第38話 瞬き
38.瞬き
武士園会長との初対面の翌日、僕は穏やかな日を過ごしていた。
世界の裏側を知ってから、何だか大人になった気がしたが、学校生活はいつも通りだった。恋愛話や好きなアイドルの話で盛り上がる同級生たち。それは、僕にとって暖かい気持ちになる場所だった。
しかし、その日の放課後——再び世界の裏側を見ることになる。
「小之野先輩……ですよね?」
ふいに後ろから声を掛けられて、僕たち六人は一斉に振り向いた。
そこには、僕よりも小さな男の子が、満面の笑みで立っていた。幼く見える顔は、間違いなく年下だと断言できる。髪は短く、きちんと制服を着ていて清潔感がある。
「……何だ、お前?」
「空飛。一年生の猿飼空飛といいます!」
視線が真っ直ぐで迷いがない。
「僕、空手をやっています。先輩が強いと聞いたので、会いにきました!」
雪村くんは興味を示すように目を細めた。
「強いのは事実だな……それで?」
「手合わせをお願いしたいです。僕がどこまで通じるか知りたいんです」
挑発でも敵意でもない、ただ純粋な興味や向上心を感じる。
「俺は空手をやっていた訳じゃねえぞ」
雪村くんが肩をすくめた。
「それは知っています。それでも、強いのは事実なんですよね?」
空飛くんの声は澄んでいた。嘘はないように思える。
「また面白いのが来たね、ダーリン」
百合さんは腕を組みながら笑った。
「真っ直ぐな子ね」
桜さんは静かに観察している。
「……新入生は元気だね」
狛人くんは、呆れたように呟く。
「体の軸がぶれていない……鍛えてますね」
恭介くんは、すでに分析に入っている。
そんな四人を見て、雪村くんは小さく笑った。
「いいぜ、場所を変えるぞ」
畳の匂いが漂う静かな空間。放課後なのに何故か誰もいない武道場で、二人は向かい合う。先ほどから、静寂が場を支配している。空気の重みが増したようだ。
「ありがとうございます、先輩!」
「ただの暇潰しだ」
合図はないが、空飛くんが構えを取った。彼の呼吸が変わる。
「いきますよ」
「あぁ」
雪村くんは構えない。
一瞬の沈黙。そして——空飛くんが踏み込んだ。
(——速い)
無駄のない右の正拳突き。
だが、雪村くんには当たらない。僅かな動きだけで避けられる。
続けて、二撃目、三撃目。
左の上段蹴り。そして——右の回し蹴り。
だが、その全てが空を切る。
「凄い……あの子、速いね」
桜さんが小声で言う。
「けど、ダーリン全部避けてんじゃん」
裏拳、連撃——だが当たらない。
空飛くんの動きは華麗で、攻撃は鋭い。だが雪村くんは、まるで台風の中で踊るように、全てを躱していた。無表情な雪村くんとは対照的に、空飛くんはそれでも楽しそうだ。
「どうした、そんなもんか?」
雪村くんはポケットに手を入れたまま言う。未だに構えすら取らない。
空飛くんは再び右の正拳突きを繰り出すが、それも避ける。風圧で僕の髪が揺れた。
「噂通りですね。本気で打ち込んでいるんですが、かすりもしない」
空飛くんは息も切らさずに、満面の笑顔で言う。
「その噂は当てになんねぇな」
「そうですね……では、面白いものを見せますよ」
その時、空飛くんの笑顔が消えた。
空気が震える。
そして、彼の体から黒い靄が噴き出した。だがそれは暴走しない。激しいが統率されている。まるで風が形を持ったようだった。
(……穢れが多い!)
だが一瞬で、穢れは形を変え、空飛くんの体に収束していく。
それは揺らぎもせず、彼の全身に絡みつく。凝縮された穢力は、荒々しいが澄んでいた。
「どうですか?」
「あぁ、面白い」
床の畳が波打つ。
踏み込んだ——
目で追えないほどの速度。
音も——意識すら置き去りになる。
気がつくと、雪村くんは顔を逸らし、空飛くんの正拳突きを躱していた。
「その力は、誰に教わった?」
その状態のまま、雪村くんが問いかける。
「自分で会得しました」
「なるほど……だから甘いのか」
「はい、まだまだです!」
二人は再び動き出す。
どちらの動きも、すでに目で追えない。瞬きする時間もない。だが、一瞬雪村くんが微笑んでいるように見えた。
一度、距離を取る二人。
そして、空飛くんが踏み込む——それに合わせて雪村くんも踏み込んだ。
拳は届いてない。空飛くんの手首を、雪村くんは掴んでいた。
静寂。そして——
「お前、天才だな」
「いえ、努力の賜物です」
武道場の空気が止まる。
「え……ダーリンが褒めたんだけど!」
百合さんが目を見開く。
「穢力の流れが、凄く綺麗ですからね」
恭介くんも認めるほどの才能だ。
「荒さはあるが、濁りがない」
「先輩は……噂以上でした!」
雪村くんは手を離した。
「面白い、気に入ったぞ」
「え、本当ですか? ありがとうございます」
顔中に汗をかきながら、さわやかに空飛くんは表情を崩した。その幼い容姿からは想像できないほど、強さに対する憧れを感じる。
「ついて来い」
「えっ、どこへですか?」
雪村くんは背を向けた。
「本物を見せてやる」
昨日に引き続き、今日も特事にやってくることになった。いつもの訓練室へ向かう。学校の喧噪にくらべて、ここは静かな時が流れている。
地下へと続くエレベーターの中で、空飛くんが緊張しているのを感じた。雪村くんは無言で腕を組んでいる。
やがて扉が開く。広い通路と白い壁。普通ではない場所だと、誰でも分かる。
「すげー、ここは一体……」
「世界の裏側だ」
空飛くんの反応は新鮮だった。それでも、奥の扉から出てきた人物を見て、僕も緊張した。
「雪村、待っておったぞ」
武士園会長がはるかさんと一緒に出迎えてくれた。柔らかな声、空気を支配する圧も昨日と同じだ。
「じじい、いちいち呼び出すんじゃねえよ」
「雪村……あなたねぇ……」
雪村くんは誰に対しても通常運転だ。はるかさんはあきれ顔。見ていて、こっちがハラハラする。
「ははは。だが、興味はあるじゃろ?」
「……まあな」
笑い飛ばす武士園会長の後ろに、今日は二人控えている。一人は昨日も見た女性。もう一人は大学生くらいの若い男性で、隣の女性と顔が似ている。
「では、早速紹介しよう。Xbladesに儂が推薦する男じゃ」
武士園会長に促されて、男性が前に出た。スーツを着こなし、綺麗な姿勢で歩く。それに足音が全くしなかった。
「雪村様、お初にお目にかかります。九重風魔と申します」
「あぁ……お前が九重家の次期当主か」
風魔さんは、明らかに年下の雪村くんに対し丁寧に接している。
「はい、左様でございます」
「九重家は会長のお守りが家業だろ? それを投げ出していいのかよ」
「妹の蛍がおりますので」
武士園会長の後ろで蛍と呼ばれた女性が頭を下げた。
「どうじゃ、雪村。この風魔をテストしてみんか? こやつならお前の刃になれるはずじゃ」
雪村くんは悩む様子もなく、あっさりと答える。
「いいぜ」
いいのか——こちらの方が呆気にとられる。だが雪村くんは涼しい顔だ。
「ただし……テストするのは、俺じゃねえぞ」
「では誰じゃ?」
雪村くんは、ゆっくりと空飛くんを指差す。突然の指名に、本人も周りも時が止まった。
「え……僕……ですか?」
空飛くんは、自分のやるべきことを確認する。何の説明もなく、いきなり言われたら戸惑うだろう。
「何をすれば、いいですか?」
「風魔と立ち合え」
「あ、そういうことですか。わかりました!」
この状況で、すんなりと受け入れる彼の度胸は凄い。欲しかったおもちゃを手に入れた時のような笑顔。
「私は試される側なので、どなたが相手でも構いませんよ」
「——決定だ」
当事者の間で話はまとまったようだ。僕はその展開の速さに、まだ気持ちが付いていかない。
「ねー、おじいさん。あの風魔ってひと強いの?」
「こ、こら。百合さん、そんな口の利き方……」
「構わんよ、はるかくん」
こっちにも心臓に悪い人がいたのを忘れていた。武士園会長は気にするでもなく、僕たちに向き合った。
「九重の家系は四百年以上、その当時の全穢連会長の護衛を務めている忍びの一族じゃ」
「え、すごっ!」
その事実の重さに、百合さんは目を見開いた。
「風魔は、その長い歴史の中でも——歴代最強じゃ」




