第46話 果てない空
46.果てない空
特事本部より北方向——廃ビルが並ぶ地区。
人気のない区画に、夜だけが沈んでいる。街の光は途切れ、まるで忘れられたよう。路面には砕けたコンクリートのかけらが無造作に転がっている。足元を気にしながら進む一行の先頭に、恭介は立っていた。
「……ここですね」
目的の場所で、恭介は足を止める。
それと同時に後続へ、手を挙げて合図を送った。
廃ビル群、その中の一棟を拠点としている若者を中心にした反グレグループ。
BlackLine——その名は煉から、もたらされていた。
「うん、この中にいるね」
狛人も気配を感じ取っている。
「それに……一人、濃いのがいる」
「穢醒者ですか?」
「おそらく」
静かに、短く打ち合わせる。それだけで十分だった。
「では」
恭介が一歩前に出る。
「始めましょう」
すぐ後ろにいる狛人へ、目で合図を送る。
狛人は頷くと、息を吐き出す。そして、目を閉じて手を合わせた。
「——穢場封界」
狛人の声が、やわらかく落ちた。
その瞬間——空気が澄む。淀みが消え、視界がクリアになる。
重くない、むしろ軽い穢場。
「これは……」
わずかな期間で、ここまでの穢場を生成できるとは。恭介は内心で感嘆した。
「動きやすいですね」
「うん、余計な穢れ抜いてるから」
「つまり、場の支配ではなく調整ですか」
戦うための最適環境。
(彼もまた天才……ということですね)
まずは、恭介が先に廃ビルに侵入する。一階部分には何もなく、二階から気配を感じる。
恭介は聴覚を研ぎ澄ます。
「なんだ……?」
「なんか、空気が変わったような……」
男たちは、少しざわついている。だが、下に降りてくる様子はない。
やがて……特事が用意した、フェイクのトラックが到着した。さすがに、トラックには素早く反応して、何人か若い男が降りてくる。
トラックの荷台に乗り込んでいた特事の職員が、男たちを音も立てずに素早く確保した。
その様子を横目に、恭介は単独で二階部分へと上がる。元はオフィスとして使っていたのか、二階も一階同様に広く、天井も高い。
階段を上り切ると、まだまだ人数は残っていた。一番近くにいる男が恭介を見るなり、凄んでくる。
「……何だ、このガキ」
恭介は応えずに、部屋全体を見渡す。
その中で——笑っている男が一人だけいた。
「ひひっ、来たか……」
手にはナイフを持っている。
「お前——穢祓師だろ? ひゃはは!」
そして、この男だけ穢れが濃い。
「あなたがここの責任者ですか?」
「あ? 責任者?」
その場違いな単語に、その場にいた全員が笑い出した。恭介は周りが落ち着くまで、表情を変えずに待っている。
「俺がこのチームのリーダー、鬼島だ! 覚えとけよ!」
「ちゃんと覚えておきますよ」
「あ?」
恭介は眼鏡を外し、胸ポケットにしまった。
「あなたを捕まえた後、名前が分からないと不便ですから」
「……クソガキが! 見せてやる」
鬼島は手にしていたナイフを構える。
そしていきなり、恭介めがけて投げつけた。凄まじい速さで迫るナイフ。
しかし、恭介には通じない。
「無駄です」
体を少し傾けるだけで避けた。
だが——
本命は、すぐに反対の手で投げた、もう一本のナイフ。
恭介が避けた方に、最小限の動きで投げつけた。
「ほう」
吐息を漏らすように呟きながら、右手の指だけでナイフを止めた。
「なっ!……」
鬼島の表情が固まる。
「感心しました……少しは考えているんですね」
恭介は掴んだナイフを、地面に無造作に捨てた。
「しかし、あなたたちが愚かなのは変わりません」
「こ、このクソガキがっ! ぶち殺すっ!」
鬼島は胸ポケットからA.Vを取り出し、飲み込んだ。大量の穢れが溢れ出す。
「へへ……見ろよ、これ」
ナイフを持ちながら笑っている、泣きながら。
「止まんねぇんだよ……これはよぉ……!」
そして、その刃が——ゆっくりと伸びていく。恭介は顔をしかめた。
「愚かなだけでなく……醜いですね」
「へへへ、何とでも言えよ」
鬼島は締まりのないとろけるような表情をしている。逆に恭介の眉間にはシワが刻まれた。
「俺は……神にもなれる気がしてきたぜ……」
そのセリフを聞いた瞬間、恭介の表情が無くなった。
「暗愚浅薄……だな」
「ああん? 何て言ったんだぁん?」
「……説明する価値もありません」
恭介の体から穢れが流れ出る。それは狛人の穢場同様、美しささえ感じる穢力の奔流。
「あなたには、後悔することも許しません」
それだけ口にすると、右手を突き出した。
「終わりの慈悲を……ミセリコルデ」
光が、恭介の右手に宿る。
——空気が静止した。
「あーん、何だ? その小さいナイフは? 俺の方がでかいぞ! うひゃひゃ」
「トップがこれだと、苦労しますね」
「俺はこの力で、上りつめたんだよぉ!」
鬼島のナイフは、日本刀よりもはるかに大きくなった。その様子をうっとりとした表情で見つめている。逆に恭介は冷めた目で観察していた。
「これが……穢醒者の能力ですか」
穢れが膨れているだけのようだ。中身はスカスカだ。
「……くだらないですね」
恭介は言葉を吐き捨てた。そして、その呟きが聞こえないほど、鬼島は自己陶酔している。
「それでは……神の残滓に、触れていただきましょう」
ミセリコルデに穢れが集中し圧縮される。恭介の周囲で空気が震え、穢れが光となり包み込まれる。
「羽ばたきなさい——」
厳かな光の中、恭介は畏敬の念を持って祈り、呼びかける。
その名は——
「ガルーダ」
風が舞う。
強烈な風圧が恭介の周囲を旋回する。
影が、空間を切り裂く——
空気が沈む。
呼吸が止まる。
そこに在るだけで、世界の位相が変わる。
黄金の翼が、ゆっくりと——空間を押し広げる。
艶やかな衣装と白い肌、その姿は美しい。
だが同時に、触れてはならない神々しさがある。
そして、黄金の瞳。
空を統べる存在、神鳥——ガルーダ。
この部屋にいる全員が、呆然と見惚れて動けない。だが、最初に鬼島が我にかえる。
「お、おい! 全員でやれ!」
男たちは一瞬躊躇したが、それぞれの武器を持ち恭介に迫った。
「……遅いですね」
恭介は一歩も動かない。
ただ——ミセリコルデを軽く振った。
ガルーダの翼が一度、羽ばたく。
それだけで——男たちの体が吹き飛ぶ。
「うわっ!?」
「何だこれぇ! ぐはっ」
抵抗など意味をなさない。
そして、ガルーダが動いた。
閃光——
視界から消えたかと思えば、次の瞬間には全員倒れていた。
「な、何をしやがった……」
「あなたが、私の心を僅かに揺さぶっただけですよ」
どこまでも穏やかに恭介は佇んでいる。
「ははっ……いいねぇ……!」
鬼島は笑った。
そして、ナイフを握りしめる。その刀身は、もはや人の二倍ほどにもなっている。
「これ、どこまで伸びると思うぅ?」
そう言いながら、さらに笑う。泣きながら。
「興味ありません」
恭介の声が低くなる。
「そうかよ……なら、あの世で確かめろやっ!」
鬼島は一歩踏み込み、床が弾けた。
一直線の突進。消えたというほどではないが速い。
「ぶった斬る!!」
そのまま巨大な刃が振り下ろされる。
だが——空を切る。
恭介は、すでに後方に移動していた。
「……は?」
鬼島はすぐに振り向く。その顔にはまだ笑みが残っている。
そして、真横からの衝撃で吹き飛び、壁に激突する。
「ぐっ……!」
それでも立ち上がる。まだ笑っている。
「いい……いいぞ……!」
刃がさらに伸びる。
「もっとだ……もっと強く……!」
そして、再び振り下ろされる。
しかし、その動きは、恭介にとってはひどく単調だった。
「終わりです」
ガルーダが羽ばたく。
一閃。
風だけが走る。
音すら追いつけない。
そして、鬼島のナイフが砕け、肉体が悲鳴をあげる。
「……え?」
目を見開いたまま、膝から崩れ落ちた。
「神を名乗るなど——不遜です」
恭介は淡々と告げた。
「失礼、もう聞こえていませんね」
鬼島は笑ったまま倒れた。頬には涙の後が残っていた……
そして静寂——完全制圧。
程なくして、狛人と特事の職員が部屋に入ってきた。
「檜山くん、お疲れ様」
「ありがとうございます。如月くんも大変でしたね」
「そんなことないけど……ありがとう」
恭介の頬が緩んだ。
「ところで檜山くん、例の人物はちゃんと逃したよ」
「さすがです」
「ちゃんと尾行もついてるから」
この場で戦闘に加わらなかった男——仲介者だ。
「さて、どこに逃げ込みますかね」
「さぁね。でも——」
狛人が珍しく微笑んだ。
「ここからが本番だね」
二人は静かにその場を後にした。やがて訪れる、この夜の終焉に向けて。
「何事もなく、決着すれば良いのですが……」
恭介の呟きは、果てない空に溶けて消えた。




