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穢祓師 ―穢れを祓い、絆を紡ぐ学園異能譚― Xblades  作者: 早谷 蒼葉
第七章 堕落の街

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第52話 つないだ手

52.つないだ手


 神代(かみしろ)さんのお見舞いに行った翌朝。


 特事(とくじ)本部の駐車場には、すでに数台の車両が停まっていた。


 空はすでに明るい。朝の新鮮な空気が、僕の頬を撫でていく。


「大祐くん、おはよう」


 はるかさんが、書類を抱えて近づいてきた。


「今日は同行よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」


 雪村くんは、車両の脇でスマホを見ている。いつもと同じ、変わらない佇まい。


 その時、目の前に停車した車から、神代さんが降りてきた。


 救出した時の白衣ではなく、今日は私服だ。グレーのシャツに、紺のジャケット。顔色は、まだ少しだけ青い。


 でも目には、昨日とは違う何かが宿っていた。


「みなさん、おはようございます」


 挨拶をしながら、神代さんは軽く頭を下げる。


「……本当に大丈夫ですか?」


 はるかさんが、心配そうに尋ねた。


「大丈夫です」


 神代さんは、わずかに微笑んで短く答えた。


「私にしか、読み解けない部分もあると思いますから」


 その声には迷いを感じなかった。


「行くぞ」


 雪村くんが、車のドアを開けた。神代さんは、もう一度頭を下げて、車に乗り込んだ。


 僕もその後に続いた。




 車内には静かな空気が流れている。


 誰も話さない。


 神代さんは、黙って窓の外を見ている。


 その横顔は、覚悟を決めた人間の顔に見えた。


 僕は、何も言えない。ただ、隣に座っている。


 それしかできなかった。




 目的地は、僕たちが踏み込んだ、あの研究施設——工場の地下。


 車を降りてからも、僕たちは無言だった。


 何も言わずに歩く。


 工場の入り口が見えてきた。


 そこで、神代さんの足が——止まった。


「神代さん……」


 僕は思わず名前を呼んだ。


 神代さんの呼吸が、浅くなっている。視線が揺れていた。


「……足が、動かなくて……」


 小さな声。でもそれを咎めることはできない。


「無理はするな」


 意外にも雪村くんが最初に声をかけた。淡々としているが、温かい言葉。


「いや……大丈夫」


 神代さんは、首を横に振る。


「これは、私が向き合うものだよ」


 そう言いながら、自分の足を踏み出した。


 雪村くんは何も言わず、その背中を見ていた。


 僕たちは工場内に入り、エレベーターから地下に降りる。その後の調査でも、地下に降りる方法は見つからなかったらしい。


 エレベーターの扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気が流れてきた。


 あの夜と同じ、湿った匂い。


 僕は無意識のうちに、息を止めていた。


 白い壁、清潔な床、医療設備。


 そして、大量に並んでいた、A.V(アーヴィー)の空ケース。


 あの夜まで、ここで起きていたこと。ここに閉じ込められていた人たち。


 神代さんは、ゆっくりと施設を見回していた。


「……まだ、嫌な空気……残ってるな」


 その呟きが、僕の胸に刺さった。


 やがて、それぞれが黙々と作業を開始する。鑑識のように指紋を採取している人もいた。


「神代さん。このベッドでは……何を?」


 はるかさんが少し遠慮気味に、拘束ベッドについて質問した。


「これは……」


 神代さんが、言葉に詰まる。


「……筋弛緩剤等を使い、A.Vを投与していました」

「どういうことですか?」

「眠らせず、意識がある状態で、強制的に穢れに堕ちる……」


 僕は息を呑んだ。


「被験者の主観報告を、リアルタイムで取るために」


 ここで集めていたのは、人の心が壊れていく過程そのものだった。


 動けないのに、意識はある。

 自分に起こることが、全て分かる。


 声を出せないまま、自分が削られていく。


「……ひどい」


 声が震えてしまうのを、止められなかった。


 神代さんは、何も弁明しなかった。ベッドに残った痕を、ゆっくりと指でなぞっている。


「……その記録は、どこに蓄積される?」


 雪村くんが、低い声で尋ねた。


「奥の部屋に、精製設備とデータルームがあります」

「なら、次はそこだ」


 そういうと雪村くんは、さっさと次の部屋に向かう。


 しばらくすると、神代さんもベッドから離れた。その背中が、僅かに震えていた。




 廊下の一番奥に、その部屋はあった。


——薬剤精製室。


 一番広い部屋で、機械がいくつも並んでいる。今も冷却装置の音が、低く響いていた。


 神代さんは、機械の前に立つと、しばらく動かなくなった。


 ただ、見つめている。


 やがて、機械の蓋を開け、中を覗き込んだ。


「……ここの工程、私が指示されたものとは違いますね」

「どういうことだ?」


 雪村くんが尋ねた。


 神代さんは、機械の中に手を入れて、フィルターを取り出した。黒い粉状の残留物が付着している。


「この精製度——私の知っている段階より上です」

「……あんたの役割は?」

「私は、原料を抽出して、不純物を除去するところを担当していました」


 神代さんは、フィルターを光に透かす。


「でも、これはもう完成品に近いと思います」

「つまり……」

「誰かが、ここで完成させたということです」


 神代さんは、機械のパネル部分を見た。


「設定値を確認しても?」

「あぁ、見てくれ」


 慣れた手付きで、パネルを操作する。モニターに数値が表示された。


「……温度、103度。攪拌速度、毎分200回転。pH調整、4.2……」


 神代さんは、頷きながら確認している。もちろん、僕には分からない。


「これは、非常に繊細な工程です。0.5度ずれるだけで、全部無駄になる」

「pH4.2か」


 雪村くんが、ぽつりと呟いた。


「酸性側だな、普通の精製とは違う」


 神代さんは、わずかに目を見開いた。


「……ご存知でしたか」

「昔、少しだけな」


 雪村くんは淡々と答えた。


「素人には、いじれないな」

「えぇ。少なくとも、精製の現場でそれなりの経験が必要ですね」


 神代さんは、もう一度、雪村くんを見た。しかし、すぐに機械に目線を移す。


 僕はまだ、まばたきを忘れていた。


「私が精製したものを、取りに来る人はいました。だけど顔も知らない」


 神代さんの肩が震えていた。


「私は、A.Vの更なる改良を、自覚がないまま手伝っていたんです」

「それは否定できねぇ」


 雪村くんが短く言い放った。


「ただ分業されていたら、知りようがないのも事実だ」

「それでも——」


 神代さんは、首を振った。


「気づこうとしなかった。それは私の罪です」


 しょうがない……そんな無責任な励ましを、僕は口にできない。


 その後、僕たちはデータルームへ向かうため廊下を進む。冷たい蛍光灯の光が、神代さんの顔を青白く照らしていた。


 神代さんは笑っていない。


 昨日の病室で見せた笑顔は、ここにはない。

 あるのは、目の前のことを処理している、研究者の顔。


 でもそれが本当の神代さんなのかもしれない。


 データルームはすでに特事が調査済みのため、予想通り収穫はなかった。パソコンの中身は徹底的に上書きされ、初期化されている。

 

「電子データを残さない徹底ぶりですね」


 神代さんは、自分が使っていたという机を調べながら、ため息をついた。

 

 希望があるとすれば、手書きの書類。だがそれも期待はできない。


「ただ……ここだけは、気づかなかったようですね」


 一番下の引き出し。その底からダミーの底板を取り出す。


 そこには——


「……良かった……残ってましたよ!」


 今日一番の声で、一冊のノートを取り出した。


「これは私が書いたものです」


 神代さんがページを捲ると、数字とアルファベットが暗号のように並んでいるのが見えた。所々、英語の単語が出てくるが、それ以外は全く意味が分からない。


「読めるんですか?」


 思わず僕は、口を出してしまった。


「もちろん。これは、私が独自に作ったコードだよ」

「コード?」

「研究の世界で、データを整理する時に使うものなんだけど……」


 いまいちピンとこない。その思いが顔に出たのかもしれない。


「簡単にいうと、自分だけが分かるメモ、かな」

「なるほど、それなら分かります」


 僕の反応を確かめてから、神代さんはノートに視線を戻した。適当なページを開き、指でコードをたどった。


「ここが日付、被験者番号。投与した薬剤、量。最後が観察結果……」

「それは重要な情報だわ、全部読めますか?」


 はるかさんは、前のめりで答えを待つ。このノートだけでも価値がある。


「全部……読みます。最後の一人まで」

「助かります、ありがとうございます」


 その時、雪村くんの声がみんなの動きを止めた。


「何人だ?」

「……えっ?」

「観察結果——死亡、その人数だ」


 全員の声が無くなった。


 重い空気に押しつぶされて息ができない。


 それでも——神代さんは取り戻す。


「死亡者は……一名」


 その一言の重さに、誰もが言葉を失った。


 たった一人。

 でも、その一人がここで命を落とした。


「そうか」


 短い言葉だったせいか、無機質なものに聞こえる。


「辛いことを聞いたな」

「いえ……」


 神代さんは、ノートに手を添えた。


「彼のことは忘れません……番号ではなく名前を」


 絞り出すようなその言葉に、僕は何も返せなかった。


「少し休憩にしよう」




 お昼を過ぎた頃、僕は外に出た。地下にいたのはたかが二時間ほど。それでも外の空気が新鮮に感じた。


 神代さんは、工場横の階段に腰を下ろしていた。疲れが顔に出ている。


「外の空気は、いいですね」

「あぁ、そうだね」


 僕も隣に腰を落ち着けた。


 しばらくは、どちらも口を開かない。


 だけど、不思議と居心地は悪くない。それは、神代さんが持っている空気感のおかげだと思う。


「大祐くん」

「はい?」

「君は……強いね」


 その真意が知りたくて、次の言葉を待つ。


「あの場所に、また入ろうとして、平気でいられる」

「いえ、僕は……」


 僕は、首を振った。


「平気じゃないです。今も足が震えてる」


 神代さんの目が大きくなった。


「震えながら……それでも、入るんだね」

「……はい」


 僕たちは同時に空を見上げた。


「私と一緒だ」


 その一言は、僕の中にすんなり入ってきた。


 震えながら、それでも進む。

 それが、強さなんだと僕は思っている。


「神代さんこそ……強い人ですよ」

「……ありがとう」


 隣から暖かい空気を感じた。


「私はただ——逃げないと決めただけだ」


 僕も同じ——

 それは口にせず、ただ隣に座っている。


 風が、僕たちの頬を撫でていた。




 僕たちは、もう一度地下に潜る。少しの間でも、地上で息継ぎができて、心が鎮まった。


 雪村くんを探すと、パソコンの前に座っている。見たことのない画面を睨んでいた。


「……ここのシステム、消されてるな」


 その声がいつもより低い。


「データが……無意味なもので上書きされている」


 神代さんが、後ろから画面を覗き込んだ。


「……えぇ、そのようですね……」


 しばらく画面を見つめてから同意した。


「取り出せそうなデータはあるか?」

「期待できませんが……」


 神代さんが、雪村くんの代わりに椅子に腰を下ろした。


「私で、できる範囲はやってみます」


 慣れた手つきで操作すると、画面が次々と切り替わった。鮮やかなブラインドタッチで、キーボードを叩いていく。


 何をしているのか分からないが、興味は引かれる。真っ暗な画面に、白い文字が次々と浮かんでいった。


 その時——


 雪村くんが動きを止めた。ほんのわずかな時間だったが。


「どうかしたの?」


 僕が問いかけると、雪村くんは小さく首を振った。


「……いや、何でもない」


 何やら考え込んでいて、気のない返事。だが、すぐに表情を戻した。


「先手を取られたな」

「そうですね……上手く細工されてます……」

「舐められたもんだな……面白い」


 雪村くんは見えない敵に向かって微笑む。その目の冷たさに、僕は身震いした。


「終わらせないといけませんね」


 神代さんは振り向いて、雪村くんを見た。


「あぁ、終わらせる」


 その視線を真っ向から受け止めて、雪村くんは答える。


「私は私のすべきことをします」

「元からそのつもりだ」


 二人は互いに小さく頷き合う。


「全力を尽くします」

「望むところだな」


 何かが溶けていく。


 そんな様子の二人に、僕は少しだけ寂しさを感じた。


 急に現れた感情の正体を、うまく言葉にできなかった——




 夕焼けが空を染める頃に、僕たちは地上の空気を浴びることができた。


 何人かの特事職員がダンボールを抱えて、車に積み込んでいく。撤収作業を眺めていると、この闘いの終焉を感じた。


 もちろん、何も解決はしていない。取り戻せないものがある。だけど、僕たちが得たものもあるだろう。


 喪失感で満たされた身体の奥で、ほのかに感じる温もり。


 僕が得たのは——


「今日はありがとう、大祐くん」

「神代さん……僕は何もしてませんよ」


 流石に疲れが顔に出ているが、力強い目で僕を見る。


「いや、君がいてくれたから——」


 神代さんが手を差し出してくれた。


 細く綺麗な手。


 僕は両手で包み込むように、しっかりと握る。


「——私は今日一日、踏みとどまれた」

「そんな……」

「ここにいてくれて、ありがとう」


 熱いものが口から溢れそうになり、僕は唇を噛み締める。


 神代さんが空を見上げた。昨日と同じように。


 違うのは、つないだ手から伝わる、確かな人の温もりだけだった——


 


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