第4話 目をそらさないで
第4話 目をそらさないで
男は口を開かない。
ただ立っている。路地の入り口に、影のように。
女の子は雪村くんの袖を掴んだまま、震えている。
「何で……逃げるんだよ……」
男が口を開いた。低い声。感情のどこかが壊れたような、平坦で重い声。
「俺がいないと……お前は……」
一歩踏み出した。
それと同時に、空気が変わった。重いというより、腐った感覚。再び甘い腐臭が鼻につく。あの路地裏と同じ匂い。
男から立ち昇る煙は、男の輪郭を曖昧にする。もはや、人の形を保っているかも分からない。
僕は立ちあがろうとするが、膝に力が入らない。壁に背を預けたまま、僕は動けなかった。
「桜、頼む」
「はい」
雪村くんが女の子を、そっと霧ヶ峰さんの方へ押しやった。霧ヶ峰さんは黙って受け止め、彼女を背中に庇う。
檜山くんが男に身体を向ける。眼鏡の奥の目が、男を捉える。
「雪村」
「分かってる」
短いやり取り。それだけで、三人の間には意思が通ったようだった。
雪村くんは、男と向き合う。
「お前な、しつこい男は嫌われるぜ」
軽い口調だった。普段通りの声。
男は答えない。代わりに、目が据わった。
「返せよ……あいつを……俺のものなんだ!」
「……お前のものじゃねえよ。彼女は——」
雪村くんが、ニヤリと笑う。少年とは思えないほどの、歪んだ笑みで。
「——俺がいただく!」
檜山くんが、指で眉間を押さえるのが見えた。
「ふ、ふざけるなっっ!!」
雪村くんの言葉と同時に、男の全身から煙が膨れ上がった。沸騰するように黒が弾け、男の身体を飲み込んでいく。
さっきの女の子とは違う、はっきりとした黒。それは、形を持った人間の悪意。僕の全身が嫌悪感で震えた。
男の濁った目が、女の子を捉える。
「……っ!」
彼女は言葉にならない悲鳴を口にした。
「お前はぁ、俺のものだぁぁぁーー」
男が吼える。その声が振動となり、僕まで届いた。壁が軋み、地面の砂が跳ねる。
雪村くんが一歩踏み出した。
夕闇は更に濃くなり、男の顔を黒く塗りつぶしている。
雪村くんはポケットに手を入れたまま、男に向かって歩いていく。散歩でもするような気楽さで。
男が咆哮し、力任せに腕を振り下ろす。人とは思えないほどの鋭さで、雪村くんに迫る。
(危ないっ——)
僕がそう思った瞬間——
雪村くんは半身をずらし、最低限の動きで避けた。
男の拳が空を切る。強烈な風圧が、僕の髪を揺らす。
(こ、こんなのが当たったら……)
考えるだけで、一気に汗が流れ出した。
「結構、速いな」
普段と全く変わらない様子で、雪村くんは立っている。
「——けど、遅ぇ」
「なめんじゃねえ、クソガキがっ!!」
男を包む煙が大きく波打った。勢いをつけて、何度も腕を振るう。
空振りした拳が壁を割る。コンクリートの破片が弾けた。
背中が冷えるような攻撃に晒されているのに、雪村くんは表情を変えない。ポケットから手を出すこともない。
それでも、雪村くんには届かない。
嵐の中心で、一人凪いでいた。
僕は何故か、拳を強く握っていた。
「そろそろ、終わりか?」
「くそっ……くそっっ……」
男の顔はますます醜く歪んでいく。
雪村くんは男の腕をかわすと、そのまま懐に入った。そして、腕を振りかぶる。
「お前を——祓ってやるよ」
一瞬、音が消えた。
——そして、雪村くんの右腕に炎が宿った。
錯覚じゃない。青と紅の炎が、右腕で閃くように燃え上がる。
雪村くんは、半歩だけ左足を踏み込んだ。地面が抉れ、砂が舞う。
空気が裂ける。
世界の色が滲む。
炎の残影だけを置き去りにして、男に拳を叩きつけた。
その一撃で十分だった。
男の身体は吹っ飛び、壁に衝突して止まる。
身体から煙が弾け飛んだ。黒い泥が裂け、炎に触れて灰になる。そして、匂いすら残さず空へ溶けていく。
狂気に満ちていた目からは、もう何も読み取れない。
男は膝から崩れ落ちる。そのまま地面に倒れ込んだ。
ようやく、僕の耳に雑音が戻ってくる。何事もなかったように、世界は音を取り戻した。
気がつけば雪村くんの右腕に、もう炎はない。
でも僕は見た。
あの時の閃光を。夕闇の中で燃えた、あの光を——
霧ヶ峰さんが女の子を抱き抱えたまま、小さく何かを呟いている。檜山くんは倒れた男のそばに膝をつき、状態を確認しているようだった。
三人は、もう動き終えている。
僕は壁に手をついた。指先はまだ震えている。膝が笑う。それでも——僕は立ち上がった。
雪村くんが振り返り、僕を見ている。深く、静かで——なぜか悲しみを帯びた目。
(……?)
その沈黙の意味は分からない。けど、聞きたいことは沢山ある。
さっきまで見た光景が、瞼の裏に焼き付いている。煙に飲まれていく男の姿。狂気を宿した、あの目。
そしてそれを、祓った背中。
まだ震えは止まらない。でも胸の奥はずっと熱い。
ローラが待っている。
父さんは無理するなと言う。
母さんに声をかける。
あの日常は、確かに僕のものだ。
でも——もう、見えてしまった。息を潜めるのは、もう終わりだ。
女の子は震えていた。
声にならない声を上げながら。
あの時——僕の足は動いた。
雪村くんは黙って僕を見ている。路地裏に入る風が、彼の前髪を揺らす。何も言わずに、待っている。
僕は唾を飲み込んだ。
「——雪村くん」
声が震えている。でも止めない。
「僕に……何ができるか分からないけど」
雑踏が言葉の隙間を埋めていく。
「でも——見えてしまったなら、僕はこの世界のことを知りたい」
雪村くんの目が揺れた。
「逃げたくない……」
「僕も——そこに立ちたい」
ちゃんと、自分の声で届けたい。
沈黙が落ちる。遠くでクラクションの音が、かすかに聞こえた。
雪村くんは、静かに目を閉じた。
諦めたように——けれど、わずかに笑った。
「……お前は、そう言うと思ったよ」
「えっ?」
優しさと、諦めが混ざったような声だった。
その奥に、ほんの少しだけ——喜びが滲んでいた気がした。
何もできないかもしれない。
それでも——僕は、ここに立っていた。
もう、昨日の僕には戻れない。
怖いままでいい。
分からないままでいい。
それでも、目を逸らしたくなかった。
それでも——
雪村くんに浮かぶ悲しみの理由を、僕はまだ知らない。




