第2話 空気感
第2話 空気感
「——やっぱお前、持ってんな」
教室中の視線が、僕と彼の間で止まっている。
その意味を聞き返す前に、彼はもう笑っていた。さっきまでの鋭い目が嘘のように、軽い表情に切り替わっている。
さっきの言葉——その意味を聞きたい。だけど舌が上手く動かない。
「俺は小之野雪村。よろしくな」
「お、小之野くん……こちらこそ」
「苗字は呼びにくいだろ? 雪村でいいぜ」
その声は、断ることができないものを孕んでいる。
「じゃあ……雪村くん。よろしく」
「おう! よろしくな、大祐」
無邪気に笑う。
いきなりの名前呼び。けど不思議と嫌ではなかった。
雪村くんが、ふと視線を落とす。僕の手元——さっきまで震えていた指先を、一瞬だけ見た気がした。
「お前、朝から顔色悪かったろ」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「この中学に来てから、楽になったんじゃねえの?」
どこで見ていた。どこで、僕のことを——
聞き返そうとする前に、雪村くんは肩をすくめて、口を挟ませなかった。
「まぁ、気にすんな。ここは居心地がいいだろ?」
軽い口調に戻る。
だが、その一言だけが妙に胸に残った。
「雪村さん」
霧ヶ峰さんの声が割って入る。
「そろそろ、自分の席に着いた方がいいんじゃない?」
穏やかな笑顔、完璧な微笑み。なのに、その奥は見えなかった。
ほんの一拍。雪村くんと霧ヶ峰さんの視線が交錯する。
「おう、そうするわ」
雪村くんがあっさり引いた。窓際の一番後ろの席に向かいながら、一度だけ振り返る。
彼は、僕ではなく霧ヶ峰さんを見ていた。
檜山くんが、僅かに体を僕に向けてくる。
「真田くん、後で校内を案内します。最初は不便でしょうから」
その気遣いは素直に嬉しい。なのに、どこか引っかかる。
今のやりとりを思い出す。
その全てを見ていたはずなのに、檜山くんは何も触れない。僕に意識を向けることで、話題を自然に切り替えたように感じた。
(考えすぎかな……)
「ありがとう、檜山くん」
「いえ、何かあればいつでも」
眼鏡の奥の瞳は穏やかだ。けど、その奥にあるものは、まだ見えてこない。
僕は軽く頭を振った。
そして、この学校で初めての昼休みを迎えた。
みんなそれなりに、声をかけてくれる。檜山くんは、校内の案内もしてくれた。
しかし、それ以上に雪村くんの周りには女子が群がっている。
「雪村くんって、私が言ったこと絶対覚えてるよねー」
「そうそう、誕生日も必ず祝ってくれるし」
「当たり前だろ」
何の気負いもなく、雪村くんは言う。
霧ヶ峰さんは、自分の席で静かにお弁当を食べている。箸を持つ手つきも綺麗で、表情も穏やかだった。
けれど、雪村くんの方へ視線を向けた瞬間だけ、教室の空気感が変わった気がした。すぐに視線は逸れ、何事もなかったように微笑んでいる。
その微笑みは完璧で——だからこそ、余計に冷たかった。
「なんか涼しくない?」
近くにいた女子が首を傾げた。
どうしても、僕は雪村くんに意識を持っていかれる。目で追ってしまう。
午後の体育はバスケだった。雪村くんは軽く流しているように見える。なのに、誰にも追いつけない。ひらりと抜いて、軽く決める。その度に歓声が上がるが、退屈そうに笑っていた。
英語の授業でも、教室がざわつくほど自然な発音だった。
そして——もう一人。
英語の授業中、上野先生が教科書を読み上げている時のこと。教室の隅を何かが通り過ぎた。視界の端に、小さな影だけが一瞬よぎった。
僕が目を向けると、もう何もいない。普通の床が見えるだけ。
(……気のせいかな)
そう思い教科書に目を戻す。けれど——檜山くんだけが、僕が見ていたところを見ていた。僕と目が合うと、何事もなかったように視線を戻す。
その切り替えが、あまりにも自然だった。自然すぎる違和感を覚えた。
気づけば、窓の外の光が傾いていた。
「大祐、帰り一緒に行こうぜ」
当然のように雪村くんが声をかけてくる。
「桜と恭介もいるから」
僕は頷いた。断る理由がない。それに、この人たちといると、何となく身体が楽に感じる。
身支度を終え、四人で校門を出た。夕日が校舎を赤く染めている。桜の終わった季節の風が、それでも柔らかく頬を撫でる。
「大祐」
雪村くんが振り返る。
「お前、面白ぇな。歩いてるだけで、反応出てるな」
「え、何か変だった?」
「いや、悪い意味じゃねえよ。むしろ——」
雪村くんが何かを言いかけた、その時だった。
——まただ。
胸の奥を、何かが鷲掴みにする。
朝と同じだ。肌の内側がざらつき、視界の端が歪む。空気が押し潰してくる。路地裏で感じたものと同じ——けれど、今度はもっと近い。
足が止まった。
膝が震える。胃の中身が競り上がってくる。
雑居ビルが並ぶ通りの一角。何の変哲もない場所。人通りもある。なのに、そこだけ空気の色が確かに違った。
——その瞬間。
三人が同時に止まり、別の顔が染み出してくる。
雪村くんは変わらない表情のまま、ポケットに手を入れた。何の変化も見て取れないが、その雰囲気だけが、静かに切り替わった。
霧ヶ峰さんの髪が、風もないのに揺れた。穏やかだった瞳が細くなり、まっすぐにその一角を射抜いている。柔らかさが消えて、別人みたいに見えた。何かに備えている。
檜山くんは眼鏡のフレームに指を添えたまま、微動だにしない。探るのではなく、怯えているのでもない。その目は、状況を読んでいる。
三人とも——僕がざわつきを感じた、その場所を見ていた。
(やっぱり——)
みんなは別の地図を持っている——まだ、僕が手にしていないもの。
雪村くんは、視線をその一角に向けたまま外さない。
「——大祐、今日はここまでだ」
静かで穏やかな声。けれど目は一切笑っていなかった。
「また明日、な」
命令ではないが、選択肢を与えない声。
僕は一歩も動けないまま、三人の背中を見ている。
足の芯が震えている。
だけど——目だけは、その姿を追っていた。
彼らは歩いていく。僕とは逆の方向に、その一角に向かって。
誰も振り返らない。
街の音はいつもと同じように聞こえる。空気の歪みも、少しずつ薄れていく。
夕日だけが、三人の背中を赤く染めていた。
それでも——
あの三人だけで行かせたくない。




