第42話 動き出す世界
42.動き出す世界
「例のドラッグ……A.Vが、大量に入ってくるぜ、雪村」
どこかのビルの屋上。柵にもたれかかる煉の瞳には、東京の夜景が映し出されている。
(美しき世界、か……)
煉は雪村の表情を伺うが、何も読み取れない。
「この土地の……底を割る気か」
雪村の声は抑揚もなく低い。煌びやかなネオンも、今は空虚なものに感じる。
「……叩くだろ? お前なら」
「当たり前だ。今回はお前も表に出ろ、煉」
「りょーかい」
煉は軽い返事で返すが、雪村は何も言わない。ただまっすぐ夜景を見つめている。眼下に輝くそれは、巨大な穢れのよう。
「ここを叩けば、探し物の尻尾が掴めるかもな」
煉の言葉に、雪村の目が揺れる。
「……可能性はある。このドラッグは異常だ」
「雪村、焦るなよ」
「あぁ、分かってる」
二人の間に重たい沈黙が流れる中、煉は突然明るい声を出した。
「いい報告もある。おそらくだが、刃は見つけたぜ」
「本当か? どこだ」
雪村の反応は素早かった。
「西だ。まだまだひよっこだがな」
「煉に比べたら、誰でもひよっこだろ?」
「確かに!」
大きな口を開けて笑う煉を見て、雪村はようやく口元を緩めた。
「雪村。お前は、そうやって笑ってろよ」
「あぁ……そうだな」
「お前の歩く道を邪魔するやつは、俺が——」
口元に薄い笑みを浮かべ、煉はまっすぐに雪村を見つめた。
「消してやる」
お昼の中学校、いつも通りの騒がしい時間。廊下を歩いていると、ふと耳に入った言葉に足を止めた。
「大祐くん、どうしたの?」
僕に合わせて、狛人くんも同じように足を止める。
「最近、少し変わった薬が流行ってるらしいよ」
「俺も聞いた。それ、飲んだらどうなるの?」
「なんか……気持ちが楽になるんだって」
二人の男子生徒が小声で話している。その目はどこか興奮と不安が混ざっていたように見えた。楽になるという言葉が、妙に強く残った。
(……A.V?)
どうしても、それを連想してしまう。二人に声をかけてみたかったが、すぐに歩き去ってしまった。
「大祐くん、今のは……」
「うん……」
胸の奥がざわつく——
そんな、気持ちの悪い余韻を残しながら、僕たちは教室へ向かった。
教室では、今日も百合さんが元気を振りまいていた。その変わらない姿に、息を吐き出した。
「あー大ちゃん。どこ行ってたの? トイレ?」
「百合……そんな大きな声で……」
桜さんと、百合さんの変わらぬやりとり。思わず口元が緩んだ。
「どうかしましたか? 大祐くん」
僕の微妙な変化を感じ取ったのか、恭介くんが話しかけてきた。
「いや、別に何も……それより雪村くんは?」
今日はまだ雪村くんの姿を見ていない。最近の彼にしては、こんなに大幅に遅れることは珍しい。何だか気持ちが落ち着かない。
「雪村は今日、特事で特別ミーティングをしています」
「なにそれ?」と、百合さんは反応した。
「特別な議題があるときだけ、開催されるミーティングです」
僕は胸騒ぎがした。何か良くないことが、動き出すような気がする。
「そのミーティングには、誰が参加しているの?」
恭介くんは、深い溜息をつきながら、答えてくれた。
「全国穢祓師連盟——通称、全穢連の理事たちです」
「な、何が起こってるの?」
「そのうち分かりますよ」
僕の疑問には答えず、恭介くんは言った。その穏やかな口調が、逆に怖い。
「まっ、何かあればダーリンが言ってくるでしょ!」
百合さんの明るい声が響く。なぜだろう——肩の力が、すっと抜けた。
「大祐くん、今日はみんなで帰らない?」
「……うん、いいよ」
「どこかでお茶していこうよ」
思いがけず桜さんに誘われ、胸が高鳴った。だが、さっきの廊下で聞いた会話が、まだ頭に残っている。
(気持ちが楽になる薬、か……)
元々気分を晴らすために、ドラッグに手を出すはず。なら、これだけでは特定できない。
「ねぇ、大祐くん……本当に大丈夫?」
急に近い位置から桜さんの声がして、体ごと跳ねた。
「え?」
「何かあったでしょ?」
桜さんには隠せない。
「うん……ちょっとだけ」
「大丈夫よ」
いつもの柔らかい笑顔を見せてくれる。
「あなたに何かあれば、みんなが——そして雪村さんが黙っていないわ」
その言葉で、体の熱が引いていくのを感じる。
確かに……なにか危ないことがあっても、雪村くんは見逃さない。
「さっ! 早くクレープ食べに行くよ」
「クレープ確定なんだ……」
「如月くんは、甘いものが苦手ですか?」
何だか、僕だけが心配しているみたいで、また顔に熱が戻ってきた。それをみんなに気づかれる前に、教室から出ることにした。
誰かと過ごす放課後は、まだ少し胸がざわつく。けど、僕が大切にしたい時間だ。ごく普通の日常も、いまだに新鮮さを感じる。
だが——
今日は見える世界が、少しだけずれている。
「ねえ、桜……あそこにいる奴見て」
ふいに、百合さんが路地裏を指差した。彼女の声が、いつもより低くなっていた。
視線を送ると、そこには壁にもたれかかる若者がいた。目は虚ろで、口元だけで笑っている。
「……気持ちいい」
その呟きが、風に乗って聞こえた。
百合さんの表情が、一瞬で変わった——
「桜、これは——」
「えぇ……おそらくA.Vね」
桜さんの声は静かだったが、その目は鋭い。
「……うちは、忘れてないよ」
百合さんは拳を握りしめた。肩が震えている。
「あの時の自分……それに、ひなののことも」
桜さんは何も言わず、ただ百合さんの肩に手を置いた。それだけで百合さんの肩から、力が抜けた。
「それにしても……最近よく、そのドラッグの名前を聞くね」
狛人くんが、いつもと変わらぬ様子で呟く。
「それだけ、この街に浸透してきた、ということですね」
「恭介くん、今日のミーティングはその件でしょ?」
「桜さんの想像通りです」
僕たちの間の空気が張り詰めた。ミシミシと音が鳴りそうなほどに。
百合さんのフォローは桜さんに任せて、僕たちはそれぞれ帰途についた。呑気にお茶する気分にもなれず、いつもよりも早い帰宅になった。
僕は何をするわけでもなく、自分の部屋とリビングを行ったり来たりして、時間を過ごしてしまった。
そしてその夜——僕のスマホが震えた。
特事からだった。
『緊急招集。Xbladesおよび、この通知を受け取った穢祓師は明日の夕方本部へ』
画面を見た瞬間、鼓動が激しくなった。
何かが、周りで蠢いている。この動き出す世界で、僕にもそれだけは分かった。




