第3話 色のない世界
第3話 色のない世界
三人の背中が、夕日の中に遠ざかっていく——
また明日、な。
雪村くんの声が、まだ耳に残っている。穏やかなのに、有無を言わせない声だった。
帰るべきだ、また教室で会える。
それで良かったはずだ。
——なのに、一歩も足が動かない。
胸の奥で、何かが疼いている。恐怖でも好奇心でもない。もっと深い場所から、名前のない衝動が突き上げてくる。
(僕は……)
行けばもう、戻れないかもしれない。そんな根拠のない確信がある。
三人の姿は、雑居ビルの角を曲がって消えた。
世界に音がなくなった。
——足が、勝手に地面を蹴っていた。
考えるより先に身体が反応した。鞄が肩で跳ねる。夕日が建物の隙間から差し込んで、影が長く伸びる。
角を曲がると、三人の姿はもう見えない。代わりに、あの感覚が急激に強くなった。
肌がざらつき、視界の端が歪む感覚。空気がさっきまでとは比べものにならないほど重い。路地裏の時よりも、もっと濃くて近い。
胃が裏返りそうになる。
膝が笑う。
それでも足は止まらなかった。
雑居ビルの裏手に周る。夕日は建物に遮られ、薄暗い影が地面を覆っている。
その奥に……人がいた。
そしてその手前に、誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
僕より年上に見える、制服の女の子が、地面にうずくまっている。両手で頭を抱え、声にならない声を上げていた。その身体の周りに、何かが纏わりついている。
黒い煙のような……いや、煙とは違う。もっと重くて、もっと粘り気のあるもの。彼女の背中に、肩に、首筋に、まるで生き物のようにへばりついている。
(あ、あれは! 助けないと——)
見えている。目ではっきりと——
さっきまでは感じるだけだったものが、今は見えている。
足が止まった。
呼吸すら忘れた。
僕は咄嗟に、一歩踏み出した。
「……大丈夫だ。もう少しで終わる」
雪村くんの声が聞こえた。
彼女の前にしゃがみ込んでいる。その声は穏やかで優しい。
そして、雪村くんが右手をあげた。
雪村くんの指先に、小さな火が灯る。
青白く。
紅く。
——そして静かに燃えている。
息を吹いたら消えてしまいそうな灯火だけど、空気を焦がす匂いが鼻をかすめる。
(火が……指先から……?)
それは、引き込まれそうになる癒しの光。
雪村くんが指先を軽く振る。すると、炎が意思を持っているかのように飛んでいき、彼女を包んでいる煙に触れた。それと同時に、一気に煙全体に燃え移る。一瞬で花火のように派手に燃え上がり、そして余韻を残して消えていった。
彼女から黒いものが、跡形もなく消滅している。彼女の身体から力が抜け、穏やかな呼吸に変わる。あれほど重かった空気も、瞬時に軽くなった。
霧ヶ峰さんは少し離れた場所に立っていた。目を閉じ、両手を合わせるように胸の前に添えている。彼女の周りだけ、空間ごと揺らいでいるよう。
そして、檜山くんはさらに後方で、周囲を見渡している。通行人が入ってこないよう、警戒しているように見えた。その表情は冷静だけど、目だけは鋭く動いている。
三人とも、それぞれの役割をこなしている。
——僕がいなくても、この世界は回っている。
その時、突然僕の視界が切り替わった。
世界が裏返る——
色が変わる。
空気が歪んでいるのが、見える。
地面から立ち上る靄のようなものが、薄い紫と黒の間で街を染めている。人の輪郭の周りに、微かな影が纏わりついている。誰の周りにも、それはこびり付いている。
(何が……見えているんだ?)
世界中に、それはあった。薄く、淡く、けれども確かに。日常のすぐ裏側に、息を潜めるように。
「——これが」
あの路地裏の違和感、人混みの中の気持ち悪さ。全部これだったのだ。
膝が折れ、地面に手をついた。また吐き気が込み上げる。視界が回る。身体中の感覚が暴走していた。
「ご、ごめんなさい……」
顔を歪ませて、女の子は呟く。
怖い。
逃げたい。
目を閉じて、何も見なかったことにしたい。
——でも。
視線の先には、雪村くんの背中がある。
炎は消え、彼女は安らかな表情で横たわっている。雪村くんは彼女を軽々と抱き抱え、ゆっくり立ち上がった。その横顔に、変わらない微笑が浮かんでいた。
こんなことを、いつも三人で背負っていたのか……
胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。
色のない世界。でも……今は見えている。
なかったことにはできない。
胸が痛み、身体中が震えている。それでも——
僕は、目を閉じなかった。
見えてしまった以上、僕はもう、昨日までの自分に戻る気はなかった。
その時、雪村くんの腕の中にいる女の子が目を開いた。
「あれ……私……どうなってるの?」
「目を覚ましたか」
雪村くんがゆっくりと彼女を降ろす。
「もう大丈夫だ」
その声に優しさが滲んでいる。
彼女の視線が揺れる。そして、雪村くんで止まった。
やがて彼女の頬が赤く染まり、目を逸らした。
だがその瞬間、彼女の身体が硬直した。怯えた目で、路地の入り口を見ている。
「……っ!」
声にならない声を漏らし、彼女は雪村くんの袖を掴んだ。
彼女の視線、その先に——男が立っていた。
いつの間にか夕闇は濃くなり、男の顔はよく見えない。気がつけば、空の色が路地に溶けていた。
男は口を開かない。
その輪郭を、黒い煙が侵食していた。
足元の影が、別の形に揺れている。
奇妙な呼吸音が耳に届き、背中に寒気が走った。
そして、雪村くんの表情から、全ての色が消えた。
——初めて、その目が人のものに見えなかった。




