第33話 願い
33.願い
『……さあ、好きに暴れな』
雪村の号令で、百合は心が高鳴った——
「了解」
その言葉は自然と口から漏れた。
今、目の前には穢れの集団が迫ってきている。しかし、百合の心にあるのは雪村のことだけだった。
(インカム越しの、ダーリンの声もいいな……)
そんな百合の気持ちとは関係なく、穢れは迫ってくる。しかし焦る気持ちはなく、落ち着いている。以前のように独りではないという安心感が、心に余裕を生んでいる。
強くなったと自分で感じる。穢祓師としてもそうだが、心が、精神が安定した。友達、仲間……そして雪村の存在。大事にしたいと心から思う。
だから、百合はここに立っている。
「そろそろ、やりますか……」
誰にも聞こえない呟き。そして、声に力を込め、その名を呼んだ。
「もう逃げられないよ……ラブニードル」
体に穢力が満ちる。雪村の気配に包まれて、百合とSBは、心を通わせる。
——ラブニードルを呼んだ瞬間、百合の世界は静まった。
音が消えたわけじゃない。風も、遠くの金属音も、穢れのざわめきも、確かにそこにある。
ただ——百合の意識が、それらの奥に潜り込んだ。胸の奥が、ひどく熱い。恐怖じゃない。高揚だ。
(ああ……大丈夫だ)そう思えた。
百合の手に握られた五寸釘——ラブニードルが、淡く光を帯びる。雷光のようでいて、雷とは違う。それは百合の感情に呼応した、穢力の形だった。
最初に動いた穢れが、百合へと向かって漂ってくる。人の形をしているが、顔はなく、足取りも曖昧だ。
「遅いよ」
百合は小さく呟き、踏み出した。地面を蹴る。その瞬間、空気が弾けた。
百合の動きに合わせて、雷が走る。
一本ではない。無数の細い稲妻が、彼女の足元から広がり、穢れの群れを縫うように駆け抜けた。
——バチン。音は鋭く、短い。
穢れは抵抗する間もなく、形を失う。
「はい、一体目」
淡々と数を数えながら、百合は歩みを止めない。焦らない。かつての百合なら、勢いで突っ込んでいただろう。感情のままに突っ走っていた。
でも、今は違う。
(無理しなくていい)
自分にそう言い聞かせる。しかし、抑えられない高揚感も確かにある。
(うち……やっぱ、強くなってる!)
そう実感できるほどに圧倒的だった。少し気分が乗ってきた百合は、夢中で穢れを祓う。
しばらく時が流れた頃——
百合は、ゆっくりと息を吐いた。穢れは次々と湧いてくる。ジェットコースターの影、売店の裏、ベンチの足元。どこかから滲み出てくる。どれも弱いが、数が多すぎる。
「ほんと、しつこい!」
愚痴のような声だったが、それでも表情に苛立ちはない。百合は周囲を見渡し、園内の地形を頭の中でなぞった。
観覧車、売店、ジェットコースター。人が溜まりやすく、感情が残りやすい場所。
(……点で消しても、意味ないな)
ふと、インカム越しに声が聞こえた。
『百合、無理はしてない?』
桜の声だった。
「うん、大丈夫。ちゃんと抑えてるよ」
『……なら、いい』
「今から、ちょっと無茶するかもだけど」
『えぇ!』
短いやり取り。それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
(ああ……ほんと、独りじゃない)
その事実が、百合を強くしていた。おかげで、今思いついた技を試す決心がつく。そして、決めたからには即実行に移す。
百合はラブニードルを持ち上げる。相棒が僅かに震えた。
「ねぇ……ちょっとだけ付き合ってくれる?」
手の中のラブニードルに、そう囁く。
次の瞬間——ラブニードルが光を放った。
一本だったはずのそれが、雷光に包まれ……四本に分かれた。形は同じだが、全てが百合の穢力と繋がっている。
「よし! さすがだよ、ラブちゃん!」
百合は、相棒に軽くキスをすると、四本全てを空へ放った。
放たれたラブニードルは、意思を持っているかのように四方へ飛んでいく。百合を中心に等しい間隔で正方形をかたち作る。
——カン、カン、カン、カン。金属音が園内に響く。
「そうだ……言霊だったね、忘れてた」
無意識のうちに、独り言を呟く。意識は自分の内に向いていた。
「……鳴神」
その瞬間——四本の釘へ同時に雷が落ちる。
先ほどまでとは、まるで異なる凄まじい威力。空気を裂くように、轟音と共に雷が奔る。そして、四本が互いに結ばれ、巨大な雷の柱になった。
百合は、その中心に立っていた。
「ここ、立ち入り禁止だから!」
言葉と同時に、雷柱の中で雷が暴れだす。
範囲内に入った穢れは、その瞬間に弾かれ消えていく。逃げ場はない。中心に向かうことも、外へ出ることもできない。ただ、消滅するのみ。
それは、まさに——雷の監獄だった。
「……はぁ、はぁ」
百合は胸に手を当てた。少しだけ、息が荒い。集中している証拠だ。
(大丈夫、制御できてる)
以前なら、こんな芸当は無理だった。雷は広がり過ぎて、制御を失っていたはずだ。
でも、今は違う。百合は全身でラブニードルを感じていた。距離も、状態も、穢れの密度も、全部手に取るようにわかる。自分と向き合ってきたから、得られた感覚だった。
ふいにインカムから、みんなの声がする。雷柱の中がうるさ過ぎて、はっきりと聞こえない。誰かの救助要請かもしれないと思い、少し柱内の力を抑えていく。話しているのは、雪村と恭介のようだ。
そして、最後の雪村の言葉だけが、はっきりと聞こえた。
『……百合が——危ない』
その瞬間、不意に空気が変わった気がした。
雷の監獄の外側、観覧車のさらに奥。夜の闇が、一段深く沈んだ。
「……なに?」
百合の背筋が、ぞくりと粟立つ。今までとは明らかに違う感覚。数ではない、密度でもない。
——圧だ。
雷の監獄が、わずかに軋んだ。
「ちょ……なに、これ」
四本のラブニードルが、僅かに震えた。拒絶か、または警戒するように。
そして、闇の中から、それが現れた。人の形をしている。だが大きい。人の五倍くらいはあるだろうか。明らかに他の穢れとは違う。
輪郭がはっきりしている。感情が、意識がひとつにまとまり、意思を持っているよう。怒りでも、悲しみでもない。ただ、歪んだ執着。それらの感情のようなものが、百合の中に流れこんできた。
その時再び、インカムが繋がった。
『百合! この反応は——』
「禍心、でしょ?」
『うん、おそらく。大丈夫?』
「ついにこの日が来たね……」
百合の顔が少し曇る。桜も黙ったまま、彼女の答えを待っている。桜の問いに意味があることを理解しているので、簡単に返事をしない。それは一瞬だけの迷い。だが、百合は前を向く。
「大丈夫! 桜は? 怪我してない?」
『私は大丈夫。慣れてるから……』
桜は、少し無理をした声で百合を励ます。そして、それは百合も感じ取っている。
「おけ! じゃ、また後で!」
それだけのやり取りで、百合は通信を切った。
禍心——以前、桜から聞いた存在。
穢れが形を持ったもの……それは正確な表現ではない。
人が——引き返せないところまで堕ちた存在。
堕落なら、まだ戻れる。だが、その先——穢心熔解は、もう戻れない。
元人間——
禍心を祓うということは、その人を殺すことと同義だ。だからこそ、桜は問いかけた。百合の覚悟を促すために。
百合は唇を噛んだ。わかってると、心が叫んでる。
禍心は、そんな百合を見て——笑った、気がした。
「……やば」
そして、一歩踏み出してくる。百合は動かない。
禍心が雷の監獄に触れた——はず、だった。だが、消えない。雷が弾かれる。完全ではないが耐えている。
(さすがに、今までのとは格がちがうね)
更に檻が軋む。禍心は数億ボルトの電圧に耐えながら、百合の反応を試すように、距離を詰めてくる。
「いいよ、来なよ。うちが……救ってあげる」
百合は、深く息を吸った。
「戻って!」
百合の叫びに応え、四方からラブニードルが浮かび上がる。雷の残像を引き連れながら、中心へ——百合の元へと戻ってくる。
四つの光が、一点に集まり——一本に戻った。
百合はラブニードルを強く握りしめる。雷が今までよりも鋭さを増した。
雷の監獄は解除された。その代わりに、百合の手には全てを一点に集めた雷が宿っている。
——だが、撃たない。百合はゆっくりと前を向いた。禍心と正面から向き合う。
「うち、これしか技ないんだよね……」
百合は穢れの動きを見る。感情の流れを読む。
(つらいよね……苦しいよね)
百合は、唇を噛んだ。
「……大丈夫だって。うちにまかせて」
誰に言うでもなく、そう呟きながら腕を天に伸ばす。しかし、その言葉には覚悟が滲んでいた。
「来て……鳴神っ!」
閃光と共に雷が吠えた。空気が震える、地面が脈打つ。だが百合は微動だにしない。そして胸に手を当てる。心臓が、早鐘を打つ。生きている。
怖くないわけじゃない。でも——逃げない。救うために。
「いくよ!」
百合は両腕をまっすぐ前に伸ばし、両手でラブニードルを包み込む。その先端を禍心に向け、集中する。集めた雷の力を一点に集めて放つ。それがどれほどのパワーなのか、百合にも分からない。
「心雷!」
百合がそう叫ぶと、ラブニードルの先端から雷が迸った。それは一瞬のことだったが、辺り一面が光に包まれた。黒い影たちが、真っ白に塗り替えられていく。自然の力が唸りをあげて襲い掛かるが、それを視認できたものはいない。
反動で百合は後ろへ吹っ飛ぶ。背中を打ったが、すぐに起き上がる。
撃った方を確認するが——何もない。雷が通った後には、何も残されてなかった。
(できた……の?)
見ている方向にいる穢れも、すべて消滅している。そして周りの穢れたちは動きを止めていた。まるで糸の切れた操り人形のように。
ゆっくり立ち上がり、しばらくすると祓い終わった実感が、じんわりと胸に広がる。
「よし! ビビッときた?」
百合は、敢えて明るく声を出した。そして再び前を向く。まだ夜は長い。祓いも、きっとまだまだ終わらない。
(うち、あなたのこと……救えたかな? そうだといいな)
空を見上げ、少しだけ感傷に浸る。あなたに、この願いが届きますようにと。百合自身も救われたいと思った。
まだ何も解決していない。きっとまだ苦しんでいるものがいる。そう思うと苦しくなる。
それでも——
(……ダーリンがいる、みんなもいる)
その事実だけで、百合は前に進めた。まだ指先は、少し震えている。それでも——百合は夜の遊園地を駆けていく。次に来るものが何であれ——
きっと、受け止められると信じて。




