一
本編で書かなかったオルティーヌとロマンカールの話です。ほぼ視点はロマンカール。
ハッピーエンドとは言いがたいかな……。
泣いているその少女を見つけたのは、本当にただの偶然だった。
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ロマンカール=エリオ・フォルジュの生家、フォルジュ家は地元の名士の家系であった。
国境に領地を持つファヴァイナ侯爵家に代々、あるときは武官として、またあるときは文官として仕え、それを通して皇国に仕える家であった。別段、そういった家は珍しくない。
家同士の関係で、ロマンカールは幼い頃からファヴァイナ侯爵邸に出入りし、時のファヴァイナ侯爵アーヴィヌスからよくよく目を掛けられていた。当時切迫していたフォルジュ家の台所事情をどこから聞いてきたのか、またロマンカールが騎士になりたいと思っていたことをどうして知っていたのかは今もって全く不明だが、とにかくロマンカールはアーヴィヌスのお陰で地元の皇立騎士団に入団することができたのである。
季節の折々にその返礼も兼ねてファヴァイナ邸に挨拶に行っていたロマンカールが彼女と出会ったのは、ロマンカールがようやく従騎士に叙任された春のことだった。
その日、ロマンカールは先客があるとかで急に生じた暇を持て余し、久しぶりにファヴァイナ邸の裏庭を散策していた。従騎士の格好のままなのはご愛嬌。通常良家の子弟は早ければ七、八歳で士官学校に入り、従騎士となるのは十前後。十三歳でやっと従騎士に叙任された喜びはひとしおだった。
新しく仕立てられた制服を汚さぬよう注意を払って小道を歩く。と、そのときだった。
「……ぅ、ひっく、ぁ……うぇ……」
どこからか聞こえてくる、押し殺そうとして失敗している子供の泣き声は、ロマンカールの足を止めさせるに十分なものであった。
なぜなら、この邸の中で子供など、限られてくるからだ。
(誰だろう。使用人の中じゃヘレンかジャードか……いやでもこの時間は、ヘレンは厨房だし、ジャードはさっき庭師のシモンと一緒だった)
聞こえてくる場所も問題だった。
「……上から聞こえるんだよなぁ。まさか」
裏庭にはもちろん木も植えられていて、年月の経ったそれらは子供どころか大人が乗っても大丈夫そうだ。
ロマンカールはわざと大きな足音を立てて泣き声のする方へと近付いた。しかし泣き声の主は声を押し殺すのに必死らしく、全く足音には気が付かない。
そうこうするうちに、ロマンカールは泣き声の主を見つけた。――見つけてしまった。
「エレノアお嬢様……? ですよね」
透き通った榛色の瞳に涙をいっぱいに貯めて見下ろしてくる少女は、間違いなくファヴァイナ侯爵の一人娘、八歳になったばかりのオルティーヌ=エレノアであった。
「だあれ?」
見る者に鮮烈な印象を与える美しい朱色の髪は、僅かに金を帯びて木漏れ日に輝いていた。その小さな光の乱舞に目を奪われていたロマンカールは、質問へ答えるのが遅れた。
「ロマンカール=エリオ・フォルジュと申します。お父君へ無事、従騎士となれたお礼を申し上げようと参じました」
「……騎士なの?」
「はい。過日、皇立オルガ騎士団にて、従騎士位を授かりました」
オルティーヌはヘイゼルの瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「お嬢様、お一人でそこから降りられますか? それと、どうして泣いていらっしゃったのか、お聞きしてもよろしいですか?」
ロマンカールが問うと、オルティーヌははっとしたように自分がいる場所を確認した。そして急にそわそわとしだした。
「お嬢様、そんなところで無闇に動かれては危な――」
「違うのよ!!」
大声で言われたロマンカールはぽかんとした。
「は?」
「ち、違うの。一人で降りられるもの。わたくしは弱虫じゃなくってよ。でもジェスの馬鹿があん……あんなことを言うから、だから!」
真っ赤になって一人でまくし立てる主家の令嬢を、ロマンカールは黙って見守った。実家に弟妹が多くいる彼は小さな子供の扱いに慣れていた。これは喋らせた方が早い。
「ファースは登りもしなかったもの。興味がないなんて言ってたけど絶対嘘よ。皆に落ちるのを見られるのが怖いのよ。でもわたくしは大丈夫なの!」
言い切ったオルティーヌは、わかりました、と静かに返ってきた声にえっと顔を上げた。
「お嬢様は弱虫ではないから、お一人で木から降りられるのですね。でももし落ちてはいけないので、私がこうして下で腕を広げておきます」
オルティーヌは広げられた少年の腕と、少年の顔を見比べた。
「……わかったわ。い、今から降りるから、邪魔しないでね」
「はい」
そろそろと少女は足を動かし始めた。しかし如何せん着ているのが子供用とはいえドレスであったため、足元が見えず難儀しているようだった。それでもロマンカールは辛抱強く彼女を見守った。もちろんいつでも彼女が落ちても大丈夫なように腕は広げたままで。
案の定、オルティーヌは何歩目かでずるりと足を滑らせた。
「きゃあっ!」
ロマンカールは小さい体を相応の衝撃と共に受け止めた。内心、やっぱり落ちたなと思いながら。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
オルティーヌは答えなかった。そしてなぜか、ひぃっくとしゃくりあげ出した。
焦ったのはロマンカールである。
「お嬢様!? どこかお怪我でも……」
「う……ああ……ぇ…………ぅ」
ロマンカールは自分の服にしがみつきながら、押し殺した声で嗚咽を漏らす少女から、どうもおかしいと感じた。怪我をしたとか、足を滑らせて驚いたというなら、もっと大声で泣き喚くものではないか。
「……お嬢様? どうされたのですか。何か悲しいことでもあったのですか」
えぐえぐと必死に涙を押し留めようとしていたらしい少女の涙腺が、ここで決壊した。
「う……わああああん」
いきなり堰を切ったように泣き出した少女にロマンカールは仰天した。
「お嬢様!?」
「お母さま……おかあさまあっ!」
「奥様がどうされたのですか?」
「おかあさまぁ……おかあさまが……!」
そのとき、ロマンカールは妙に邸の中が騒がしいことに気付いた。
「お嬢様、こちらにおられましたか!」
ちょうど邸の侍女頭が現れ、ほっとしたように叫んだ。
「マーヤ殿。何か、お邸の中が慌しいように思われますが……」
「エリオ殿……お話はまた改めて。お嬢様をこちらへ。お嬢様、奥様がお待ちですわ。マーヤと共に参りましょう」
オルティーヌは、しかしきゅっとロマンカールの服を握ったまま、固く身を強張らせた。その間にも、一層激しく泣きじゃくる。
「お嬢様……仕方がありませんわ。エリオ殿、そのままお嬢様を抱いてわたくしについてきて下さいませ」
有無を言わせぬ勢いの侍女頭に、ロマンカールが逆らえるはずもなかった。かくしてロマンカールはしゃくりあげる主家の令嬢を抱きかかえたままでいることになったのだが、オルティーヌはなかなか賢い子供だった。
制服に一度として顔を埋めなかったのである。涙と、ついでに鼻水も少し出ていたのだが、それらを新品の制服にこすり付けるのはいけないと幼心に考えたのか、自分で自分のハンカチを取り出して涙をぬぐっていた。ロマンカールとしてはとてもありがたかった。
「オルティーヌ、どこへ行っていたのだ!?」
邸の中に入ると、血相を変えたファヴァイナ侯爵がオルティーヌに詰め寄った。
「おとうさま……」
「とにかくエレオノーレのところへ。最期にお前に会いたがっている」
侯爵は厳しい人だった。たとえ自分の娘相手でも容赦しなかったのである。
青褪めたのは侍女頭の方だった。
「だ、旦那様。お嬢様はまだ幼くていらっしゃいます。いくら何でも」
「差し出た口を利くでない。事実だ」
ここまで来るとロマンカールにも大体の事情は察せられた。
しかし固まってしまっているオルティーヌが自分の足で母親の居室まで上がっていけるとは、どうしても思えなかった。
「あの、閣下」
閣下と呼びかけたのは、ひとえにロマンカールが侯爵のことをそう呼び慣れていたからに過ぎない。このとき既に、ファヴァイナ侯爵アーヴィヌスは皇都にて近衛騎士団第二軍の軍団長を拝命していた。
「何だ、エリオ」
「畏れながら、お嬢様は先程、足を挫いてしまわれて……もちろん治癒神術はかけましたが、まだ歩くときに足元が心もとないご様子でした。身代を弁えてはおりますが、私がこのまま、奥様のお部屋の前までお連れしてもよろしいでしょうか」
虚を突かれたようにファヴァイナ侯爵は動きを止めた。すぐにその視線は娘に移る。
「……真か?」
それはロマンカールではなく、彼の腕の中のオルティーヌに向けられてのものだった。
オルティーヌは僅かに逡巡したようだった。頷けば父親に嘘をつくことになる。しかし否定すれば、自分の足で、黄泉路へ発とうとしている母の元まで向かわねばならない。
頷いたオルティーヌを抱え直して、ロマンカールは侍女頭の先導に従った。
侯爵夫人の部屋の前まで来ると、ロマンカールはオルティーヌを下ろした。ここから先は貴婦人の私的な空間である。家族でもみだりに立ち入ることができない場所に、本来ならロマンカールは近づくことすら許されない。
オルティーヌは運ばれる間に覚悟を決めていたのか、少しの間立ち止まっていたが、自分から扉を開け、部屋の中に入っていった。
「お母さま――お加減がお悪いと聞きました……」
小さな声を聞いたのが、その日、ロマンカールがオルティーヌを見た最後だった。
「奥様は元々、あまり丈夫でいらしたとは言えないお方でした」
侍女頭に伴われて邸の廊下を歩きながら、ロマンカールは侍女頭の独白を聞かされていた。
「お家同士のための結婚など良くあることですが、旦那様と奥様は本当に仲がおよろしくて――お嬢様がお生まれになったときはお二人とも本当に喜ばれておいででした。ですが出産は皆が想像していた以上に奥様のお体に負担をかけたご様子、お嬢様が起き上がった母君をご覧になったのは数えるほどです。それでも医者はよく八年も保ったと…………奥様……奥様……」
最後の方は、侍女頭の堪え切れなかった嗚咽だった。
今朝、侯爵夫人付きの侍女が夫人の様子を確認したときは、夫人は既に意識があるのが不思議な状態だったという。よくまあ自分が追い返されなかったものだとロマンカールは思った。
数えるほどだが、侯爵夫人には面会を許されたことがある。艶やかな紅い髪を持つ儚げな雰囲気の美女で、確かに長生きできるとは思えない人だった。
(なるほど、それでか)
朝から母親の部屋の様子がおかしいことに気が付いたのだろう。垣間見た限りではオルティーヌは聡明な子供だった。使用人達の雰囲気から、母の死がいよいよ迫ったことを悟ったのだ。
(でもそれを受け入れる気にはなれなかった、のか)
受け入れられなかった、とした方が正しいだろうとロマンカールは思考を訂正した。無理もない。八歳の子供に母親の死に向き合えとは酷な話だ。
「……では自分は、出直して参ります。閣下によろしくお伝え下さい。……お嬢様にも」
はい、と侍女頭は涙を指の腹で拭いながらロマンカールに頭を下げた。
フォルジュ家にファヴァイナ侯爵夫人の訃報が届いたのは、ロマンカールがオルティーヌと初めて会った、その翌日である。
ヴィーフィルド皇国では喪色は基本的に白と蒼だ。それぞれ原初の創世の二柱の神、光神と闇女神に由来する色の一つで、現世という光の中から万物の母たる闇女神の御許へ還るという意味合いがある。喪主とその一族が蒼を基調とした喪服を身に纏い喪に服するのに対し、弔問客は純白で統一した礼服を着るのが一般的だった。
「ファヴァイナ侯……お悔やみ申し上げます。どうかお気を落とされますな」
「しばらくお会いできないでいるうちにこのようなことになるなんて……エレオノーレ様には、わたくし、本当に良くして頂いたのです。ご恩返しもさせて頂けなかった……」
病弱ながらも人望のあった侯爵夫人を惜しむ声は後を絶たない。特にここ数年は侯爵は近衛騎士団の業務のため皇都にいることが多く、侯爵領の内政を取り仕切っていたのは、実質、病床にあった侯爵夫人だったという。病臥しながら立派に領地の采配をしていた領主としての手腕も確かな人であった。
父親の傍で、幼いながらに毅然と背筋を伸ばすオルティーヌは、誇り高さよりも健気さが勝っていた。
「閣下。此度はまこと……お気持ちお察しいたします。我がフォルジュ家はより一層、閣下のお役に立てるよう一族打ち揃って務める所存でございます」
父と並んでファヴァイナ侯爵に頭を下げながら、ロマンカールはオルティーヌをちら、と横目で見た。幼い少女の面には、何の感情も浮かんではいなかった。
その後、葬儀は粛々と執り行われた。
棺に眠るようにして横たわる侯爵夫人は、仄かに微笑んでいるように思えた。領民にも貴族の知人にも惜しまれながら、棺は侯爵家の墓地へと運ばれ、予め掘られていた穴へと下ろされる。
「汝、女神の御許に還り……再びその魂と相見えんことを……」
神官が唱える最後の言葉は、参列客の嗚咽と入り混じり、空に溶けていく。風が強い日だったから、余計にそれらの音は掻き消されるように攫われていった。
亡き人の魂は今、どこにあるのだろうと、ロマンカールはふと思った。
葬儀が終わった後、一人、また一人と欠けるように参列した人々が帰っていく。
喪主である侯爵本人も他の雑務が多くあり、すぐに墓地を離れた。あるいは真新しい妻の墓の傍に長く居たくないだけかもしれなかったが。
ロマンカールの両親は微力なりとも主家のこと、何か手伝えることをと侯爵と共に行ってしまったから、ロマンカールが帰路に着くのはまだまだ先のことになりそうだった。
「お嬢様」
何を思っていたのか――所在無さげにできたばかりの母親の墓の前で佇んだままのオルティーヌに、ロマンカールはそっと声をかけた。いつの間にか墓地には、彼等二人しか居なくなっていた。
のろのろとオルティーヌが顔を上げる。視線を合わせるようにロマンカールは膝をついてその瞳を覗き込んだ。
硝子玉のように空虚に光る瞳だった。
「お泣きにならないのですか」
ぱたり、とオルティーヌは瞬いた。何を言われたのかわからなかったのか、それとも理解することを拒否したのか。
「泣きたいなら、泣いてもいいんですよ」
再びの言葉に、数拍の間を置いて、小さな小さな声が、呟いた。
「…………お母さまが、泣かないで、と仰ったの」
無茶なことを、とロマンカールは思った。親が死んで悲しくない子供はそうはいない。ましてやオルティーヌは望まれて生まれ、愛されて育った子供だ。
「……お父さまも、涙を見せてはならぬと仰ったの。よ……よわみ、を見せてはいけない、から」
とんだ見栄っ張りだ。このときロマンカールは素直にそう思った。少し考え、小さな体を抱え込んだ。ちょうどオルティーヌの顔が見えなくなる。
「こうすれば、見えません。誰にも見えませんよ」
驚いたのだろう。侯爵令嬢である彼女にこんな無体は、許されることではない。小さな体が硬直した。
「絶対に見ませんから……今は、母君を悼んで差し上げて下さい」
「いたむ……?」
「あなたがいなくなって悲しいと、泣くことです。誰だって、自分がいなくなって喜んでほしいとは思いません。来て下さったお客様も、たくさん泣いていらしたでしょう。皆、母君が大事な方だったから、ああしてお泣きになられたのです。失くしても平気な人ではなかったから」
少女の体から、少しずつ、力が抜けていく。
「ずっと泣いていてはいけないけれど……大事な人を亡くされたのです。お嬢様は、母君がお好きだったのでしょう? なら、泣いて差し上げて下さい。あなたがいなくなってしまって、こんなに悲しいと。そうして、涙で空いてしまった穴を埋めるんです」
穴、とオルティーヌは繰り返した。
「空いてしまっていませんか、お嬢様。ここに」
背中の、ちょうど胸の反対側に当たる位置をさする。ややあって、朱金の頭がこくんと頷いた。
「泣いて下さい。このまま穴が空いたままにならないように」
小さな頭を自分の肩に押し付けると、観念したように小さな手がロマンカールの服をぎゅっと摑んだ。
子供特有の高い体温が、ロマンカールの目頭をも熱くした。




