跋
昼下がり――しゃんしゃんと、控えめに鈴の音が鳴った。
鈴番の女官が鳴らした鈴の音に、イリアーナは本へと落としていた視線を上げた。
寝台の上で身を起こしていたイリアーナに、寝室の外にいる女官はそっと声をかけた。
「妃殿下、皇太子殿下のお越しでございます。……お話なさいますか」
イリアーナは首肯した。声を出すのは正直まだ億劫なので、声を出さないでも意思疎通ができるときはこうして返事に代えている。
「イリアーナ、具合はどうだ?」
足音を立てないようにと気遣って近寄ってきた夫に、イリアーナは微笑んでみせた。
「今日は大分、調子が良いのです。ですからこうして起きて、本を読んでおりました」
言葉と共にイリアーナが示した本の厚さを見て、ファナルシーズは秀麗な美貌を険しくした。題名は『時空神術論 第十二巻』。イリアーナが行方不明だった間に続刊が出た、とある高名な神術学者によって書かれた専門書である。聞くところによると子供の頃からの愛読書らしいが、はっきり言って子供が読むものではない。
皇女が光臨の奇跡を起こし、デルフィニアとの戦が一時的とはいえ回避された後、イリアーナは先に一人だけで皇城に戻り、侍医から治療を受けていた。しかしそのほとんどは安静の上の療養だった。眠っている時間が長かったときならともかく、あれから二ヶ月、徐々に短い時間なら立ち上がれるまでに回復した身には、控えめに言っても暇すぎる生活だ。
夫の不機嫌を察したイリアーナは、さりげなく話題を変えた。
「シェランはどうしていますか? あの子は回復したのでしょうか」
イリアーナの記憶よりも年を重ねたように見える――実際その通りだ――ファナルシーズは驚いたようだった。
「来ていないのか?」
「あまり。あの子も体調が悪いのでは?」
夫婦にしばしの沈黙が降りた。ややあって、ファナルシーズが口を開く。
「シェランは元気になっている。今は宰相から法律の講義を受けているはずだ」
「まあ……」
後継者教育が再開したと言うべきか、始まったと言うべきか。いずれにせよそれに耐えられるほど回復したのなら、未だに病臥する母の見舞いに来るくらいはできるはずである。夕方には講義は終わるのだから、夜には訪問の時間を作れるだろう。
「言っておこう。顔くらい見せに来させる」
更に不機嫌になったファナルシーズを、イリアーナは苦笑しながら宥めた。
「講義があるのなら忙しいのでしょう。無事なら……元気ならそれで良いのです。課題もたくさん出されているのでしょうし、無理に時間を取らせなくても」
「あの子は一度でも見舞いに来たのか?」
イリアーナは答えに詰まった。意識を取り戻してから、娘を見ていないのは事実だった。
ファナルシーズの眉間の皺が深くなる。
「いいえ、でも、ファース。シェランは朝方、内殿まで行くときに花を贈ってくれているのです。わたくしはその時間はまだ体が重くて起き上がれないのですけれど、自分でこの宮の前まで来て。ほら、そこの花瓶の花はシェランが今朝、届けてくれたものなのです」
指した先には薄紫の花が白い小花と共に活けられていた。主張しすぎない美しさは、感嘆より先に穏やかな印象が強い。匂いも強いものではなく、顔を寄せればほんのりと甘い香りがするだけだ。
「綺麗でしょう? 気にかけてくれていないわけではないと思います」
「だが……」
まだ眉間の皺が消えないファナルシーズとそれを宥めるのに必死なイリアーナは、このやり取りが当の娘に見られていることを知らなかった。
「まぁたやってる……」
シェランは両親の姿を認めて、頭を抱えた。
イリアーナの希望で、寝室の窓は開け放たれている。後宮には幾つも回廊があり、四阿があるが、そのうちの一つから、角度の問題でちょうど部屋の中がよく見えるのだ。
シェランとて母に会いたくないわけではない。
九年も離れていたのだから、話したいことはたくさんあるし、幼い頃のようにとは言わないが甘えたりもしたい。
だが仲睦まじい両親の間に割って入るだけの度胸は、ない。
距離があるので会話は聞こえないが、不機嫌になった父を母が宥めていることくらいはわかる。母が苦笑しているところを見ると、そう深刻なことではないだろう。
「あ、お父様笑った? うわー、お母様何言ったんだろう。……人目気にせず抱き締めるのはどうかと思うわ、お父様」
両親の様子を見ながら、シェランは感想を呟く。聞いている者はいないので、言いたい放題だ。
朝にはまだ母は起き上がれないという。ならば無理をさせて起こすのもどうかと思い見舞いの花だけ置いて帰り、夜は夜で容赦のない講師陣から山のような宿題に追われて一秒すら惜しいのだ。とてもではないが、容態が安定して回復に向かっている……つまりはそう心配する必要もない母の見舞いに割く時間は捻出できそうにない。
だからこそ昼食を済ませた昼のこの時間帯にと思って来てみると、父が先に来ているのだ。何しろ九年も離れていた家族。夫婦である二人はまだいいだろうが、自分は幼児だったのだ。記憶は非常に断片的で、気まずいにもほどがある。気の利いた話題など提供できない。
「一体全体、どこにあんなにいい雰囲気の両親に寄っていける子供がいるのよ……」
その上、事件の発端は、幼しとはいえ当時の自分の我が儘にも大きな原因がある。父母どちらか一人ならともかく、二人を揃えて相手にできるほど根性は据わっていない。自分のことだから、これは断言できる。
しかし、今日こそはと覚悟を決めていた。
例によって例のごとく父がいるのには気力が萎えたが、いつまでもそうは言っていられない。
いざとなったら父は女官に追い出してもらおうと決意して、シェランは皇太子妃宮へと足を踏み入れた。
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ヴィーフィルド皇紀4012年二の月に起こったルトニ事変は、皇女シェランティエーラがトスタル島で光臨の奇跡を起こしたことで大いにデルフィニア側の士気を削ぎ、戦闘には発展することなく収束を見た。
皇女がトスタル島まで行啓するに至った経緯は奇妙なことに不明だが、皇王の指示があったことは間違いないようである。また別の資料には皇女が光臨の予言を編んだとき、その両親である皇太子ファナルシーズ、皇太子妃イリアーナがその場に居合わせたという記述があるが、その理由も不明なままである。
同年四の月十八日に、皇女シェランティエーラは列聖式を終え、このときより彼女に対する正式な呼称は「聖シェランティエーラ皇女殿下」となった。
トスタル島を含むファヴァイナ侯爵領の領主であったファヴァイナ侯爵アーヴィヌスは、国境防衛に関する二度の失態を追及され、更にデルフィニア側に協力しルトニ河に橋を架けるのを手助けしたという証拠・証言が出た上、領地の屋敷内から尋常でない魔力残滓が検出されたことで大逆罪に問われ、死罪を言い渡された。近衛騎士団第二軍団長を長年勤め上げた功績を慮り、斬首ではなく服毒によって刑は執行される。
謀反人を出したということでファヴァイナ家の傍系には侯爵位を継ぐことは許されず、しばらくの間ファヴァイナ侯爵領は時のヴィランド公爵ギルトラント=ジェラールに裁量が委ねられる。その後紆余曲折を経て、ファヴァイナ侯爵領はベルトラン辺境伯領となり、世に名高い名将軍、ロマンカール=エリオ・フォルジュを領主として迎え、ファナルシーズ=アリオスの御世にはデルフィニアとの交易の地として繁栄していくのである。
ベルトラン辺境伯爵ロマンカール=エリオに関して、後世には不思議な逸話が伝わっている。
ヴィーフィルド皇王リダーロイス=ガイウス、デルフィニア国王ディミトリアス=マンノロ一世の頃に勃発した二度目の戦で、ヴィーフィルド側の騎士として多大な功績を挙げたロマンカール=エリオ・フォルジュは、褒賞として後継者不在により領主不在であったファヴァイナ侯爵領をベルトラン辺境伯の称号と共に賜った後、すぐに領地へと下った。
普通、領主一族が変わる際には邸の内装は総入れ替えするものだが、彼は逆に本邸の内装に手を入れることを固く禁じた。ファヴァイナ侯爵家時代の名残をそのまま留めた邸で、彼は友人達からの縁談を受けることなく、生涯独り身のままで過ごし、次代は彼の姪が継いだ。
初代当主が残した言葉により、今でもベルトラン伯爵本邸は当時の名残を可能な範囲で残しているが、その中に歴代領主の肖像画がある。
しかしただ一枚、名前が不明な人物がいる。朱金の髪が鮮やかな妙齢の女性と思しき肖像画は、名前が記録に残されていない。皇城に残る聖母イリアーナの遺品の中にある細密人物画の一枚、夭折したファヴァイナ侯爵アーヴィヌスの息女オルティーヌ=エレノアのそれと身体的特徴が一致することから、この女性はオルティーヌである可能性が高いとされ今日ではそのように認識されている。
だが平民出身であったロマンカールが、何を思ってこの女性の肖像画を伯爵邸の玄関正面に飾ったのかは、定かではない。
完結です。ありがとうございました!
後書きは活動報告に上げるつもりでしたが、やはりこちらに書こうと思いました。
私にとって公開した小説二作目となるこの『暁降ち』ですが、いかがでしたでしょうか?
ジャンルは恋愛ですが、結局誰と誰のだよ、というご指摘は甘んじてお受けします。
スピード完結を目指したため質的に多くの問題があると思われます。それにも関わらずここまで読んでくださり、またお気に入り登録を頂き、本当にありがとうございます。
正直、完全に自己満足で始めた連載でした。先に連載している『蒼の女神 暁の聖女』の前日譚として構想はあったのですが形にならず、この順番となった次第です。ややこしくて申し訳ありません。
実際問題としてこれを恋愛小説と呼ぶべきかファンタジー小説と呼ぶべきかは作者的にも疑問なのですが、ご意見があればどうぞ気軽に一言送って下さい。
この話は前日譚と何度も書いている通り、これで終わりではありません。もしこの後のことが気になるようでしたら、どうぞ後日譚とも呼ぶべき『蒼の女神 暁の聖女』もお読み下さると幸いです……完結していない上に長いですが。(2015/1/19本編は無事完結しました)
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さった方々にお礼を申し上げます。拙い作品にも関わらず、読んでいただき本当にありがとうございました!




