよ』
何故、こんなに普通なのか。
『雪村くんとの駆け引きも、大祐くんとの友情も』
全身の力が抜けそうになる。
『全部、いい思い出だよ』
僕は息ができなくなった。
病室で、僕たちを見て笑ってくれた。
あの笑顔は……あの暖かい時間は……
「……全て……嘘だったんですね……」
僕は声を振り絞った。
『いや、嘘じゃないよ』
彼は一際優しい声で答えた。
『本当に……本当に、楽しい時間だった。今、この時間さえも』
「なら、どうして……」
『私の友の話はしたよね? もう戻らないと……彼との約束なんだ』
その穏やかな声には、本当に別れを惜しんでいるような悲しみが滲んでいる。
『私はね、大祐くん。君と離れるのが一番辛い』
「何を……」
『君のその力……君が思うより、遥かな深淵まで届くものだよ』
「どういう……意味、ですか……」
『君を間近で研究できないのは、本当に残念だ……』
そうか……
僕は——救ったんじゃない。
自分の身体が内側から空っぽになる。
『大祐くん、一つだけ忠告しておく』
「……?」
『君は優しい。だけど、もっと人に興味を持った方がいい』
僕が……人に興味がない、と。
『結局君は、私の名前も知らないだろ?』
「……!」
『相手に興味を持つことが、本当の信頼を得る一歩だよ』
身体がバランスを失っていくのが分かる。地面が揺れる。
反論できない。だからこそ、その言葉は衝撃を伴って僕に刺さった。
雪村くんが、僕の肩に手を置いてくれた。それだけのことで、心の揺れが止まる。
「今日はお前、よく喋るな」
軽く息を吐き、雪村くんが言う。
「ご高説、結構なことだ。だが、独りよがりだ」
『……心外、ですね』
「それより、俺には興味が無いのか?」
唐突な質問に、彼は少しだけ沈黙した。
『……安い挑発ですが……まぁ、いいでしょう』
『雪村くん、あなたは最初から私を試していましたね』
「そうだな」
『どこで確信しましたか?』
「パソコンだ」
『は?』
初めて彼の、素の声を聞いた気がする。それは思わず声が出たような、無防備な響きだった。
「お前が管理者権限でログインしてたからな」
『……あなたは、やはり怖い人ですね』
何の感情も感じない声。反対に雪村くんの口元が吊り上がった。
「だから、早々に退散した。こんな時間稼ぎもしてな」
『そこまで読まれていましたか……』
電話の向こうの気配が変わった気がした。
『あなたは、本当に——人ですか?』
今度は、雪村くんが黙った。
わずかな静寂の後——
『……沈黙は賢い選択ですね。どちらにせよ、あなたは脅威です』
「そう思うなら、大人しくしてろよ」
『それでは面白くないでしょう』
「なら闘うしかねぇな」
『分かり合えないのなら』
もう、戻れない。
「神代。お前たちの目的は何だ?」
『それを私が話すとでも?』
「さあな」
話してくれるとは思わない。雪村くんも分かっているだろう。
『一つ言えるのは——』
平坦だった口調が元に戻っている。
『君たちはまだ、入り口に立ったに過ぎない』
「俺は、その入り口を探していたんだよ」
二人の言葉が部屋に落ちた。
『ならば、これからゆっくり楽しみましょう』
また、笑う声が聞こえた。
『……どうやら、迎えが来たようです。楽しかったですよ』
「こっちも応援が来た。次に会う時が楽しみだ」
雪村くんがそう言うと同時に、はるかさんたちが、部屋に踏み込んできた。
『大祐くん……君とまた、巡り逢える日を待っているよ』
「……ふざけないでください」
『ふざけてないよ、本心だ』
僕は立っているだけで精一杯だった。でも、心が逃げることを拒んでいる。
『私と出会ってくれて——』
最後まで受け止める。
『——ありがとう』
目の前が真っ暗になった。感謝を伝える言葉が、邪悪なものに聴こえた。
『では、また』
そして、通話が切れた。
頭の中で、彼の優しい声が繰り返される。
耳からは別の音がする。
「大祐くん、大丈夫!」
はるかさんの心配する声を聞きながら、僕は膝から崩れ落ちた。
彼の言葉が耳の奥に残る。
(——ありがとう)
その言葉が、何よりも僕を震え上がらせた。




