第50話 見えない糸
50.見えない糸
煉さんからの連絡を受け、東地区の繁華街にやってきた。
雑居ビルの一室——黒木組の事務所。
みんなが出迎えてくれたので良かったが、入るまでは相当緊張した。
ネオンの光が窓の外で揺れている。外から誰かの笑い声が聞こえる。普通の夜なのに、僕はなぜかドキドキした。
「全員、よくやってくれた」
雪村くんが、軽く手を挙げた。
「ダーリン、お疲れ様! うち、めっちゃ頑張ったよ!」
雪村くんは笑顔で、百合さんの頭を撫でた。
百合さんは元気そうに見える。だけど、身体はソファに深く沈み込んでいた。
「百合、無理しないで」
桜さんが、隣で水のペットボトルを差し出す。
「桜、ありがと」
受け取る百合さんの手が、少しだけ震えていた。
空飛くんは、まだ興奮が冷めていないようで、いつもより元気だ。
「主様! 僕ちゃんと役目を果たしましたよ」
「お前に任せて良かったよ」
「ありがとうございます!」
跳ねるように喜んでいる。風魔さんは、その後ろで静かに頭を下げた。
恭介くんと狛人くんは、隅で何か話している。狛人くんは僕に気がつくと、声をかけてくれた。
「あれ、使ったの? 上手くいった?」
「うん、ありがとう。狛人くんのおかげだよ」
「僕は何もしてないよ」
少し顔に疲れが滲んでいるが、狛人くんは笑顔を見せてくれた。
みんな無事に帰ってきた。僕は、その事実だけで胸が温かくなる。
だけど——
部屋の奥で、椅子に縛られた男がいる。その日常では見られない光景に、僕の気持ちが乱される。
その男の横には、煉さんが立っている。
煉さんだけは、まるで何事もなかったかのように涼しい顔をしていた——
「こいつか」
雪村くんが男の前に立つ。
「あぁ、仲介者だ」
煉さんが肩をすくめた。
「恭介たちのところから、ここに逃げ込んできた」
男は必死に首を振っている。
「俺は……俺は、頼まれただけなんだ! 命令通りに動いてただけで……」
その声には、本物の恐怖があった。
雪村くんは何も言わない。どんな顔をしているのか分からないが、ただ見下ろしている。
それだけで、男の身体が小さくなっていく。
「恭介」
「はい。では——」
雪村くんに名前を呼ばれ、恭介くんが静かに前に出た。
眼鏡を押し上げて男の前に立つ。手には男のスマホを持っている。
「いくつか、お伺いします」
穏やかな声だが、逃げ場がない。
「送信履歴、振込先、連絡手段。まずはこの三点をお願いします」
「……」
「拒否するのでしたら、私の能力で読み取りますが?」
声から感じる温度が、さらに一段と下がった。僕の身体が、底から震えた。
「い、言うっ! 言うから……!」
あっけなく男の心は折れた。
「連絡用としてそのスマホを渡された。メールや電話は全部その中だよ」
「ロックを解除してもらえますか」
「……顔に近づけてくれ」
恭介くんはスマホを男の顔に近づけた。ロックは無事解除されたようで、素早く操作している。そして、そのままはるかさんにスマホを預けた。
「ありがとうございます」
その言葉が一番怖かった。
その後、男は知っている範囲のことを話した。
受け取り場所。
合言葉。
受け渡しの時間。
報酬について。
特事の職員がパソコンで入力しているが、その手が止まらない。
だけど——
「こいつ、ただのパシリじゃん」
百合さんが、ポツリと呟いた。
「ただの駒か……」
煉さんも同意した。
「恭介、どうだ?」
「えぇ、嘘はないですね」
恭介くんがキッパリと断言した。
「そ、そうなんだ……俺は、ホントに……」
その姿を、雪村くんは黙って見ていた。そして、短く呟いた。
「やはり裏にいるな」
その一言は、みんなの口を閉じさせた。静寂と緊張が場を満たしている。
その時、事務所に特事の職員が入ってきた。職員は、はるかさんに何かを耳打ちしタブレットを渡す。
「押収品の確認、終わったわよ」
手元のタブレットを操作しながら、はるかさんは続ける。
「総量、約三万錠」
事務所内がざわついた。
「それだけあれば、数千人分はありますね」
恭介くんが、淡々と告げた。
数千人——
その数字の重さに、僕は喉が詰まる。
もし、これが街に流れていたら。
もし、誰かの手に渡っていたら。
考えるだけで、背筋が冷たくなる。
「今回の荷物は大阪方面から流れてきている。どうやら二箇所で研究と製造が行われているようね」
東京の研究所だけじゃない——
「それが分かったのは大きいわ。A.Vも大量に回収できた」
はるかさんは、僕たちを順番に見た。
「今夜の作戦は、完全勝利と言っていい」
その言葉に、空飛くんが顔を輝かせた。
「主様! 勝ちましたね!」
場を和ませる無邪気な声。
しかし——
「まだだ」
雪村くんは振り返らなかった。
「……え?」
空飛くんが、きょとんとする。
雪村くんは男の方を見ている。その背中から警戒する気配が消えない。
その時——
はるかさんの手の中で、男のスマホが振動した。
「メール?……ん、急に熱く……」
「!」
煉さんが反応した。
異変を察知した瞬間、はるかさんからスマホを奪い投げ捨てた。
次の瞬間。
スマホ内部から白い火花が噴き出した。
煙が立ち上がる。焦げた匂いが広がる。
「な、なに……」
男が情けない顔でぼやいた。
その時、煙が突然意思を持ったように動き出した。
白煙が黒く染まっていき、細く伸びる。
生き物みたいに揺れる。
そして、男の口と鼻から、体内に一瞬にして侵入する。
(まずい!)
誰かが叫ぶより早く——
男の目の色が変わった。
堕ちた——そう感じた時。
僕の身体が反応した。
無意識のうちに両手を合わせる。
何も考えていない。だけど、脊髄で反応した。
「——慈祈掌!」
僕の身体から穢れの掌が男に伸びる。男の身体を包み込み、侵入した穢れを捉えた。
合わせた手のひらに感じる小さな痛み。僕は構わず力を込めた。
何かが弾けたように感じ、穢れは消滅する。それを確認してから、両手を下げた。
室内の音が全て息を潜めている。
達成感などなく、ほのかな怒りが僕の身体を占めていた。
恭介くんが無言でスマホを確かめる。
画面はもう何も映していない。完全に焼け落ちている。
「……今のは?」
狛人くんが、息を呑んだ。
「遠隔起爆」
煉さんが、その疑問に答える。
「内部から焼かれている。データは戻らないだろう」
部屋が静まり返る。
男が壊れたスマホを見つめていた。その顔は青ざめている。
「そん……な……」
声が震えている。
「俺のこと……殺そうと……」
男は、椅子の上で崩れるように頭を垂れた。
「大祐に救われたな」
「う……」
もう男が持っていた情報は、何一つ残っていない。
男は用済みになった。その意味を、男自身が一番分かっているはずだ。
誰も口を開かない。
その中で雪村くんだけが笑っていた。そう見えただけで、目は笑っていない。
「やるな」
低い声。
「向こうも、ちゃんと見ているってことか」
誰に向けたわけでもない呟き。でも、その一言で部屋の空気が完全に変わった。
今夜の勝利は、勝利ではなかった。
僕たちは見られていた。ずっと、向こうの掌の上だった。
はるかさんが、雪村くんに告げる。
「この男は、特事で保護するわ」
「そうだな、頼む」
雪村くんが振り向いた。
「みんな、今夜はもう休め」
その声はいつもの軽さを取り戻していた。でも、誰もすぐには動けない。
僕は動こうとして、足に力が入らないことに気がついた。今すぐ座り込みたい。
慈祈掌の反動が、まだ残っている。いや、それだけじゃない。
胸の奥に冷たいものが残っている。
「大祐」
雪村くんが、僕の肩に手を置いた。
「よくやった、お前が救ったんだ」
「……うん」
でも、僕は笑顔で応えることができなかった。
今夜、僕は何かを救った気がしていた。
だけど、僕たちは見えない糸に、絡め取られてる。
終わってみれば、救えていない誰かが、まだどこかにいる気がした。
暗い部屋。
複数のモニターが、淡い光を放っている。
各地区の映像が、整然と並んでいた。
倒れた半グレたち。
ヤクザの事務所。
崩れた研究施設。
縛られた仲介者。
全部が、誰かの目に映されていた。
モニターの前で、影が動いた。
誰かが座っている。その顔は見えない。
その指が、軽くテーブルを叩いた。
一回、二回。
そして——
笑った。
「これが小之野雪村、か……面白い連中を集めたな」
低く、温度の感じない声。
しばらくの沈黙。
「……予想より、早かったな」
もう一度、指が机を叩く。
「さて——誰から壊れるかな」
モニターの光が、一つずつ消えていった。
最後の一つだけ——
大祐の後ろ姿が、しばらく映っていた。
「この力……興味が持てそうだ」
やがて、それも闇に溶けた。




