第0話 炎
第0話 炎
彼の右腕が燃えている——
夕闇に雨が降り始めていた。けれど、僕の意識はそこにはない。
雨が世界を濡らしていた。だけど、その炎だけが世界を否定する。
——空気が違う。
さっきまでと同じ場所のはずなのに、肺の奥に何かが絡みつく。甘い腐臭を全身で感じるような——深い部分で何かが軋む。
それは、言葉にできない重さだった。
足が動かない。
視界の端が滲む。
街灯の光が妙に遠く感じる。
世界が薄い幕一枚で隔てられたような感覚の中で、僕はただ立ち尽くしていた。
その中で——
彼だけが、はっきりと輪郭を持っていた。
彼は一歩踏み出す。その歩みが進むたび、空気が裂け、雨音が遠ざかる。
そして、重さも嘘のように消えた。
右腕の炎は雨粒を弾き、紅くそして青白い光を放っている。この場所に満ちている何かを、その炎だけが拒んでいた。
それは、炎の形をした彼の意思だった。
僕は息をするのも忘れていた。
彼は歩いていく。
ためらいもなく——目の前のそれに手を伸ばした。
次の瞬間——世界が燃えた。
音もなく、余韻もなく。
ただ、そこにあったはずの何かが、跡形もなく消えた。
重かった空気が戻る。息が戻る。
理解できない。でも、目を逸らせなかった。
これは、見てはいけないもの。
日常の裏側。触れてしまえば、もう戻れない世界。
すべては、あの日から始まった。
僕が色を失った世界で、彼だけが鮮やかに見えた。
「……俺と共に来るか?」
強制ではなく、命令でもない。ただ静かに、選択だけを差し出す声。
あの夕暮れの問いかけに、僕はまだ答えていない——




