第51話 同じ空を
51.同じ空を
あの夜から、三日が経った。
闘いは、勝利と呼ぶには曖昧な形で、終わりを迎えた。
黒幕の手がかりはなく、研究施設の証拠もほとんど残されていない。仲介者の男から、新しい情報も出てこない。
でも、僕たちは生きている。
みんな無事だ。
なら、次がある。それだけは、確かなことだった。
僕は、学校の昼休みに屋上へ出ていた。
気持ちのいい風が、僕の前髪を揺らしている。
遠くで誰かが笑っている声がした。
校庭でボールを蹴る音。
みんなの話し声。
いつもの音、いつもの空気。
なのに、なぜか胸の奥に、まだ冷たいものが残っている。
「大祐くん、お弁当食べないの?」
桜さんが、心配そうに声をかけてくれた。
「……ちょっと考え事してて」
「そう、無理しないでね」
桜さんは、それ以上何も聞かなかった。
僕の言いたくないことを、いつも察してくれるような気がする。
それが、今の僕には——ありがたかった。
放課後、特事の本部から呼び出しが入った。
はるかさんに会うため、僕は雪村くんと特事を訪れる。
「保護した研究員たちの、容態が安定したわ」
僕は肩の力が抜けた。
「だけど、協力をお願いできそうなのは、神代さんくらいね」
はるかさんは、書類を捲りながら告げた。
「今日から面会も可能よ。あなたたちが助けたんだから、会いに行ってあげて」
「分かりました」
僕は頷いた。
雪村くんは何も言わない。ただ、一度だけ小さく息を吐いた。
研究員の人たちは、特事管轄の病院で保護されている。ここには限られた人しか入れないらしい。
神代さんの病室は、四階の奥にあった。
扉をノックする。
「どうぞ」
落ち着いた声。
扉を開けると、神代さんがベッドに座っていた。
白いシーツ。窓から差し込む日の光。
顔色はまだ少し青い。でも、あの夜よりずっと落ち着いている。
「来てくれたんだね」
神代さんは、僕を見てふっと微笑んだ。その笑顔に、僕の胸が緩んだ。
「具合、どうですか?」
「だいぶ良いよ。もうすぐ退院できるらしい」
「よかった……」
ボロボロだったあの姿を覚えている。だからこそ、本当に良かったと思える。
手の冷たさも、震える声も。あの部屋の空気も、全てが苦しかった。
その人が今、ちゃんとここにいる。
それだけで、僕は救われる気がした。
「君は……真田大祐くんで、合ってるよね?」
「そうです。僕のこと、覚えててくれたんですね」
「忘れられないよ、あの手の温かさは」
神代さんは、自分の肩に手を置いた。
「あの場所は……全てを、少しずつ失っていく」
声が揺れている。
「でも——君の手に触れた時、まだ生きてるって思えたよ」
僕は、なんと返したらいいか分からなくなった。ただ、身体が熱くなった。
「小之野雪村くん」
神代さんは、ベッドの脇に立っている雪村くんに、視線を向けた。
「君にもお礼を」
「礼はいい」
雪村くんは、淡々と返した。
「俺は仕事をしただけだ」
「それでも——」
神代さんは、少し笑いながら続けた。
「君がいなければ、私はまだあの地下室だよ」
二人は静かに見つめ合う。雪村くんもわずかに微笑んでいた。
その視線に一瞬だけ、何かが宿った気がしたが、すぐに消えた。
「大祐、俺は医者と話してくる」
「あ、雪村くん……」
雪村くんは短くそう言って、病室を出ていった。
「大祐くん、いいんだよ」
神代さんは、優しい声でそう言ってくれた。
「すみません、誰に対してもあんな感じなんです」
「きっと優しい人なんだね、そういう人ほど不器用だから」
その言葉は、強く僕の胸に残った。
「雪村くんは……大祐くんの良い友達なんだね」
「えっ、そ、そうだといいんですけど……」
改めて聞かれると返答に困る。それに顔が熱くなってきた。
「いつの間にか、なってるものさ」
なぜか、神代さんに相談しているような雰囲気になっていた。話しやすい空気が心地いい。
「私にも、一緒に学んだ友がいてね。しばらく会ってないな」
「落ち着いたら会えますよ」
普通の生活に戻れる日も、それほど遠くないはずだ。
「神代さんは、明日からの現地調査に同行してもらえると聞きましたが?」
「うん、そのつもりだよ」
「すごいですね、自らあの場所に戻るのは……」
他の研究員は、現地調査に関しては拒否しているらしい。神代さんが唯一の例外だった。
「今回の件で、私は友も裏切ってしまったから……償いはしないとね」
「それはどういう……」
「……私たちは医者なんだ」
それが神代さんが攫われた理由の一つなのは間違いない。
簡単に、しょうがなかったでは片付けられない事情がある。
「正直、逃げたいよ。全部忘れてしまいたいくらいだ」
神代さんは自嘲するように笑った。
「でも、逃げたらきっと——救えなかった命まで、無かったことにしてしまう」
一度、言葉が途切れた。
「私はこれから先、命を救う度に……救えなかった命を思い出すことになる」
その言葉が、僕の身体を貫いた。
拳に力が入る。
僕が口を開こうとした、その時——
病室の扉が、軽くノックされた。桜さんと百合さんが顔を出す。
「あ、大ちゃん!」
百合さんが元気な声を出す。
「私たちもお見舞いに来たの」
桜さんが、申し訳なさそうに微笑む。
「賑やかだね」
「……すみません、病室で……」
「ふふ、二人とも、素敵な子じゃないか」
神代さんは、二人を見て柔らかい表情をしていた。
「君が百合さん、かな?」
「そう! よろしくね、神代さん!」
「よろしく」
桜さんが丁寧に頭を下げる。
「あの……ご迷惑じゃなかったですか?」
「いや、嬉しいよ。こうして、誰かが訪ねてくれることが」
神代さんは、窓の外を見た。
「こんなに和やかなのは……随分と久しぶりだから」
その横顔に、一瞬だけ影が差した。しかし、すぐにまた笑顔に戻る。
「大祐くん、いい友達に恵まれたね」
「はい、けど……友達というより、仲間ですかね」
僕の言葉に、百合さんが反応した。
「ちょっと、大ちゃん! 恥ずいこと言わないで」
「ご、ごめん」
「大祐くん、謝る必要はないわ」
「桜だって、顔赤いよ」
神代さんが、声を出して笑った。
「本当に、賑やかだね」
その笑顔は、どこにも影がなかった。ただ、嬉しそうに——僕たちを見ている。
桜さんも百合さんも、何も詮索しない。その気持ちを神代さんは受け取り、明るい声を出している。
穏やかな時間が過ぎていた。
もう一度、神代さんは窓の外を見た。
夕焼けが、空を赤く染めていた。
「……少し外の空気が吸いたいな。付き合ってくれるかい?」
「いいですね、気分転換しましょう」
神代さんが身体を起こすのを手伝う。
「じゃあ、私たちは雪村さんと合流してるね」
「うん、また後で」
「神代さん、またねー」
手を振り、神代さんはまた微笑んだ。
僕たちは階段で屋上まで向かう。そして、扉を開けて外に出た。少し風が出ているが、心地いい。
なんとなく二人で並んで、屋上から見える景色を眺めた。
「君は、どうしてあの場所に来たんだい?」
唐突な質問に、僕は少し戸惑った。
「……どうして、ですか……」
「危ない場所だ。普通行かないよね」
「はい……でも」
僕は、少し考えてから答えた。
「誰かを、助けたかったから」
僕をじっと見る、神代さんの視線を感じる。
「そうなんだね」
それから、ふっと笑った。
「いい目をしている」
「え?」
「自分のためではなく、誰かのために動ける人なんだね」
顔が熱くなった。
「そんな、大層なことじゃ……」
「いや、それは尊いことだ」
神代さんは、優しく口を開く。
「私はね、自分のことで精一杯だった」
その言葉には、諦めと後悔が同時にあった。
「だから、君のような人を見ると、眩しくて、少しだけ怖くなる」
「……神代さん」
僕たちは似ているようで、似ていないのかもしれない。
「ごめんね、変なことを言って」
「いえ……」
「君は——いい子だね、本当に」
ふと、空を見上げた。
空は、夕焼けから夜に変わろうとしている。
神代さんも、同じように空を見上げていた。
けれど、どこか遠く——僕たちとは違う場所を見ているようにも思えた。
「僕は君に救われた。ありがとう」
不意の言葉に、僕は安心して目頭が熱くなった。
この人は、これからゆっくり、傷を癒していく。日常を取り戻せる。
僕は救うことができた。
そう思えることが、こんなにも穏やかだなんて。胸の奥の冷たいものが、少しずつ溶けていく気がした。
僕たちは今同じ空を見上げている。
それだけで、十分奇跡だった——




