第1話 初日
第1話 初日
今朝も、目を覚ましてしまった——
カーテンから差し込む光は優しい。だけど、胸の奥は重たいままだ。
深いため息を吐き、体を起こす。
ローラの鼻先が足首に触れた。
真っ白な毛並みが、朝日を受けて光っている。しっぽを小刻みに振り、かまって欲しいと全身で訴えていた。
「帰ってきたら相手してあげるから、大人しくしててよ」
小さく一声吠えたので、返事として受け取る。準備をしつつ撫でてやると、満足したのか部屋を出ていった。
「おーい、大祐」
玄関から父さんの声が飛んでくる。僕は新品の鞄を持ってリビングを抜けると、父さんが靴を履いていた。ローラも横でお見送り体制だ。
「転校初日だし、もう僕も行くよ」
「……大祐。あまり無理はするなよ」
「大丈夫だよ」
玄関横の部屋に、母さんの遺影写真が見える。
「いってきます」と声をかけ、僕達は家を出た。
今日は天気が良くて暖かい。桜は散ってしまっているが、緑が多くて空気が柔らかい。
「父さんはここからバスだ。ちゃんと先生に挨拶するんだぞ」
「わかってる」
父さんは何か言いたそうな顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。
控えめに手を振り別れる。ここからは一人だ。
住む場所が変わるのは、もう何度目か分からない。だから、期待はしない。ただ波風を立てずに、静かに馴染めればいい。
一人で通学路を歩く。住宅街を抜けて、少し広い通りに出た時だった。
路地の入り口に、数人の男たちがたむろしているのを見かけた。
二十歳前後の男たち。全員がだらしない姿勢で、通りを睨むように立っている。その中心で、一人の男が壁に押し付けられていた。怯えた顔、逃げ場のない目。
——胸の奥が、ざわついた。
見てはいけないと本能が告げる。けれど足が動かない。通勤途中の人々はチラリと視線を向けるだけで、足早に通り過ぎていく。僕もそうすべきだった。
なのに行かなきゃいけない気がした。目を逸らすことができなかった。
あの集団の周りの空気がおかしい。重いとか冷たいとか、そんな単純なことじゃない。肌の内側がざらつくような感覚。そこだけ歪んでいる——頭の奥で警告音が鳴り響く。
(まただ……何だこれ……)
胃が上がってくる感覚がして、座り込みたくなる。
その時、一人の少年が路地に入っていった。
胸のざわつきが、別の種類のものに変化する。
どう見ても、同じ中学生くらいの少年。黒髪が風に揺れて、朝日を受けている。制服ではない、ラフな格好。歩き方に一切の迷いがない。その姿だけ、やけに鮮明に見えた。
少年は集団に近寄り、声をかけた。一番体格のいい男が、少年の前に立ちはだかる。
「あ? なんだガキ、関係ねぇだろ!」
男が怒鳴り声を上げ、少年に顔を近づける。
けれども、少年は止まらなかった。そのまま歩き続け、男の真横をすり抜ける。誰もいないかのように。
男が目を吊り上げ、少年の肩を掴もうとした——その手が何かに押さえつけられているように、途中で止まる。
触れてすらいない。なのに、腕が凍りついたように動かない。
男の顔が歪むのが見え、僕の指先が震え出す。止めようとしても、止まらない。
少年は振り向きもせず、壁に押し付けられていた男の前に立った。何かを言っている。けど内容は分からない。ただ、少年がその男の肩にそっと手を置いた瞬間——
何かが弾けた気がした——次の瞬間、空気が変わる。
あの気持ち悪さが嘘のように薄れていく。男たちも立ち尽くしている。怒りでも恐怖でもない、もっと根本的な何かが抜け落ちているように見えた。
周りに雑踏の騒めきが戻る。
壁の男がゆっくり顔を上げる。少年は軽く手を振って、そのまま歩き去った。
何事もなかったかのように。
男たちは呆然としていたが、やがてバラバラに散っていった。さっきまでの感情が、表情から全て消えていた。
僕は路地の入り口で、動くことができなかった。額を汗が流れ落ちる。
(……今の、何だ?)
殴ったわけでも、怒鳴ったわけでもない。それでも、あの場を完全に支配した。少年の手が触れた瞬間に、世界は入れ替わった。
少年の後ろ姿は、もう人混みに消えている。名前どころか、顔もよく見えなかった。
——ただ、胸の奥に焼きついた感覚だけが消えなかった。
大通りに出ると、学生たちの群れが歩道を埋めていた。
突然現れた人の波に、呼吸が浅くなる。胸が締め付けられる感覚。
理由は分からない。人が多い場所にいると、身体がおかしくなる。息ができなくなる。
周りの音が全部、束になって頭に流れ込んでくる。
そしてまだ、手の震えは止まっていない。
だけど、路地裏で感じた、あのざらつきとは違う。もっと曖昧で、じわじわと滲むような気持ち悪さ。人混みの中にいると、いつもこれが来る。
震える手を押さえながら、何とか流れに乗って歩く。世界が戻ったはずなのに、僕だけずれている違和感。
誰にも説明できない。だから誰にも言えない。
そして、もう一つ——
気づけば足が止まっていた。人の流れが僕を避けていく。
でも、僕は動けなかった。
やがて白い校舎が見えてくる。新しくて綺麗な建物に、人の波が吸い込まれていく。
私立大和学園中学校。
校門をくぐった瞬間——息の仕方を思い出した。
(……なんだ、これ)
見えている景色は変わらない。だけど、まるで違う世界に切り替わったようだった。
理由はわからない。でも、いつの間にか手の震えは止まっていた。
校長室のドアをノックすると、穏やかな声が返ってきた。
校長先生は気さくな人で、ずっとニコニコしている。書類を渡し、簡単な挨拶を済ませる間もずっと笑顔だ。だけど、最後に校長先生は真顔になった。そして僕の目をまっすぐに見る。
「真田くん、仲間をみつけなさい」
「仲間……ですか?」
「そう、仲間だ」
友達ではなく、仲間。
その一言だけが、廊下に出ても消えなかった。
こうして、僕はようやくこの学校の生徒となった。
担任の上野枝理子先生に連れられて、三階の教室へ向かう。よく通る声で話しかけてくれる、優しそうで感じがいい。
「うちのクラスはいい子ばかりだから、すぐ馴染めると思うわ」
「……だと、いいですけど」
「大丈夫、大丈夫」
三年一組のプレートの前で、先生が振り返った。窓はすりガラスで中の様子は見えない。ざわめきだけが漏れてくる。
「準備はいい?」
「はい」と答えるしかない。
覚悟を決めて——扉を開く。
視線が集まり、肌に刺さる。ざわめきは止み、囁きが波のように広がっていく。
「以前話した通り、今日からクラスメイトが増えます」
上野先生が黒板に、僕の名前を大きく書いた。
「真田大祐くんよ。みんな、学校のこと色々教えてあげてね。じゃあ、真田くんからも一言」
みんなを見ないように、頭を下げる。
「真田大祐です。よろしくお願いします」
それだけ言うのが精一杯だった。早々に一礼して、顔を上げようとした。
その時——
僕の視界の端で、ふわりと何かが揺れた。
黒髪が光を受けて、淡く滲むようにきらめく。空気の層がひとつ歪んで、光だけが彼女に集まっているような錯覚。
その少女はゆっくりと立ち上がり、こちらへ向き直る。
その動作に無駄な音が一切ない。椅子が鳴ることも、衣擦れすら聞こえない。今だけ全てが息を潜めている。だけど、周囲の空気だけがそっと張り詰める。
そして、彼女が顔を上げた瞬間、心臓がきゅっと縮んだ。
真っ直ぐな黒髪は腰まで届くほど長く、風のないはずの室内で微かに揺れている。肌は淡い光を弾くように白く、涼しげな目元は笑えば一気に柔らかくなりそうだった。
——美人、という言葉では足りない。
姿勢、仕草、視線。そのすべてが静謐で、揺るぎない。
「霧ヶ峰桜です。クラス委員長をしています……よろしくね、真田くん」
声は澄んでいて、胸の奥に直接触れてくるような深みがあった。
返事をしたいが、目が離せない。
「よろしく……お願いします」
なんとか絞り出した声は、ひどく小さかった。
けど、霧ヶ峰さんは微笑んでくれた。
そして、その隣から、もう一人の男子が立ち上がった。
「檜山恭介です。副委員長をしています」
落ち着いた声。丁寧だけど堅すぎない、ちょうどいい距離感を保つ柔らかさがある。眼鏡の奥の瞳は穏やかさの中に鋭さもある。人をよく見ている、そんな印象を受けた。
「不安も多いでしょうが、気兼ねなく相談して下さいね、真田くん」
言葉の選び方が上品だ。同年代とは思えない落ち着き方。
檜山くんに対しては、自然と肩の力が抜けるのが不思議だ。
「ありがとう。よろしく、檜山くん」
そう言うと、檜山くんは僅かに口角を上げ、「こちらこそ」と優しく返した。
上野先生に促されて、僕は用意された席に着く。霧ヶ峰さんの斜め後ろ。目を上げると、彼女の姿が視界に入る。胸の奥が少しだけ温かくなる。
(今日は……大変な日だな……)
やがて騒がしさも落ち着き、教室内も通常運転だ。僕は教科書を開いたものの、ほとんど頭に入らなかった。
霧ヶ峰さんは姿勢良く黒板を見ている。光に照らされたまつ毛の影が、頬の上で息をしていた。
檜山くんは姿勢を崩すことなく、静かにノートを取っている。
まるで朝の一件が、夢だったような穏やかさ。
(……いい学校だな)
それでも僕は、他人事のように考えてしまう。そしてまた、意識が沈んでいく。
僕が目を閉じようとした、その時——
その穏やかな空気は破られた。
教室後方の扉が勢いよく開く。
風が流れ込み、みんなの髪を揺らした。
「悪い、寝坊した」
軽い声。だけど教室の空気を自然と支配してしまう、不思議な響き。
黒髪が少し乱れている。制服はラフに着崩している。なのに、妙に絵になる。
——見覚えがあった。
あの路地裏。男たちの中を、一切怯むことなく歩いていった少年。
(あの時の——)
心臓が跳ねた。
それを合図に時間が動き出す。
「雪村くん、おはよー!」
「来ると思ってた!」
「今日部活見にきてくれる日じゃなかった?」
「あとで聞いて欲しい話あるんだけど!」
教室の温度と色が一瞬で変わる。彼が入ってきただけで、空気が別物になった。
色のなかった僕の世界に——鮮やかな色が差し込んだ。
「里奈、おはよ。ちょっと疲れてないか」
「麻衣、髪切ったな! めっちゃ似合ってる」
「今日見にいくよ。沙友里の動き、チェックしてやるから」
「どうした? 七瀬、最近元気なかったよな」
彼は愛想を振りまきながら歩く。なのに、その目は一人一人だけを見ているようだった。
上野先生は慣れた様子で静観している。この騒ぎは日常なのか。
そして——彼が僕の前で立ち止まった。
別の顔が、そこにあった。底の見えない瞳が、まっすぐに僕を射抜く。
教室の中で、僕と彼以外の存在が消えていった。
僕も目を逸せない。ゆっくりと視線が絡む。光の奥に、深い静けさが揺れていた。
一瞬の沈黙。
だけど、その一瞬が永遠にも感じられた。
彼は口角をわずかに上げて、静かに僕に告げる。
「——やっぱお前、持ってんな」
諦めたように笑う彼から、目が離せない。
教室のざわめきが、遠くなる。
瞳の奥にある輝きが、僕を捉える。
その色を確かめたくて。
僕は、目を閉じることができなかった——




