第49話 救済の祈り
49.救済の祈り
南地区——ここは工場やビルが点々と立ち並ぶ、商業エリアだ。
かつては活気があったのだろう。今はそれほど人も多くない。
雪村くんと僕は、目的の工場を離れたところから見つめていた。周りには錆びたパイプと、崩れかけた壁だけが残っている。
まるで廃工場のようで、人の出入りもない。
「静かだね」
「……静かすぎる」
雪村くんの声に、いつもと違う響きが混じっている気がした。
「はるか、あの工場に関して調べはついてるよな?」
「もちろん。特に怪しい点はなかったわ」
特事の局長として、はるかさんが太鼓判を押した。
「雪村くん、どうしたの?」
「……嫌な匂いがする」
僕は眼を凝らす。僅かに穢れの気配は感じる。だけど、それだけじゃないのだろう。
「穢れ……じゃないんだよね?」
「もっと濃い。腐ったような何かだ」
雪村くんの目が細くなる。
僕は初めて見たのかもしれない。彼が警戒している顔を。
「二人とも、トラックが到着するわ」
「大祐、行くぞ」
「うん」
僕と雪村くんは、工場の敷地へと足を踏み入れた。
「おかしいな、トラックが到着しているのに反応がないね」
工場は相変わらず静寂に包まれている。
「もう……捨てられたのかもな」
「みんな逃げたってこと?」
「あぁ。とにかく入るぞ」
このままでは何も分からない。僕たちは正面から侵入する。
工場内は薄暗く、埃の匂いが充満していた。しかし、長い期間放置されていたとは思えない。今にも機械が動き出しそうだった。
雪村くんが扉を見つけ、躊躇いもなくそれを開く。そして奥へ進むと、ようやく人の気配を感じた。
「来たか」
機械の間から男たちが現れた。全員で五人。警備員のような制服を着ている。
だけど様子がおかしい。目が虚ろで、口元が歪んでいる。
「これが、穢醒者なの……?」
「いや、違う。自我を無くしてる」
「なら、この人たちは?」
「A.Vのやりすぎ」
完全ではなく、覚醒しきれていない者たち。中途半端な状態だと言えるのかもしれない。理性が壊れかけている。それでも身体能力は強化されているはずだ。
「あぁあああ……!」
一人が叫びながら突っ込んできた。
僕は思わず避けようとした。だけど——
(違う……)
これじゃあ何も変わらない。
避けるんじゃない。
僕は手を伸ばし、男の腕に触れた。
「……っ」
穢れが流れ込んでくる。ドロドロした、歪んだ力。胸が黒く塗りつぶされそうになる。だけど、僕はそれを受け止めた。
(大丈夫、まだ間に合う)
穢れを和らげる。浄化しきれないかもしれない。でも、鎮めることはできる。
男の動きが止まった。そのまま、崩れ落ちる。
「……ぅ」
意識を失っただけで、死んではいない。
「大祐」
雪村くんの声だけが近くから聞こえた。
「残りは俺がやる」
炎が室内で揺らめいた。僕の頭がそれを認識した瞬間、残りの四人が倒れた。
「……ありがとう」
「大祐、今の……」
「うん、まだ完全には祓えない。和らげる程度だね」
雪村くんは僕を見つめた。口を開きかけたが、結局何も言葉にしなかった。
(やっぱり、これじゃダメだ……)
心配をしてくれているのが伝わる。だからこそ、それを口にしないことも。
「行くぞ、奥だ」
「うん」
工場内に、他の人間は見つけられなかった。だけど、怪しいエレベーターは見つけた。
偉い人の部屋から、乗り込めるエレベーター。古びた扉。だけど電源は生きているようだ。
「地下があるんだね」
「……行こう」
雪村くんは、はるかさんに連絡を取り、地上部分を特事に任せた。そして、僕たちはエレベーターに乗り込む。
扉が閉まる。下降する感覚。この先に何があるのか。胃が締め付けられる感じがして、不快な気持ちになる。
しっかりと時間をかけて、箱は地下に降りていく。
やがて——扉が開いた。
「これは……」
僕は言葉を失った。
白い壁、清潔な床。そして医療設備。
工場の地下に、こんな施設があるなんて。
「研究施設だな」
雪村くんは断定する。確かに病院のようだけど、少し雰囲気が違うように思えた。
人影は見えないが、雪村くんは無防備に進んでいく。
施設内を進めば進むほど異様さは増していった。
投薬記録。拘束ベッド。培養槽。無数のモニター。
そして——大量のA.V。
「こんなに、あるの……」
胸が締め付けられる。
ここで何が行われていたのか……考えたくない。でも、目の前にある。
どこか現実味のない足取りで、さらに奥へ進む。
そこには……小さな拘束具があった。
子供サイズの。
「……うっ」
僕は吐き気を覚える。胃から苦いものが上がってきて、顔をしかめた。
その苦さが現実だと教えてくれる。
雪村くんは何も言わない。ただ、その目に冷たい炎が灯っている。
その時——
施設全体が揺れた。
短く、断続的に。
「な、なに?……」
照明が点滅する。嫌な臭いが鼻につく。
(これは……)
「来るぞ」
雪村くんが僕の前に出る。
現れたのは、人の形をした何か。
黒い霧が凝縮したような存在。顔も体も異様で、影そのものが動いているよう。
「実験体か」
雪村くんが呟いた。
穢れの塊。人間だったものが、穢れに飲み込まれて堕ちている。
「大祐、下がれ」
雪村くんの腕に炎が灯る。
だけど、僕は首を振った。
「待って」
「何だ」
「僕がやる」
雪村くんの目が細くなる。
「お前が?」
「うん」
僕は一歩前に出た。
「あの人、まだ残ってる気がする」
「何がだ」
「苦しんでいる部分。できるだけ治してあげたい」
黒い影が蠢いている。もう意識はないだろう。
でも——
「せめて、穢れだけでも祓いたい。僕だって穢祓師だ」
雪村くんは黙っている。僅かな沈黙。
「……分かった。見届けてやるよ」
僕は頷いた。
一度だけ、深く深呼吸する。
「僕ね、考えたんだ……」
穢れを、徐々に解放する。
静かに。
穏やかに。
壊してしまわないように——
「どうやって救うのかを」
身体を覆う穢れを感じる。危うく揺らめくが暖かい。
それは、昔の記憶——母の温もりに似ていた。
「……辿り着けたのか?」
「うん、みんなのおかげで」
両手を胸の前で、そっと合わせた。
僕は祈る。
自分のために。誰かの為に——それは救済の祈り。
そして、その想いに言霊を乗せた。
「——慈祈掌」
慈しみ、祈り、掌で包む。それが僕が辿り着いた場所。
僕から溢れた穢れが変化して、大きな手のひらを形取る。見た目は悪い。だけど、僕の想いそのものだ。
その時、影が動いた。僕に向かって突っ込んでくる。
(……大丈夫だよ)
僕は両手を伸ばした。それに合わせて慈祈掌も同じように動く。
そして、その穢れの手で影を丸ごと包み込んだ。
僕の手にピリピリとした感覚が伝わってくる。だけど、穢れが僕に流れ込んでくるようなことはなかった。
慈祈掌の中で蠢く穢れ。ドロドロとした、底なしの闇が視える。
(もう——苦しまないで)
その瞬間、僕の中から慈祈掌に、黒い光が伝わった。
穢れの手が影を握り締める。影が軋み、悲鳴のような声が響く。
そして——掌のなかで光が弾けた。
黒い影がサラサラと散り、大気に溶けていく。そして、はっきりとした女性の輪郭が姿を見せる。
直接触れなくても分かる。鼓動が伝わってくる。
——生きている。
僕の鼓動も早い。だけど、それが気にならない程に胸の奥が熱い。全身から力が抜けていくのが分かった。
「大祐」
僕は、雪村くんの声に顔を上げた。
「それが……お前の答えか」
笑っていた。いつもの悪役みたいな笑みじゃない。
どこか——嬉しそうな顔。
「……うん」
僕も笑顔を返した。
「これが、僕の祓い方だよ」
女性をひとまず地上まで運び、はるかさんに任せた。僕たちは調査を続行する。
さっきの部屋以外にも、他に人は発見できない。
「何で、あの人だけ残ってたのかな?」
「切り捨てられたのかもな」
「そうだとしたら……ひどいね」
データ主流の今、紙の資料は多くなさそうだ。壊さないよう、なるべく触らないようにした。
順番にドアを開け、中を確認していく。
あるドアを開けた時——奥から声が聞こえた。
「誰か……誰かいますか……」
弱々しい声。
僕たちは顔を見合わせた。
「誰か……」
また聞こえた。僕たちは奥へと急ぐ。
そこには——四人の男たちがいた。
白衣を着ている。だが、全員ボロボロだ。
拘束の跡。
疲弊した顔。
怯えた目——
「助けて……ください……」
「もう……無理だ……」
「うぅ……」
男たちは震えながら呟いていた。
「お願いします……もう、限界なんです……」
僕は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか! もう助けが来ますよ」
男の一人が手を伸ばしてきた。冷たい手。
「ありがとう……ありがとう」
涙を流している。他の人も同様に涙を流す人もいる。
「お前たちは、ここの研究員だな?」
雪村くんは警戒を緩めずに、厳しい声で問いかけた。
「僕は……無理やり……連れてこられて」
「俺もだ……」
真実は判断できない。だが、みんな憔悴しているのは確かだ。
「ドラッグの研究と……実験……」
実験。その言葉に僕の心臓が跳ねた。
「ここの責任者は誰だ?」
「分からない……いつもモニターから指示を受けていて……」
「もう、嫌だ……」
「帰して……」
全員が俯き、口が重い。今の状態ではしょうがないかもしれないが。
「そうだとしても、お前たちにも責任がある」
雪村くんは現実を突きつける。誰も顔を上げない。
だが——
「そう、ですね……償わなくてはならない」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「お前は?」
「……神代、と言います」
その目には涙が浮かんでいた。
頬はこけ、目の下にはクマが浮かんでいる。それでも正気を保っている。
僕は神代さんの肩に手を置いた。
「少し休みましょう」
「……ありがとうございます」
雪村くんがため息をついて、スマホを取り出した。
しばらくして、はるかさんや特事の職員が到着した。
神代さんを含め、他の研究者たちが搬送されていく。当然のことだが、身元確認と調査をされるらしい。
「大祐。あの男に触れた時、力を使ったな?」
「うん、一番酷かったから……」
「お前は優しいな」
相変わらず雪村くんは鋭い。ほんの一瞬だったのに。
「大祐、休んでろ」
「うん……」
僕は近くの壁に寄りかかった。身体は少し重たい。
雪村くんは一人で室内を見回っている。何かを探しているような目だ。
「雪村くん、何か見つかった?」
「いや」
少し考え込んだ後、諦めたように首を振る。
「綺麗すぎる」
「え?」
「何もなさすぎる。研究者は切り捨てたようだが……」
僕には意味が分からない。だけど、雪村くんの目は鋭いままだった。
その時——
みんなのスマホが同時に震えた。煉さんからの一斉送信。
『仲介者を捕縛した。黒木組に集合』
「予定通りだな」
その声に少しだけ柔さが混じった。
「大祐、行くぞ」
「……黒木組って、もしかして……」
「ヤクザだ」
「……だよね」
身体はまだ重たい。気分も重たくなったが、覚悟するしかない。
僕たちは研究室を後にすることにした。
研究室を出る直前、僕は一度だけ振り返る。
落ちたモニター。
静まり返ったベッド。
白すぎる壁。
ここには何もない。
何もないはずなのに——
誰かの視線だけが、まだここに残っている気がした。




