第19話 明日への境界線
第19話 明日への境界線
放課後、教室の空気が少しずつほどけていく。でも、昼間の熱だけが、まだ残っていた。
鞄を持って立ち上がる生徒、部活へ急ぐ足音、廊下から聞こえてくる笑い声。いつもと変わらない光景のはずなのに、今日は理由の分らないざわめきが、ずっと残っている。
「大祐」
名前を呼ばれて振り返ると、雪村くんたちが教室の入り口に立っていた。腕を組んで、いつもの軽い笑顔を浮かべている。
「今日、時間あるか?」
「え? うん、特に予定は……」
今日は狛人くんもすでに帰宅していて、何も用事はない。
「じゃあ、ちょっと付き合え」
「どこに?」
「いいところだ」
そう言って歩き出す。説明は、それだけだった。
「雪村……また、言葉が足りませんよ」
いつものため息をつきながら恭介が言う。
「大祐くんにとって、今後必要な場所だから……」
桜さんが、少しだけ付け足してくれた。
校舎を出ると、夕方の空気がひんやりと肌に触れた。僕たちは校門を抜け、駅とは反対方向へ向かう。いつもの帰り道とは違うルートだ。
「……雪村くん?」
「ん?」
「どこ行くの?」
「特事」
「……とくじ?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。
「正式には、防衛省特別事象防衛対策局といいます」
恭介くんの言葉の重さに、足が一瞬止まりそうになる。
「ぼ、防衛省……? それって……政府の?」
「そうです。しかし、大祐くんが想像しているような組織ではありません」
「けど、国の機関だよね? 自衛隊とか……警察とか」
「まぁ、名前だけ聞くと大層だよな」
雪村くんは軽く言い放った。
「でもな、別に自衛隊とか、そういうのとは違う」
「じゃあ、何をするところなの? 僕が行っていいの?」
「簡単に言うと……」
一瞬だけ、言葉を選ぶ間があった。
「世の中で、無かったことにされてる現象の、後始末をしてくれるところだ」
冗談めいた口調なのに、背中に寒気が走った。
「……それは、一般の人は知ってるんですか?」
「知らないし、知らなくていい」
きっぱりと言い切る。
「政府に認められた組織ですよ。でも公表はしないでしょう。書類上は存在しますが、表には出ない組織です」
「……謎の組織だね」
僕は小学生のような答えを出した。
「正解」
僕の答えを聞いて、雪村くんは楽しそうに肩をすくめた。
電車を乗り継ぎ、さらに少し歩く。繁華街から外れた、静かなエリア。オフィス街というには人通りが少なく、住宅街というには無機質な場所だった。目的地に近づくにつれて、看板が減っていく。
「……ここ?」
「ここだ」
目の前にあるのは、古い雑居ビルだった。外観は地味で、目立つ表示もない。入り口にあるのは、小さなインターホンだけ。
「本当に……ここなんですか?」
雪村くんは答えずに、インターホンを押す。
『はい』
少し低めで、落ち着いた女性の声が返ってきた。
「俺だ」
『……久しぶりね。入って』
ロックが外れる音がしてドアが開いた。中は、外観から想像していたよりもずっと整っていた。無駄のない受付、清潔な床、静かな照明。
「いらっしゃい」
奥から現れたのは、スーツ姿の女性だった。長い髪をひとつにまとめ、無駄のない動きでこちらを見る。雪村くんとは、随分年が離れているようだが。
「久しぶりね、雪村」
「はるか、相変わらず怖い目してんな」
はるかと呼ばれた女性は、部屋全体を把握してから、最後に僕を見た。
彼女は雪村くんを見て、少しだけ表情を緩めた。
「なかなか、タイミングが合わなかったわね」
「まぁ、元気そうでなにより」
軽く手を振る雪村くんに、彼女は小さくため息をついた。
「……こっちから呼び出さないと、会いにきてくれないのね」
「——っ!」
桜さんの肩が僅かに跳ねた。
雪村くんは、聞こえないふりをしている。
やれやれ、といった様子で彼女は視線をこちらに向ける。
「その子が?」
「そう。真田大祐」
「は、はじめまして」
慌てて頭を下げると、彼女は穏やかに微笑んだ。言い方はそっけなく聞こえるが、声色は優しい。
「私は綾瀬川はるか。ここの局長をやってるわ、よろしく」
「きょ、局長……」
その言葉だけで、背筋が伸びる。
「そんなに緊張しなくていいわ」
「でも……」
「ここに来た時点で、もう普通じゃない世界に片足突っ込んでるんだから」
僕は返す言葉がなくなった。綾瀬川さんは雪村くんを見る。
「で? 今日は何の用?」
「用があるのは恭介だ、こないだの公園の件……ちょっと温くね?」
「それだけ?」
「それと、大祐の顔見せだ」
「雪村、私は報告してきますね」
恭介くんは慣れた様子で、奥の部屋に入っていった。
「今後、大祐のことも頼むぜ」
「……あなたね」
綾瀬川さんは、額に手を当てた。
「昔からそうだけど、説明が足りなさすぎ」
「必要ないだろ」
「あるのよ。特に今回は」
そう言いながら、横目で僕を見る。
「この子、まだ何も分かってない顔してる」
「まぁ、そのうち慣れるさ」
「雪村」
名前を呼ばれて、雪村くんは一瞬だけ黙った。
「……あなたの刃なんでしょう?」
空気が止まった。雪村くんの表情は変わらなかった。
「……ちげぇよ……」
短い返事で、その声は低い。
綾瀬川さんは、目を細める。
「……本当に、変わらないわね」
「悪いか?」
「いいえ」彼女は小さく笑った。
「だから、昔――」
そこで言葉を止め、首を振る。
「いえ。今は仕事の話ね」
その一瞬の間に、何か言いかけた空気を、僕は感じ取ってしまった。
「真田くん」
「は、はい」
「ここは、君みたいな子を守る場所でもあり、試す場所でもある」
「試す……?」
「覚悟を、ね」
綾瀬川さんに正面から見つめられて、視線を逸らせなかった。
「今日は説明だけ。深く踏み込むのは、もう少し先ね」
「……踏み込む?」
足の裏が、床を確かめるように動いた。
——僕の踏み込んだ世界。
雪村くんはその向こう側に、当たり前のように立っている。
「ここは表向きには、存在しないことになってる」
綾瀬川さんも同じだろう。
「所属している人間も、立場もバラバラ」
「……しかし、政府管轄の機関なんですよね?」
「そうよ。だけど、一般的には知られていない」
言葉が、出てこなかった。
「ここに来たからって、何かを強制することはない」
「……はい」
「でもね」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「一度知ってしまったら、戻れないこともある」
胸の奥に、重たいものが沈んだ。
「君はまだ、完全に力がある側じゃない。だからこそ、今は選ぶ側でいてほしい」
——選ぶ。再びその言葉を聞いた。
「帰りなさい。今日は、ちゃんと日常に戻って」
その言葉が、不思議と優しかった。
ビルを出ると、外はすっかり夕暮れだった。さっきまでの静けさが嘘みたいに、街の音が一気に押し寄せてくる。
出口の前で、恭介くんが壁にもたれている。
「恭介、終わったのか?」
「もちろん、昨日のうちに、あらかた済ませておきましたから」
「はっ、さすが」
歩き出してから、僕はやっと口を開く気になれた。
「……あんな世界があるんだね」
「あぁ」
雪村くんは、いつも通り軽く答える。
「それに、はるかは、ああやって言ってたけど、あそこは戦う場所じゃない」
少し間を置いて、続けた。
「俺たちの帰る場所だ」
うしろから付いてくる、桜さんの呟きが聞こえる。
「……はるかって……呼んでる……まだ」
僕は思わず、笑ってしまった。
みんなとなら、明日への境界線を超えていける気がした。
駅へ向かう途中、繁華街の手前で、ふと足が止まった。人の流れの中に、見覚えのある姿があったからだ。
少し先を歩く、明るい髪。昼間に見た笑顔とは違う、硬い表情。その隣には、明らかに雰囲気の違う男たち。普通なら、近づきたくない空気をまとっている。
彼女は、一瞬だけ立ち止まって、後ろを振り返った。誰かを探すような仕草。そして、何事もなかったかのように、また歩き出す。その背中が、昼の教室で見た姿と、どうしても重ならなかった。
まだ何も起きていない。けれど、確実に——次の闇は、もうそこまで来ていた。




