第32話 夜に駆ける
32.夜に駆ける
『護りなさい——穢場封界』
恭介くんによる封界が完成した直後、遊園地は完全な静寂に包まれた。昼間、あれほど騒がしかった場所とは思えない。
スピーカーから流れていた音楽も止まり、売店の明かりも消え、残っているのは最低限の保安灯だけだ。アトラクションの巨大な影が地面に落ちている。
自分の呼吸音を意識してしまうほどの静寂。時計を見る癖はないはずなのに、無意識に時間を気にしていた。何も起きない……それが一番不安だった。
遠くで保安灯が一つ、じっと音もなく点滅している。遊園地は生き物みたいだと思った。眠っていて、呼吸だけをしている存在。
「……静かすぎるな」
雪村くんが低く呟く。それは感想というより、確認に近い声音だった。
『全域、封界完了しました』
インカム越しに、恭介くんの声が響く。いつも通り落ち着いているが、言葉の端に集中が滲んでいる。
『外部との干渉は遮断されています。現在、穢れの流入も流出もありません』
「了解。お前ら、周囲の変化を見てろよ」
雪村くんから、いつもの口調で指示が飛ぶ。彼だけは何も変わらない様子だ。気負ってもない、緊張もしていない。それはリーダーとして、とても頼もしい姿だった。
遊園地の中心を走るメインストリート。その北側の位置に、雪村くんと僕は待機している。昼間は人で埋まっていたその道を、今は僕たちだけが占領していた。
封界が行われてから、しばらく僕らは無言だった。短いようで長い時間。実際は五分ほどだと思う。
だが、ついに状況が動き出す——
足元が、わずかに冷えた。気温が下がったわけじゃない。肌に触れる空気の質が変わった。嫌な感じが足元から上がってくる。
「……来たな」雪村くんが呟く。
僕が問いかけるより早く、インカムからみんなが反応する。
『ええ。南側、ジェットコースター付近に反応あるよ』
『こちらも。同時刻に中央付近で反応を確認しました』
桜さんと、恭介くんの声だ。二人の声に重なるように、離れた場所で何かが擦れた音がした。金属が軋むような、でもアトラクションが動いた音とは違う。
そして——一斉に園内の電気が点灯した。いきなり明るくなったので、目が眩んだ。
「はるか! 電気系統触ったのか?」
『いいえ! 私たちは何もしていないわ!』
はるかさんの背後からは、複数人の慌てた声が聞こえる。特事の人たちも混乱しているようだ。しかし、雪村くんとはるかさんのやりとりは、みんなにも伝わったはず。誰も何もしていないのなら、この場に漂う穢れたちが原因ということになる。
ついに始まる——
よく見てみると、中央にそびえ立つ観覧車の下。影が異様に濃くなっている。それだけなら気づかなかったと思う。
なぜ気がついたか、それは——揺れていたから。影が揺れている。
最初に姿を現したのは一体だけだった。
観覧車の支柱の影。そこから何かが剝がれるように落ちてきた。
「……俺たちの出番だな」
雪村くんが一歩、前に出た。次の瞬間、影の中からそれらが滲み出る。人の形に似ているが、はっきりしない。輪郭が曖昧で、手足の位置も定まらず、足が地面についているのかどうかすら分からない。
感情だけは、伝わってきたような気がする。ざわざわとした不安。行き場のない焦り。理由の分からない苛立ち。本当のところは分からない。
「……穢れ、確認したぞ」
僕は無意識に、拳を握っていた。
『数、増えています』
恭介くんの声が、少しだけ早くなる。ジェットコースターの下、売店の裏、観覧車の支柱付近——あちこちから、同じような影が滲み出してくる。
歩くというより、漂っている。目的もなく、ただ園内を彷徨うように。
「思ったより……多いわね」
桜さんの声が、少し硬い。
「でも、あんまり強そうじゃないね」
百合さんの声は明るい。だが、その明るさの裏に、集中があるのが分かる。
「単にそこにいるだけって感じ!」
確かに、今の穢れは攻撃的ではない。ただ、数が異常に多い。
『この遊園地、年間来場者数は1,500万人を超えています。それらが全て穢れを置いていったとすれば……』
恭介くんが情報を追加してくれたが、理解が追い付かない。1,500万人と言われてもピンと来ないのもあるが。
「雪村くん……そもそも穢れって、本人から離れて動けるの?」
「ああ、その場合それほど強くないがな」
「そうなの?」
「感情を、その場に置いていくこともあるって事だ」
本人から生まれたものが、離れて動けるものなのか。穢れは本当に理解しがたい。今回は土地に憑いている地縛霊みたいなイメージで考えることにした。まだまだ僕は知らないことが多いと実感する。
雪村くんは戸惑う僕に構わず、みんなに檄を飛ばした。
「お前ら、出番だ」
それだけで場が締まったようだった。
「確かに数は多そうだ。だが——関係ねえ」
みんな雪村くんの言葉に聞き入っている。彼が言うことなら、無条件で胸に降りてくる。誰彼、関係なくそう思わせる力が言葉にこもっている。
「お前たちは、俺の刃だ。折れるわけがねえだろ?」
その言葉で体に気力が溢れるようだ。
「恭介の穢場は頑丈だぜ……さあ、好きに暴れな」
まるで映画の悪役のようなセリフを、雪村くんは邪悪な笑みを浮かべながら口にする。素直に正義の味方とは言い難い。ただ、彼と共にありたいという気持ちが出てくる。
『『了解』』
全員の声が揃った。この瞬間の一体感がいい。心が躍り、体に気力が溢れてくる。
そして、それぞれが戦闘態勢に入った。
闘いの幕が上がる——
『咲き誇れ……夜櫻』
『終わりの慈悲を……ミセリコルデ』
『もう逃げられないよ……ラブニードル』
園内で、穢力が爆発的に上がった気配を感じた。みんなの力を感覚で捉える。
「僕たちはどうする? 雪村くん!」
「全て——焼き尽くす」
雪村くんの右腕に炎が灯る。そして一気に燃え上がり、いつもより高い位置まで炎が上がった。
辺りを見渡すと、穢れは僕たちを避けるように動くものもいれば、逆に引き寄せられるように寄ってくるものもいる。
「大祐、俺から離れるな」
「分かった!」
僕は雪村くんの背後で待機する。雪村くんはそれを確認すると、右腕を振るった——
彼の腕から離れた炎は、僕たちを中心に一周し円を作る。それは、まるで空を駆ける龍のごとく雄々しく翔んだ。赤と青の混じった炎が、絡み合いながら結ばれる。
繋がれた炎は、結界のように僕たちを護る。
そして更に——炎は上に向かって、燃え上がった。
これはまるで炎の壁だ。全てを焼き尽くす爆炎の壁。何人も立ち入ることの出来ない領域に、僕は立っている。後ろからは雪村くんの表情は見えない。だが、きっと何でもないような顔をしているだろう。
穢れは、その壁に触れた瞬間に祓われる。というより蒸発しているように見える。とてつもない熱量だ。この中にいる限り危険はないように思う。
哀れな穢れたちは、恐れなどないように爆炎に包まれる。四方八方から、僕たちに近づこうとしては消えていった。
何体も、何体も……凄まじい数が。
雪村くんに対して、さすがという気持ちと、恐ろしさも同時に感じる。相変わらずの無敵感。
僕は消えていく穢れを、ただ眺めていることしか出来なかった……
雪村くんの炎は圧倒的だった。では、僕がこの場に立っている意味は——
しばらくの間、インカムも静かで順調に祓いが行われているようだ。
だが——いくら倒しても減らない。消しても消しても別の場所から、また滲み出てくる。
「いくら何でも……おかしくない?」
僕は呟く。
「減ってない……よね」
「だな」
雪村くんは周囲を見渡していた。彼の炎で相当な数の穢れは祓ったはずだ。だが、減っているようには感じない。
「相当消したつもりなんだがな……」
「うん……それに何か……目的があるような」
僕の言葉に、雪村くんが一瞬だけ目を細める。
「……ああ」
まるで、何か意思があるように。どこか中心があるように感じる。
その時、インカムから声が聞こえた。
『……妙です』
恭介くんの声だ。
『数は多いですが、どうも動きが不自然です』
「奇遇だな……恭介、お前どう思う?」
『……穢れを統率している者がいるかもしれません』
その言葉を聞いた瞬間、背筋がひやりとした。
「統率……か」
『ええ。全てが、何かを意識しているように感じます』
雪村くんが、ゆっくりと息を吐いた。恭介くんは続ける。
『まあ、それに気づいたのは、如月くんですが……』
「……そうか」
(狛人くん……ちゃんと貢献してる……)
狛人くんは、視る力をちゃんと駆使しているようだ。安心した半面、自分は何かできているだろうかという疑問が湧く。先ほども見ているだけだった。
——僕は何ができているのか。その問いが、胸の奥でくすぶり始めていた。
雪村くんは僅かな時間、考え込んでいた。でも、すぐに園内を見回しながら言った。
「ここは、ただの溜まり場じゃねえ」
『えぇ、これは——』
「……何かが、いる。それに——」
その言葉が終わる前に、遊園地の奥——観覧車の向こう側で、空気が大きく歪んだ。まるで、夜そのものが息をしたように。その気配の大きさは、僕でも感じるほどの圧を放っていた。
突然、インカムの向こうが騒がしくなってきた。はるかさんたちの慌てる声が聞こえてくる。
嫌な予感が体を支配した。——まだ、本命は出てきていない。そしてこの穢れの濃さ。これは一体……
「禍心だ」
「……禍心?」
僕にとっては初めて聞く単語だった。
「そうだ。穢れが人の形を選んだものだ」
『雪村、それは——』
「……いい、説明は全部終わってからだ」
なぜだが、恭介くんの声に戸惑いのようなものが混じっている。
「それより、百合が——危ない」
闇の中、炎だけが僕たちを照らしていた。夜に駆けるこの闘いは、始まったばかり。この夜は、まだ終わらない。




